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後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の遠流 1221年(O1221a)

承久3(1221)年、承久の乱。京都の朝廷の政治や院生が続けられていたが、武家政治がはじまり、その勢力がつよくなるにつれて、京都側は政権を取り戻そうとして兵を挙げた。後鳥羽上皇が中心となって統幕を計画したが、結局幕府軍にやぶれた。
同年、後鳥羽上皇、隠岐に流される。順徳上皇、佐渡に流される。

土御門上皇(つちみかどじょうこう)は、直接は承久の乱には関係なく、父の後鳥羽上皇を諌めたほどであったので、幕府は変後の処分を控えていたが、上皇が京都からほかへうつることを望んだので、幕府は上皇を土佐の畑(幡多)へうつすことにした。上皇は若宮(のちの後嵯峨天皇)を都にとどめ、近侍の人びとや雑事をつとめる人たちを供につれ、そまつな手輿に乗って、1221/11/25(承久3年閏10月10日)、京都を去った。

貞応元(1222)年5月、土御門上皇、阿波へうつる

寛喜3(1231)年、土御門上皇、阿波で死去。37歳。

参考文献