「…俺、今月こんなに使い込んだっけ?」
広げた給与明細に表示された額は、生活費と呼ぶには些か少なすぎた。
「参ったな。食費をまず削って…ああ、でももうあいつらには頼れねぇんだよな。
あんなこと言わなきゃ良かった…」

…二日前の出来事だった。
昼休み、いつものように剣道場に各々持参した弁当を持ち寄る部員たち。
その内の一つにコジローはさっそく目星を付けた。
「おおっキリノ。今日も豪勢だなあ。ええおい?」
「はいはい、慌てなくてもちゃんと分けてあげますよ」
もう慣れっこ、といった様子でキリノは裏にした弁当の蓋に海老フライやメンチカツを並べていく。
「…何かお預け食らってる犬みたいだよ?せんせー」
その様子を見ながら、サヤは呆れ顔で言った。
「ばっバカ言うな!これは教師と生徒との交流も兼ねてだなぁ…」
「…とりあえずヨダレ拭きなよ、せんせー。
ったく大の大人がいつまでも生徒に昼飯たかってちゃまずいじゃないのー?」
「そうですよ、キリノ部長だって毎日、大変じゃないですか。
ここらで生活習慣を見直しておくべきです」
ミヤミヤの加勢にいよいよ軍配の悪くなったコジローは、
「うーん…」
と、腕を組み目の前の惣菜を見つめながら考え込む。
「あ、いやーあたしは別に…」
キリノがそう言いかけたところで、
「よし!決めた!」
と、コジローは叫んだ。
「確かにお前らの言う通りだ。教師としていつまでもキリノに頼りっぱなしはまずい!
今日から俺はキリノ離れするぞ!」
「そんな親ばなれみたいに言わなくても…あたしなら平気ですってば。
見た目ほど大変じゃないし、それに…」
「いーや、もう決めた。お前らのお陰で目が覚めた思いだ。
これからは自分でバリバリ自炊するぜ!なあに、これでも炒めものは得意なんだ、ハハハ!」
少し言い過ぎたかなぁ…?とやや後悔の色を見せるサヤ。
「単純な性格…」
ミヤミヤはそう呟くと、もう顧問の事は無視してダンとの差し向かいの昼食に再び興じ始めた。
「…無理はしないでね」
とだけ言うと、キリノは少し寂しそうに微笑んだ。
そして名残惜しそうに並べた惣菜を弁当箱に戻しながら、
先程、言いかけて遮られた言葉の続きをそっと胸の奥にしまいこむ。
(…それに、先生なら迷惑だなんて思わないよ…?)

…昼休みの開始を告げるベルが校舎に鳴り響く。





(何て忌々しい音だ…)
コジローは空きっ腹をさすりながら思った。
今頃、楽しい昼食会に花を咲かせているだろう生徒たちの
眩しい笑顔を思い浮かべ、自分の境遇との落差に思わず溜め息が出る。
道場に行くわけには行かない。
大見得切っておいて、結局食材すら買えない自分の不甲斐ない姿を見せたら、
またサヤやミヤに何を言われるか分かったもんじゃない。
キリノにも心配かけてしまう。
職員室でコジローはひたすら政経のプリントや小テスト等を作成し、
空腹を紛らわしていた。
「石田先生、昼食は摂られないんですか?」
向かい合った席から吉河先生が声をかける。
「ああー…その、お恥ずかしながら今月ピンチでして…」
「なあんだ、それなら早く言ってくだされば良かったのに」
そう言って吉河先生は自分の鞄から白い弁当箱を取り出す。
「私、今日あんまり食欲なくてほとんど残しちゃったんですよ。
宜しければどうぞ」
「いやいや!そんな、吉河先生に恵んでいただくわけには…」
「あら?千葉さんのは受け取って、私のは受け取ってもらえないんですか?」
少し意地悪そうに微笑む吉河先生。
「……………じゃあ、お言葉に甘えて…」
おずおずと弁当箱を受けとると、やや血走った目で勢いよくその中身をかっ込んだ。
「ふふっ…よっぽどお腹空いてたんですねぇ」
「いやあ、最近ろくなもん食べてなくて…ああ美味しいなあ!
もう最高ですよ、このだし巻き卵なんて天にも上る味わいで…」
「大袈裟ですよぉ」
吉河先生はニコニコしながら頬杖をつき、目の前の欠食児童のような同僚の姿を眺めていた。

一方、道場では―

「コジロー先生、来ないねぇ…」
「うーん、あの先生の事だから一日経てばまた元に戻ると思ってたんだけどなあ」
サヤはばつが悪そうに後頭部を掻いた。
「…ってキリノ、あんたそれ…」
「ああ、何か多めにこさえるのが習慣になっちゃってねぇ…あはは」
心なしか今日のキリノは少し寂しそうだ。いや理由は分かっている。
一人で食べきるには多すぎる量の惣菜を、もて余したように箸でつつく親友の様子を眺めながら、
サヤは
(つくづく余計なことしちゃったねぇ…)
と、小さく溜め息をついた。





「ありがとうございましたー!」
その日の稽古終わり、着替えを済ませ、それぞれ帰路につく部員たち。
キリノもそれに続こうとしたところで、はたと立ち止まる。
「せんせー、ちゃんとご飯食べてる?」
自立を宣言してからこっち、コジローの振る舞いはいつもに増して精細さを欠いていた。
コジローは帰り支度の手を一旦休めると、
「おう!まあボチボチな、何とかやってるよ」
「でも最近顔色悪いし…生徒の前でカッコつけるのもいいけど、
ぶっ倒れちゃ世話ないっすよー」
ハハハ、とコジローは苦笑し頬を掻いた。
「…心配ないって。自炊にもそろそろ慣れてきたし、それに…」
言いかけて口を紡ぐ。
「それに…何すか?」
「あ、あーいや…とにかく俺の事なら平気だから。ほら、もう道場しめるぞ!」
「へーい」
まだ少し不満そうなキリノを校門まで見送り、コジローも自分の愛車へ乗り込むと家路についた。
道中、コジローは先ほどのキリノとのやり取りを思い返していた。
『自炊にもそろそろ慣れてきたし、それに―』
それ以上はキリノには言えない。サヤやミヤにも。
(まさか今月乗り切るまで吉河先生に弁当作ってもらう事になった、なんてな…)
言えるわけがない。
「ハァ…結局元の木阿弥だもんな。たかる相手を生徒から同僚に鞍替えしただけで…」
昼間の吉河先生からのありがたい申し出に、初めは断っていたコジローだったが、
『ダメ!無理して倒れたりしたら素も子もないですよ?
自立は来月のお給料が入ってからね。ふふっ』
いつになく強引な吉河先生に圧される形で、コジローはついに首を縦に振ってしまった。
(…しかし女性二人から親身になってもらえて男冥利に尽きるねぇ、ヘヘッ)
と、コジローは呑気に考えた。

翌日、ユージは数学教師に任された資料運びのため、職員室に来ていた。
「いやーご苦労さん、助かったよ。」
「いえいえ…ん?」
入口付近にいたユージは奥の向かい合った席で楽しそうに昼食を摂っている、
コジローと吉河先生の姿を発見した。
会話が盛り上がっているのかこちらに気付く様子はない。
(何だ、ちゃんと自炊してるんだ。…いや、でもあれって?)
よく見ると二人が使っている弁当箱は明らかに同じ種類のもので、
具の盛り付けもほぼ同じである(※ユージの視力は2.5あります)。
(なるほど…そう言うことか…)
我が顧問も案外隅に置けないな、などとユージが考えていると、





「ん?どうした中田。石田先生に何か御用か?」
「ああ、いえいえお邪魔しちゃ悪いですし…失礼しまーす」
と、そのまま怪訝そうな顔を見せる数学教師を残し、ユージは職員室を後にする。
「あれ?ユージくん」
廊下に出た矢先、思わぬ顔と出くわした。
「あ、キリノ部長」
「どうしたのー?こんなところで。呼び出し?」
屈託のない笑顔で問いかけるキリノ。
「いや、さっき資料運び手伝わされちゃって…部長はどうしたんです?」
「え?あたし?…あたしは…」
そう言ってキリノは口ごもると、質問には答えず逆に尋ね返してきた。
「…コジロー先生の様子どうだった?」
「先生ですか?ちゃんとご飯食べてましたよ」
その答えにキリノは安心したような、残念なような複雑な表情を浮かべた。
「でも、あれって自炊って言えるのかなぁ…」
「え?どういうこと?」
「いや、多分ですけど吉河先生の差し入れなんじゃないかな、と」
ユージが先程、自分が見た光景をそのまま伝えると、
「そっかぁ…」
と、やや俯いてキリノは呟いた。
「…無駄になっちゃったかな」
「え?今なんて…」
「ユージくん、これ良かったら食べて!」
鼻先につき出された厚めの弁当箱を見て、ユージは慌てた。
「いや!でもこれって…」
「いいから、いいから!男の子なんだしそれぐらい平気だよね。
あ、ケースはそのまま部活終わりにでも渡してくれればいいから!
あたし、もう行くね?じゃあまた後でねー!」
強引に包みを手渡し、逃げるように走り去っていく部長の背中を見つめながら、
「…俺、まずいこと言っちゃったかなあ」
と、ユージは一人ごちた。

それから数日後―。

長引く会議がようやく終わり、コジローは憔悴した面持ちで愛車のキーを回した。
時刻は8時を回ろうとしている。
「―ったく生徒間のイザコザなんて当人同士が解決すりゃいい話で…ん?」
道場の方から何やら見覚えのある人影が―。
「おーい、キリノー!今頃帰りかー?」
少女は立ち止まり、おずおずとこちらに近付いてくる。
「せんせーこそ遅いっすねぇ。会議長引いたんですか?」
「ああ、途中で抜け出したかったんだがな…、
もう遅いし送ってくよ」
「やー…大丈夫っすよ、あたしは別に…」
「いいから乗れって。遠慮すんな」
そのまま強引にキリノの手を引き、助手席に放り込んだ。
「しかし、こんな時間まで一人で練習してたのか?」
「もう大会も近いっすから。」





キリノは顔を窓の外に向けたまま答えた。
「まあ、熱心なのはいいが…あんま無理すんなよ?」
いつぞやキリノに言われた台詞をそのまま返すコジロー。
実際、ここ最近のキリノの様子はおかしかった。
稽古中とり憑かれたように竹刀を振る姿は、いつだったか彼女の母親が倒れた時の様子を彷彿とさせるもので―、
(…そうだ、コイツは悩んでるときほど剣道にのめり込むんだったよな)
ぼんやりと窓の外を眺めるキリノを見てコジローは思った。
「…なあキリノ」
「ふぁい?」
「その…もし何か悩み事があるんならいつでも言ってな?
俺に出来ることなら何でもするからさ」
「なんすか、それ」
「例えば…何か直接言いにくいことなら、いつでも電話してくれていいし…、
俺でよければいくらでも聞くからさ」
少し照れた様子ではにかむコジローを見て、キリノは思う。
(…こういう人なんだよねぇ)
的外れな気遣いではあったが、ささくれ立った感情をほぐすには充分な効果だった。
「ふぅ…もういーんすよ。せんせーにも選ぶ権利はあるもんね…」
「ん?なんの話だ?」
「何でもねっす!…っていうかせんせーこそ何か疲れてません?
ちゃんとご飯食べてるんじゃないの?」
何日振りかにまともに見た顧問の顔は明らかに数日前の稽古終わりと同様、
不健康の様を呈していた。
―いや、むしろ更に悪くなっている?
「あー…いや実は出費が嵩んじまってな。ここ何日かは、
蒟蒻ゼリーで食い繋いでるんだ。もう全種類網羅したぞ!ワッハッハ!」
「笑い事じゃないでしょ!何で…吉河先生にご飯作ってもらってるんじゃないの!?」
「ん?誰から聞いたんだ。…まあいいか。断ったよ」
「はあ…?」
呆れたようにポカンと口を開けるキリノ。
「いや…何か悪い気がしたんだよ!」
「吉河先生に?」
「いや、お前にさ」
目をぱちくりさせるキリノから、コジローはばつが悪そうに目線を逸らし言った。
「…いっつも俺の分まで弁当こさえてもらっててさ。
何か恩返ししなきゃなんて思って、とりあえず自炊始めてみたものの、
これが全然うまくいかなくてさ。俺って料理の才能ないんだなーって今更気づいたよ。
…で、まあ何だ、自分はそんななのに、結局生徒に隠れてこそこそ吉河先生の弁当食べてることに罪悪感覚えたっつーか…ん?」
見るとキリノは俯き小刻みに肩を震わせている。





「…プッ」
まるで母親に一生懸命言い訳している小学生のような姿にキリノは思わず吹き出した。
「アーッハッハッハッハ!せ、せんせー、何、そんなことでわざわざ断食して、ククッ…」
「バッカ!蒟蒻ゼリーできちんと栄養補給は賄ってたんだって!
知ってるか?凍らせるとあれ旨いんだぜぇ!?」
「ヒッヒッ…も、もうやめてぇ…、ハァーおっかし!」
キリノは笑いすぎて涙が出ていた。
「―あのねぇ、せんせー」
「ん?」
「ハイ、これ」
キリノは自分の鞄から取り出した、やはり厚めのそれをコジローに手渡した。
「…いいのか?まだ俺…」
「もう冷めちゃったけどね。でも平気!惣菜千葉のメンチカツは冷めてもおいしいんですから!」
ふふん、と胸を張るキリノ。
「…ああ、そうだったな」
大切なものを愛でるように、手渡された弁当箱をそっと両手で持つコジローを見て、
キリノは言った。
「ねぇ、せんせー」
「ん?」
「…もう浮気しちゃダメよ?」
「…何だそりゃ」

数日後―

「あれー、結局またキリノにたかってんじゃん!せんせー!」
とサヤ。
「いいのっかなー、大の大人がそんなんでぇ♪キリノ離れするんじゃなかったのー?」
「うっせ!何度も言うがこれは生徒と教師の交流を兼ねた―」
「あーはいはい。…キリノー、あんたも何か言ってやんなよ、このダメ教師に」
「あははは、いーんだよねぇ?せんせー」

(…いつかあたしの分までお弁当作ってくれるんだもんね―)

終わり
最終更新:2009年04月24日 18:39