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*1807年 文化魯寇 1751年、大村治五平(次五平とも)、陸奥国岩手郡森岡で生まれる。 1752年、六蔵、田名部関根村(むつ市関根)で生まれる。六郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 宝暦11年(1761)、福松、津軽国津軽郡青森で生まれる。金助倅。宗旨浄土真宗。菩提寺松前専念寺。三助(三介、三之丞とも)、田名部樺山村(むつ市樺山)で生まれる。三九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 1767年、中川五郎次、陸奥国田名部河内村で生まれる。五郎治、長左衛門とも。のち中川儀貞郎と称す。屋号小針屋。佐助の倅。若年より松前に渡る。 1772年、源七、越後国苅羽郡宮川村(新潟県柏崎市宮川)で生まれる。又八倅。宗旨禅宗。菩提寺松前法源寺。 1774年、富五郎(富太郎とも)、江差村(北海道桧山郡江差町)で生まれる。江差村モシリ年寄安兵衛の次男。宗旨浄土真宗。菩提寺江差順正寺。 1776年、酉蔵、箱館内澗町で生まれる。吉兵衛(茂兵衛)倅。宗旨浄土宗。菩提寺松前正行寺。 1779年、長助(長吉、長内とも)、出羽国庄内田川郡大山村(山形県鶴岡市大山)で生まれる。久三郎の五男。宗旨浄土真宗。菩提寺庄内広恩寺。 1788年、福松、このころより、松前神明町に在、漁事手伝い。 1789年、源七、このころより、松前瓦町在、日雇稼ぎ。 寛政11年(1799)、中川五郎次、蝦夷地に渡り番人となる。 寛政13年1月(1801)、富五郎、クシュンコタン番所番人となりクシュンコタン詰め。 享和元年(1801)、中川五郎次、択捉島詰め。 文化元年4月(1804/05)、三助、長助、択捉島ナイホ詰。 文化2年2月(1805)、酉蔵、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年3月上旬(1805)、福松、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年4月(1805)、六蔵、択捉島ナイホ詰。 文化2年5月20日(1805/06/17)、中川五郎次、 若宮丸漂流民([[H1793a]])についての評議を命じられる。 文化2年6月6日(1805/07/02)、中川五郎次、若宮丸漂流民([[H1793a]])の領主引渡しを答申。 1805/07/30、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ(津太夫ら([[H1793a]])を帰国させた人)、7月18日(ユリウス暦)付けでウナラスカ島から「武力による対日通商関係樹立」のことをアレクサンドル1世に上申。上申後、アラスカのノヴォアルハンゲリスクに赴き、部下のニコライ・アレクサンドロヴィチ・フヴォストフ中尉、ガヴリイル・イヴァノヴィチ・ダヴィドフ士官候補生を指揮者とし、ユノナ号・アヴォス号からなる樺太・千島の日本基地攻撃隊を組織する 文化2年12月(1806)、源七、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化3年5月(1806)、大村治五平、択捉島シャナ詰。 1806/10/06、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、9月24日付けでフヴォストフに対し出来るだけ早くアラスカに帰ることを命ずるとともに、フヴォストフに対し、風の都合がよければ樺太のアニワ湾に赴き、日本基地のようすを調べること、常に露米会社の利益を念頭において行動することというあいまいな指令を残し、自分は首都に向けてオホーツクを発つ 1806/10/07、フヴォストフ、オホーツクを出港。 1806/10/22、フヴォストフ、樺太アニワ湾東浦のオフイトマリを襲撃。アイヌの少年(チウラフシクルの子、17、8歳)を捕らえる。 1806/10/23、フヴォストフ、クシュンコタンを襲撃、掠奪放火を行いロシア文で同地の占領を宣言した文章を刻んだ真鍮版を弁天社の鳥居に打ちつけた。オフイトマリで捕らえたアイヌの少年は開放。新たに同地番屋の酉蔵(30)、富五郎(32)、福松(44)、源七(34)の4名を捕らえる。 1806/10/29、フヴォストフ、クシュンコタンを退帆。 1806/11/22、フヴォストフ、酉蔵、富五郎、福松、源七らを連れペテロパウロフスクに到着。捕虜の4名は、飛脚屋のガブリウ・メエテレエチ・キリコウフ方に止宿し越冬。 文化4年3月4日(1807/04/11)、柴田角兵衛(松前藩の樺太支配人、元締徒士格)、越冬地の宗谷から樺太のシラヌシに渡る。文化3年のロシア人襲撃を知る。 文化年3月24日(1807/05/01)、柴田角兵衛、宗谷に帰着。ロシア人襲撃事件を松前に急報。 文化4年4月6日(1807/05/13)、柴田角兵衛の急使、松前につく。 1807/05/14、フヴォストフ、樺太島番人を伴いユノナ号でペテロハウロフスクを出航。ダヴィドフ, カブリイル・イヴァノヴィチ、アヴォス号でペテロパウロフスクを出航。 1807/05/30、ユノナ号、アヴォス号、択捉島ナイホ沖に姿を現す。 文化4年4月25日、(1807/06/01)、小船1艘にロシア人10人が乗り込み択捉島ナイホ番所に上陸。同番所にいたナイホ番所番人小頭中川五郎次(40)、ナイホ番所番人左兵衛、ナイホ番所木挽三助(46)、ナイホ番所新道切六蔵(55)、番人見習(帳役)長助(28)の5名を捕らえ、米などを掠奪、放火する。 文化4年4月27日(1807/06/03)、ロシア人ナイホ番所を退去。 文化4年4月29日(1807/06/05)、ユノナ号、アヴォス号、捉島シャナ沖に姿を現す。 文化4年5月1日(1807/06/06)、小船4艘、革舟2艘でロシア人40人がシャナに上陸、シャナ会所に乱入して、武器・米・酒・雑貨を奪い建物に火をかけた。戸田又太夫(シャナ会所留守居役の調役下役)、勤番の南部・津軽の兵100人余りと敗走。戸田は責任を負って自刃。 文化4年5月2日(1807/06/07)、大村治五平(シャナ会所勤番、南部藩砲術部)、シャナに戻ったところをロシア人に捕らえられる。捕虜寺56歳。夜、津軽藩足軽、金沢久蔵、ロシア人に捕らえられる。 文化4年5月3日(1807/06/08)、金沢久蔵は悪疾にかかっていたので、フヴォストフの来航趣旨をしたためた書簡を持たされ、朝開放される。のち行方不明。ナヨカ付近で死体で発見される。 文化4年5月3日(1807/06/08)、ユノナ号、アヴォス号、シャナ沖を去る。 文化4年5月14日(1807/06/19)、ロシア人択捉島襲撃の第一報が箱館奉行所に届く。 文化4年5月21日(1807/06/26)、ユノナ号、アヴォス号、ウルップ島を経て、5月21日樺太のアニワ湾に至り、前年の掠奪地を見まわった。 文化4年5月22日(1807/06/27)、ユノナ号、アヴォス号、ルウタカに上陸。番屋や倉庫などに火をかける。 文化4年5月29日~6月4日(1807/07/04~09)、ユノナ号、アヴォス号、礼文・利尻島付近で商船宜幸丸、ついで松前藩船禎祥丸、官船万春丸、商戦誠竜丸を遅い、積荷を掠奪し船を焼き払った。さらに、利尻島に上陸、ここでも番屋・倉庫を焼き払った。 文化4年6月5日(1807/07/10)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、商船誠竜丸から奪った小船に乗せられ開放される。松前奉行宛て書簡を持たせられる。宗谷場所のイウツ(稚内市勇知)に漕ぎ渡って野宿。 文化4年6月6日(1807/07/11)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、宗谷番所帰着。宗谷番所詰調役並深山宇平太の取調べを受ける。福松、源七はのち松前奉行所小遣となる。 文化4年6月7日(1807/07/12)、源七、富五郎、宗谷沖にロシア船が現れたので、海岸に使いとして出される。 文化4年6月11日(1807/07/16)、酉蔵ら8名、調役下役小川喜太郎、地役人木村平作らに付き添われて宗谷を出帆。 文化4年6月13日(1807/07/18)、幕府、奥州各藩に厳重な海防御触書を廻す。 