「…いかんな」
 手にした紙っぺら一枚を見て、男は唸った。
 先月末の、脂肪肝診断…いわゆるメタボ検診、その結果は
彼の想像を遥かに上回る勢いで限りなくイエローゾーンへと近付いている。
(なんでまた、俺が?)
 去年までは、こんな事はなかった。
 少し肝臓の値に怪しい数字が並ぶ程度で、基本的には…
健康そのもの、だったはずなのだが。
(とにかく、これはいかん)
 彼は、より一層の決意と共に、部の指導に精を出すことを誓うのであった。

     ※     ※     ※     ※     ※     ※     ※

「んおらぁぁぁぁっ!!」
「ちょ、ちょっと先生!?」
「おーおー、何じゃいなありゃ」
 朝練の開始早々、ユージと互角稽古を始めるコジロー、と見守るキリノ他の面々。
 その様子は、まだ川添道場に行く前の…空回りして燃えていた頃の雰囲気に近い。
「コジロー先生、またお腹壊してぶっ倒れちゃうんじゃないのー?」
 キリノの突っ込みが入ると、何とか剣を下げるコジロー。
「む…っと、いやユージ、すまんな。…ちょっとカロリー燃焼させたくてな」
「いや別に、全然構わないすけど…」
 およそこの顧問の口から出る単語としては、かなりの違和感を含むその言葉に、
面を取りつつ顔をしかめるユージ。「カロリー」?
「なになにせんせー、ダイエットでも始めたの?」
「確かに最近、ちょっと顔丸んで来てますけど…前考えたら、丁度いいと思いますよ?」
 サヤとミヤが同時にその単語に反応する。
「いや、実はなあ…」

 ―――――かくかくしかじか。
 説明のあとコジローが検査表を見せ、各自がそれぞれに反応を示す。
「むむー、やっぱり肝臓ですなあ…」
「お酒飲み過ぎなんじゃないのー?」
 こないだの合宿でも、飲んだくれてぶっ倒れてたしさ、とサヤが続けると表情に難色を示すコジロー。
「いや、あれは…すまんかったけど……最近はもうビールくらいしか飲んでないのにな?」
「うちのお父さんも晩酌するけど、別に問題なんか出た事ないって言ってるのにね~、ふむふむ」
「あ、うちもですー」
 千葉家と東家、両家の例を挙げられ言葉を失う。
(…なんでだよ畜生!)
 俺はまだ26歳だぞ、とでも言わんばかりの歯痒さに身を震わせていると。
「でもこれ、運動不足って言うよりは食生活の偏りの方が大きくないですか?ホラここ」
 ミヤが指差すと、バランスを考えた食事を、という医者の助言がある。
 バランスを考えた食事。顧問の。
 皆が一斉に顧問を見、そのあと部長の方に視線を向けようとして、しかし意思の力でそれを抑える。
 その微妙な動きに少し違和感を覚えた対象者二人であったが、意にも介さず立ち上がると。
「…まあ何せともかくまずは運動だ!練習練習!」
「そうだよー!動けばきっと痩せられるよ!」
 顧問と部長が同時に声を発すると、はいはい、とそれに付き従う部員たち。
 そうして稽古の再開となった運びの最中、誰も違和感を感じなかったキリノの言葉に一人だけ耳を貸した者がいた。

