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ヴルコ・ヴェレフ・チェルヴェンコフ
チェルヴェンコフ。冷酷なスターリニストで、共産党政権成立期の三人の指導者の死後にブルガリアを支配した。
ディミトロフの義弟で、1925年から1946年までソ連に住み、秘密警察のコミンテルン担当であった。
1950年より首相・祖国戦線議長・党書記長を兼務、国内派を粛清・モスクワ組を重用し、スターリン主義政策を主導した。
スターリン死後は時勢に倣い経済政策を変更し、一部の収容所を閉鎖する。首相・書記長兼務体制も見直すが、
この際にモスクワにおける自らの庇護者にマレンコフを選び、彼に倣って書記長職を子飼いのジフコフに譲る失敗を犯す。
1956年の第一次スターリン批判の2か月後にはライバルのユーゴフに首相の座を譲り、政治局員・副首相となる。
人気は比較的高かったらしいが、1961年10月の第二次スターリン批判を受けてついに副首相・政治局員・中央委員を解任される。
彼は自己批判を拒み、1969年密かに党籍回復されている。1980年、80歳の彼は誰にも顧みられることなくひっそりと死去した。