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*1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) 享保13年11月上旬(1728/12月上旬)、17人の日本人を乗せた御用船「若潮丸」が薩摩から大坂に向けて出帆。積荷は大坂の薩摩屋敷への御用米のほか紙・絹織物・紫檀など。 -ゴンザ:若潮丸の楫取の子で、出帆時10歳(一説11歳)の少年。水主見習の炊役。 -ソウザ:商人の子。父の死後跡を継ぐ。出帆時35歳(1693年生まれ)。上乗役。 ほか15名乗船 享保13年11月8日(1728/12/08)、嵐に遭遇 8日間も悪天候の中、風波にもまれる。 享保14年6月7日(1729/07/02)、6ヶ月と8日の漂流の末、カムチャツカ半島の南端ロパトカ岬付近の東海岸に漂着。一行は小船で上陸して仮小屋で過ごしたが、そのうち親船は嵐のため流出してしまう。 1729/07/05頃、コサック50人長アンドレイ・シュティンニコフの率いるカムチャダル人の一隊がやってきた。 漂流民は彼らに衣服や刀を送る。 1729/07/07頃、漂流民らは30キロ小船で移動し親船を見つけるが、シュティンニコフの一隊の襲撃を受け、ゴンザとソウザを残して殺害される。 2人はヴェルネ・カムチャツク、ニジニ・カムチャツクと連行され、シュティンニコフに酷使された。 ヤクーツクから赴任した代官ノブゴロドフはこれを知り、シュティンニコフらを処罰する(シュティンニコフは死刑に処せられたともいう)とともに、漂流民を航海士ヤコブ・ゲンスのもとで官費を持って養う。 1731年、アナドイルの長官パウルツキー少佐から、漂流民送致のロシア政府命令が届く 漂流民はヤクーツクに送られ、5週間ほど滞在した後、ヤクーツク知事アレクセイ・リヴォヴィッチ・プレシチェフの命令でさらにペテルブルグへと送られる。 漂流民らは、ペテルブルグに移動中に、トポリスクに4週間あまり滞在し、この間に、イギリス人医師アンテルモニーのジョン・ベルと出会う。ジョン・ベルは帰国後著した「ペテルブルグからアジア各地への旅」の中で若潮丸漂流民について記述している。 漂流民らは、ペテルブルグでは、侍従のアンドレイ・イヴァノヴィチ・ウシャコフ将軍邸に厄介になる。 1734年、女帝アンナはソウザとゴンザを迎賓館に招き、漂流の次第を尋ねる。 女帝の勅令で2人は陸軍幼年学校付属修道司祭のもとに預けられる 1734年10月31日、漂流民2名は洗礼を受け、ゴンザは、デミヤン・ポモルツェフと、ソウザは、クジマ・シュリツと名乗る。 1735年、ゴンザはロシア語学習のためアレクサンドローネフスキー神学校に通わされる。この年、ゴンザ、ソウザは日本語を教える命令を受ける。 1736年、ゴンザ、「露日語彙集」「日本語会話入門」を著す。 1736年7月 、科学アカデミーの中に日本語学校が開設され、ゴンザ、ソウザともに日本語教師となる。生徒はロシアの子ども2人(ピョートル・シュナヌイキン、アンドレイ・フェネフ)。アンドレイ・ボグタノフ(司書)、日本語学校の主幹と成る。 一説には、このボグダノフがデンベイ([[H1695a]])の息子とされるが、アンドレイ・ボグダノフ(司書)は、デンベイ漂流前の1693年生まれである。デンベイの息子は、1707年生まれのアンドレイ・ボグダノフ(画家)のほうに可能性がある。 1736年9月29日、ソウザ、死亡。43歳 1736年10月10日、ゴンザ、「新スラヴ・日本語辞典」の編纂にとりかかる 1737年、アンドレイ・ボグタノフ(司書)が、「日本人たちについての簡単な報告ー彼らはいかにしてロシア帝国にたどりついたか」「サンクト・ベテルブルグにいた二人の日本国家の人についての簡単な報告ー両人はキリスト教信仰のため洗礼を受け、洗礼名を第一のものはコシマ、第二のものはダミアンという」の二つの記録を著す 1738年、ゴンザ、「簡略日本文法」を著す。 1738年11月7日、ゴンザ、「新スラヴ・日本語辞典」を完成させる。 1739年、ゴンザ、「オルビス・ピクトウス(図解感覚世界)」「友好会話手本集」を著す。 1739年7月29日、ゴンザ、100ルーブリの年棒を賜る。 1739年12月26日、ゴンザ、死亡。21歳。 **参考文献 -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社.
*1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) 享保13年11月上旬(1728/12月上旬)、17人の日本人を乗せた御用船「若潮丸」が薩摩から大坂に向けて出帆。積荷は大坂の薩摩屋敷への御用米のほか紙・絹織物・紫檀など。 -ゴンザ:若潮丸の楫取の子で、出帆時10歳(一説11歳)の少年。水主見習の炊役。 -ソウザ:商人の子。父の死後跡を継ぐ。出帆時35歳(1693年生まれ)。上乗役。 ほか15名乗船 享保13年11月8日(1728/12/08)、嵐に遭遇 8日間も悪天候の中、風波にもまれる。 享保14年6月7日(1729/07/02)、6ヶ月と8日の漂流の末、カムチャツカ半島の南端ロパトカ岬付近の東海岸に漂着。一行は小船で上陸して仮小屋で過ごしたが、そのうち親船は嵐のため流出してしまう。 1729/07/05頃、コサック50人長アンドレイ・シュティンニコフの率いるカムチャダル人の一隊がやってきた。 漂流民は彼らに衣服や刀を送る。 1729/07/07頃、漂流民らは30キロ小船で移動し親船を見つけるが、シュティンニコフの一隊の襲撃を受け、ゴンザとソウザを残して殺害される。 2人はヴェルネ・カムチャツク、ニジニ・カムチャツクと連行され、シュティンニコフに酷使された。 ヤクーツクから赴任した代官ノブゴロドフはこれを知り、シュティンニコフらを処罰する(シュティンニコフは死刑に処せられたともいう)とともに、漂流民を航海士ヤコブ・ゲンスのもとで官費を持って養う。 1731年、アナドイルの長官パウルツキー少佐から、漂流民送致のロシア政府命令が届く 漂流民はヤクーツクに送られ、5週間ほど滞在した後、ヤクーツク知事アレクセイ・リヴォヴィッチ・プレシチェフの命令でさらにペテルブルグへと送られる。 漂流民らは、ペテルブルグに移動中に、トポリスクに4週間あまり滞在し、この間に、イギリス人医師アンテルモニーのジョン・ベルと出会う。ジョン・ベルは帰国後著した「ペテルブルグからアジア各地への旅」の中で若潮丸漂流民について記述している。 漂流民らは、ペテルブルグでは、侍従のアンドレイ・イヴァノヴィチ・ウシャコフ将軍邸に厄介になる。 1734年、女帝アンナはソウザとゴンザを迎賓館に招き、漂流の次第を尋ねる。 女帝の勅令で2人は陸軍幼年学校付属修道司祭のもとに預けられる 1734年10月31日、漂流民2名は洗礼を受け、ゴンザは、デミヤン・ポモルツェフと、ソウザは、クジマ・シュリツと名乗る。 1735年、ゴンザはロシア語学習のためアレクサンドローネフスキー神学校に通わされる。この年、ゴンザ、ソウザは日本語を教える命令を受ける。 1736年、ゴンザ、「露日語彙集」「日本語会話入門」を著す。 1736年7月 、科学アカデミーの中に日本語学校が開設され、ゴンザ、ソウザともに日本語教師となる。生徒はロシアの子ども2人(ピョートル・シュナヌイキン、アンドレイ・フェネフ)。アンドレイ・ボグタノフ(司書)、日本語学校の主幹と成る。 一説には、このボグダノフがデンベイ([[H1695a]])の息子とされるが、アンドレイ・ボグダノフ(司書)は、デンベイ漂流前の1693年生まれである。デンベイの息子は、1707年生まれのアンドレイ・ボグダノフ(画家)のほうに可能性がある。 ところでチェーホフの「サハリン島」に「苗字ではどんな奇妙な巡り会わせが、サハリンではボグダーノフというのと、ペスパーロフというのがやたらに多い」とある。 1736年9月29日、ソウザ、死亡。43歳 1736年10月10日、ゴンザ、「新スラヴ・日本語辞典」の編纂にとりかかる 1737年、アンドレイ・ボグタノフ(司書)が、「日本人たちについての簡単な報告ー彼らはいかにしてロシア帝国にたどりついたか」「サンクト・ベテルブルグにいた二人の日本国家の人についての簡単な報告ー両人はキリスト教信仰のため洗礼を受け、洗礼名を第一のものはコシマ、第二のものはダミアンという」の二つの記録を著す 1738年、ゴンザ、「簡略日本文法」を著す。 1738年11月7日、ゴンザ、「新スラヴ・日本語辞典」を完成させる。 1739年、ゴンザ、「オルビス・ピクトウス(図解感覚世界)」「友好会話手本集」を著す。 1739年7月29日、ゴンザ、100ルーブリの年棒を賜る。 1739年12月26日、ゴンザ、死亡。21歳。 **参考文献 -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社.

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