frame_decoration
 人里からいくらか離れた月光も届かぬ暗い森の中で、誰かが何かに追われていた。
 逃げるは人間。フリルのあしらわれた黒い服はあちこち裂け、箒を飛ばしてはいるが息は上がり、手元も怪しい、疲労困憊であることは瞭然である。体の起伏こそ乏しいが服装と体格から見るにどうやら女性のようだ。
 追うは妖怪。背骨を丸め、はじけるように木から木へ飛ぶ。その口からは食糧を目の前にした興奮からか涎がボタボタと垂れる。しなやかな動きと眼光は狩りをする肉食獣のそれである。
 彼女の速さは――特に逃げ足の速さは――幻想郷の人間の中ではトップクラスであることは間違いない。人間以外を含めても彼女に追いつける者がどれほどいるか……。しかし今回は場所と相手が悪かった。追う妖怪は木の幹から幹へ、枝から枝へと全身のバネをフル活用して逃亡者をも上回る速度で追い上げていく。
 幸いにもまだ多少の距離がある、高度を上げられれば振り切るのは容易い。しかし頭上には茂る枝葉、もしほんの少し引っかかってしまえば高度を上げきる前に血抜きが済まされてしまうだろう。もちろん彼女の体から、だ。その可能性を考えるとそれは幾分分の悪い賭けに思われた。
 それにそれではいけない理由もあった。
「ええい、このままじゃじり貧だ」
 焦れたように独り言をもらしながら彼女は無意識に符と固形燃料を取り出し、悪態をつきながら取り出したばかりの符をしまう。
 そして眼前に迫りくる妖怪にしっかと愛用するミニ八卦炉を構え、吠える。
「一撃だ……行くぜ! マスタァーッ! スパァァァーク!!」
 溢れる光の奔流と多大な熱量が、彼女の信条と弛まず自身を研鑽し続けた成果が、 愛しい人の作った道具が、まさに喉笛に食いつかんとしていた妖怪を焼き払う。
 その光と轟音で森近霖之助は目を覚ました。




「な、なんだ?」
 霖之助が音の発生源があると思われる方角の窓を覗き込むと、魔理沙の姿と元木々があった。元木々と言うのは字の通りである、昨晩までは立派な雑木が立ち並んでいたはずなのだが、今は立派な焼け野原に様変わりしていた。
 その焼け野原の端にいた少女がさも何事もなかったかのように声を上げる。
「おはよう香霖、早い朝だな」
「おはよう魔理沙。こんな時間に起きているなんて珍しいじゃないか」
「今日はちょっとよう――」
「ところでこれはなんだい? 山火事か、それともクマでも暴れたのか」
 魔理沙の言葉を遮って聞くのはもちろん眼前に広がる惨事のことである。霖之助も何が起きたのか察しはついているが言い訳を聞く気になった。もちろん、彼女がありのままを言うわけがないが。
「ああ、クマだぜ」
「それはもしかして小柄で金黒白の体毛のとびっきり凶暴なやつじゃなかったかい?」
「小柄で金黒白の体毛のとびっきりかわいらしいやつだったぜ?」
「はあ……、やあ森のクマさん。こんなところで立ち話もなんだ、上がって茶でもいかがだい」
 霖之助はやれやれとばかりに肩をすくめた。

 柔らかい朝の陽光が射す香霖堂、表の札が商い中に変わっただけでなんの変わりもない。物が雑然と並び、当然客の姿もない。魔理沙が一息ついたのを確認すると霖之助がおもむろに切り出した。
「で、本当は何があったんだい? 僕はあんなに派手なモーニングコールを頼んだ覚えはないし、人様の安眠を無為に妨げるほどお子様じゃないと信じたいんだけど」
「何ってさっき言った通りだぜ?」
 魔理沙は真面目な質問であることを解しつつはぐらかすようにわざと飄々と返す。暗に「深くは聞くな」と。
こんな返しをされては霖之助も無理強いはできない。
「何もないのに服がボロボロになったりしない。そうだ、服を脱いでくれ」
「おお? 今日の香霖はやけに大胆だな」
「僕は君が物心着く前から知ってる、おしめを替えたこともある。男物だから大きいだろうが襦袢は箪笥から適当に。繕うだけさ」
 奥にある自らの居住区を指しながらまた溜息をつく。
「おいおい、ドロワーズを穿いたまま襦袢が着られるか。それともあれか? 脱いでほしいのか?」
「好きにしてくれ。それにしても今日はやけに絡むじゃないか、そんな歳じゃないだろう?」
「そういうお年頃なんだぜー」
 魔理沙はくすくす笑いながら店の奥へと消えていった。

 霖之助は衣ずれが漏れ聞こえる戸の前に脱ぎ捨てられた衣類を拾い集めるついでに、裸体かそれに近い姿の魔理沙を覗き込む……わけもなく店番に戻った。
 タイミングを計ったようにふわりと頭に乗せられた生暖かい白いなにかについては、熟考の末気付かないことにした。

 繕いが終わるまで誰ひとり来訪者はなかったが、それは霖之助にとっては幸せなことだった。もしだれかひとりにでも見られていたら明日にでも里に最も近い天狗の誰かさんによって記事にされているだろう。
 見出しはこうだ「記者はみた! 古道具屋店主のアブナイ趣味!」
 この誰かさんでなくても見目若い男性店主が頭にドロワーズを乗せながら女性ものの服を繕っていたら変に思って当然だが。

「破れが大きい箇所は当て布をしておいた。初めのうちはそこだけ浮いて不格好だが洗濯を重ねればだいたい他と同じくらいの色に落ち着くはずさ」
「さすがは香霖だな、いい嫁さんになれるぜ」
「僕は男だ」
「私が嫁にもらってやってもいいぜ」
 むくれていた魔理沙も綺麗に直った服を見て機嫌を直したようだ。霖之助は魔理沙がなぜむくれていたのかわ
からなかったことにして新たに茶を淹れなおす。普通こんなことをされれば気づいても良さそうなのだが、兄貴分をからかっているぐらいにしか考えていないあたり霖之助らしいわけだが。
 この二人の間にそうそう適した世間話があるわけもなく、やがて各々自分の指定席で本を読みだしてしまった。
当然ながら客はいない。紙の擦れる音の合間には心音まで聞こえてきそうなほど静かである。
 その静けさの中、音を思い出したように声が響く。
「そうだ。魔理沙、最近何か変わったことはないかい?」
「別に普通だぜ? うちもここも閑古鳥が鳴きっぱなし、変わりない」
 笑えないねと微笑みを浮かべ、少しの思案の後にずばりと。
「そうだな……例えば妖怪について」
 本題を切り出した。
 魔理沙の肩がぴくりと動いたのを霖之助は見逃さなかった。
 彼のいつになく真剣な眼差しを受けて魔理沙はホールドアップ。情報料は? という軽口も無視されしぶしぶ
口を割る。
「いつのことだか覚えてないが、すこし変な妖怪がいるのは確かだぜ。いや、変な妖怪は別に珍しくないな、様子がおかしい妖怪だ。普段は別段凶暴でもないやつが暴れまわっていたり、賢いやつが暴れまわっていたり」
「そんな些細なことじゃな――」
「スペルカードルールを無視して人間を食おうとする妖怪がいたり」
 驚きの余りに霖之助の座っていた椅子が倒れる。中腰の体勢のまま彼は魔理沙の服を見つめ、小さく口の中だけでなるほど、と呟いた。
 また魔理沙も、私のこともそれくらい鋭ければ楽なのにな、と。
「ふむ、それは妙な話だね。異変と言っていいだろう、霊夢とどちらが先に解決するのか見物だよ」
 霖之助は努めて軽く言いながら椅子を正して座りなおす。魔理沙としてはこの話はできればしたくなかった。
 当然したくなかった。

 西日が眩しい店内に変わらずふたりだけ、本を読むふりをする魔理沙と同じページを開いたまま虚空を見つめる霖之助。
 魔理沙はこれまでにない心地の悪い沈黙の中にいた。その中で目線は本に向けたまま軽く、本当に軽く、いつもの他愛ない話をするように口を開いた。
「ああそうだ香霖。今朝用事があって来たって言ったよな」
 無言のままぼんやりとしていた霖之助の焦点が魔理沙に合わせられる。
「それなんだが、香霖。えぇっと……け、結婚って、どう思う?」
 西日で染まる魔理沙の頬を眺めていたかと思うと、少しずつ普段の霖之助の表情に戻り始めた。
「昔からの知り合いが何人か祝言をあげているけど、いいものだと思うよ。彼らは皆仲良く幸せにしているしね。
 外の世界では最近そうじゃないのも増えているらしいけど」
「それなら話は早いぜ」
 霖之助の言葉を聞いてさっきまでの暗い表情はどこへやら、目を輝かせて彼を見返す。
 魔理沙の反応を見て完全に普段の表情に戻り、気圧されるように彼女から視線を外す。
「ちょっと結婚してみないか?」
「突然何を言い出すのかと思えば……、いい見合の話でもあるのかい?」
「ああ、見合だぜ」
「どこの誰だい」
「今見合ってるぜ」
 逸らしていた眼をきょとんと魔理沙と合わせ、急ににがにがしい口調になる。
「冗談は自分の歳を考えて選ぶものだよ」
 とんでもなく外れたジョークと受け取った霖之助は、どこか安堵したかのように大きく息を吐く。あるいは自分を気遣ってくれたのか。
「こんな冗談言う歳じゃないぜ」
 腕を振り回して抗議する様を見て、霖之助は本日何回目になるかもわからないほど行った動作をさらにもういちカウント増やす。溜息。
「じゃあこう聞こう。もし仮に本気だったとして、それにどんなメリットがあるんだい?」
 無粋にもほどがあるが残念ながら霖之助は大真面目のようだ、魔理沙も苦労するはずである。当の本人に悪気が一切ないのがより事態を深刻にしていた。
「ええと、いつも一緒にいられる」
「今だってその気になれば容易いことだろう」
 予想だにしていなかった展開に戸惑う少女。
 即座に切り捨てる青年。
「もっと深い間柄に……」
「もう浅い間柄でもないだろう」
 うろたえる乙女。
 切り捨てる外道。
「きっと赤ん坊はかわいいぜ」
「僕より先に老人になる赤子はできれば遠慮したいね」
 魔理沙。
 霖之助。

 黙ってしまった魔理沙を尻目に霖之助棚にはたきをかけ始めた。客はない。店内に軽く小さい音がやけに大きく響く。
 目を刺す強い光が柔らかいオレンジに変わるころ、魔理沙に背を向けたまま。
「それはただの約束だ、突き詰めて言えばただの約束なんだ」
 霖之助とごく親しい関係でなければ平素のものととってしまいそうな声色だった。彼のこれまでの人生は外見よりもほんのちょっとだけ長く、わずかに変化に富んでいて、若干スリリングだった。ゆえに腹芸もその逆もある程度は心得ている。
「だけどそれは男女なら誰でもできる。僕らには少しばかり退屈で窮屈なものだ。だから魔理沙、僕らは僕らにしかできない約束をしようじゃないか」
 彼女はなんの反応もしない、反応はしないが少女の視線は青年に注がれている。不機嫌であることを隠そうともしない見事な仏頂面と不機嫌オーラだ。これをイエスととる人間は滅多にいないだろう、しかしこの場にはいた。
「さっきの様子のおかしい妖怪がいるという話だが、一部の妖怪がなんらかの影響を受けて昔の姿に戻っている
 という結論に行き着いた。原因についてはまだなんとも言えないけどね。それで、だ」
 気づけばはたきを持つ手が力なく垂れ下がっている。

「僕の体に妖怪の血が流れてるというのは今さら言うまでもないね。もしも僕の様子がおかしくなったら、そのときは君の手で始末してほしい」

「ここ最近でいっとうつまらない冗談だぜ」
 霖之助の広くはない背中を睨みつけ、即答する。
 彼は殺気にも似たものを一身に浴びながらも口調を繕ったまま変えない。むしろ苦笑いさえ浮かべていた。
「こんな冗談を言う歳じゃないんだけどね」
 霖之助は椅子に戻りしっかりと魔理沙を見据える。魔理沙の抗議を受けとめる。
「とは言っても納得はできないか、じゃあ簡単に説明しよう。なに、楽しい話じゃないからすぐ終わらせるよ」
 彼は微笑を崩さない。

「知っての通り僕は半分妖怪だからね、最近の変化について真っ先に妖怪のことを聞いたのはその半分の調子が最近とてもよくてね。こんなのは幾十年ぶりなんだ。そしたら案の定だった、これはよろしくない」
 霖之助は笑う。魔理沙を見つめ笑う。
「それとこれまでの人生のうちに妖怪の欲求が一度もなかったかと問われれば肯定はしづらい。昔は物騒だった
 んからね、幸いその欲求はもう半分の血のおかげで満たされたことはないけど。本当に嫌な記憶だ」
 霖之助は笑う。過去を思い出し笑う。
「荒れてた時代ですら抑えるのに苦労したっていうのに平和に慣れてしまってからその衝動が来たら抑えられるかわからない、というより抑えられないだろう。おそらく、二度と今の僕に戻ることもないと思う」
 霖之助は笑う。不幸せな未来を笑う。

