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 ――――がこん、こん。
 時間は、夜の八時半。風呂上りの、かけつけ一杯。
 やや閑散としたホテルのロビーに重量感のある音が鳴り響き、
 自販機は彼女の買ったミルクティーを吐き出した。
「んっと?あれ?」
 もとい、吐き出すはず――であった。
 旧式の狭い取り出し口は中々上手く出来ておらず、彼女を手こずらせる。と、そこに。
「おい大丈夫かー?」
 彼女と同じく風呂上りに浴衣を着た、彼女にとっては最もよく見知った男性客が通り掛る。
 もはや形振り構わずへたり込んで缶を取り出すのに躍起になっていた彼女にとって、
彼のその声は全くの予想外の出来事であった。
「セン、セー……?」
 か細い言葉と入れ違いにふっと、自分の姿を見る。
 そこには、へたり込んだ勢いで浴衣の裾を床に肌蹴させ豪快に太腿を覗かせているあばずれな少女が――居、た。
「……ャだっ!」
 あわてて自販機から手を離し、裾を抑える。
 自分の顔がみるみるまに紅潮していくのが、鏡を見なくてもわかった。
 すると彼の方もン、と申し訳なさそうに目を逸らしたまま、
「あー……抑えといてやろうか?」
 協力を申し出る。
 彼女の方はそれにコクン、と小さく頷くと、
出来るだけ顔を見せないように、彼の開けた取り出し口から、缶を取り出した。
「取れたな。んじゃ、俺も買うから一緒に頼むわ」
 ちゃりん、こんかんこん。
 軽い音が再びロビーに鳴り渡り、彼女が取り出し口を覗くと。
彼の買った小さな瓶のジュースは先程よりもはるかに容易に取り出された。
「…どうぞ」
「……サンキュー」
 ジュースを手渡そうとするが、目は合わせられない――それは彼も同じであった。
 彼が”帰って”来てからというもの。昔と特に変わった事はない。無かった。はずだった。
いつものように彼女は彼の側に居たし、彼も普通に彼女を構っていた。
しかしそれは、お互いが努めてそうするように振舞っていただけ、だとも言える。
 事実そのようにしながらも――この半年間の事を二人が口にする事は、今日まで一度として無かったのだから。

 …
 ……
 ………

 そのままの沈黙が、しばらく続くと。
 ただ瓶のラベルをぼんやりと見つめながら、彼が言う。
「……ちょっと、話でもするか?」
 その申し出に、彼女の方も一拍置くと、はい、と答えた。
 タイミング、というのだろうか。
再会のあの日から今日のこの時まで、互いにそれを探していたところは、確かにあった。
思えば、この半年という――彼と彼女の間に、置かれた時間の事を。
その期間に堆積した、思いの丈を。
打ち明けられる、その瞬間を。

 ――――先生も、そんなような事を話したいんだと思う。きっと。
 出口へと向かう彼の背中をてくてくと追い掛けながら、
彼女は思い出していた。彼が帰って来た、まさにその日その時のことを。
顔が熱くなるのは、もはや止めようが無いほどだった。

 一方、前を行く彼もまた、全く同じことを考えていた。



 外に出ると、春の夜風はまだ少しつめたい。
 その風に煽られ散った桜が地面に落ち始めている。
「なんか、勿体無えなあ」
 外灯の下、まるでオブジェのようなベンチに腰掛けながら、彼は呟いた。
「そうっすねえ」
 彼女の方も、それに合わせる――ここまでは、何も変わらない。
 プシ、と彼がジュースの蓋を開ける音がした。彼女の方も、缶を開ける。

「……元気、してたか?」
 軽くジュースに口をつけながら。
 彼女の方は見ずに、下を向いたままでまず彼が話し始めた。
「元気でしたよー、ちゃんと先生いなくても頑張ってましたから」

 ――――違うよ、そんな事が言いたいんじゃない。
 思わず頭を振りそうになるが、ぐっとこらえる。

「そうかあ。まあ、俺がいなくてもタマがいるしな」
 その返事に少し寂しそうにも見える様子で、彼はこぼした。
「そうっすよー。こないだも、いきなり帰って来るなりやられてましたし」

 ――――そんな事無い。先生がいなくて大変だったって、辛かったんだよって。
 気持ちと裏腹に表情筋は、ぎこちないが、せいいっぱいの笑顔を作ろうとする。

「きっちーなぁ……これでも、結構鍛え直したんだぜ?」
 苦笑いを噛み潰し、ジュースに口をつけながら、彼が続ける。
 喋っている口元を見せたくないようにも、彼女には見えた。
「知ってますよ。去年からずっと、努力してましたもんね、先生」

 ――――でも、近くで見ていたかったよって。
 ふふん、とわざと得意気に鼻を蠢かせる。そうでなければ、消え入りそうだった。

「ありがとうな……でも俺の考え過ぎかあ。
 あいつら寂しがってんだろうなーとか、思ってたんだが」
 空になった瓶のふちを指でなぞりながら、ふと、目線をあげる。
「自意識過剰っすよそりゃー」

 ――――嘘だよ。そんなの、決まってるよ、って…!
 涙がこぼれそうなその刹那、互いのひと呼吸が、シンクロすると。

「俺は、けっこう寂しかったんだけどな」
「……あたしも、けっこう寂しかった」

 この日はじめて、彼は彼女の方を視た。
 同じく、彼女は彼を視た。

 二人の傍らで春風がそよぎ、桜が舞った。



 最初に見えたのは、驚いた顔だった。
やがてそれは呆れるような表情に変化してゆくと、
いつしかその頬は二人の間を舞った桜の如き朱みを帯びた。
 それがお互いの、いま見ているものの全てだった。

 再び目線を逸らすと、遠くに語りかけるように――解きほぐす様に。
 二人はゆっくりと話し始めた。まずは、彼の方から。
「……りょ、料理、カニばっかりでさ。飽きるんだよな、けっこう」
「お、お弁当、いつも作り過ぎちゃって、困っちゃったりしました」
「メンチカツがくいた……じゃなくて、慣れたいつものメシがいい、なんて」
「海老フライ、持って構えてたらいつか取りに来るかもって……」
「船降りてからも、家、弁当ばっかでさ。あの科学っぽい味、慣れなくて」
「大会申し込んだ時も、顧問の先生の名前間違えちゃった、り……」
 おそるおそる下げる目線と、見上げる目線。そのふたつが鉢合うと。
「なあキリノ、なんてうっかり呼んでも、誰もいなくて」
「ねえセンセー、なんて聞いちゃっても、誰もいなくて」
 同じタイミングの同じ言葉に再びのけぞり、見つめ合うだけであった。

 やがて彼の方が、ふう、と一息入れると。
「2月頃だったかに、な……」
 再び前を向き、指を組んで、ぽつりぽつりと話し始めた。
「仕事終わったあと店の前で素振りしてたら、『剣道、教えてくれ』なんて子供がいてさ」
 その真剣な話し方に彼女の方も身を整し、興味深げに相槌をうつ。
「仕方ないから、素振りだけ見てやってたんだけど……これがな」
「どうかしたんすか?まさか、すごい才能?」
 目を輝かせる彼女の反応を横目に、くっくっ、と肩で笑うと。
「……残念だったな。そんなに才能はゴロゴロ転がってねえよ。逆だ」
「逆?」
「どうにも、手首だけで打つクセがついちゃってるみたいでさ」
 その言葉を聞いた途端、彼女の方は朱い顔をなお赤くして俯いた。
 ――――それって、あたしの。
 一瞬、彼の言葉が分からない。
しかし彼は彼女のそんな様子を見ると、少し不敵に微笑んで、続けた。
「その子のは、まあなんとか直してあげられたんだが……」
 その笑顔が、やがていつものやさしい表情に戻ると。
「もう直っちゃったか?あのクセ」
 その言葉に、磁石が吸い寄せられるように、彼女は彼の目を見た。
 自然と、笑顔がふきこぼれる様だった。
「……まだっす。全然っすよ」
「そうか。直さなきゃな……はは」
「ええ、直して下さい、ふふ」
 はっはっはっは、と、ふふふふ。
 しばし誰もいない中庭にふたつの笑い声がこだました。



 ひとしきり、笑い声が止むと。
 こてん、と彼女はその身を彼に預けてきた。
すると彼は寄り掛かる彼女の肩を抱き、それに応える。
彼女の小さな身体がすっぽりと彼の腕の中に収まると、
二人はもう一度見詰め合って、微笑んだ。

「なんか……だいたい分かっちまったな、俺たち」
「そうっすねえ」
 彼が切り出すと、彼女が答える。
その笑顔には、いまや満面の喜色が満ちている。
が、彼は、ひとつ眉をしかめると。
「しかし、こんなんでいいのか?こんな、グダグダで…」
 余りの格好のつかなさに申し訳なくもあり。思わずに彼はこぼした。
「いいんじゃないですか、あたし達らしくて」
 先刻のやり取りを反芻しながら、彼女がおどけて微笑むと。
「泣きそうだったくせに、よく言うぜ」
 少しイタズラっ子のような顔をして、彼は言った。
「泣いてませんってばー…」
 まだ赤みの残る頬を膨らせ、不満を訴える彼女に、
彼は肩に回していた手を彼女の頭に移し、ぽんぽんと撫でた。
「……なんか今のは、それっぽかったよな」
「そうかも……でも、今ので台無しですよ、もう」
 再び、両者に笑顔の花が咲く。
 ふと――そうだ、と彼は思った。

「キリノ、左手、出してみ。あと、ちょっとだけ目、つむって」
 不躾な彼の申し出に。
「なんっすか?」
 彼女がすっ、と手を差し出すと。
 彼は持っていたものを、その薬指に嵌めた。
「今はまぁ、そんなもんしかやれないけど…」
 目を開くと、そこには。
「これ…」
「まあ、約束手形みたいなもんだ……出世払い、てことで」
 彼の背中側では、プルトップの外れたオロナミンの空き瓶がころころと動いている。

「……ちょっとクサい、よ、な?」
 見たきり、俯いてしまって微動だにしない彼女を彼が気にし始めると。
「クサいっす……」
 俯いたままで、彼女はそう、つぶやいた。
「でも」
 ――――でも。
 その口が反動の言葉を口にすると同時に、ふりあおぐ顔は満開の笑顔を咲かせる。
「でも、クサいの大好物です!クサいの好き!大好き!」
「うぉわっ……おい」
 いきおい彼の胸にしがみつき、桜色の頬を思う様擦り付けると。
 再び彼は、落ち着いてその頭を二度三度、ぽんぽんと撫でた。

「悪いけど、待ってて……くれ、な」
「うん、センセーも……待ってて」

 彼等の頭上で、もう一度春風がそよいだ。
 煽られ舞う桜の一片は、彼と彼女の間を颯っと通り過ぎると、上空へと舞い上がる。

 命二つの、中に生きたる桜哉。



おしまい