蝉しぐれが響き渡り、日光は容赦なく照り付ける。
長かった玉竜旗大会も終わり、いよいよ本格的に夏休み。
教師は何だかんだと会議や研修に忙しく、生徒は羽を伸ばしすぎ、更にその仕事量を増加させる。
そういう季節。

とりあえず当面の目標を達成してしまった室江高剣道部は
生徒の(主にサヤの)強い要望もあって7月残りを全休という事にし、解散した。
勉強もしろよ、とは解散前の顧問の言葉であるが、ほぼ全員の耳にその言葉は届いていなかった。

浮かれ気分、というものだろうか。
特に部長であるキリノのそれは尋常ではなかった。
それもそのはず。表彰台にこそ届きはしなかったものの。
今大会の優勝高であり、一回戦で昨年の優勝校である蔦山高を圧倒した
桃竜学院相手に大接戦を繰り広げ、あわや、という所まで行ったのだ。
無名であった室江高校の名声は、そしてその立役者の大将・川添珠姫の雷名は全国中に轟いた。
キリノは鼻が高かった。舞い上がるような心地でさえあった。
これならば、なんとかなる。
自信が確信に変わる瞬間でもあった。

うん、これなら大丈夫―――



解散後の駅からの帰路、途中まで一緒だったダンとミヤがまず別れた。
折角のお休みが勿体無いので、もう遊びに出掛ける準備をするらしい。
キリノはまだ高校生なんだから羽目を外しすぎちゃダメだよ、と口で注意するに留めたが、
自分の気持ちの中に多少のやっかみが含まれているような気がして、何かそれがおかしかった。

これがどういう物なのかは分からないけど、何か今迄とは少し違う気持ちが自分の中にある。

いつどこから生まれ出でた物かも分からない。
出会った時から、元々あったのかも知れない。
あるいは初めて頭を撫でられた時だろうか。
それとも滅多に見せない真剣なカオを初めて見た時の事だろうか。
いずれにせよ記憶の中のあの人はいつどんな時も笑顔だった。
それだけで十分、だといえた。

しかし玉竜旗の試合後、沢山のカメラを向けられるタマを見て
キリノがまず思った事は誇らしさと、安堵であった。
何故そう感じたのかは分からない。
ただその二つは、ほとんど同じ物であった。
自分が見込んだタマちゃんが、先生を救ってくれた。
一本の線のように繋がったその気持ちは、まるで
ここまでがひとつの物語であったかのように感じられキリノの胸を満たした。
そしてそれは、その物語の終焉と、新たな物語の始まりを意味してしている。
そんなふうにキリノには感じられると、その見つめる先には。
どんまいどんまいとタマちゃんの背中を叩き励ます、変わらぬ笑顔があった。

それは、新たな物語の始まりを意味していた。



「~~~♪」
思わずハミングを口ずさむと、隣を歩くサヤが流石に怪訝な顔をする。

「浮かれてますなあ」
その言葉にキリノがほよ、という顔をすると。
「サヤは嬉しくないの?」
言っても、九州くんだりまで出掛けて3回戦負けじゃん。
とぶっちゃけて水を差すのも憚られたサヤが
「ん~、もうちょっと行けたんじゃないかなあって、ねえ…」
というふうにお茶を濁すと、キリノは改めて思い出すかのように
「そういえばそうだねえ…」
と追従した。

すると同時に、今まで自分が驚くほど
その結果自体を気にしていなかった事に軽くおかしさを覚え、微笑を浮かべるキリノ。
「まぁいいじゃん。…楽しかったんだし!」
「まあ、ね!」
にこやかにハイタッチをかわし、それを契機にお互いの家への道を分かれると。
十歩ほど進んだ所でぐるり、と振り返るサヤ。大きく息を吸い込んで。

「そういやさー!明日ヒマだったら一緒に買い物行こうよー!」
「いいよー!行こ行こ!」
「じゃあ朝キリノんち行くからー!」
「うん、待ってるー!」

そのような大声でのやり取りを終えると。
街行くおばさんやねこは足を止め、呆然とその奇妙な女子高生二人を眺めていた。
もちろん二人は、そんな周りの光景など気にもとめていなかった、のだが。



家に帰り、久々の家族団欒のあと、お風呂に入る。
ホテルの大きな温泉もいいけど、やはりお風呂は慣れ親しんだ家のが一番いい。
熱めのお湯に浸かり、極楽、極楽♪と呟きながら手をわきわきとさせるキリノ。
「しかしサヤのやつ、また育っておったのう…」
普段からシャワー室等でのスキンシップの多い部ではあるのだが
完全に裸の付き合いになる温泉では、やはり我が部のエース二人に視線は注がれざるを得ない。
事実それは九州での夜においても、そうであった。

ボリュームのサヤに、トータルバランスのミヤ。
この二人のスタイルは遠く異郷の地の女湯にあっても、傑出していたと言っていい。
ひるがえって自分の身体を省みてみれば、そのなんと貧相な事か。
自分では同じ程度だと見越していたさとりんは、さっさとタマちゃんと同盟を組んでしまっていた。
仲良き事は美しきかな、などとその1年生コンビの仲の良さを微笑ましく見ながらも。
ぽつねんと、一人置いていかれたような気持ちになる。
特に小さい頃から同じのサヤとの違いは、もはや半ばあきらめ加減であるとは言え、それでもやはり気になる。
或いは自分にミヤほどの美貌とスタイルがあれば、そんな事を感じずに済むのだろうか。

「はーっ、かわいい女の子になりたいなー」
溜息とともにキリノがそんな言葉を吐き出すと。
昔(と言っても一月ほど前の事だが)言われたあの言葉が胸に過る。
かわいい、というただそれだけの言葉を何度も何度も脳裏で繰り返すと。
それは小さな波紋が幾つも溜まるようにお腹の奥の方に沈み、やがてそのまま大きなうねりとなって身体中を駆け抜けた。
ただそれだけだった。ただそれだけの事で、危うく自分がのぼせそうになっているのに気付いたキリノは慌てて湯船を出た。
身体を拭きながら脱衣所のミラーの下の時計を見ると、21時。ゆうに1時間半は湯船に居た事になる。
我ながらバカだなあ、と思いつつ寝巻きに着替えると、台所の方から呼ぶ声がした。



「キリノー?あんたもこれ、いるー?」
お母さんの声だ。髪を拭きながら
トテトテ、とまだ多少よろめく足取りでダイニングに向かうと。
まずは入るなり、弟妹の手厳しい突っ込みにあう。
「ねーちゃん、一人でどんだけフロ入ってるんだよ!」
「まちくたびれた~」
あはは、ごめんごめんと笑顔で返しながら。
母の手に握られたチケットの様なものにまずは目が行く。

「お父さんがねえ、商店街のクジ引きであてたらしいんだけど…」
その手に握られているのは、ディ○ニーでもユニ○ーサルでもない。
読猫新聞社の主催する、町戸高校から電車1本でいける某よみねこランドの1日フリーパスの、ペアチケット。
さすがはうちのビンボ商店街だわ、と心の中で突っ込みを入れつつ。
いずれにせよ自分には遊園地など、縁がない。
「あーでも、あたしは」
と、いつもの様に弟たちに譲ろう、と発しかけたところで、ぴたり。
先程まで湯船で考えていた事が脳裏をかすめる。
遊園地、ね。

「……ごめん、やっぱりちょっとだけ、欲しいかも」
誘えるわけは、無いのだが。というより、道理がどこにもないのだが。
キリノはそう言ってしまった2秒後に後悔したが、家族の驚きはそれ以上であった。
目を白黒させる、キリノ以外の三人。
「ねーちゃん…」
「誰と行くの~?」
「あらま。珍しい事もあるものね」
しかしこうした事に特に深く突っ込んでくる事もないのが、この家族の美点のひとつであった。
事実、この手の物を弟が引き当てた場合、付き合わされるのはもっぱらサヤであったのだが
父母姉妹揃って、それを特に気にする様子はなかった。無論、いやな邪推をする空気もない。
ただ今回は、それを主張したのがこの家中に於いても
我を通すという事の殆ど無いキリノであった為、そのめずらしさ故に会話の流れを滞らせた、といえる。

「じゃあ、ジャンケンね」
母の鶴の一声が決まると、またもやキリノは後悔した。
負ければいい。だがもし、勝ってしまったらどうしたらいいんだろう。
そもそもそれは弟や妹の機会を奪ってまでしなければいけない事なのだろうか。
違うと思う。
「じゃーん、けーん…」
しかし始まってしまった物にもう歯止めは聞かない。
ええいままよ、と思って差し出した手は、チョキ。後のふたつは、パーとパー。
「はいキリノ。おめでと」
「う、うん…」
複雑な心境でチケットを受け取ると、逃げ去るように二階へ消える。
他の三人は、ニヤニヤと奇妙な笑みを浮かべながらその何者かについての思案をめぐらすのであった。



勢いよく部屋に飛び込むと、カギを閉める。
そのままよろよろと布団にダイブすると、最近の一番のお気に入りのとらの人形を抱えつつ。
どうしよどうしよどうしよ、と呟く様、加えてその顔の紅潮ぶりはキリノがただひとりの女の子である事を如実に物語っていた。
弟に謝って、返そうか。でもそれは公平ではない。むしろ弟や家族に悪い事になる。
では誰か、例えばサヤにあげて弟を誘わせれば。しかしそれでも結局は、同じ事。もはや後戻りはできない。
確かに自分が欲しい、と言って手にしたそのチケットは、今やこの部屋の中で最も不必要な存在になりそうだった。

なんとなく、携帯を手にする。
とにかく今は誰か、相談する相手が欲しい。
雑談でも、何でもいい。とにかく気を紛らわせる相手が欲しい。
キリノにしてみれば、そんな気持ちで電話帳を回すこと自体が生まれて初めての体験だった。
しかし「お母さん」「お父さん」ときて、次にカ行の文字を一気に飛ばして現れた名前にキリノの指は硬直する。
数秒後。思わず通話ボタンを押す寸前まで行くが、どうしてもあと5ミリの勇気が出ない。
何でもないこと。そうだ。「お疲れ様」とかでいい。普段している通りのやり取りでいいはず。
そのような思考の開き直りとは裏腹に、ピ、と押されたボタンは通話ではなく、メール作成。

「引率おつかれさまでした…うむぅ~~」
そこからさらに、30分後。
既に部員全員分の「おつかれさまメール」を出し終え、
あとは肝心の一人を残すのみ、なのだが。
未だにそのメールの本文はただの一行目でストップしている。
いつもなら、あれほどすらすらと並べられる文章が、今日はどうした事だろう。
気持ちの促すままに打ったメールは今まで数あれども、今回はその促され方がわからない。
ようは、白紙であった。
自分にないものをひねり出すとき、頼りになるのは知識と経験。
この場合のキリノには、そのどちらもが不足していたと言える。

「今度ゆーえんちに行きませんか」何を唐突に言い出すのかこの女は。
「チケットあります」あたしゃダフ屋さんかい。
「遊んで下さい」いやいやいやいや。

一人でボケとツッコミを繰り返しながら。
だんだん投げ遣りになってきたキリノがだうー、とベッドに背中を倒れ込ませると、ピ。
無情なる電子音が鳴り響き、画面には「送信しました」の文字が明々と浮かんでいる。
「ウワぁぁぁぁ!?」
慌ててキリノが送信済みフォルダを開くと、そこには。

-お疲れ様でした。
-弟と妹が、ゆーえんち

キリノの灰色の脳細胞が、煙をあげる。
この怪文を受け取った人が、何を、どう思うのだろう。
困惑と憔悴が完全に極まった頃、少女はばたんきゅーとその場に倒れ臥し、そのまま脳のスイッチを切った。





さて、時間は少し遡る。
さかのぼって解散後、学校への簡単な報告を終えるとコジローは自分の部屋に戻っていた。
平机の上には既に、まだこの時間とは思えないほどありったけの缶ビールが開けられている。
特に理由はないがここの所、コジローの酒量は減少傾向にあった。
それは経済的な意味合いも強いが、彼が自制するという心根を取り戻しつつあったから、でもある。
とはいえ、やはりこの日は特別なようであった。
主に、彼とは違う人が。

「酔うぞゴラァァァ!!!」
「先輩、近所迷惑っす!」
後輩の健勝ぶりを称えに来たにしては、ハタ迷惑。
酔っ払って絡みに来たというにはお人好し過ぎる。
とはいえ本人に悪気は無く、コジローも何だかんだそれは分かっていた為、
結果、互いの譲歩や謙遜を引き出さずとも、自然に。
二人の関係は良好であるといえた。

「良かったなァコジロー、良かった…うぅ」
「先輩…ビールこぼれてます」

良かった。何が良かったか。
まあ、校名はあがっただろうし、生徒達はよく頑張った。
概ね、漠然と、よかった。コジローの側の感触では、精々そんなものだった。
しかし、そんなものであったが故に、見誤った事も多い。
例えばこの先輩のテンションの高さはどういう事だろう。
それはやはり、タマなのだろうか。

「俺より先輩が良かったでしょ。タマが認められて」
「おお!だからあの子にゃライバルが必要なんだって…ん?違うな、俺なんつったっけ」
「同世代の子に負けた方がいいって…」
「そうだそうだ!だから、良かったじゃないか。これでまた成長するぜ?あの子は」
「まあ、そうかも知れないっすけど」

酒の席では、不真面目な事は言わない。
それは確かにこの先輩の美点であり、事実その通りなのだろうな、とも思う。
しかしそれはそれとして、生徒を預かる顧問として、その敗戦を喜んでいいものか。
それは常に心に残り続けた言葉ではあるが、同時に常に疑問を抱いておかねばならない言葉でもあった。
実際、「紙一重で届かなかった」事を、あの負けず嫌いが未だにどう思ってるかなんて、誰にも分からないのだから。
そうした考え事の間隙をつくように、真剣な先輩の言葉が飛び込んでくる。

「負けるのは大切だぞコジロー」
「はぁ…」

酔いどれの顔から一変したその表情に呑まれそうになるが。
その言葉は言外に「もう一度勝負しろ」という意味合いを含んでいる気がして、コジローは流した。



そのまま、すこし目線を合わせたままの沈黙が続くと。
ふん、と鼻息をひとつたて、その膠着を崩したのは先輩の方だった。
おつまみを摘む箸で平机の端を指差すと。
「ところでコジロー、さっきから携帯がチカチカしてるんだが」
「あ…あぁ、気にしなくていいっすよ」
一瞥すると、それはメールの着信を知らせている。

「大方、キリノが皆に”おつかれさま”っていうメールでも回してるんでしょう、はは」
「ふーん、じゃあ、開けてみろよ」
「え…ヤっすよ、何で先輩に俺の携帯見せなきゃならないんですか!」
「いーぃじゃねえか減るもんじゃなし。俺とお前の仲だろ?」
だんだんと当初の、タチの悪い酔っ払いの絡み方に近付く先輩にはいはい、と促すと。
ぱか、と携帯を開き、押し付けるように先輩の眼前につきつける。

「…ね、キリノでしょ?」
「お、おう…でもお前、これ…」
さっきまでの勢いはどこへやら。
受け取った携帯の端を両手で握り、
たどたどしい指でメールを開くと、その内容に無数の”why?”を浮かべる先輩。
その怪訝な表情を見たコジローも頭上に疑問符を3つほど浮かべて覗き込もうとする、とそこへ。

♪どんどんどん! でーでれれれっ でーっでー

ポップなイントロが鳴り響き、振動で携帯を落としかかる先輩。
「おっ、おいおいおい、なんか掛かってきてるみたいなんだが」
「だぁぁっ!出ます出ます!!かえして!」

先輩から奪うように取り返した携帯に浮かぶ、送信者の名前。
それを見ると一息脳内でタメを作り、おもむろに通話ボタンを押す。

「もしもし。あー、お疲れ様ですコンバンワー」
「いやいやそんな」
「あー、ちょっと待って下さいね」

見れば、隣では先輩が買ってきたビールのレシートに
「誰?」だの「彼女か?」だのの落書きをしてプラカードをつくり、ニヤニヤしている。
それにシッシッ、と追っ払うようなジェスチャーをし、再び電話に戻ると。

「あ、いやいや何でもないっすよ」
「いやー、どうなんすかねえ」
「あはははははは」

会話の続くうち、放置されいよいよ目の据わった先輩が立ち上がると。
部屋中に、いやアパート中に響き渡る剣道家の轟声。

『コジロー万歳!!ばんざい!!』

「っぎ!…う、あ…いや、ちょっと待って下さいね」

部屋の傍らで実際に大声でバンザイをしている酔っ払いに手近な空き缶を投げつける。
背中に当たるが、しかしビクともせずに万歳三唱を続けるオッサンを無視し、電話に戻るコジロー。

「すいませんなんか変な酔っ払いがきてて」
「はい、はい。じゃあ明日もよろしくお願いします」
「ええ、はい。おやすみなさい」

プッ、と電話が切れると、それが早いか動くのが先か。
この所鍛えた足腰で先輩の腰をしたたか蹴り付ける後輩。

「っでえなコジロー!!折角俺が祝ってやっとるのに」
「近所迷惑だっつってんでしょーがぁぁ!!」

そのまましばらく、額をぐりぐりとこすりあわせながらの睨み合いが続くと。
一拍置いて「で、誰なんだよ」と問う先輩に、答えるコジロー。

「…同僚っすよ」
ただの、と付け加えようとして、とっさに飲み込んでしまった。
勿論、駆け引きではコジローの遥か上を行く先輩がそれを見逃すはずも無い。

「ただのかぁ~?」
「ただのっすよ!」
呆れるほど簡単にその言葉は引き出されてしまう。
そうなってしまうともう、見る見る間にニヤけて行く向かいの顔に
「はいはい」と心の中で突っ込むのがやっとのコジローであった。

「なんだ、結局バンザイであってんじゃねーか!」
「はいはい、好きなように思っててくださいよ!」

勢いで、ビールをあける。
まずは向かいのグラスに注ぎ、
続いて自分のグラスに注いだソレをひと飲みで飲み干すと。

「ちっくしょうめ…」

その後の先輩のニヤニヤと、コジローの憔悴は、明け方になるまで続いたという。





朝は六時。
よろめく手で目覚ましを止めると。
結局、ろくに寝たような心地はしなかった。
目はしぱしぱするし、髪の毛はパサパサだ。
それは思いのほか大きな後悔が一晩中続いたせいでもあるし、
もしかしたら返事が来る、というのを期待していたせいでもあるかも知れない。
しかし、少なくとも昨晩においては、それはどちらも報われる事はなかった。

階段を降り、顔を洗いながら、頬をバチン。
何とか気を入れ直し、台所の母と父に「おはよ~」と飛ばす。
そのままキッチンに入り、配膳のお手伝いを、と並ぶと。横から、ぼそり。
「…うまくいった?」
母の顔には満面の喜色が浮かんでいる。

「もー…」
そんなんじゃないってば。
いつもなら続けられるそんなシンプルな言葉でさえ、今日は喉を詰まらせる。
代わりに出来る行動といえば、ただ黙々と人数分の白飯をお茶碗によそう事くらい。
それを見て、ふー、と溜息をついた母は、やや落胆気味に。

「その様子だと、ダメっぽいのかな?」
「そんな事は…」
ない、と思う。要は自分のいくじなさにすぎない。
100%そのせいだ、と言い切れる位に、裏切られる気は全くしなかった。
いやそもそも、これはそういう問題でさえない気がする。
遡れば、何であんな事を言ってしまったんだろう、というふしぎさがそこにはあった。
そういう娘の逡巡を、見逃す母親も、まあ、いない。

「まあ、頑張んなさいな。あんたなら、フる男もそうそう居ないわよ」
「もぉっ、おかーさん!」
娘の怒気を尻目に、ニヤニヤ顔のままそそくさと朝食の配膳を済ませようとする母。
一方で嘆息を漏らし、多少は気の晴れたキリノの方も少し笑うと、
よそった白飯をお父さんの座るテーブルに運ぶ。
続いて、弟や妹たちが降りてきて、洗面所に駆け込むと。
にぎやかな、千葉家の一日のはじまりである。





さて。
朝から始終、彼女は様子がおかしかった。
街中をただぶらぶらと歩き、手近なかわいいお店を訪ねては
あれやこれやと選び悩んだ挙句に何も買わず。服屋さんでは
ムダにキワモノの試着を繰り返しては笑いをとり、下げる。
全くいつもと同じはずだった。いつもと同じに歩き疲れたので、近場のマックに入る。
そこまでもいつもと、同じ。違いがあるとすれば。

「ねえ~サヤん、なんで今日はそんなに無口なの?」

アイスティーをかき混ぜながら、キリノが気掛かりの謎を解き明かそうとする。
勿論リアクションは「っそ、そんなことないわよ!」あたりを期待して。
だがその予想はハズレた。

「別に…あんたの胸に聞いてみたら?」
「うぅ~、マジでどうしたの?」
朝一でうちにやって来た時、いやに神妙な目でこちらを見たかと思えば。
それからずっと、サヤの態度はこんな感じで固定されたままだ。

しかし、溜息をひとつ。
サヤはもういいか、という風に携帯を開くと。
「これってどういうこと?」
そう言って少しの操作の後、ずいっ、とキリノの目の前に突き出した。
キリノが「ん~?」と覗き込むとそこには、昨日の日付で、弟からのメール。

-ねーちゃんに彼氏が出来たみたいなんだけど
-サヤちゃん何か知らない?
-もし良かったら明日聞いてみてよ!

ぶふっ、とキリノのストローから空気が逆流し、カップの下の水面で気泡が弾けた。
そのままげへ、げほ、と噎せ返りながらも呼吸を整えると。

「っな、何これぇ!?」
「ききたいのはこっちよ!」

で、どうなの、とさらに追及の手をゆるめないサヤ。
一方で、ああそうかそうか、そういう事か、と腑に落ちた所もあるキリノ。
ストローの首を、伸ばしたり縮めたりしながら。

「できてないよー」
悠々と答えようとするが、曖昧になる。
もちろん、その答えには全く満足できないと言う様子のサヤ。
「ってことは、”まだ”できてないよ、ってことだよね」
「さ、サヤぁ」

変な勘の鋭さを見せるサヤに、だんだんそのメールの送信者への憤りが募る。
弟のやつめ。しかしその気持ちは、そうかと思えば一瞬で立ち消えてしまった。
元を辿れば、やはり、自分が悪い。
ホントに、なんであんな事を言ってしまったんだろう。
昨日からキリノが格闘している相手の正体は、実は概ねそれであった。
ともあれ、このサヤの剣幕は、ちょっとやそっとの事では見逃してくれそうもない。
あたしゃ、あんたの娘かい。と心の中でぼやきながら。

「しょうがないなぁ…」
アイスティーを一気に半分ほど飲み干し、ふう、と溜息をついてから。
キリノは事の顛末を語り始めた。まずは、チケットの事から。続いて、メールの事も。
聞きながら表情をコロコロと変えていたサヤだったが、キリノの説明が8割ほど済んだ所で。

「大体…お話は分かったんだけど…」
もちろん話はそこに収斂される。

「で、結局あんたが誘いたかったのって、誰?」

キリノはよく分からなかった。
これを話していい物かどうかの判断、というよりもそれは
本当にそうなのか自分の中でさえ踏ん切りがついていないのに
他人に話すのにためらいがあったからだ。
その躊躇が、そのまま返事となって表れる。

「う~んと…サヤもよく知ってる人、かも知れないよ?」
「コジロー先生?」

即答だった。サヤは一発でその答えまで行き着いた。
と言うより、初めから用意してあった幾つかの候補のうち、
その話をするキリノの表情から導き出せる答えがそこしかなかった、と言ってもいい。
憂いだけでも照れるだけでも、ましてや表面だけの取り繕った笑顔でもない。
キリノにこういうややこしい顔をさせるのは一人しか居ない。サヤは概ね理解していた。
その理解に誤りがあったとすれば。それは受け手の問題に他ならない。
一矢で正鵠を射抜かれたキリノは、というと。

「…………」

俯いて黙り込む、と言う以外に為す術を持たなかった。



一方。それからあまりにも長く沈黙が続いた為、
サヤの方も自分の答えに自信をなくしかけていた。

「…違った?」
おそるおそる、下から窺うように覗き込もうとすると。
俯き黙ったまま、キリノは首を横に二度振った。
サヤの胸に「やっぱりか」と「何を今更」の気持ちが同時に去来する。

「じゃあ、いいじゃん。なんの問題も…」
ない、とはさすがに言い切れないが。
でも向かいに座る親友が今抱える煩悶は、そもそもそんな事ではないような気もする。
そして事実、「そんな事」がキリノの脳裏を掠めた事は今まで一度として無かった。
彼女に今あるのは、何故自分がそうしたか、という無間地獄のような問い掛けだけだ。
しかしキリノは辛うじてありったけの虚勢をはり、はにかんだ作り笑いと共に口を開くと。

「わっかんないんだよね~」
わからない。言葉に出すと、なおわからない。
何が分からないのか、自分でも謎だらけすぎてもう何が何やら。
しかし、今どうするべきか分からない、という謎にだけは
他者であるサヤの方がより明確な答えを持っていた。

「電話してみたら?その方が早いでしょ」
「え、今?」
「うん今。思い立ったが、ってね」
「でも、仕事中かも知れないよ…」
「あっちもご飯食べてる時間でしょどーせ。ホラ」
サヤが店内の時計を細長いポテトで指差すと、針はちょうど12時半のところを差している。
「ご飯…どうしてるのかなー」
キリノが話を逸らすのでもなく、真剣に心配な顔で呟くと。

「だぁぁっ!ケータイ貸して!!あたしがかける!!」
「ちょ、ちょおっと!!サヤん!?」
強引にキリノの携帯を奪い取り、電話帳をめくるサヤ。あった。
通話ボタンに指が掛かると、しかしぴたり、その指は止まる。
さすがに向かいで目を閉じて身構えるようにしている親友への申し訳無さが勝り、
「…あんたがかける?」
と差し出し返すと。
コクンとひとつ頷き、受け取ると、次はためらわず通話ボタンを押すキリノ。



