「…さん。キリノさん?もう寝ちゃった?」

 合同合宿一日目の夜。
両校の活発組がエネルギーを使い果たして寝静まり、
そうでない者も寝付きのいい者から順に、もうとうに眠ったはずの時間に。
室江高校剣道部部長―――千葉キリノは今日の緊張と興奮でまだ寝付けずにいた。
 そしてそのキリノを呼ぶ、あまり聞き慣れない声の主。
町戸高校剣道部副部長、原田小夏。彼女もまた寝付けずにいたのだ。

「…なんですかぁ?」
「あっ、ううん…ちょっと眠れなくて…」

 足元の方から聞こえる声に反応して、天地を逆にかえ顔を出すと…
そこにはいつもと同じく眼鏡をかけ、枕を抱え込んだ笑顔の小夏がいた。
同じく枕をがぶり、布団を被ったまま喋り寄るキリノ。

「あたしもなんですよー、さっき素振りまでしたのに…なんででしょうねえ、全く」
「ふふっ…よければ、このまま少しお話ししませんか?」

 ”もちろん、大歓迎ですよ!”…なんて言葉が先か、喋り出すキリノ。
これまでのこと。
高校に入って、サヤを誘って入部したばかりの1年の頃の話。
男子の幽霊部員化と先輩の卒業で突然部長をやる事になった頃の話。
しかし2年生になって、今の皆がいてくれて、現在とても楽しい、剣道部の話。
 小夏も負けてはいない。
小柄な自分が、目も良くないのに武道をやるのは不安だった話。
初めて昇段試験を受けた時、緊張した話。
引退した後、大学でやりたい事の話。
 そして二人に共通する、”責任ある立場の者同士”の胃が痛くなるような話。

 ―――――もう何時間話し込んだろう。
それでも話題は尽きる様子すら見せず、まくしたてるようにお互いの事を語り合う二人。
しかし、小夏にはまだ…本当にキリノに聞きたい、でも打ち明けにくい、内緒の話があった。

 ”この人は…同じ、かもしれない。自分と”
そんな臭いを感じたのは、前の練習試合の…どこだったろう?
安藤さんとの勝負の時、キリノの小手が入った時の…自分の生徒が一本取ったのに
それ以上のものを見てしまったような、相手の先生の驚いた表情からだろうか。
それとも「大人の男性」について語るキリノの、険しくも嬉しそうな表情から、だろうか。
 ……とにもかくにも。

 先生と生徒。
 自分が石橋先生に対して抱く、キモチ。

 そんな事を、もしかしたら共有しているかも知れないこの他校の知人に、
小夏はその事を切り出すチャンスを、それこそこの合宿が始まる前からずっと探していた。
そして勇気を出し(実際、緊張で眠れなかったのもあるのだが)今の場を得た、のだが…
 現実は得てして想像の中よりも遥かに不自由だ。
いよいよ話す事も尽き始めた今をしてなお、小夏は「その話」だけは切り出せずにいた。そこへ。

「あーあぁ、このまま寝ちゃうのが惜しいなぁ」
「じゃあ…しりとりでもする?二人だけだけど…」
「おっ、じゃあ、剣道とかあたしたちの学校に関するものでやりましょう!詰まったら何でもアリで!」

 本当にたまたま、口をついて出ただけの案だった。
でも小夏自身、まだこのままでは眠れない、と思っていたし、
何よりこの楽しいお喋りの時間を少しでも長く続けていたかったから。
 勿論、キリノにとってもそれは同じであった。

「じゃあ、言い出したあたしの方から…”つばぜりあい”」
「”いあいぬき”!」
「”きりかえし”」
「”しない”!」
………

 ――――しばらく、そのような取るに足らないしりとりが続き。
やがて剣道や学校のネタが尽きて来る頃には、意地になった二人は
何としてでも剣道のネタで続けようと、お互いの答えも考え合うようになりつつあった。