 ―――――「痩せられるよ」?
 先輩、自分の事じゃないのに…とタマの抱いた疑問は、しかし練習中にすぐに消えてしまった。

     ※     ※     ※     ※     ※     ※     ※

「お」
「…あ」
 昼休みの道場。
 カップ麺に湯を注ごうとしていた所に、闖入者がひとり。
「…もー、そんなものばっか食べてるからあんな判定もらうんじゃないの?」
 皆と一緒に昼食を摂る為にやって来たサヤが開口一番にそう告げると、
「いやだって、今日キリノまた調理実習で遅れるって言うからさ…お腹すいちゃって」
 あんたどんだけキリノ頼みなんだ、とサヤが呆れ顔を向けると、後ろからどかどかとやって来る他の部員たち。
「おー、先生またカップ麺かぁ」
「ったく…あたしとダンくんのお弁当ちょっと食べます?」
 ダンとミヤに続き、ユージとタマ、そしてサトリも。
「先生…うめぼしも健康にいいっていいますから」
「あ、じゃあ代わりに俺の弁当ちょっとあげるよ、タマちゃん」
「お、お前ら…ありがとうなぁ」
 生徒からの好意に感激するコジローを更に喜ばせようと。
私も、と続こうとした所で鞄からゲームパッドのようなものを覗かせ、
一瞬で引っ込めたあと涙顔で蒼褪めるサトリに、道場の空気は一変する。
「さ、さとりん…あ、あたしのお弁当、ちょっと分けたげよっか?」
 サヤがそう言うと。
「さ…サトリ、あたしとダンくんのお弁当も、食べる…?」
「東さん…あたしのごはん、ちょっとだけなら…」
「お、俺のお弁当、あげるよ…母さんの作ったのだけど」
 次々と続き、捧げられる、本来コジローに与えられる筈だった供物。
(こ、こりゃまあ流石に、貰えんわな…)
 コジローが軽く嘆息をつき、さて、と割り箸をわり、カップ麺を開こうとした所で。

「ごっめーん!遅れちゃった」
 救いの神は、そこに現れた。
 頭には三角巾をつけ、割烹着を着たままで、息せき切らせてやって来たその女神は、
両手に余るほどのお盆を抱えて、3段重ねの重箱を提げている。
「ほいセンセー、調理実習でクレームブリュレ作ったんすよ。…みんなも食べてね!」
 どす、という勢いで全員の座する中央に盆をおろすキリノ。
 程よく焦げて、周囲に暴力的な甘い薫りを撒き散らすその塊は、
「…1キロくらいあるんじゃないのこれ」
 サヤの突っ込みを待たずとも誰もがそう思えるほどに…膨大であった。
 しかし、目を輝かせる顧問にとってその量は逡巡のきざはしにもならない。
「サンキューな、キリノ!いただきまーす」
 ササっとキリノによって切り分けられたその塊の、四分の一はあろうかというこれまた塊を、嬉々しげに平らげていく顧問。
 自身にもその半分くらいはあろうかという塊を取り分け、他の部員たちの分も用意すると、
「お弁当もどーぞ~」
 3段重ねの重箱をぱかぱかと開き、一緒につまんでいく。
 うまいうまい、おいしいおいしい、と揚げ物をばくばくと平らげて行く二人に、こぼすサヤとミヤ。
「あっち…あんだけで脂質50gくらいは行ってるよね」
「いえ、全部で合計3000kcalくらいは…あるんじゃないですか、あれ」
 ふと、サヤがキリノに視線を移す。
 ダイエットの話をしていた顧問につられて気付かなかったが、
(そういえば…な、なんかこの子も、丸々してきてるみたいな…!)
 見れば見るほど気のせい、ではない。
 割烹着を脱いだ制服の上からでもわかる。
 首回りや、胸やお腹はだんだんと丸みを帯び、お尻はスカートからはちきれんばかりだ。
「あれ、どうしようか…突っ込んだ方がいいのかな?」
「ほっとけばいいんじゃないですか?幸せ太りってやつでしょ…しょうもな」
 そんなサヤとミヤ、二人の会話も全く耳には入らず、凄まじい勢いで重箱を開けてゆく。
 やがてそれが底を尽き、お盆の上からデザートも消え失せると。
「ぷあー、食った食ったあ」
「こりゃ、相当一杯運動しないといけないっすねー、ふふ」
 食べ終わり、そのまま大の字になって寝っ転がる二人。
 その光景を見ながら、或いは純粋な心配する気持ちから、或いは自戒の為に。
 他の部員たちは一同にこう思うのであった。

 ――――健康には気をつけましょう。
最終更新:2008年09月30日 14:19