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*尾張孫左衛門船、馬丹島に漂流 1667年 寛文7年9月(1667/10月か11月)、尾張国知多郡大野村の商人孫左衛門、15人乗りの船に材木を積んで江戸に送る。 寛文7年10月中旬(1667/11月末~12月始め)、江戸着。 寛文7年10月下旬(1667/12月前半)、尾張大納言の品物をはじめ、千賀志摩守、同与八郎の荷物を積み、飯米2石ほど積み込んで、江戸を出船。 寛文7年11月4日(1667/12/18)、下田を出て、三河国沖合いまできたとき、西風が強くなり、尾張国に寄せることができず。11月5日(1667/12/19)、大王崎のあたりで西風がますます強くなり、東へ流される。11月8日(1667/12/22)朝、帆柱を切り捨てる。11月14日(1667/12/28)晩、風が変わる。11月15日(1667/12/29)、帆げたを帆柱にし帆走。西に向かう? 寛文7年12月6日(1668/01/19)、南と東に島が1つずつ見え、御籤により、東の島にあがることにする。八ツ時ころ、東の島に船を着け、伝馬船にのって港の場所を聞き、親船で入港。船の晩をして夜を明かす。台湾とフィリピンの間のバタン海峡の小島。翌朝、親船の荷物を奪われ、船を破壊されたので、伝馬船で逃げるが、捕らえられる。12月8日(1668/01/21)、奴隷として一人ずつ別々の家に引き取られる。 寛文8年、70~80軒の集落へ逃げ出して、15人ともそこで働くようになる。 寛文8年3月(1668/4月~5月ごろ)、船が出るようなので帰国を申し出ると日本に行く船ではないということであった。このころ、船頭治郎兵衛見えなくなる。殺されたらしい。 寛文8年4月(1668/5月ごろ)、楫取治右衛門、見えなくなる。殺されたらしい。 寛文9年10月(1669/11月ごろ)、船を作り始める。 寛文10年3月10日ころ(1670/04/29ごろ)、船が完成するが、2人が殺され、長吉がケガで死に、五郎蔵は島に残るといい、11人で出帆することとなった。 寛文10年4月中旬(1670/6月上旬頃)、船出する。2週間後、シナのホウトウ山という無人島に着く。役人が来て調べられ、米を5升、船を1艘もらう。 寛文10年5月21日(1670/07/08)、ホウトウ山を出船。11日目、日本の五島につく。20日五島にとどめられ、長崎まで3隻の船に守られて送られる。 寛文10年9月1日(1670/10/14)、長崎の揚り屋を出され、尾張に送り届けられる。 **参考文献 -荒川秀俊, 1995. [[異国漂流物語>http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&camp=247&tag=evergreenf07a-22&creative=1211&path=ASIN/4390106775/qid=1117849789/sr=1-2/ref=sr_1_10_2]]. 社会思想社. -外務省記録局編, 1884. [[外交志稿>http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=51008232&VOL_NUM=00001&KOMA=1&ITYPE=0]]. 外務省.

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