文化4年6月23日(1807/07/28)、中川五郎次、左兵衛、オホーツクに連れて行かれる。 文化4年6月28日(1807/08/02)、酉蔵ら8名、手塩(天塩郡天塩町)からは陸路をとり、この日箱館に到着。 文化4年6月29日(1807/08/03)、酉蔵ら8名、揚屋入りを命じられる。 文化4年7月26日(1807/08/29)、堀田正敦、魯寇事件処理のため箱館に派遣され、この日箱館に到着。 文化4年7月29日(1807/09/01)、堀田正敦、帰着捕虜の取調べに立ち会う。 文化4年8月1日(1807/09/02)、樺太・択捉島番人7名の「口書」が作成される。 文化4年8月3日(1807/09/04)、南部藩士大村冶五平の「口書」が作成される。 文化4年8月5日(1807/09/06)、富五郎、源七、長助、小川喜太郎付き添いで江戸へ出立。 文化4年8月末(1807/9月末)、酉蔵、福松、三助、六蔵、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれた後、帰郷を許される。 文化4年8月29日(1807/09/30)、富五郎ら3名、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。 文化4年9月(1807/10月)、大村治五平、病気で箱館に留まっていたが、回復次第江戸に送るよう幕府の指令がある。 文化4年9月1日(1807/10/02)、富五郎ら3名、勘定奉行柳生主善正久通の取調べを受ける。のち帰郷。 文化4年10月23日(1807/11/22)、大村治五平、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれる。番人4人と同居。 文化4年11月14日(1807/12/12)、大村治五平、松前を出発。 文化4年12月9日(1808/01/06)、幕府、「魯船打払令」を出す。 文化4年12月11日(1808/01/08)、大村治五平、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。南部藩江戸上屋敷にお預け。 文化4年12月30日(1808/01/27)、大村治五平、南部藩江戸下屋敷に移される。 文化5年2月(1808年)、河尻、荒尾松前奉行。幕府に上申書を提出、ロシア側にその暴行を謝罪させ、その証としてロシア国重役の釈明書を提出させるとともに奪取した武器類を返還させること、辺土間の交易は国法とは別であると見なして許可することを説き、問題は国境、特に樺太が島であるのか大陸と続いているのかその奥地事情が不明なところにあるとして、調査を進言した。 文化5年2月26日(1808/03/22)、大村冶五平の「口書」が作成される。 文化5年3月8日(1808/04/03)、大村治五平、南部藩引渡しの幕府指令が出される。 文化5年3月11日(1808/04/06)、大村治五平、荒尾成章宅で南部藩士吉田一学に伝達、帰藩する。 文化5年3月20日(1808/04/15)、大村治五平、江戸を出立。 文化5年4月2日(1808/04/27)、大村治五平、盛岡に到着。家老の北監物にお預けの身となる。 文化5年6月21日(1808/07/14)、大村治五平、北監物知行所鹿角大湯(秋田県鹿角市大湯)に蟄居を申し付けられる。 文化5年1月(1809)、大村治五平、楢山帯刀知行所の下閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)の華厳院に移る。 文化6年5月~12月(1809)、中川五郎次、左兵衛、逃亡をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年5月~文化8年5月(1810~1811)、中川五郎次、左兵衛、再度脱走をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年夏(1810)、シケコンフシュ、択捉島シャナにラショワ島アイヌ人7名と渡来。ロシア人の指示を受けて文化襲撃後の択捉島のようすを見に来た。 1810年12月、左兵衛、シベリアのツングースの集落で死亡。 