「次、”か”かぁ…むぅ~ん、えぇ~とぉ~~」
「”かかりげいこ”とか?」
「あっ、それだぁ!”かかりげいこ”!次は”こ”だねっ」

 ………”こ”。剣道やあたしたちの学校に関するもの。
ふと、先に考えていた「その話」を振り返ると、小夏の胸に去来する言葉があった。


「”コジロー先生”」


 確かにそう、キリノはあの先生の事をそう呼んでいた。「コジロー先生」と。そして先生は「キリノ」と。
それがあの先生の本名なのかは分からないが―――まるで友達や、ともすれば恋人同士が呼び合うような…
そんな、今の自分と石橋先生の関係からは、憧れと言うのも程遠いような距離感で。確かに二人はそう呼び合っていた。
 その言葉は、そんな事を考えるうち……つい出てしまった囁きにも満たない言葉だったのだが。
考えるが遅く、その言葉はもう、風に乗り…向かいにいる少女の耳に届いてしまっていた。

「ん?ん?コジロー先生?…まあそりゃ、剣道部に関するものって言えば、そうだけど…」
「あっ、えと、違うの。今のは…そうじゃなくって…」

 (……じゃなければ、何だというの?)
たちまち顔じゅうを真っ青に染め、抱えた枕に顔の下半分を隠す小夏。
既にパニックになりかかっている頭を落ち着けようと試みるが…
 そうする事をさえぎる様に、一呼吸置いたキリノが先に言葉を発する。

「……ん~と、じゃあ、あたしの番だから、続けてもいい?」
「(こくん。)」

 機先を制され、言葉を発する事も出来ず、ただ首を上下させて頷くのみ。
「続ける」、それが「水に流してくれる」のであるなら、もう、それにも縋りたいような気持ちだった。
だがそこへ、何かを察したような…だが少し、小悪魔のような笑みを浮かべながら。
そんなキリノの投げかける言葉は、小夏の想像を超えていた。

「”石橋先生”」


 (えっ………!?!?)
真っ青になったばかりの顔は、今度は物凄い速さで真っ赤に染まる。
枕を返し、顔を完全に埋めても…そんな物は何の消火作業にもなりはしなかった。
もはや完全に焼き付いてしまった思考回路で何とか考えを立て直そうとするも。
 しかし、その暇すら与えぬ早さで、更ににこやかな笑顔を浮かべ、キリノは言葉を続ける。

「あはは~やっぱりかぁ。
 原田さん、ずっとそれが聞きたかったんでしょ?…飲み込んでたよね?さっきまで」
「………どうして…?」

 枕に顔を沈めたまま。呻きにも似たような声で、質問に質問を返す小夏。
 そんな様子とは対照的に、あくまでもうれしそうに、キリノ。

「そうだねえ…何となく同じ臭いを感じたとか、そんなとこですよ!
 まさかドンピシャだなんて、思いもしなかったけど」

 ――――「同じ臭い」。その言葉から、幾つかの事をどうにか理解する。
やっぱり、自分の見立ては正しかった、という事。
そしてキリノも、自分と同じように、相手の…つまり自分の事を見ていた事。
 そして同時に、多くの疑問が沸き上がる。

「いつ…気付いたの…?」

 思考が回らず、上手く言葉にする事が出来ない。
だが、たったこれだけの言葉でも、今のキリノには十分だった。

「う~ん、やっぱり、見るときの目が違うんですよ。
 ……でも”それ”を聞きたがってたって事は、あたしも人の事言えないって事ですけど。あはは」
「そう…そうなんだ。……ううん、キリノさんは凄いと思うよ。あたしなんて…まだ言えてもないのに…」

 自分の無力、いや無努力を痛感する。
この人の前に居るだけで、自分が惨めに思えてしまう。
 (…大人だ、この人は。圧倒的に…自分よりも、ずっと大人だ。)
そう思って、もう寝てしまおう、と話を切り上げようとした所に飛んで来たキリノの言葉は、これまた意外極まる物だった。

