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*1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 1727年、九右衛門(久兵衛とも)、若松村で生まれる。 1737年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ナイシュロット(フィンランド、当時はスウェーデン領)で出生 1742年、幾八(儀八、義八とも)、若松村で生まれる。 1747年?、小市(幸市、本名長右衛門とも)、若松村で生まれる。 1749年、ラジシチェフ、モスクワの貴族の家に生まれる。 1751年、大黒屋光太夫、伊勢国亀山藩領河曲郡若松村 (現,三重県鈴鹿市若松)で生まれる。大黒屋は実家の屋号。長じて 亀屋四郎兵衛道伯の後家の養子となる。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。 1752年、庄蔵、若松村で生まれる。 1752年ごろ、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)三之助の子としてヤクーツクで生まれる。日本名三八。 1756年、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)久助の子としてイリムスクで生まれる。測地士となる。 1757年、清七、若松村で生まれる。 1758年、藤吉、美濃国石部郡(岐阜県石津郡か、現養老郡石津町付近)で生まれる。 1758年、新蔵、若松村で生まれる。 1758年、亀屋四郎治(大黒屋光太夫の父)、光太夫8歳のとき死亡。 1759年、藤助(藤七、仁三郎とも)、若松村で生まれる 。 1762年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ロシアに定住。 1763年、磯吉(豊松、豊吉とも)、神昌丸親父三五郎の次男として、若松村北浜で生まれる。 1764年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院通信会員 東部シベリアに出発。 明和1年(1764)、光太夫、このころ江戸小網町にあった母方の木綿商の出店に奉公に出る。 1765年、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、父三之助の請願によりイルクーツク日本語学校に入学。 1766年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、キリル・ラクスマンの次男として生まれる。 1766年、ラジシチェフ、ドイツのライプチヒ大学に留学。 1767年、与惣松、若松村で生まれる。 1776年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院の経済・化学部門の正会員に選任。 1771年、ラジシチェフ、帰国して元老院に勤務。 1773年、ラジシチェフ、軍法会議の法務官に転じた。 1777年、ラジシチェフ、商務省に勤務。 安永7年(1778)、光太夫、亀屋四郎兵衛家の家督相続人として迎えられ故郷に帰る。亀屋四郎兵衛を名乗る。廻船の賄職となる。 安永9年(1780)、光太夫、30歳。一見彦兵衛配下の沖船頭となる。 1780年、ラジシチェフ、ペテルブルグ税関の副長。 安永10年2月(1781)、光太夫の先代が病死。大黒屋光太夫を名乗るようになる。 天明1年(1782)、光太夫、このころから神昌丸船頭。 1782年6月、藤吉、従弟の若松村権右衛門方に来る。 1782年7月、藤吉、神昌丸に乗り組む。 天明2年10月(1782)、光太夫、諫右衛門配下となる。 1782/11/04、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、「日本語単語集」を基礎として「レキシコン」と呼ばれる露日辞典を編集し科学アカデミーに提出。 天明2年12月9日(1783/01/11)、船頭大黒屋光太夫ら17人を乗せ、江戸に向かって白子を出帆。積荷は紀州藩廻米500石のほか、江戸大伝馬町の廻船問屋一見屋勘右衛門方に届ける木綿・薬種・紙・什器などであった。その日、鳥羽港に入り風待ち。 -大黒屋光太夫 神昌丸船頭。出帆時32歳。 -小市 賄(事務長)。出帆時36歳。 -磯吉 水主。出帆時21歳。 -作次郎 上乗(積荷采領役、紀州藩廻米送方)。伊勢国安芸郡稲生村(鈴鹿市稲生)生まれ。 -三五郎 船親父(船頭の次席で取締役。水夫長)。出帆時65歳。 -次郎兵衛 楫取(航海士)。伊勢国桑名郡桑名村(三重県桑名市)出身。 -安五郎 水主。伊豆国賀茂郡子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)出身。 -清七 水主。出帆時29歳。 -長次郎 水主。志摩国答志郡小浜村(三重県鳥羽市小浜町)出身。 -藤助 水主。出帆時23歳。 -与惣松 炊(炊事雑用掛、見習船員)。出帆時15歳。 -勘太郎 水主。志摩国小浜村出身。 -九右衛門 水主。出帆時55歳。 -藤吉 水主。出帆時24歳。 -庄蔵 水主。出帆時31歳。 -新蔵 水主。出帆時24歳。 -幾八 水主。出帆時42歳。 天明2年12月13日(1783/01/15)、西風を受けて鳥羽港を出帆。