プッ、プッ、プッ、プッ、プッ、プッ…
プルルルル。プルルルル。プルルルル。

それは、ほとんど永遠のようにも感じられるほど、長い長い時間だった。
その間に彼女が考えた事はと言えば、数百にも上るかも知れない。
それくらい、わからない事ばかりであった。
逆に今わかる事と言えば、心臓がえらくやかましいのと、
いつの間にかアイスティーのボトルが空になっていた事くらい。
すると不思議と、あの人と話すのに緊張し過ぎている自分が妙に可笑しく思え、
思いのほかすんなりと第一声は紡ぎ出された。

「もしもし、コジロー先生?」
「おー、キリノか?」
「今だいじょうぶっすか?」
「んー、ちょっと待て……~~~……いいぞ」

遠くで声がした。誰か、いるみたいだ。
何故かちょっとやな感じがしたけど、口が紡ぎ出すままに話を続ける。
昨日から、ほんの数秒前まで続いた不安はなんだったのやら。
今度は変に自然体でいられる自分が更に可笑しく思えた。

「やー、昨日まではほんとに、お疲れ様でした。
 変なメール送っちゃってごめんなさいねー」
「変なメール?なんだそりゃ?」
「およっ…?」

見てないんだ。よかった。
途中で切れちゃったのかもしれない。
なら、心配する事は何も無い。

「いやー、行ってないんなら、いいんです。
 ところで先生、明日ヒマかな~って」
「ん、明日…かぁ。うーんと…」

あ、今ちょっと困ってる。
もはや自然体を通り越して、
キリノには向こうの様子が見えているようだった。
困らせるのは、本意じゃないなあ。そんな事を考えつつ。

「スマン。明日はやっぱヒマじゃないな。…何だったんだ?」
「ありゃ~、そうですか。まあ別に、気にしないで下さい」

向かいでふたつ、両手に握り拳を固めながら。
二人の会話にいちいちウン、ウンと頷いていたサヤがそこで表情を一変させる。
やや激昂気味に、手近な紙に「明後日は!?」と書こうとした所で。

「じゃあ、また今度ねー」
「おう。悪いなー」

プッ。ツーツーツー。
通話は、終了してしまった。



「明後日はもう8月だよ、サヤ」

的外れにも程がある返事をする親友に。
サヤの怒りはおさまらない。

「そーいう事じゃないでしょ!!」
「うぇ~?」
「あんたねえ?ダメでももーちょっと食い下がりなさいよ!」
「食い下がるって言ってもねえ~…」
「遅くなってもいいからとか!!「なんで?」って聞くとか!どうにでも出来るでしょ!?」

もちろんサヤ自身、そんな語彙を使った事は人生の上で一度だって無いのだが。
いい加減にこの煮え切らなさはさすがに腹に据えかねた。
一方で、キリノの方はと言うと。あくまで飄然としながらも、

「…なんか、誰か向こうに居たみたいだし」

そのことだけが、少し気にはなっていた。
最も、この場合はそれが何者か、と言う事よりも。
むしろ自分が何故そこに引っ掛かりを覚えたのか。
その方がキリノにとってのもっぱらの関心事であった。
サヤはそれにもはぁーあ、と大きな溜息をひとつ漏らすと。

「それだって、気になったなら聞けばいい話でしょお…?」
「そういえば、そうだね。あははは」

そういえば、何故聞かなかったんだろう。わからない事がまた一つ。
キリノが自分の中に沸いては消える、その不思議な物を持て余す一方。
サヤは、当座の問題点をほぼ把握しつつあった。
ただそれを、うまく伝える術がどうしても思い付かない。というよりは。

「もーあんた、どうしたいわけぇ…?」
もう全部、ぶっちゃけてしまいたい。
そのせめぎ合いの中でサヤはこぼした。

その様子に、流石に申し訳なさを感じたキリノは、
「…行きたくないっていうと、嘘になる、かなぁ…」
多少は自分で想像のつく、おそらく自分の中での真実に
最も近そうなところの言葉をチョイスしてみた。

それを受けた、サヤの目が輝く。

「…チケット」
「え?」
机にしなだれたまま、サヤは右の掌を差し出した。

「チケット。もういらないでしょ?」
いらない。強い言葉に、ふと心がざわつく。
確かに、自分にはもう不必要な物になりそうなチケット。
それは一度は望んでさえいたこと、そのはずなのだけど。

「あ、うん…まあそうだけど」
「あたしがたっくん誘って行くからさ。それならいいよね?」
「そ、そうしてくれると助かるんだけど」
「じゃあ、頂戴」
「う、うん…」

半分は、サヤの剣幕に押され。
もう半分は、夕べ自分の考えたプラン通りである事を言い訳にしながら。
言われるままに財布から、チケットを取り出すと。
それを持つ手が、かすかに震える。
ふるえた手は、さらに、余りにもゆっくりと動くと。
それはやがてサヤの手に渡ろうかという寸前で、文字通り、掌を返した。
そのまま懐にぐっと握り寄せ、困惑のなかでキリノがこの日一番申し訳なさそうな顔を作ると。

「…ホラ。答え、もう出てんじゃん」
サヤはそう呟くとすぐさま優しい笑顔をつくり、
差し出していた手を引っ込めた。

キリノは、まだ、わからなかった。と言うより、半信半疑であった。
それは今まで通り「何故」を増やしただけの行動にも思えたが。
同時に先程、何気なく漏れた自分の真意に一番近いのも、確かにその行動であるように思われた。
ただわけもなく、奇妙な気恥ずかしさだけが高まって行き、自然と顔がほころんだ。
それを見ると、食べ終えたプレートの端を掴み、立ち上がりながらサヤが続ける。

「じゃあ、あとは…もう一回頑張ってみるしかないんじゃない?」
今すぐに、じゃなくてもいいから。また夜にでも。
サヤが念を押すようにそう告げると。

「…うん」

取り敢えずは、何だかわからないこの気持ちにも、正直になってみよう。
そうでないと、何も始まらないような気がするから。
そんな風に思って、キリノは店を出た。

冷房の利いたお店から外に出ると。
真っ昼間の太陽は、灼けるようにまぶしかった。




ピッ。
軽いため息とともに、彼は通話を切った。
「よろしかったんですか?生徒さんじゃ…」
「あ、いえ、キリノですよ。なんか明日暇ですかとかって…」
「なおさら大事じゃありませんか、何か他にご予定でも?」
「いやぁ~、はっはっは…」



さて、話はふたたび前後する。これより数分前。
本日の仕事のメインである朝の職員会議を淡々とこなした彼は、
隔離された区画になっている宿直室で昼食を摂ろうとしていた。
摂る、とは言ったものの、アテはいつものカップ麺にすぎない。
最もここの所その理由は貧困の為ではなく、
専ら節制の為の色合いを増し始めてはいたが。
ハデに金を遣わなければ、薄給といえども貯金はできる。
遅まきながらも彼がそれに気付いたというだけの事である。

しかし今日は幸運にも、女神からのお声がかかった。

「あのー、石田先生?」
「よ、吉河先生?なんかご用ですか?」
「それだけだと足りなさそうですから、ご一緒にどうですか?」
「え、いいんすか?」
「ええ、どうぞどうぞ」
にこやかにそう答えると、隣にかける。
ぱか、とその手がお弁当箱を開くと、
鯖の味噌煮やら昆布巻きやらのにおいがあたり一面に広がった。
思わず目を輝かせるコジロー。

「ちょっと、作り過ぎちゃいまして」
「いや、いいんすかねー…ホントに」
多少遠慮しながらもどうぞ、という声に促され、箸で鯖を掴むと、まずは一口。
ぷりぷりの白身の歯応えと、味噌の程よい甘さが口の中に広がる。
「うまいっす」
「よかった。うふふ」
そのまま箸と共に弾む食事と会話。
話のネタは、日々の仕事の愚痴であったり、
逆に教師生活の中で起きた楽しい事柄であったり、様々なものだ。

そして話が、今朝の会議の内容にも及ぶと。

「しかし何ですね、同業者のああいう不祥事がホントに多いですねえ最近」
「そうですねえ…」
話を振って、コジローは少ししまった、と後悔した。
その話は、同僚とはいえあまり女性と昼間からする話ではない。
下手をすれば、セクハラだ。ましてや相手は。
多少は、そんな内容だった午前の会議を恨みがましくも思う。

『…というわけで、注意してください』
そんな感じで幕を下ろした朝の職員会議の内容は、
夏休み早々にニュースを賑わせた、同じ県内のある高校で起きた
教師の生徒に対する性犯罪についての訓告及び注意促しが大半であった。
その話も、何のことは無い。早い話が教師に対しても軽挙妄動は慎め、と言うだけのことだ。
夏休み前に自分たちが生徒らに言うお決まりの約束事と、何の変わりもない。
こりゃ大人も子供も変わらんな、と彼は心の中で思いながらそれをぼんやりと聞いていた。

そして翻って、現在。
そんなネタを振ってしまった彼の心配をよそに、同僚の女教師は落ち着いていた。

「でも、石田先生はどっちかと言うと、気をつけた方がいいんじゃ…」
「ど、どどどういう意味ですかそれは!?」
「いえ、おモテになるでしょうし」
「ああ。い、いやそんな事は……って、それは」
単なる皮肉か、それとも予防線なのか。
もちろん相手にそのどちらの意図も無い事は百も承知ではあるが。
「きついっすねー、はは…」
「はい?」
彼にはただ、頭を掻くほかになかった。

学校と言うのは、余りにも小さい「家族」という
共同体からの開放を求めてそこに飛び込んで来る子供達を
更に狭いところに閉じ込める、檻のような一面を持っている。
そしてそれは勿論そこで働く教師たちにとっても同じ事であり、
その中を驚くべき速さで伝わる「噂」や「嫉み」といった類のものは
そもそもそういう物に興味のない純朴な青年であった彼の性根を
長きに渡って爛れさせた一因になっていたとも言える。
そういった物に押し潰される事の無い、しなやかさ。
それも今の彼が求め、身につけねば成らない強さの一つでもあった。

ともあれ人の口には戸は立てられず、噂は飛び交う。
勿論彼の耳にも、何年何組の○○先生が生徒と付き合っている、等といった噂は後を絶たずに入って来てはいた。
もっとも彼自身はそれに何も感じる事は無かったし、自身もまるで思い当たるフシの無かった事から
まるで対岸の火事のように受け止めていたのだが。
しかしつまりは今、偶然にとはいえ彼女が口にした事は、そういう事だ。
そう思うと、彼は更にヘコんだ。

