囚われの身の、お姫様3


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 黒川は何処か物憂い気な表情をその端正な顔に浮かべながら、一つの家に存在するには巨大すぎる階段を上ってい
た。彼の仕事は多々あるが、その中で一番大変なものは屋敷の掃除であった。この広い屋敷の掃除は一人でこなすには
想像を絶する苦労を要するのだが、それでも彼は年に一回業者を呼んで大掃除をする以外はたった一人でそれを行って
いた。
 しかし、黒川がこうして物憂い気な表情を浮かべているのは何もこれからしなければならない掃除が理由では無かった。
否、それも無きにしも非ず――と云った所であったが、それでも彼の悩みの比重に一割ばかりを提供しているだけで、
然して重要な意味を持ってはいなかったのである。

 ならば、どうして彼がこのような浮かない表情をしているのか。
 それにはやはり、この屋敷に住まう彼が使えている主人に起因しているのであった。

 今日、彼が掃除を行う所は四階建ての屋敷の中の、三階であった。そこには麗華が居る部屋もあるのだが、それが逆
に彼の憂鬱に拍車を掛けている。何故か――それを考えると、黒川は決まって一人で首を振って、分からないとも、考
えたくないとも取れる動きを以て、その顔を使用人がするべきそれに戻すのだが、今日ばかりは場合が違った。
 黒川が首を振って現在の思量を振り払おうと思っても、その顔にはやはり物憂い気な表情が浮かんでいたのである。
それは、今朝の麗華の言葉に悩みの根源を置いているのであったが、いち使用人でしかない彼に掛ける言葉など見付け
る事は出来ず、黒川は喉まで出掛かった言葉を胸の奥へと仕舞い込んだ。
 けれども、結果的にそれが彼を悩乱へと陥らせるものとなってしまうので、やはり彼の心持は負の方向へと傾いてし
まうばかりで、一向に要領を得なかった。

 黒川と麗華との関係は長いものであった。彼女とは五歳ばかりの年が離れているが、彼は幼い頃に既にこの屋敷に勤
める為の教育を施されてきていた為、麗華がこの世に生まれ落ちた時から彼女に付き添っている。その関係が急速に変
化する事となったのは、麗華の頼みで黒川以外の使用人が一人残さず出払わされた時期だった。
 数多くの使用人が居る中で、自分もその一人としてこの屋敷に仕えていた黒川であったが、やはり一人になってしま
うと意識の仕方も変わってくるもので、以前まではただの主人としてしか見ていなかった麗華の事も自然と目で追いな
がら知ろうとするようになっていた。それは使用人として当然の事であったが、しかし色々な面でまだ未熟だった彼は、
自分ですら知らない内に彼女の事を意識し始めていた。

 何せ、大して自分と年も違わぬ少女と、自分一人の二人きりの暮らしなのである。使用人だからと云って自分の煩悩
を抑制してきた彼であっても、やはり少女との二人きりの生活ともなれば意識してしまう。ましてや、この世に早々居
ないだろう美麗な容貌の持ち主である麗華がその相手なのだから、余計にその意識は高まって行った。

「……使用人って立場がこんなに辛いなんて、考えてもいなかったな」

 階段を上り終えて、黒川は一人呟いた。
 そして、主人である麗華に対して恋慕の情を持っている事に、吝嗇の念を抱いた。
 このような特別な感情を覚えていなければ、黒川は胸を毒蛇の長い蜷局の中に締め付けられるような痛みを覚える事
も、毒液滴る、鋭い歯牙に恐怖を感じる事も無かったであろう。彼女との間に聳える壁に、少しだけ手を当てて乗り越
えてみようか、と考える事も無かった事だろう。
 しかし、やはり考えずには居られないのだ。麗華の事を思う度に、あの艶やかな金の髪の毛に触れたくなる。彼女の
事を気遣う度に、他の者には出来ない事をしている優越を感じる。この広い屋敷の屋根の下で、彼女と一緒に暮らして
いる事実に何より幸福を得ている。けれども、それ以上を望む事は許されない事なのだと、理解している。

 使用人とその主人との甘い恋愛なんて、まるでロミオとジュリエットのように切ない話だ、と彼は思う。そのような
浪漫を感じる事もあったが、往々にして現実とは厳しいものである。彼は互いを懸け隔てる壁を踏み越えて、彼女に手
を差し伸ばす勇気を持ち得なかった。だからこそ、変な事を考えてしまうのだ。

 何故、麗華は麗華なのだ――と。我ながらセンチメンタリズムの極みだと、黒川は自身を罵った。
 いっそ、麗華が全くの別人で極普通の一般的な少女であったなら、このような懸想を抱く事も無かった。彼女に想い
を掛けるなどと、有り得ない事であったはずなのである。何より、そのような想いを持ってしまう事に、彼は使用人と
しての誇りを毀損しているように感ぜられた。今まで使用人として最高の教育を受けていたのに、それを一思いに破壊
してしまうかのような感情は、殆ど不必要であったのだ。

「は、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。このままで良い事に、変わりはないのに――」

 云って、黒川は苦笑した。
 そう云った舌の根も乾かぬ内に、彼女の事を考えてしまっているのだから、笑わずには居られなかった。くつくつと
喉を鳴らす彼の姿は何処か痛々しく、途方もなく広がる荒涼とした景色の中に佇む様を彷彿とさせる。長く伸びる廊下
の先にある扉を見ると、それはより顕著になったようであった。あの扉の向こうに、彼女は居るのだろう。そして、人
形のような容貌で何事かをして、その容貌を一切損なう事なく何事かを思うのであろう。黒川は、その彼女の日常に介
入する事が出来ない。使用人の仕事として彼女と接する以外に、何もする事が出来ない。

 それは、諦念するよりも先に寂寥が胸を打つものであった。近付こうとすれば近付ける距離に彼女は居るのに、その
資格が無い事がどれだけ辛い事なのか、それを知る者は多くない。
 それを乗り越えて結ばれる者達など、所詮小説や喜劇の中だけに存在し得る物語の登場人物でしか無いのだ。黒川は
そう決め付けると、自嘲気味な笑みを湛えて廊下を歩み始めた。赤い絨毯の上に、彼の靴音が木霊する。些か老朽化の
進むその廊下は、彼が一歩進む度にぎしりと軋んだ。恐らく、この音は彼女に聞こえているだろう。
 もしかしたら、その音を聞きつけて自分を呼んでくれるかも知れない――そのような希望を考えた、その時だった。

 ――黒川……くろかわぁッ……!

 と、距離が離れている所為と、扉が隔たっている所為でくぐもった、けれども紛れもない彼女の声が自分の名を呼ぶ
のを、黒川は確かにその耳に聞き取った。何か用事でもあるのだろうか、と黒川は一瞬考えてみたが、妙に切羽詰まった
彼女の声はそう云った風には到底聞こえない。ならば、緊急事態でも起こったのだろうか。そう考えると、とてつもな
い何かに恫喝された時のような慄然が、彼の全身を総毛立たせた。

 自分の知り得ていない彼女の病気が深刻なものになっているのかも知れない。彼女は死に至るような病ではない、と
云っていたが、それも信用出来るものではなかった。黒川はそう考えるや否や、軋む廊下に敷かれた絨毯を蹴って、走
り出した。背に冷やかな汗を感じながら、汗の滲む手に握り拳を作り、逸る心臓の動悸を抑えて、駆けた。

 その内に鮮明になる彼女の声もまともに頭の中に入っては来ず、心配のみに突き動かされて彼女の部屋へと一目散に
走る。時間は三十秒も掛からなかった。それでも、彼には長い時間が経過したように感ぜられた。長距離を走った時のよ
うに激しく脈打つ心臓は息を荒げさせ、ある種の恐怖に蹲踞する彼の足は、情けなく震えている。

 しかし、扉に手を掛けたその時に、一刻をも焦るかのような心境であった彼の心持は一瞬にして冷静さを取り戻した
のである。扉の薄い板を介して伝わる彼女の声は、切羽詰まっている事に相違は無かったが、悩ましい響きを伴ってい
た。黒川が一度として聞いた事のない麗華の〝女〟の声は、水に広がる波紋の如く、彼の心を徐々に静寂へと導いた。

「お嬢……様……? 何を――」
「あっ、ふぁ……ッ! んんっ!!」

 掠れた黒川の言葉は最後まで形成される事は無かった。麗華の凄艶な声を以てして遮られたその言葉は二度と紡がれ
ず、彼は二の句を失って扉の取っ手に手を掛けたまま、愕然と立ち尽くした。
 一の矢は同じ矢によって弾かれて、続く二の矢は弓の弦を軋ませるばかりで一向に放たれない。ところが、相手が放つ
矢は驟雨の如き激しさと儚さを以て、彼に降り注いでいる。その時に咄嗟に過ぎた自問は、今の事件を解決するのには
一寸の力にも成り得ないほどに脆弱なものであった。――俺は今、何をしている?

 そのような自問にも、答えは見出せない。扉に掛けた手は震え、心なしか額には汗が滲むのを彼は感じた。絶え間な
く聞こえる彼女の嬌声は止まる事を知らず、彼の鼓膜に突き刺さり続ける。それでも、黒川は動く事が出来なかった。
彼の思考は、今からどうすれば良いのか、と云う一点を考える事に於いて、あらゆる結論を低回していたのである。

「黒川……ッ! もう、あたし……! んっ、ああっ……!」

 彼女が呼んでいるのは、果たして自分の事なのだろうか?
 自分は今、この扉を開けて、彼女に顔を向けても許されるのか?
 答えを出すのに迷いは無いはずであるのに、彼はやはり身動きする事が出来ずに茫然とそこに立ち尽くすのみであった。
彼女が呼んでいる名は、自分であって自分ではない。したがって、この部屋に入る事は許されない。麗華が今行ってい
る行為を自分が目にするなど、あってはならない。

 そう思っても、足は一向に動く気配を見せなかった。ただただ、棒のようにしてそこに在る足は、彼の命令をことご
とく裏切ってその場に位置したまま情けなく震えるばかりである。

「あっ、あっ、あああッ!! だめ……! ふぁっ、んっ、んんっ! も、イっちゃ……う……ッ!」

 余裕のない麗華の声が、黒川の思考を奪って行く。まともに働かない脳味噌で、しかし彼はそれでも動いた。
 この場から離れないと――その思考が全てであった。麗華は黒川に決して見せたくない姿を晒しているはずである。
それならば、自分がこの扉を開けてはならないと、無意識の内にその結論に逢着していた。けれども、不運な事に、彼
は再び聞いてしまったのである。扉の向こう、快楽の高みへと達しただろう彼女の口から、自分の名を。

「く、くろかわぁッ……! あ、ふ、くぅ……! あっ、あ、ああああッッ!!」

 それだけであった。
 たった、それだけの事で彼が逢着した結論は忘却の彼方に吹き飛び、それに代わるようにして別の思量が彼の頭の中
に蔓延った。最早引き剥がす事など出来るはずもなく、何処か呆然とした心持のまま彼は扉の取っ手に掛けた手をゆっく
りと緩慢な動作で捻る。がちゃりと音が鳴って、扉が少しばかり開いた。

 そこから差し込む陽光が、後光と化して彼女の姿を照らし出し、より淫靡に、より凄艶に、より卑俗に、その姿を浮
かび上がらせる。黒川を頭の中に創造し、淫らな格好で淫事に耽る彼女の姿は、妄想の世界から現実の世界へとその姿
を現し、黒川の前に全てを曝け出す。果たして、それが彼にとって幸運であったのかどうかは、分からない。
 黒川は扉を全て開き終えると同時に言葉を失った。何事かを云おうとしていた彼の口は閉じる事を忘れたかのように
中途半端に開き、驚愕とも混乱とも取れない光を湛える瞳は何処かしらを彷徨う事なく、一点を見詰めていた。

「はあっ、はっ……あ……!? く、ろか……わ……?」

 寝台に身を横たえて、愛液が滴る秘所から醜い塊を生やしたまま、彼女は愕然と視界に入ってきた人物を見詰めた。
そこに立っているのは誰だ、と一瞬の内に考えるも、無残な事にそこに居る人間は彼以外には有り得なく、麗華は全身
が脱力し切った状態のまま焦点の合わない碧眼の目を、漆黒の瞳へと合わせた。

 二人の間に流れた逡巡はとてつもなく長く感ぜられた事であろう。嘆息する事もなく黒川はその場から動く事が出来
ず、そしてまた、それは麗華も同様であった。
 彼女は小刻みに身体を震わせたまま、拭えぬ絶頂の余韻に身を浸し、涙が一杯まで溜まった瞳のみで、彼に嘆願する。
その瞳の輝きは慟哭である。そして、喜びである。矛盾する性質の相反する感情は、体と精神とに派閥を分けて、熾烈
な争いを繰り広げている。戦線の火花は至る所に飛沫を上げて、黒川の内にも戦火を巻き起こす。飛び火し炎によって
拡大した戦場は今更平穏を取り戻す事も出来ず、疲弊して行くばかりの彼らの心は戦禍の獄卒に苛まれ、抉られた。

 〝出て行って――〟と、そう云っている事を言外に物語る彼女の瞳を見た時に、体を動かす事がどう云うものなのか、
それすらも忘れてしまったかのように立ち尽くしていた黒川の瞳が初めて揺らいだ。そうして、自分が何をしているの
かと辺りを視線が彷徨い、最後に上着をはだけさせ、スカートを脱ぎ捨て、下着を全て取っ払った、淫らな姿で寝台に
横たわっている彼女を目にした時、彼の中の時計の針は漸く時を刻み始めたのである。

「あ……、お嬢様……」
「……ッ……!」

 羞恥に耐え兼ねた、麗華の瞼は堅く閉ざされ、唇は真一文字に引き結ばれて、未だ残る快感の残滓に身震いしている
その姿はまるで何者かにその体を犯されていたかのような印象を彼に与えた。皮肉にも、そのお陰で彼はまともな思考
を取り戻したのだが、それでも混乱へと陥ってしまった彼の頭は鈍重な判断しか下せなかった。

 一歩、彼女の部屋に踏み込んでしまった足を後ろに退けると、続く一歩が再び出された。俯くばかりになってしまった
麗華はその様子を見る事もなく、ただ、その場に横たわるのみである。しなやかに伸びた白い足は汗ばみ、彼を誘って
いるようである。しかし堅く閉ざされた瞼から生える濡れた睫毛が落とす影は、彼を拒絶している。黒川は麗華の姿が
否応なしに網膜に色濃く焼き付けられた心持を覚えていた。傍迷惑にもほどがある、と思っていた。

「失礼……しました」

 黒川は震える唇で言葉を紡ぎ出したが、それも麗華に聞こえていたかどうかは定かではない。それほど、彼の狂悖し
た行動は自分にでさえ信じられないものだったのである。

 黒川の片足が漸く彼女の敷居から出る事が出来た時、彼は急いで扉を閉めてそれを背凭れにその場に座り込んだ。冷
静になった頭が自分を冷罵し、嘲弄し、不様だと哄笑する。何故自分は麗華の声を聞いた時に踵を返さなかったのか、
何故自分はあの部屋の中に足を踏み入れてしまったのか、それらがどうしようもない悔恨となって彼の心を刻んで行く。
けれども、先刻見た光景が、美しい夢でない事は確かだったのである。
 声を押し殺した慟哭は、彼が先刻耳にしていたくぐもった嬌声と同じように、扉の向こう側から聞こえてきた。それ
こそが自分が犯した過ちの全てを物語っていて、彼を悄然とさせる。黒川は自分の髪を掻き上げて、どうしても頭に浮
かび上がってしまう、惨憺たる様で泣いている彼女を考えて、「畜生」と呟いた。

「ひっ……うっ……うう……ッ……」

 枕に顔を埋めて、麗華は泣いていた。汚れの一つも見当たらないシーツの上に広がる金の髪は、彼女がしゃくり上げ
る度に揺れている。華奢な体も、細い手足も、全てが彼女を儚く見せるには事足りていて、今にも麗華の姿は霧散して
消えてしまいそうだった。そして、そうなってしまえたら良いのに、と彼女自身思わずには居られなかった。
 黒川が部屋を出て行ってから、幾度自分を怨嗟したか分からない。幾度、自分に怨言を送ったか分からない。彼女は
ただひたすらに自己嫌悪を繰り返していた。けれども、だからと云って何かが変わる訳でもなく、ましてや、彼の記憶
も自身の記憶も消せる訳でもなく、やはり泣く事しか出来なかった。