文化8年8月中旬(1811)、中川五郎次、オホーツクを出発。 文化8年11月28日(1811/12/31)、中川五郎次、ヤクーツクを出発。 文化8年12月(1812)、中川五郎次、イルクーツク到着。仙台漂流民([[H1810a]])の善六方に寄宿する。一時、日本語学校の教師を務める。 文化9年3月(1812)、中川五郎次、このころ在イルクーツク。 文化9年3月(1812)、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、イルクーツクに赴き、知事ニコライ・イヴァノヴィチ・トレスキンと相談し、当時同地にあった文化魯寇捕虜の五郎次を通訳として起用することとした。 文化9年5月初旬(1812)、リコルド、中川五郎次、イルクーツクからオホーツクに戻る。 1812/08/03、リコルド、中川五郎次、歓喜丸漂流民6名([[H1810a]])、ジャナ号でオホーツクを出帆。 文化9年8月3日(1812/09/09)、ジャナ号、国後島ケラムイ岬沖に到着。 文化9年8月11日(1812/09/16)、中川五郎次、歓喜丸忠五郎([[H1810a]])の2名、ゴロウニンの生死確認のため国後島に上陸。 文化9年8月12日(1812/09/17)、忠五郎([[H1810a]])は逃走し国後島泊会所に帰着。中川五郎次は、ゴロウニンらはすでに殺されたとの報を持って帰艦。夕方、歓喜丸漂流民([[H1810a]])の4名と国後島に上陸。中川五郎次は一晩泊会所の土手外に置かれる。 文化9年8月13日(1812/09/18)、中川五郎次、国後島泊会所に収容される。 文化9年8月14日(1812/09/19)以降、太田彦助、中川五郎次を取り調べ「清五郎外四名口書」「五郎次口書」を作成。 文化9年10月15日(1812/11/18)、中川五郎次、松前着。 文化9年11月20日(1812/12/23)、中川五郎次、江戸着。在府松前奉行荒尾但馬守、服部備後守貞勝の取調べを受ける。 文化10年8月4日(1813/08/29)、大村治五平、陸奥国閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)で蟄居中死亡。享年62歳。宗旨禅宗。菩提寺花原市華厳院。大村家菩提寺は盛岡北山の法泉寺。 文化11年(1814)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書を訳し初稿なる。 文化11年2月10日(1814/03/31)、中川五郎次、松前箱館内役所の小遣となる。 文化12年4月(1815)、盛岡の淡路丸大明神(桜山神宮)の祭礼を契機として、大村治五平の赦免が通達される。 文政2年(1819)、中川五郎次、松前奉行所手代となる。 文政3年(1820)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書の訳本「遁花秘訣」を出す。 文政5年(1822)、中川五郎次、松前藩に仕える。オホーツク滞在中に医師ニコライ・ミハイロヴィチ・メイツユのもとで習い覚えた牛痘の術を施したといわれる。 1824年、中川五郎次、豪商・田中正右衛門の11才になる娘イクに種痘を施し成功する。 嘉永元年9月26日(1848/10/22)、中川五郎次、福山(北海道松前郡松前町)で死亡。享年81歳。宗旨禅宗。故郷菩提寺川内村泉龍寺。戒名義孝良仁居子。 **参考文献 -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社. -吉村昭, 2000. [[北天の星(上)>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062648407?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062648407]]. 講談社. -吉村昭, 2000. [[北天の星(下)>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062648415?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062648415]]. 講談社.