「あの…大丈夫ですか?」
「いやっ、べべ別に、大丈夫っすよ!」
あからさまに空元気ではあるのだが、奮わずにはいられない。
その勢いのままに自分のカップ麺をかきこむと、少しむせる。
そこにそっと、無言で差し出されるお茶。
少し咳き込みつつそのお茶を口に含みながら彼が考えたのは、ああ、こういう所だ、という事であった。
2コ下の同僚である彼女とは、何だかんだと赴任してからもう1年以上の付き合いになる。
その間特に何かあったわけではないが、むしろそれ故に。
すれた所のない彼女の人柄に惹かれるのも、自然な成り行きだよな、と彼は思った。
そう思うと、少し緊張気味でもあった喉が従来のなめらかさを取り戻す。

「お礼を」
「はい?」
「いや、お弁当のお礼をしなくちゃですよね、これは」
「そんな…気になさらなくても」
その次の言葉が紡がれようとした瞬間であった。

♪どんどんどん! でーでれれれっ でーっでー

男の携帯から流れ出すには可愛すぎるイントロが宿直室に鳴り響くと。
「うわっ!!」
彼は昨日に引き続き、送信者の名前にひとつ眉をしかめ、
それからおもむろに隣の同僚に手で謝意を示すと、電話を取った。



かくて時間は冒頭に戻る。
あっはっはっは。なんて間の悪さだ。と彼は笑うしかなかった。
まさに明日の話をしようとしていた所へ、先に芽を潰されたようなものだ。
ともあれ、これでは若干の軌道修正を要するな、と思ってみると。
隣には、まだ不安気にこちらを見つめている目線がある。
それは逆に、むしろ好都合だと彼は踏んだ。

「少し、明日は用事がありまして」
「はぁ…そうなんですか」
「いえ、これから、出来るとこなんですが」
「え?」
「お弁当のお礼に、ドライブにでも行きません?明日か――今晩にでも」

その言葉は考えたよりもずっと容易く口に出せた。
元々誘い文句を考えるようなタイプではない彼は、
あれやこれやと悩む事はしなかったが、それ故に
自分がそのての語彙を持たない事に漠然とした不安はあった。
何せゲームに誘うのとは、わけが違う。
しかし明日の予定も含めて今晩、というのは、つまりは、そういう事に他ならない。
ともあれ、全て揃ったその会心の告白に彼が唯一恐れたのは。
この少し天然気味の同僚にそこが上手く伝わるかどうか、という事であった。
長い長い、沈黙が続くと。

「…ごめんなさい」

返事は、あっさりとしたものだった。

「そっすかー…」
間の抜けた返事が、耳の遠くできこえる。
自分の身体が魂の抜けた抜け殻で、そこから抜け出した心だけが
まるで自分の身体を含めたそこらあたり一面を俯瞰しているように彼には感じられた。

そうなりながらも、彼が考えた事はいくつもある。
タイミングが悪かったのか。まだ早かったのか。空気が読めていなかったのか。
しかし最も強かったのは、やはり、ちゃんと伝わっていないのではないか、という部分。
今からでも遅くはない。しっかりと自分の意思を伝えれば或いはまだ。
そう思いどうにか自分の身体に戻り、手足の感覚を確かめると。
しかし彼を待っていたのは、手痛いしっぺ返しどころではない現実であった。

「私、好きな人がいるので…」

観ずるに畢竟。どうしようもないほどに彼の意図は伝わっていた。
伝わっていたが故に、真摯に悩んでくれた時間は彼にとって救いではあったものの。
今の彼にそれを感じ取る余裕は、無かった。
情けなくも、恨み言のような口調になる。

「誰か、知らない人ですか?俺の」
「そのことで…逆に、石田先生に相談がしたいのですが」

相談。パニックに陥りそうな今のこの頭に、逆に相談?
混乱に混乱を重ねる彼の頭脳に、彼女が語ったのは概ね次のような事であった。

好きな人は、大学時代の先輩。
名前もよくは思い出せないけど、ずっと好きだった。
切っ掛けは、落ち込んでいた時に彼がくれた言葉「熱血」。
それもたまたま偶然耳にしただけで、自分にかけられた言葉ではない。でも嬉しかった。
頑張って探したものの消息も掴めないまま、たぶん卒業しちゃったんだろう、と思うと寂しかった。

「…でも、見つけたんです!」
熱っぽく語る彼女の瞳に、すぐ目の前の男をフった、という躊躇いは微塵もなかった。
何かいっそ清々しささえ感じるその態度に、毒気の抜かれたコジローがへなへなと相槌をうつと。
それから更に続いた彼女の言葉は、彼を殴打するでは済まなかった。

「教えて下さい。5月に…うちの学校に練習試合に来ていた学校の、先生の事」
「は、はぁ!?」

それは。それはつまり。”その人”は。

「変わってなくて、嬉しかったあ…」

あの日、学校に忘れた書類を取りに来てその帰宅途中。
偶然道場の前を通った時耳にした、聞き覚えのある声の事。
思わず中を覗くとそこには、少しも変わらないあの人が居た事。
熱く語るその姿にお邪魔をしてはいけないと思い、その場では声を掛けられなかった事。
ずっと聞きたくて、今日の今までなかなか聞けなかった事。
全てがコジローの耳を左から右へと通り抜けていく。

「石橋…先、輩…?」
「石橋先輩…そう、イシバシ先輩です!」
大学時代の記憶を甦らせ、まるで少女のような可憐な表情を浮かべる同僚に。
一方の彼の頭には、同じ人の同じ言葉が、リフレインのように鳴り響いていた。

『負けるのは大切だぞコジロー』

鳴り響いていた。
最終更新:2008年12月06日 22:39