「なんで……こんなッ……!」

 麗華の性格の淵源は、誇り高くあった。
 いち財閥の一人娘として生まれ、早々に出産を望めぬ身体になってしまった母親は跡取りとして息子を残す事は出来
なかった。だから、彼女らの家系――進藤家の跡取りは彼女が務める事になったのである。幼い頃からそう云い聞かさ
れてきた彼女は、過去から今日まで、そう云った情緒を確立して行くに至った。
 何をするにも気高く、誰にも屈する事なく、常に人を導くように振舞い、一家の恥にならぬようにと心掛けてきた。
勉強も他人に追随を許さぬくらいに励み、運動も彼女に敵う者は居なかった。類稀なる俊才を持ち得る彼女は他人から
敬遠されそうな立場ではあったが、その篤実さと豪放さはそのような念を取り巻きに思わせなかった。

 正に神童と呼ばれるに相応しい彼女は、個人的な能力だけでなく、社交的な能力も兼ね揃えていたのである。誰から
も愛され、誰をも愛するその性格はともすれば荘厳なものであったが、ともすれば仏陀のように慈悲深かった。
 しかし、だからこそ彼女は自分を赦す鷹揚さを持ち合わせていなかった。
 彼女が積み上げてきた自分への自信は先刻を以て酷薄にも崩れ落ちたのだ。自分が晒した姿がどれだけ醜かった事だ
ろうか。一家の跡取りとして有るまじき醜態をあろうことか使用人――そして彼女の想い人に晒してしまった事が、ど
れだけの失態だっただろうか。否、それ以前に、あのような行為に耽る自分がどれほど淫乱な姿だったのか。
 全てを見られたのだ。誰にも見せた事のない下着に隠れた秘部までも、淫靡な嬌声を上げてよがっている様も、絶頂
の果てしない快楽に身を委ねて恍惚としている姿も。全てを見られたのだ。他の誰でもない――あの、黒川に。

「こんなッ……こんな事になるなら……!」

 腕を振り上げて、麗華は枕を拳で叩いた。少しだけ形を変えるそれだったが、それでも柔らかい枕は直ぐに元の形を
取り戻して、彼女を嘲笑しているようだった。抑え切れない激情は溢れ出し、どうする事も出来ない現状は意味のない
暴力を無機物に与える。麗華は枕を鷲掴みにすると、部屋の壁の方に投げ付けた。壁際に置かれていた棚に直撃したそ
れは、その上に在った花瓶を落とし、砕けさせる。それでも彼女の自身への怒りは収まらなかった。

 息を荒げて怒りに震える唇を噛み締める歯には、既に赤い液体が付着している。止めどなく溢れる涙はシーツに薄黒
い染みを作り、濡らしていた。白く細い糸と、赤く濁った糸とが彼女の綺麗な顔の中に忽ち線を引いて行く。錯綜する
思考はむしろ統一されているようでもあった。そこにある全ての感情は自身を蔑むと云う目的に於いて、見事だと思え
るまでの統一を成している。それに反発するかのように乱れた服装は、或る意味で的を射ているようであった。

「こんな身体になるくらいだったら……ッ!」

 ぼやける視界で自分の白い手を見てみれば、そこには彼女の情事を思い起こさせる、既に固まりつつある液体が付い
ていた。ぎり、と奥歯を噛み締めた麗華は、片方の手で思い切りそこに爪を立てた。

「……生まれて来なければ……良かった……!」

 涙が混じり、消えそうな言葉を呟いた彼女は立てた爪に更なる力を込める。爪は表面の皮膚を突き破り、肉すらも抉
り、赤い液体を滲ませた。透明な液体に朱が入り混じり、混沌とした色の液体が彼女の手を伝ってシーツを汚す。感じ
る痛みは最早毛ほどもなく、彼女は自身の手を何度も何度も掻き毟った。
 そこに纏わり付く、汚れを必死に流そうとするかのように。涙を流しながら、掻き毟った。
 そこから流れ出る血液も、同じ彼女の体液だと云う事にも気付かずに。
 何も、洗い流せはしないのだと云う事にも、気付かずに――。


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