*1807年 文化魯寇 1751年、大村治五平(次五平とも)、陸奥国岩手郡森岡で生まれる。 1752年、六蔵、田名部関根村(むつ市関根)で生まれる。六郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 宝暦11年(1761)、福松、津軽国津軽郡青森で生まれる。金助倅。宗旨浄土真宗。菩提寺松前専念寺。三助(三介、三之丞とも)、田名部樺山村(むつ市樺山)で生まれる。三九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺田名部円通寺。 1767年、中川五郎次、陸奥国田名部河内村で生まれる。五郎治、長左衛門とも。のち中川儀貞郎と称す。屋号小針屋。佐助の倅。若年より松前に渡る。 1772年、源七、越後国苅羽郡宮川村(新潟県柏崎市宮川)で生まれる。又八倅。宗旨禅宗。菩提寺松前法源寺。 1774年、富五郎(富太郎とも)、江差村(北海道桧山郡江差町)で生まれる。江差村モシリ年寄安兵衛の次男。宗旨浄土真宗。菩提寺江差順正寺。 1776年、酉蔵、箱館内澗町で生まれる。吉兵衛(茂兵衛)倅。宗旨浄土宗。菩提寺松前正行寺。 1779年、長助(長吉、長内とも)、出羽国庄内田川郡大山村(山形県鶴岡市大山)で生まれる。久三郎の五男。宗旨浄土真宗。菩提寺庄内広恩寺。 1788年、福松、このころより、松前神明町に在、漁事手伝い。 1789年、源七、このころより、松前瓦町在、日雇稼ぎ。 寛政11年(1799)、中川五郎次、蝦夷地に渡り番人となる。 寛政13年1月(1801)、富五郎、クシュンコタン番所番人となりクシュンコタン詰め。 享和元年(1801)、中川五郎次、択捉島詰め。 文化元年4月(1804/05)、三助、長助、択捉島ナイホ詰。 文化2年2月(1805)、酉蔵、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年3月上旬(1805)、福松、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化2年4月(1805)、六蔵、択捉島ナイホ詰。 文化2年5月20日(1805/06/17)、中川五郎次、 若宮丸漂流民([[H1793a]])についての評議を命じられる。 文化2年6月6日(1805/07/02)、中川五郎次、若宮丸漂流民([[H1793a]])の領主引渡しを答申。 1805/07/30、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ(津太夫ら([[H1793a]])を帰国させた人)、7月18日(ユリウス暦)付けでウナラスカ島から「武力による対日通商関係樹立」のことをアレクサンドル1世に上申。上申後、アラスカのノヴォアルハンゲリスクに赴き、部下のニコライ・アレクサンドロヴィチ・フヴォストフ中尉、ガヴリイル・イヴァノヴィチ・ダヴィドフ士官候補生を指揮者とし、ユノナ号・アヴォス号からなる樺太・千島の日本基地攻撃隊を組織する 文化2年12月(1806)、源七、クシュンコタン番屋番人となり、クシュンコタン詰。 文化3年5月(1806)、大村治五平、択捉島シャナ詰。 1806/10/06、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、9月24日付けでフヴォストフに対し出来るだけ早くアラスカに帰ることを命ずるとともに、フヴォストフに対し、風の都合がよければ樺太のアニワ湾に赴き、日本基地のようすを調べること、常に露米会社の利益を念頭において行動することというあいまいな指令を残し、自分は首都に向けてオホーツクを発つ 1806/10/07、フヴォストフ、オホーツクを出港。 1806/10/22、フヴォストフ、樺太アニワ湾東浦のオフイトマリを襲撃。アイヌの少年(チウラフシクルの子、17、8歳)を捕らえる。 1806/10/23、フヴォストフ、クシュンコタンを襲撃、掠奪放火を行いロシア文で同地の占領を宣言した文章を刻んだ真鍮版を弁天社の鳥居に打ちつけた。オフイトマリで捕らえたアイヌの少年は開放。新たに同地番屋の酉蔵(30)、富五郎(32)、福松(44)、源七(34)の4名を捕らえる。 1806/10/29、フヴォストフ、クシュンコタンを退帆。 1806/11/22、フヴォストフ、酉蔵、富五郎、福松、源七らを連れペテロパウロフスクに到着。捕虜の4名は、飛脚屋のガブリウ・メエテレエチ・キリコウフ方に止宿し越冬。 文化4年3月4日(1807/04/11)、柴田角兵衛(松前藩の樺太支配人、元締徒士格)、越冬地の宗谷から樺太のシラヌシに渡る。文化3年のロシア人襲撃を知る。 文化年3月24日(1807/05/01)、柴田角兵衛、宗谷に帰着。ロシア人襲撃事件を松前に急報。 文化4年4月6日(1807/05/13)、柴田角兵衛の急使、松前につく。 1807/05/14、フヴォストフ、樺太島番人を伴いユノナ号でペテロハウロフスクを出航。ダヴィドフ, カブリイル・イヴァノヴィチ、アヴォス号でペテロパウロフスクを出航。 1807/05/30、ユノナ号、アヴォス号、択捉島ナイホ沖に姿を現す。 文化4年4月25日、(1807/06/01)、小船1艘にロシア人10人が乗り込み択捉島ナイホ番所に上陸。同番所にいたナイホ番所番人小頭中川五郎次(40)、ナイホ番所番人左兵衛、ナイホ番所木挽三助(46)、ナイホ番所新道切六蔵(55)、番人見習(帳役)長助(28)の5名を捕らえ、米などを掠奪、放火する。 文化4年4月27日(1807/06/03)、ロシア人ナイホ番所を退去。 文化4年4月29日(1807/06/05)、ユノナ号、アヴォス号、捉島シャナ沖に姿を現す。 文化4年5月1日(1807/06/06)、小船4艘、革舟2艘でロシア人40人がシャナに上陸、シャナ会所に乱入して、武器・米・酒・雑貨を奪い建物に火をかけた。戸田又太夫(シャナ会所留守居役の調役下役)、勤番の南部・津軽の兵100人余りと敗走。戸田は責任を負って自刃。 文化4年5月2日(1807/06/07)、大村治五平(シャナ会所勤番、南部藩砲術部)、シャナに戻ったところをロシア人に捕らえられる。捕虜寺56歳。夜、津軽藩足軽、金沢久蔵、ロシア人に捕らえられる。 文化4年5月3日(1807/06/08)、金沢久蔵は悪疾にかかっていたので、フヴォストフの来航趣旨をしたためた書簡を持たされ、朝開放される。のち行方不明。ナヨカ付近で死体で発見される。 文化4年5月3日(1807/06/08)、ユノナ号、アヴォス号、シャナ沖を去る。 文化4年5月14日(1807/06/19)、ロシア人択捉島襲撃の第一報が箱館奉行所に届く。 文化4年5月21日(1807/06/26)、ユノナ号、アヴォス号、ウルップ島を経て、5月21日樺太のアニワ湾に至り、前年の掠奪地を見まわった。 文化4年5月22日(1807/06/27)、ユノナ号、アヴォス号、ルウタカに上陸。番屋や倉庫などに火をかける。 文化4年5月29日~6月4日(1807/07/04~09)、ユノナ号、アヴォス号、礼文・利尻島付近で商船宜幸丸、ついで松前藩船禎祥丸、官船万春丸、商戦誠竜丸を遅い、積荷を掠奪し船を焼き払った。さらに、利尻島に上陸、ここでも番屋・倉庫を焼き払った。 文化4年6月5日(1807/07/10)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、商船誠竜丸から奪った小船に乗せられ開放される。松前奉行宛て書簡を持たせられる。宗谷場所のイウツ(稚内市勇知)に漕ぎ渡って野宿。 文化4年6月6日(1807/07/11)、酉蔵、富五郎、福松、源七、三助、六蔵、長助、大村治五平の8名、宗谷番所帰着。宗谷番所詰調役並深山宇平太の取調べを受ける。福松、源七はのち松前奉行所小遣となる。 文化4年6月7日(1807/07/12)、源七、富五郎、宗谷沖にロシア船が現れたので、海岸に使いとして出される。 文化4年6月11日(1807/07/16)、酉蔵ら8名、調役下役小川喜太郎、地役人木村平作らに付き添われて宗谷を出帆。 文化4年6月13日(1807/07/18)、幕府、奥州各藩に厳重な海防御触書を廻す。 文化4年6月23日(1807/07/28)、中川五郎次、左兵衛、オホーツクに連れて行かれる。 