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―――僕の人生は人よりずっと長い。
   だから、僕には人生が短いという感覚は理解できないだろうね。
   きっと死の間際には、よく生きたと満足して笑って見せるよ―――



【英雄伝】



いつもどおりの日常を過ごしていたはずが、気が付けば手足は満足に動かず、
何日眠らなくても疲れを知らなかった肉体は、たった数時間の読書にすら倦怠感を主張するようになった。
衰えたのは肉体ばかりではない。
いつしか未来の自分に思いを馳せることはなくなり、過去の思い出にばかり浸る自分がいた。
新しい物を求めるよりも、今ある物で満足することを覚えた。

そうして悟った。もう、自分は長くないのだ、と。



幻想郷にある魔法の森。
その入り口に存在する店、香霖堂の店主こと森近霖之助は、老いた自分を振り返っていた。

すでに何年生きたのか覚えていない。
体力はすっかり落ちきってしまい、無縁塚への仕入れはもう何年も前から行っていない。
いや、すでに一日の大半を布団か椅子の上で過ごす毎日だ。

見た目の姿も随分と変わった。
もともと白かった髪は、色こそ変わらずとも艶を失い、顔には多くのしわが刻まれている。
だが、それらは決して不快感を与えるものではない。
重ねてきた月日が性格を丸め、その性格を反映した柔和な笑顔。
その笑顔を見て、かつて彼が仏頂面とからかわれていたことを信じるものはいないだろう。

そう、かつては霊夢や魔理沙にからかわれてばかりだった。

「……最近は昔のことを思い出してばかりだな」

自嘲気味の笑みを浮かべる。思えば随分生きたものだ。
結局、外の世界を目にすることは適わなかったが、自分の人生には概ね満足している。
外の世界のほかに心残りといえば、自分の集めた品の行方くらいのものだ。
特に草薙の剣と、大昔に無縁塚で拾い上げた彼の背丈ほどもある古時計。
死後の世界にそれらを持っていけるわけではないのに、と苦笑する。


「調子はどうだ?霖之助」

「慧音か」

霖之助が床に伏せるようになると、友人たちはそれまで以上に香霖堂を訪れるようになった。
今では当番制で家事や霖之助の生活を手伝ってくれている。
自分はどうやら自覚していた以上に彼女たちに好かれていたらしい。

「どうにも、昔のことを思い出してばかりだ。これはいよいよ天に召される時が来たかな?」

「またそんなことを言っているのか……」

半分人間の血が混じっている者の中で、霖之助の寿命が最も短かったらしい。
慧音や妖夢も年は取ったが、まだまだこれから人生の折り返し地点というところだ。
咲夜、霊夢、早苗、そして人間として生きることを選んだ魔理沙はすでに他界し、今はその子孫たちの時代になっている。

「魔理沙、霊夢、咲夜、早苗、か」

懐かしい名前に、慧音が応じる。

「随分久しぶりに聞いたな。懐かしいものだ」

「ああ。特に、魔理沙と霊夢には迷惑もかけられたが、彼女たちがいなければ、
 君を始めとしてこんなに多くの友人を持つことはできなかっただろうね」

思い出話に華が咲く。
楽しい一時だったが、かつての自分はこんなにも過去の話で盛り上がることはなかったと、
霖之助は改めて自らの老いを自覚した。


「それではまた来るからな」

「ああ、楽しみにしている」

霖之助が夕食を済ませて床に就くと、慧音は少しのやり取りを済ませて帰り支度を始めた。
ふぅ、と一息ついて、霖之助はまた思索の海に沈む。

結局、自分はだれかと添い遂げることはなかった。
こんな自分でも、好意を向けてくれた女性は少なくない。
慧音とて、何度も人里で共に暮らそうと言ってくれた。
彼女たちに応えることができなかったのは申し訳ないが、誰かを選んでいれば、その分誰かと疎遠になっていただろう。
そうなれば、今のように多くの友人を持つことはなかったかも知れない。
そう思えば、多くの友人と知り合い、その内面に触れることができたこの人生も、悪くはなかった。
これなら、安らかに死んでいけるだろう。

若いころから、死について考えることが度々あった。
死、四、史、始。
これらは同じ、『し』という読みを持つ。
これは死した者の行く末を暗に示していると言えよう。
肉体は『四』大元素(火、水、土、風)へと分解され、世界の構成要素となる。
残した足跡は歴『史』となり、残された者たちの道しるべとなる。
そして、魂は輪廻の輪をぐるりと回って、また新しい生を『始』めるのだ。

ゆっくりと目を閉じる霖之助。
いつもは眠りが浅くて困るというのに、今日は易々と意識が沈んでいく。

まるで、死に誘われるかのように。





帰り支度を終えた慧音は、次に来る日を思い浮かべつつ、店を出ようとした。
だがその時、ありえないはずの音を聞く。店の古時計が、時間でもないのに音を上げた。

ボーン

振り返ってみるが、今の時刻は18時20分というところ。

ボーン

故障だろうか。霖之助が拾ってきてからというもの、こんなことは一度もなかったが。

ボーン

すぐ止むと思っていたその音は、むしろ激しさを増して店内に響き渡る。

ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、

何かを訴えるように鳴り続ける時計を呆然と見ていると、かつて霖之助に聞いた話を思い出す。
この時計は、ある人物が生まれたときに送られたもので、その人物が亡くなる瞬間に音を上げた後、壊れて幻想入りしたものだと。

「……まさか」

慧音は部屋に戻り、横になった霖之助に声をかける。
いつもなら例え寝ていても起き上がってくる霖之助が、微動だにしなかった。
時計の音は、まだ止まない。



古時計の音は、届くはずがない場所にいる者の耳にも届いた。
いや、正確には耳に届いたのではない。
頭の中に直接響いたのだ。
最初は疲れているのか、それとも何かの悪戯かと思った彼女たちも、延々と続くその音に聞き覚えがあること、
そしてその音を何処で聞いたのかを思い出し、嫌な予感と共に香霖堂へ向かった。




朦朧とする意識の中で、霖之助はいよいよ自分の死を確信する。
周りには友人たちがいるはずだ。はっきりとはわからないが、声が聞こえたように思う。
しかし、死に向かう霖之助の体は、彼の意識をどんどん皆から遠ざける。

目は周りの様子を写してくれない。死ぬ時には皆の顔を焼き付けておきたかったのに。

耳が音を感じない。皆の声に囲まれて逝きたかったのに。

手足が言うことを聞いてくれない。死の前に、できれば握手の一つでも交わしたかったのに。

口は唸り声すら出そうとしない。皆に感謝の言葉を告げたかったのに。

鼻も利かなくなったようだ。住み慣れた家の香りを感じることすらできなくなった。

残酷なことをしてくれる。
自分に音も光もない孤独の中で死ねというのか。
死ぬ前に済ませておきたかったことは何もできないまま、
こんなに心配してくれている皆になにも伝えられぬまま、最期を迎えるのか。



いや、まだ残っているものがあった。
それは、触覚。
皆が自分に触れているのを感じる。
そして彼の能力は、蝋燭が最後に一際燃え上がるかのごとく、ここに来て進化を遂げた。

『道具の名前と用途がわかる程度の能力』

生命体の名前はわからなかったはずが、今では触れた手から皆の名前が流れ込んでくる。

頬に手を当てているのは紫。
口元で呼吸を確認しているのは慧音。
右手で脈を診ているのは永琳か。
両の肩口に水滴が滴ると思ったら、美鈴と鈴仙が泣いていたのか。
左手を包んでいるのは文の両手。

霖之助の能力はよりいっそう強く燃え上がる。
一人一人の声が肌に届くたび、なんと言っているのかまではわからずとも、それは誰の声だと教えてくれる。
長年付き合ってきた妖怪たちばかりではない。
年老いて穏やかになった彼を慕う人間たちも、わざわざ人里から大勢駆けつけてくれている。
部屋に入りきれないほどの人数が、霖之助に声をかけていた。

それは、本来存在するはずがない光景。
人と妖怪が、いがみ合うこともなく、一つの目的のために一堂に会している。
皆等しく、霖之助の死を悲しんでいた。



一際続いているのは古時計の音だったのか。そうか、君が皆を集めてくれたんだね。
ありがたい。自分なんかの死を、こんなにも大勢で惜しんでくれるとは。
僕は幸せ者だ。心の底からそう思う霖之助だが、困ったことにそのことで心残りができてしまった。
せめて皆に、自分は最期の最期で、幸福に包まれている事を伝えたい。
何もわからぬままに死んでいったのではなく、自分の生と死を見つめた上で受け入れて死んだのだ、と。
頼む、体のどこでもいいから言うことを聞いてくれ。すがるような思いで全身をもう一度確認する。

あった。
どうやら顔の筋肉は、まだ自分に味方してくれるようだ。

せめて、笑顔を残していこう。
よかった。まだ僕にも、できることが残っていてくれた……。









「脈が……止まったわ……」

永琳が霖之助の臨終を告げた。

泣き崩れるもの、
呆然とするもの、
必死に涙をこらえるもの、

反応はそれぞれだったが、誰もが霖之助の死に顔を直視できない。
しかし、そんな中でも誰かが声を上げた。

「……笑ってる」

その言葉を聞き、皆の視線が霖之助の顔に集まる。
脈が止まった瞬間、確かに無表情だったその顔は、いつの間にか笑顔に変わっていた。

そして、慧音の声が響き渡る。

「全く……。
 自分が死のうとしているその真際に、私たちを安心させることを考えるとは、お前も本当に変わったものだ。
 だが、残念だったな霖之助。お前の作り笑いなど皆お見通しだ。
 ……この……大馬鹿者の……お人好し……め……」

慧音の両目から、大粒の涙が溢れ出す。
その視線の先に横たわる霖之助。
その顔に浮かんでいたのは、かつて自らが苦手と公言して憚らなかった営業用の笑顔。
霊夢が、魔理沙が、わざとらしいと揶揄した、ぎこちない『誰かのための笑顔』を、今再び霖之助は浮かべていた。


何時しか、時計の音も消えていた。
蝉がやかましく泣き叫ぶ、夏の日の夕暮れ。森近霖之助の時間は停止した。







そして、1つの物語が阿礼乙女の蔵書に加わる。
物語の題名は、『森近霖之助伝』。
人と妖怪両方の血を引きながらにして、どちらの道を選ぶこともなく、個人としての行き方を貫き、遂には人と妖怪の区別なく多くの友人を作った男の人生を伝える、『英雄伝』。

この物語に新たな一行が加わることは、もう、ない。