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 スタニスラフ・ヴィケーンチエヴィチ・コシオール
ポーランド人。1889年11月6日セドレツコイ県ベングロフに労働者の息子として誕生。
1902年初等学校で教育を受け、同年より工場の組立工として勤務。
1907年ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキに加入。以後革命運動に参加し、四度の逮捕を経験。
1918年以降ウクライナ党組織に勤務し、内戦期末には対独講和に反対する「左 翼共産主義者」に名を連ねる。
1922-25年ロシア党中央委シベリアビュロー書記。1923年党中央委員候補、24年同委員。
1926年1月1日-1928年7月12日党中央委書記・同組織局員。1927年12月19日党中央委政治局員候補、
1930年7月13日より同局員。1928年7月よりウクライナ党書記長の地位をL.M.カガノーヴィチより引き継ぐ。
スターリンの最も忠実な支持者の一人としてウクライナにおける農業集団化遂行を指導。
四百万人近くの死者を出したウクライナ飢饉(1932-33)の総責任者の一人。
また1935-38年のウクライナ大粛清の積極的参加者であり、自ら「トロイカ」に加わって一万人に銃殺判決を下した。
1938年1月19日よりソ連邦副首相。1938年5月3日逮捕。39年2月26日死刑判決、銃殺。56年名誉・党籍を回復。