文化4年6月28日(1807/08/02)、酉蔵ら8名、手塩(天塩郡天塩町)からは陸路をとり、この日箱館に到着。 文化4年6月29日(1807/08/03)、酉蔵ら8名、揚屋入りを命じられる。 文化4年7月26日(1807/08/29)、堀田正敦、魯寇事件処理のため箱館に派遣され、この日箱館に到着。 文化4年7月29日(1807/09/01)、堀田正敦、帰着捕虜の取調べに立ち会う。 文化4年8月1日(1807/09/02)、樺太・択捉島番人7名の「口書」が作成される。 文化4年8月3日(1807/09/04)、南部藩士大村冶五平の「口書」が作成される。 文化4年8月5日(1807/09/06)、富五郎、源七、長助、小川喜太郎付き添いで江戸へ出立。 文化4年8月末(1807/9月末)、酉蔵、福松、三助、六蔵、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれた後、帰郷を許される。 文化4年8月29日(1807/09/30)、富五郎ら3名、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。 文化4年9月(1807/10月)、大村治五平、病気で箱館に留まっていたが、回復次第江戸に送るよう幕府の指令がある。 文化4年9月1日(1807/10/02)、富五郎ら3名、勘定奉行柳生主善正久通の取調べを受ける。のち帰郷。 文化4年10月23日(1807/11/22)、大村治五平、松前に送られる。いったん坂本盛屋敷明家に留め置かれる。番人4人と同居。 文化4年11月14日(1807/12/12)、大村治五平、松前を出発。 文化4年12月9日(1808/01/06)、幕府、「魯船打払令」を出す。 文化4年12月11日(1808/01/08)、大村治五平、江戸霊岸島の蝦夷会所に到着。南部藩江戸上屋敷にお預け。 文化4年12月30日(1808/01/27)、大村治五平、南部藩江戸下屋敷に移される。 文化5年2月(1808年)、河尻、荒尾松前奉行。幕府に上申書を提出、ロシア側にその暴行を謝罪させ、その証としてロシア国重役の釈明書を提出させるとともに奪取した武器類を返還させること、辺土間の交易は国法とは別であると見なして許可することを説き、問題は国境、特に樺太が島であるのか大陸と続いているのかその奥地事情が不明なところにあるとして、調査を進言した。 文化5年2月26日(1808/03/22)、大村冶五平の「口書」が作成される。 文化5年3月8日(1808/04/03)、大村治五平、南部藩引渡しの幕府指令が出される。 文化5年3月11日(1808/04/06)、大村治五平、荒尾成章宅で南部藩士吉田一学に伝達、帰藩する。 文化5年3月20日(1808/04/15)、大村治五平、江戸を出立。 文化5年4月2日(1808/04/27)、大村治五平、盛岡に到着。家老の北監物にお預けの身となる。 文化5年6月21日(1808/07/14)、大村治五平、北監物知行所鹿角大湯(秋田県鹿角市大湯)に蟄居を申し付けられる。 文化5年1月(1809)、大村治五平、楢山帯刀知行所の下閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)の華厳院に移る。 文化6年5月~12月(1809)、中川五郎次、左兵衛、逃亡をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年5月~文化8年5月(1810~1811)、中川五郎次、左兵衛、再度脱走をはかりツングースの集落を放浪。 文化7年夏(1810)、シケコンフシュ、択捉島シャナにラショワ島アイヌ人7名と渡来。ロシア人の指示を受けて文化襲撃後の択捉島のようすを見に来た。 1810年12月、左兵衛、シベリアのツングースの集落で死亡。 文化8年8月中旬(1811)、中川五郎次、オホーツクを出発。 文化8年11月28日(1811/12/31)、中川五郎次、ヤクーツクを出発。 文化8年12月(1812)、中川五郎次、イルクーツク到着。仙台漂流民([[H1810a]])の善六方に寄宿する。一時、日本語学校の教師を務める。 文化9年3月(1812)、中川五郎次、このころ在イルクーツク。 文化9年3月(1812)、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、イルクーツクに赴き、知事ニコライ・イヴァノヴィチ・トレスキンと相談し、当時同地にあった文化魯寇捕虜の五郎次を通訳として起用することとした。 文化9年5月初旬(1812)、リコルド、中川五郎次、イルクーツクからオホーツクに戻る。 1812/08/03、リコルド、中川五郎次、歓喜丸漂流民6名([[H1810a]])、ジャナ号でオホーツクを出帆。 文化9年8月3日(1812/09/09)、ジャナ号、国後島ケラムイ岬沖に到着。 文化9年8月11日(1812/09/16)、中川五郎次、歓喜丸忠五郎([[H1810a]])の2名、ゴロウニンの生死確認のため国後島に上陸。 文化9年8月12日(1812/09/17)、忠五郎([[H1810a]])は逃走し国後島泊会所に帰着。中川五郎次は、ゴロウニンらはすでに殺されたとの報を持って帰艦。夕方、歓喜丸漂流民([[H1810a]])の4名と国後島に上陸。中川五郎次は一晩泊会所の土手外に置かれる。 文化9年8月13日(1812/09/18)、中川五郎次、国後島泊会所に収容される。 文化9年8月14日(1812/09/19)以降、太田彦助、中川五郎次を取り調べ「清五郎外四名口書」「五郎次口書」を作成。 文化9年10月15日(1812/11/18)、中川五郎次、松前着。 文化9年11月20日(1812/12/23)、中川五郎次、江戸着。在府松前奉行荒尾但馬守、服部備後守貞勝の取調べを受ける。 文化10年8月4日(1813/08/29)、大村治五平、陸奥国閉伊郡千徳村(岩手県宮古市花原市)で蟄居中死亡。享年62歳。宗旨禅宗。菩提寺花原市華厳院。大村家菩提寺は盛岡北山の法泉寺。 文化11年(1814)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書を訳し初稿なる。 文化11年2月10日(1814/03/31)、中川五郎次、松前箱館内役所の小遣となる。 文化12年4月(1815)、盛岡の淡路丸大明神(桜山神宮)の祭礼を契機として、大村治五平の赦免が通達される。 文政2年(1819)、中川五郎次、松前奉行所手代となる。 文政3年(1820)、馬場佐十郎、中川五郎次の持ち帰った牛痘書の訳本「遁花秘訣」を出す。 文政5年(1822)、中川五郎次、松前藩に仕える。オホーツク滞在中に医師ニコライ・ミハイロヴィチ・メイツユのもとで習い覚えた牛痘の術を施したといわれる。 1824年、中川五郎次、豪商・田中正右衛門の11才になる娘イクに種痘を施し成功する。 嘉永元年9月26日(1848/10/22)、中川五郎次、福山(北海道松前郡松前町)で死亡。享年81歳。宗旨禅宗。故郷菩提寺川内村泉龍寺。戒名義孝良仁居子。 **参考文献 -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社. -吉村昭, 1987. [[間宮林蔵>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061839128?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4061839128]]. 講談社. -吉村昭, 2000. [[北天の星(上)>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062648407?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062648407]]. 講談社. -吉村昭, 2000. [[北天の星(下)>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062648415?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062648415]]. 講談社.

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