その日の剣道場は、空気が淀んでいた。まるで濁りが目に見えるかのように。
 それは窓の外が曇天に覆われているという所為もあるのかもしれない。陽の光を喰らう分厚くて鈍重な、空の汚れ。午後は雨が降るのではないだろうか。勇次は思った。

 勇次がその渦中に訪れたのは、昼休みも後10分程で終わろうかという時間だった。
 カバンを背負ったまま入り口の扉を閉めた勇次は、話慣れた幼馴染の姿を探そうと道場内をぐるり見渡す。そして壁際で静かに俯いている都の姿を目にして、勇次はようやくその場の異変に気が付いた。
 すぐさま都の傍にこそっと駆け寄り、相手が反応するのを待って恐る恐る口を開く。
「……あの」
 静寂の中心地に目を向けながら、勇次は声を潜めて都に尋ねた。
「もしかして今、拙い状態ですか?」
 
 今や恒例となった週に2度の「道場deお弁当デー」も、気が付けば始まりから2ヶ月近くが経とうとしていた。
 部内の親睦を目的に掲げられた仲良し昼食会。なのだが、それは誰がどう見ても、顧問との2人きりの昼食に踏み切れない部長の葛藤に、部の全員が巻き込まれたという形のイベントだった。
 尤も、巻き込まれたとはいっても、その事を不快に思う者は恐らく部内には誰も居ないし、居たとしてもそれは大ハッスルで決行させた黒幕にこそ向けられるものなのだが、それは余談である。

 道場の異変に気が付いた勇次が、真っ先に都の元へと向かったのは、彼女がこの中で最も色恋沙汰に明るい人物だと思ったからだ。
 今日は恒例の昼食会。生憎と勇次は人に呼び止められて遅れてしまったが、しかし来てみればその主役とも言える2人は道場の真ん中で互いに背を向けて無機質に沈黙を保っている。
 色事には破滅的に疎い勇次だったが、流石にこの異常下では察しがついたのだ。
「……まあね」
 都は、溜め息を吐くように言葉を紡いだ。
「そういえば吉河先生は……来てないんですか?」
 見渡して見当たらなかった人物の名を、勇次は挙げた。
 昼食会は基本的に剣道部の集まりである。だが、何故か吉河先生も弁当を持参して良く参加していた。その理由は2人分の弁当箱を見れば明らかなのだが、肝心の顧問だけは未だに気付いていないようだった。ちなみに勇次は人に言われて初めて気が付いた。
 いじらしいな、と勇次は思っていた。色事には絶望的に鈍い勇次だったが、延々と部長に餌付けされ続ける顧問に対して全く挫けないその姿勢、そんな吉河先生を勇次は強い人だと尊敬の念すら抱いていた。自分には決して無い強さだ、そう思っていた。

「来たんだけどね……」
 呟く都の瞳から、勇次は失望と嘲りを感じ取っていた。そして確信にも近い恐れを抱いた。この先は、よくないぞ、と。
「あの2人、そこで言い争いしててさ」
 それは普段あまり聞かない口調だった。吐き捨てるように、つらつらと力無く紡がれる言葉。それがまた尚更に勇次の心を徐々に蝕んでいく。
「……結局、投げ捨てて帰ったよ」
 都は一度言葉を止めて、右手の指を軽く内に握り込む。勇次にはまるでそれが、自らの指がそこにある事を確認しているようにも見えた。
「泣いてたね、あれは」
 そうして部屋の隅を指差す。つられて勇次が目を向けると、その先には無残にひっくり返った弁当箱が2つ転がっていた。思わず顔をしかめてしまう。どちらもナプキンに包まれて大惨事は免れたようだが、その中身は想像も確認もしたくないと心底思った。
「酷い話よ」
 都は再び顔を伏せる。それは、溢れる苦い想いに耐えているようだった。
 正直それ以上聞きたくなかった。言わせたくも無かった。これがもしも仲間の事でなかったなら、勇次は耳を塞いで逃げてしまいたかった。

「……どっちが先に、あーんしてあげるかだってさ」
 勇次は珍奇な声を上げながらカバンを床に叩き付けた。








 
最終更新:2008年12月20日 23:58