同夜半、駿河湾に差し掛かったとき、激しく北風が吹き西風とせり合って船は大波にもまれ、楫を折られて遭難した。 天明2年12月14日(1783/01/16)、鳥羽港を出帆。駿河灘で暴風雨に遭い、舵を折られて遭難する。 天明2年12月14日(1783/01/16)、朝、跳荷をする。 天明2年12月15日(1783/01/17)、小市、磯吉(助手役)、三五郎(筈緒の切断役)、帆柱を伐り倒す。昼過ぎ頃まで大島の三原山が見える 。 天明2年12月20日(1783/01/22)、一時的に北西に進むが夜には南東に進む。 天明3年2月(1783/3月)、帆を作り帆走する。北へ流される。 天明3年2月末(1783/3月末)、水が乏しくなり、水桶に錠をおろす。 天明3年3月初旬(1783/4月)、錨を失う。船体に漏水を生じるが修復する。 天明3年5月(1783/6月)、雪が降る。 天明3年7月10日(1783/08/07)、三五郎、昆布が近くを流れているのを見つける。 天明3年7月15日(1783/08/12)、幾八、北太平洋漂流中、船中にて病死。享年43歳。 天明3年7月17日(1783/08/14)、海が荒れ、船の損傷大。新蔵、顔にやけどを負う。 天明3年7月20日(1783/08/17)、アムチトカ島に漂着。小市、磯吉、清七、庄蔵、新蔵は土民に着いていきニビジモフ(モスクワ商人ヴァシリー・ヤコブレヴィチ・ジガレフの使用人)らに会う。清七、庄蔵、新蔵は、ニビジモフらに同行し光太夫のもとへ戻る。 天明3年7月21日(1783/08/18)、船を失う。 天明3年7月22日(1783/08/19)、艀を失う。 天明3年7月23日(1783/08/20)、ニビジモフの集落にて合流。 天明3年8月9日(1783/09/05)、三五郎、アムチトカで病死。享年66歳。宗旨真言宗。菩提寺南若松心海寺。 天明3年8月20日(1783/09/16)、次郎兵衛、アムチトカで病死。 天明3年10月16日(1783/11/10)、安五郎、アムチトカで病死。 天明3年10月23日(1783/11/17)、作次郎、アムチトカで病死。 天明3年12月17日(1784/01/09)、清七、アムチトカで病死。享年26歳。 天明3年12月20日(1784/01/12)、長次郎、アムチトカで病死。 1784/10/11、藤助、アムチトカで病死。享年25歳。 1786年7月、ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。 1787年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、カムチャツカのギジギンスクの警察署長に赴任。 1787年春、大黒屋光太夫ら、ロシア人と協力して船の建造にとりかかる。 1787/07/29、光太夫ら9人は作った船キリル・アレクサンドロスキー号で25人のロシア人とアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウスチカムチャツカ港着。 1787/10/05、コノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ少佐とニジネカムチャツカへ。光太夫は、長官のコノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ家に厄介になる。光太夫以外は、秘書のヴァシリー・ドブレニン家に厄介になる。 1788/04/16、与惣松、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年21歳。 1788/04/22、勘太郎、ニジニ・カムチャツクにて病死。 1788/05/19、藤吉、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年30歳。 1788/06/26、光太夫ら6人はニジネカムチャツカを発つ。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ隊長以下13名の護送隊がオホーツクまで同行する。南部多賀丸漂流民(H1744a)利八郎の義兄アファナシ・オチェレジン、通訳として光太夫らに同行。 1788/07/12、チギリ着。 1788/08/12、チギリ出帆。 1788/09/12、オホーツク着。 1788/09/23、オホーツク発。軍曹ワシーリイ、光太夫らの輸送隊指揮官として同行。医師ビリュチコフ、オホーツクでの任期を終え、光太夫らに同行。 1788/11/20、ヤクーツク着。 1788/12/24、ヤクーツク発。 1789/02/20、イルクーツク着。光太夫、小市、磯吉、久右衛門は、ホルコルフという蹄鉄工の家に起居。当初は日本語学校で起居との説も。 1789年、庄蔵、凍傷の悪化により足を切断。 1789年、南部多賀丸([[H1744a]])漂流民の久太郎の子トラペズニコフ、三之助の子タタリーノフが来訪。 1789年4月下旬、大黒屋光太夫、イルクーツクでテモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチと会う。 1789年8月、帰国願いに対し「帰国の儀は思いとまり、この国にて仕官すべき旨」の返答を受ける。 1789年9月の終わり、ホッケヴィチの紹介でキリル・ラックスマンを訪ねる。 1789年冬、庄蔵、受洗。ロシア名フョードル・ステパノヴィチ・シトニコフ。 1789/12/24、ラックスマン邸でアダム・ラックスマン、シェリホフと会う。 1790/01/26、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマンが、磯吉、新蔵とサイの化石を採集する。 1790/02/14、2度目の帰国願いに対し「商人になるなら税金も免除し、家も与えよう。もし仕官するのであれば、だんだんとカピタンにまで取り立てよう」との返答を得る。 1790/02/18、3度目の帰国願いを提出。 1790年5月、ラジシチェフ、「ペテルブルグからモスクワへの旅」を出版。 1790年6月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査に出かける。 1790/07/11、ラジシチェフ、逮捕されペトロパウロフスク要塞に監禁 シベリアのイリムスクに流刑を命じられる。 1790年10月中旬、庄蔵、入院。 1790年10月中旬、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査から帰る。 1791年、庄蔵、新蔵、イルクーツク日本語学校教師となる。 1791/01/24、九右衛門、イルクーツクにて病死。享年64歳。 1791/01/26、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツクを発つ。 1791年、新蔵、入院。 1791年1月下旬、大黒屋光太夫、トボリスク着。流刑地に赴くラジシチェフと会う。 1791/03/12、大黒屋光太夫、ペテルブルグ着。1791年春、新蔵、受洗。ロシア名ニコライ・ペテロヴィチ・コロトゥイギン。1791/05/07、大黒屋光太夫、ペテルブルグで新蔵と会う。 1791/05/08、大黒屋光太夫、ツァールスコエ・セロ着。 1791/07/09、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/07/21、大黒屋光太夫、2度目の謁見。 1791年8月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、皇太子に伺候。 1791年9月下旬、大黒屋光太夫、ペテルブルグに戻る。 1791/10/10、大黒屋光太夫、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・ベズボロドコ邸を訪ね、ウォロンツォーフから帰国を許された旨伝えられる。 1791/10/20、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/11/19、大黒屋光太夫、ウォロンツォーフ邸で勲章を受ける。 1791/12/07、大黒屋光太夫、新蔵、ラクスマン、ペテルブルグを発つ。ツァールスコエ・セロのブシ邸に寄る。 1791/12/08、大黒屋光太夫ら、ツァールスコエ・セロを発つ。 1791/12/10、大黒屋光太夫ら、モスクワの豪商ジガレーフの家に着く。 1791/12/22、大黒屋光太夫ら、モスクワ発。 1791/12/25、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド着。1791/12/31、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド発。 1792/01/16、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ着。 1792/01/17、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ発。 1792/01/21、大黒屋光太夫ら、トボリスク着。エゴル・イバノヴィチ・トゥゴロコフ、ラスクマンの日本遠征隊員を拝命。改めて光太夫に日本語を学ぶ。 1792/01/24、大黒屋光太夫ら、トボリスク発。 1792/02/03、大黒屋光太夫ら、イルクーツク着。 1792/02/17、ラジシチェフ、イリムスクにてヴォロンツォーフ公爵宛てに書簡を書く。ラクスマン教授との対面を心から待ちわびていたことを明らかにしている。 1792/05/31、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツク発。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ、光太夫らを見送る。 1792/05/31、小市、磯吉、トベズニコフ、トゥゴロコフが光太夫とは別にイルクーツク発。 1792/06/03、大黒屋光太夫ら、カジカ着。 1792/06/04、小市ら、カジカ着。 1792/06/05、大黒屋光太夫、ラックスマン、グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ|Grigorii Ivanovich Shelikhovらとカジカを川舟で発つ。 1792/06/26、大黒屋光太夫ら、ヤクーツク着。 1792/06/28、小市ら、ヤクーツク着。 1792/07/13、大黒屋光太夫、ラクスマン、トラベズニコフ、ヤクーツク発。 1792年夏、航海学校に日本語クラスが創設。庄蔵、新蔵がここの教師となった可能性が高い。 1792/08/14、大黒屋光太夫ら、オホーツク着。 1792/08/19、小市ら、オホーツク着。 1792/09/01、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、オホーツクを発ちイルクーツクに戻る。 1792/09/24、大黒屋光太夫、小市、磯吉、エカチェリーナ号でオホーツク発。ギジギンスクの守備隊長をしていたアダム・キリロヴィッチ・ラクスマンが公使、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフが事務長として乗り込む。 1792/10/07、北海道東岸沖に投錨。寛政4年9月3日(1792/10/18)、バラサン海岸(別海町)に投錨。アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、武装した兵13名と上陸し、近くにアイヌの集落があることを聞き、飲料水を補給して帰船。この日をもって、歴史上、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、公式にロシアを代表して日本に通商をもとめるために、根室に来航。 寛政4年9月4日(1792/10/19)、ラクスマン、光太夫、西別に上陸。 寛政4年9月5日(1792/10/20)、カチェリーナ号根室湾に投錨。ラクスマン、根室に上陸 根室詰めの松前藩士熊谷冨太郎と会見、日本との通商についての直接交渉の斡旋を依頼する。 1792年10月下旬、ラクスマン、上陸して営舎を建てる地を卜した。 寛政4年9月8日(1792/10/23)、ラクスマン、「松前藩主宛来航覚書」「光太夫口書」「赤人通詞口上之趣」を提出。熊谷冨太郎、ロシア船来着の報をラクスマンが差し出した書簡を添え急使をもって松前に届ける。 1792/10/29、営舎が落成し上陸。 1792/11/16、ラクスマン、松前藩士・工藤庄右衛門を訪ね、重ねて使命の趣旨を伝える。 寛政4年10月15日(1792/11/28)、ラクスマン、上陸して越冬宿舎に入る。 寛政4年末、ラクスマンら一行がスケートをする。松前藩士がその様子をスケッチした。 寛政4年11月2日(1792/12/15)、幕府が、ラクスマンとの交渉のため、目付・石川忠房と西丸目付・村上義礼を松前派遣の宣諭使に任命する。 寛政5年1月22日(1793/03/04)、幕府の宣諭使・石川忠房と村上義礼が、ロシア使節来航に関する処置のため江戸を出立し、蝦夷松前に向かう。 寛政5年3月2日(1793/04/12)、宣諭使松前着。 寛政5年4月2日(1793/05/11)、小市、根室で壊血病で死亡。享年51歳。宗旨真言宗、菩提寺若松村宝祥寺、戒名釈転流道友信士。 寛政5年4月23日(1793/05/30)、ラクスマン、ロシア船の砂原(内浦湾西岸、茅部郡砂原町)までの航行を認められ妥協。 寛政5年5月26日(1793/07/04)、箱館湾投錨。 寛政5年6月6日(1793/07/13)、大黒屋光太夫、磯吉、ラクスマン、トラベズニコフらが、箱館上陸。 寛政5年6月18日(1793/07/25)、大黒屋光太夫ら、泉沢村発。 寛政5年6月19日(1793/07/26)、大黒屋光太夫ら、福島泊。 寛政5年6月21日(1793/07/28)、ラクスマン、幕府宣諭使・石川忠房と村上義礼と松前で第1回会見。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、ラクスマン、宣諭使と第2回会談を行い、イルクーツク知事ピーリの「日本政府宛公文書」を提出して、大黒屋光太夫ら漂流民の引取りを要請する。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、大黒屋光太夫、磯吉、夕方、幕府に引き渡される。寛政5年6月24日(1793/08/03)、ラクスマン、宣諭使と第3回会談を行い、幕府側が通商に関する国法を伝達して、長崎への回航を要請する。信牌をもらう。 寛政5年6月30日(1793/08/06)、ラクスマンら松前発(陸路)。 寛政5年7月4日(1793/08/10)、ラクスマンら箱館着。 寛政5年7月16日(1793/08/22)、エカチェリーナ号、箱館出帆。大黒屋光太夫、磯吉、松前を出立。石川忠房・村上義礼、松前の要地および津軽・南部藩領の沿岸巡視に出発。 1793/09/19、エカチェリーナ号、オホーツク港入港。 寛政5年8月17日(1793/09/21)、大黒屋光太夫・磯吉、江戸に到着 1793年10月、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、イルクーツクへ発つ。 寛政5年9月18日(1793/10/22)、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉の前で漂流中の話をする。 寛政5年10月7日(1793/11/10)、石川忠房・村上義礼、帰府。 寛政5年10月10日(1793/11/13)、大黒屋光太夫・磯吉、郷里の人々(磯吉兄清吉・光太夫甥彦八)との会見を許される。 寛政5年11月1日、村上義礼、蝦夷地・奥羽巡視の使命を果たし、帰府して将軍・家斉に謁見。 1794年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを訪れて、大路の大官に、新たに日本に使節を送ることを提案。ラックスマンが個人の資格で日本に赴くことが許可される。グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ、ラックスマンが日本に再度使節を送る意見に反対。レザノフと出会う。 寛政6年6月11日(1794/07/07)、大黒屋光太夫・磯吉、番町明地薬草植付場に移されることに決定。 寛政6年7月1日、大黒屋光太夫・磯吉に番町植場に移されることが申し渡される。 寛政6年7月3日、幕府、亀山藩に小市身寄りのものの調査を命ずる。 寛政6年7月21日、亀山藩から幕府に小市の妻けんが家をまもっていると報告する。 寛政6年8月2日、幕府、小市妻けんに銀10枚を下賜。 寛政6年8月5日、幕府、小市妻けんに小市の遺品を下げ渡す。 寛政6年9月6日、小市遺品、若松村に届く 寛政6年9月18日、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉が謁見。 寛政6年9月18日~22日、若松村宝祥寺で、小市の追善供養が行われた際に、小市の遺品が一般に展覧された。 寛政6年11月1日(1794/11/23)、大黒屋光太夫、大槻玄沢に招かれる。 寛政6年閏11月11日、大黒屋光太夫、蘭学者たちのオランダ正月を祝う席に招かれる。 1795年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを出発、シベリア街道を東に向かった。 1795/07/31、シェリホフ没。彼の作った会社を基礎にして彼の死後〈露米会社〉が設立された。この会社の総支配人で遣日使節に任命されたレザノフは彼の女婿である。今日ではオホーツク海北部のシェリホフ湾とコディアク島の北のシェリコフ海峡にその名をとどめている。 寛政7年8月9~27日、小市遺品、名古屋の七寺(ななつじ)(稲園山)境内の一乗院で展観される。 1795年12月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、シベリア商人に「信牌」を下付し、商船を長崎に派遣することは、ヨーロッパ諸国がフランス革命戦争に煩わされている今こそ、対日通商関係樹立の好機である旨の上申書を提出する。 1796年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、トボリスクから約100kmのヴァガイ河(イルトゥイシ河へ注ぐ)の畔で病死。 1796年、庄蔵、イルクーツクで若宮丸儀兵衛(H1793a)と同居する。 1796年夏、庄蔵、イルクーツクで死亡。享年45歳。若宮丸儀兵衛(H1793a)に見とられる。 1796/07/20、ラジシチェフ、イルムスクにてヴォロンツォーフ宛て書簡。ラスクマンの死を確認し、深い哀悼の念にみちている。 寛政9年(1797)、大黒屋光太夫に嗣子、大黒梅陰が生まれる。 寛政10年(1798)10~11月、磯吉、故郷に帰り1ヶ月滞在する。 寛政11年3月13日~4月2日(1799/04/17~05/06)、京都の伏見桃山で小市遺品が展観される。 1802年、ラジシチェフ、自殺。 享和2年4月22日(1802/05/24)、大黒屋光太夫、帰郷を許され、亀山代官所に到着する。 享和2年4月23日(1802/05/25)、大黒屋光太夫、村役人や親類の者たちと同道して若松村に帰る。 享和2年6月、大黒屋光太夫、若松村を離れ江戸に帰る。 1803年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、没。 1803/04/28、新蔵、若宮丸漂流民(H1793a)とイルクーツク発。 1803/06/15ごろ、新蔵、ペテルブルグに到着。 文化3年11月27日(1807/01/05)、磯吉、蔵前の札差夏目成美邸の俳席随斎会で漂流話をする(小林一茶証言)。 1810年、新蔵、イルクーツクで死亡。享年52歳。ロシア人の最初の妻マシウエヤ・ムシヘイオナとの間に、男子2人、女子1人、2番目の妻カテリナ・エキムフモオナとの間に女子1人あり。 文政11年4月15日(1828/05/28)、大黒屋光太夫、江戸番町植場内で死亡。享年78歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺。戒名釈道誓信士。若松村墓碑では久味。養家先亀屋の菩提寺は若松の緑芳寺。 天保9年11月15日(1838/12/31)、磯吉、江戸番町植場内で死亡。享年77歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺、南若松心海寺、戒名釈順誓信士。 **参考文献 -荒川秀俊, 1995. [[異国漂流物語>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4390106775/qid=1117849789/sr=1-2/ref=sr_1_10_2]]. 社会思想社. -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社. -山下恒夫, 2004. [[大黒屋光太夫>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004308798?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4004308798]]. 岩波書店.

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