「ん?いえー? そういう意味だと…あたしもまだですけど」
「えっ…!?」

 完全に意表を突くその言葉に、思わず枕から身体を起こし、それでも反応に窮していると。
 今までにはなかった、少し真剣味を含んだ声のトーンでキリノが続ける。

「んーと、あたしが根性無しって言うのもあるんですけどね…
 ……たぶん、うちの先生はあたしの事も、まだ何とも思ってないと思うんですよ。
 でも今、あたしはあの先生や皆と居て十分楽しいし、このままで、沢山の物を貰ってるんです。
 だから…いいんですよ、今はこのままで」
「それは…」

 ……ずるい。直感的にそう続けたくて小夏は、しかし今度はちゃんと口を噤んだ。
キリノの考え方は、あくまで時間の余裕があっての物だ。
もしも、自分にキリノと同じ位の時間があれば或いは、そう思っていたかも知れない。
でも自分は3年で、もう卒業で、卒業すれば当然、今のように会う事は出来なくなる。
 数々の思惑がついては消え、ついては消える中で、
再び小夏の脳裏をつく名前があった。今、こんな話をしている発端とも言える名前。
”コジロー先生”。あの人の視線は…果たしてキリノが言うように「何とも思ってない」と言い切れるような物だっただろうか?
 先のキリノの言葉を借りれば、”見るときの目が違う”。少なくとも自分には、そう感じられた。だから。

「コジロー先生が、”何とも思ってない”って事は、無いんじゃない?」
「えっ…何でですか!?」

 (―――――あっ。)
 不意を突いた自分のその質問に、枕ごしにキリノが向けた反応。
僅かに泳いだ視線や、ほんの少し染まった頬や、言葉を返す仕草や、その言葉自体。
それら全てが素直な…好きな人の事を考えるただの子供そのものに、小夏には思えた。
 その、一瞬の反応だけだった。それだけで十分と言えた。
自分から見れば天上人のように”大人”だったキリノが僅かに見せた”子供”のような反応。
すなわち…そう。

 (そっか。大人も、子供も―――ないんだ。)

 急に、色んな物の向こう側が見えた気がした。

「……ないしょ。ふふ」
「え~っ、何で急にそんなイジワル?」

 ……と言うより、それは言葉には出来ない物だから。
でも、ちょっと位は仕返ししても、バチは当たらないよね?
 そんな風に考えられる小夏には、もう躊躇う理由も無くなっていた。

「しりとりの時の意地悪のお返しだよ。……でも。ありがとうね、キリノさん」
「???はぁ… どうでもいいですけど、あたしの事”キリノ”でいいっすよ?」

 小夏が布団から手を差し伸べ、キリノがそれを握り返す。

「……うん。ありがとう、キリノ」
「えへへ、よく分からないけど、どういたしまして」
「でも、もう少しは焦ってみても、いいかもね?」
「……へ?」

 まだ理解半分のキリノに対し、まだそういうのもいいかもね、と言う顔の小夏。
布団から完全に身体を乗り出し、宵も序の口とばかりに再び喋り始める二人。
もちろん次の話の肴は、お互いの…顧問であり、想い人でもある、ダメ教師が二匹。

「ところで…石橋先生って○×△とかよくしてるみたいなんだけど、あれって普通なの?」
「なんですとっ、そちらも… いやーうちのコジロー先生なんか△×○でね~」

 完全に目が冴えてしまった二人は、それからも延々と話を続けた。
 延々……朝方までも。


 ――――翌日、二人の話に途中から割り込む訳にもいかず、朝方まで全部聞いてしまったミヤミヤも含め。
 午前中はまるっきり練習にならなかった3人に、コジローのカミナリが下ったのは、言うまでもない。



[終]
最終更新:2008年04月20日 00:02