「まあそれが来るのは君がいなくなった後かもしれないし、来ないかもしれない」
 ふと霖之助の顔から笑顔が消えた。机に肘を付き指を組んだ手で口元を隠すように、少しでも表情を隠そうとする。
「正直なところを言うとね……怖いんだ。もしそんなことになったらと考えると震えが止まらないよ。死ぬことなんかが怖いわけじゃない。もしかしたら僕が知人や親しい人を殺してしまうかもしれない、人喰いの化け物として見も知らぬ他人に退治にされるかもしれない、そのとき幽かに人間の意識が残っているかもしれないと考えると……。だから魔理沙、もしそんなことになってしまったら力を持っていてかつ特別な君に片を付けてもらいたい」
 言葉通りよく見れば彼は小さく震えている。カタカタと机が鳴っている。
 長く生きているはずの青年は幼子のように恐怖に震えている。
 その怯えが無理やり止められた。いつの間にか霖之助の後ろに回り込んでいた魔理沙がその背中を抱きかかえている。
「お前は馬鹿だな、ひとりで勝手に悪い方に悪い方に考えて。私がたまたまおかしい妖怪に出くわしただけかもしれないだろ?」

 そんな馬鹿を好きになるやつがかわいそうだぜ。

「いいぜ、約束しよう。万が一香霖がおかしくなったら私がなんとかしてやるぜ」
 青年は、小さな身体を精一杯広げて自分を抱きすくめる少女の手の甲を握り、何かを呟く。その声は魔理沙以外が聞くには小さすぎた。
「なあ、やっぱり結婚しないか? その方が何かあったとき対処しやすいぜ」
「僕は魔理沙が好きだけど、今のそれは愛じゃないんだ。それにさっきも言ったけど好きな人だけならまだしも自分の子供が天寿を全うする様を見届けるのはごめんだ」
 精神的に参っていても霖之助は霖之助だった。魔理沙もそんな霖之助だからこそ好きになったので答えはなんとなしにはわかっていたが。
「それにしても本当に客が来ないな。よくこんな店にずっと籠もってられるぜ」
「飽きないとはうまいことを言ったものだ」
「お前は牛だったのか」
「少し時間を持て余してるだけさ」

 日暮れの香霖堂に笑い声が響く。店内にはふたりもいる、賑やかなことこの上ない。




 折れた木々の隙間から月光が差し込む森の中、誰かのすすり泣きが響く。
 泣いているのはモノトーンカラーの衣装を身に纏った魔法使い、彼女の名前は霧雨魔理沙。魔理沙は誰かの身体を背中からきつく抱きしめていた。
 仰向けの姿勢で腰から上を魔理沙に抱きかかえられているのは、さきほどまで魔理沙と物騒な追いかけっこを繰り広げていた妖怪――もとい、森近霖之助。それがうめきを上がる。
「まだ息があったのか」
 苦虫を噛み潰したかのような顔でミニ八卦炉を取り出し――
「いやぁ……魔理沙のモーニングコールは相変わらず派手だな」
 二度と聞くことはないはずだった想い人の声が耳朶に触れる。
「しかし妖怪化した僕を一撃でこんな状態にするとは、努力は欠かさなかったようだね。感心だ」
「しゃ、喋るな! 息さえあればどうにか命を繋げることはできる!」
 膝枕の姿勢で青年の顔を見下ろしている魔理沙、彼女の悲痛な叫びと比べて当の本人は至って暢気なものだ。
「そのことなんだけど、僕はひとつ確信してるんだ……。どんなに急いでも森を抜ける前に僕は終わる。逆にそれほどのダメージだから戻れた、とも言えるね」
 実際霖之助のダメージは魔理沙から見ても深刻だった。傷は全身にあるが特にひどいのは直撃した腹で、大きく肉が削げ落ち、中身も少しとは言えない量が飛散している。皮肉なことに今言葉を話せているのはひとえに妖怪の血のおかげであるのは間違いないだろう。現に魔理沙は既に絶命しているものだと思っていた。
 やはりかなり無理をしているのだろう。霖之助から急に生気が感じられなくなっていく。
「魔理、沙、ありがとう。ごめん」
 いつか約束を交わした日に呟いた言葉をつっかえつっかえもう一度伝える。
 青年はもう長くない。あと何言残せるだろうか、何を遺すべきだろうか。
「香霖、香霖……!」
 手を握り泣き続ける魔理沙、彼女の顔は涙やら鼻水やらでもう目も当てられない。
「君に、そんな顔をさせてしま、うなんて、僕はダメな男だな。泣くのは、やめておくれ、魔理沙。かわいい顔がしわくちゃじゃないか」
 手を強く握り返し、誰かに対してシニカルな微笑みを浮かべ、霖之助は、森近霖之助として息絶えた。
 絶命を確認すると魔理沙は一瞬目を大きく見開き、乾いた笑いをあげた。
「はは……まさか今際の際まで笑って皮肉とは恐れいったぜ。は、ははは……ははははは……」

 深い夜、深い森の中。老いた魔法使いの激しい慟哭が響き渡る。
 握られた青年と老女の左手には輝く揃いの指輪。誓約の指輪は昔交わされた、とある約束を誇っていた。