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 ミハイル・ゲオルギエヴィチ・ペルヴーヒン
反党グループに参加した党中央委幹部会員。電力行政の専門家。技術中将(1944年)。社会主義労働英雄(1949年)。
1904年10月1日ウファ県ズラトウスト郡ユリュザニ団地で鍛冶屋の息子として生まれる。
G.V.プレハーノフ名称モスクワ国民経済学院で学ぶ(29年)。19年入党。
29年から発電所で働く。カシーラ国有地区発電所所長、「モスエネルゴ」技師長、エネルギー経済総局局長を経て
38年1月から重工業次官、6月から同第一次官。1939年から党中央委員。その後ソ連邦発電所・電気機械工業人民委員部(省)
を指導し続ける。40年4月17日-44年5月15日、50年1月17日-53年3月15日ソ連副首相。
大祖国戦争の時期は疎開会議議長代理を兼務。製造業の疎開と新しい生産能力の拡大を、戦後は破壊された企業の復興を指揮した。
46-62年の間ソ連邦最高会議代議員。52年10月16日から党中央委幹部会員。I.V.スターリンの死後政府のより高い地位、
53年12月-55年2月再度副首相、55年2月-57年7月の間第一副首相に就く。1956-57年、「反党グループ」に接近。
党中央委幹部会において彼らを支援した。そのため1957年6月29日幹部会員候補に降格。58年2月東独大使として派遣され、
61年10月党中央委から追放。65年以降はゴスプランの二流ポストを与えられた。78年7月22日モスクワで死去。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬。