「H1710a」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

H1710a」(2008/04/12 (土) 17:55:46) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*1710年 サニマ(日本人)、カムチャツカに漂着 宝永6年11月(?)(1709/12月)、サニマ、日本を離れる。紀州出身説もあるが、東北地方南部の出身説も。 1710年4月(?)、サニマ、カムチャツカの太平洋岸、ペテロパウロフスクの北方のカリギル湾ボブロヴォエ海岸に漂着。10人の仲間とともに上陸するが、カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕虜になる。間もなく、カムチャダール人とロシアのコサック兵との戦闘が起こり、その戦闘でさらに日本人2名が死に、残るサマニら4名がロシア人の捕虜となる。ロシア人はサマニらをカムチャツカ川上流のヴェルフネ-カムチャツクへ連れて行き、代官のピョートル・チリコフに引き渡した。 ピョートル・チリコフに引き渡された4名の日本人は、1708年にカムチャツカに漂着した別の日本人([[H1708a]])で、サマニらは4人がカムチャダール人に殺され、6人がコサックのダニラ・ヤコブレヴィチ・アンツィフェロフに捕らえられたという説もある。 ヴェルフネ-カムチャツクに連行された日本人のうちサマニともう1人を残してあとは間もなく死んだらしい。 1711/03/31、チリコフ、アナドイルに帰任する途中、アンツィフェーロフ|Danila Ya.Antsiferov、コジレフスキー|Ivan P.Kozyrevskiiらに殺害される。 1711/04/28、アンツィフェーロフとコジレフスキー、「ピョートル1世宛嘆願書」を提出し、チリコフら上官が部下を過酷に扱ったこと、官物を横領したことを訴えるとともに、自分たちが罪を贖うために日本への通路発見の探検に赴くことを誓う。 1711/08/12~09/29、 アンツィフェーロフとコジレフスキー、シュムシュ島,パラムシル島に遠征。パラムシル島には渡らなかったとの説も。グレゴリー・ペレロモフ、アンツィフェーロフらの探検隊にシュムシュ島で合流。遠征後、上官のヴァシリー・セヴァスチャノフに北千島の地図を提出する 1711/10/07、アンツィフェーロフら、再度ピョートル1世に「嘆願書」を提出し、その中で、今回の探検について報告し、パラムシル島には蝦夷人が住んでいるとした。 1712、コジレフスキーら、千島方面の地図と「岬すなわち海峡までの経路と海峡向かいの島々について」という手記と金貨94グラムを、再任された新代官のコレソフに提出した。 1712年2月 、アンツィフェーロフ、アワチャ河畔で毛皮税徴収中、原住民に殺される。 1712年、コジレフスキー、新任長官コレソフから再度の千島探検を命ぜられる。 1713年4月、サニマ、コジレフスキーの千島探検に水先案内人および通訳として同行。 1713年5月、サニマ、探検より帰る。コジレフスキーは探検後、「カムチャツカ岬から海峡を越えた島々への、さらにマトマンスキー(松前島、北海道)への旅行記」および地図を提出。シャノタイというアイヌとキスチ(日本人漂流民か?喜助? [[H1713b]])を連れ帰る。 実際には千島北部の2島に渡っただけとの説も。 1714年、サニマ、ペテルブルグ着。途中のヤクーツクで洗礼を受けイヴァンと名乗る 伝兵衛([[H1695a]])の助手となる。伝兵衛の死後(1714年の数年後)間もなく死んだと思われる。 1726年、コジレフスキー、サニマの情報をもとに地図を作成。 **参考文献 -木崎良平, 1991. [[漂流民とロシア>http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121010280?ie=UTF8&tag=evergreenf07a-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121010280]]. 中央公論社.

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: