side:「だれもが」
インターハイ県北予選を前日に控えた某日。
早上がりの為、既に稽古を終えた面子は次々と着替え、そして―――
「サヤ」
「はいな」
いのいちに出て来て、練習の分の栄養を補給していたサヤに顧問であるコジローの声が掛かる。
余談ではあるがサヤ、と言うのは彼女の渾名であって本名ではない。
(―――まあ、もう慣れたもんだけどね)
生徒を気さくに、渾名で呼び捨てる先生―――
ともすれば古い熱血ドラマのようなクサみを持った教師像を想像してしまいがち、なのだが。
凡そそういうものともまた縁の遠い位置に、彼はいた。
しかし今日、彼が発する声のトーンには普段のそういった軽さは少なく、剽軽さが僅かに感じられるのみだ。
いわく。
「明日は―――しっかりしなきゃ、だめだぞ」
「…失礼な。いつもしっかりしてますよ!」
反駁するこちらの態度に、深い溜息をひとつつくと。
頭をぽりぽりと掻きながら。
「あいつは―――キリノはな」
その名を聞いた瞬間に、彼の懸案が何であるのかは…想像が、つく。
サヤの親友にして、部長のキリノ―――この部の屋台骨である彼女は、現在、普通の状態ではない。
母親の入院、という不慮の事態にもめげずに(少なくとも見た目は)明るく振舞ってはいるものの、
(やっぱ、痛々しいんだよね……分かっちゃうか、この人も)
近しい者にとっては、すぐわかる違和感―――それを目の前にいる顧問も持ち得ていた事。
サヤにとってはそれだけで十分であり、そこから続く顧問の言葉は全くの蛇足である、と言えた。
しかし、その背後で――――
ドアノブを回し、扉の前で自分の名を呼ばれて固まった人物にとっても、それは蛇足であっただろうか?
「ムリしてるけど、キリノはずっと、おふくろさんの事を心配してる。
でも明日の大会予選の為に皆に心配かけまいとしてる」
あのねえ、と再び反駁しようとするこちらに、聞けよ、とひとつ強意を示すと。
「あいつの事は―――”だれもが”頼みにしてるんだ。だからな…」
「…あのねえ!」
そんな事は分かっている、とばかりに強い言葉で掻き消す。
「あたしゃあの子の事は先生よりよく知ってんの!
大丈夫、キリノはあたしに任せといて! 明日はあたしが部長だよ!」
どん、とサヤが胸を叩くと更衣室のドアが開き、おまたせ、という言葉と共に渦中の人物―――
キリノがその姿を見せると、互いに目を見合わせる二人。
その様子は、やはり―――
(…ちょっと、な)
何が違う、という訳ではないが。
元気がない、と言う表現で片付けられればどれほど容易で、どれほど簡単だろうか。
しかしその表情には何故か、先程までには見られなかった喜色のようなものが僅かに見られる。
(………??)
片付かない違和感に尻込みするコジローを横目に、ずかずか、とキリノに歩み寄るサヤ。
「おう、キリノ!…帰るぞ、おうおうおう!!」
そのまま首根っこを抑え、二人が帰路につくと。
その後姿を笑顔で見送りながら、心の中で、ぽつり。
(―――まあ、いいか。頼んだぜ、サヤ)
そしてコジローが意識を切り替え、次の―――タマへの発破に移ろうとしていた、その頃。
「…ん?あんた、なんか嬉しそうだね?」
「なははは……いやあ、そんな事もないよ?」
茜さす道場の入り口では、そのようなやり取りが―――あったかも知れない。
side:「前から」
吉報というなら、それは吉報であるかもしれない。
ともあれ彼、石田虎侍は―――急いでいた。道場へと。
まずは、教え子たちの確認を取らなくてはいけない。
(以前の俺だったら、一も二もなくOK出してたかも知れないな…はは)
TV出演―――ともすれば、剣道部のイメージアップにも繋がり、必然的に自分のクビ問題の解決も容易になるかも知れない。
しかしそんな事は、些事に過ぎない……という割り切りもまた、彼がここ数日の経験で得たものの一つ、ではあるのだが。
やがて道場が見えると、中から威勢のいい掛け声がふたつ。
(こりゃ、ミヤと…サトリか。感心感心)
そう思うが、弾き合う竹刀のカシャン、カシャンという音にふと、足を止める。
――――熱心にやってる所に、水を差す訳にも行かない。
(…ま、休憩時間まで待つとするか)
そう言って窓の外からそっと様子を窺っていると、竹刀の音が止む―――どうやら、終わったらしい。
さて、と入口の方へ回ろうとすると。
「鎌崎高校の――――」
ぽっと出た単語に、再度足が止まる。
話されているのは、ミヤのレベルアップの件についてなのだが―――
あそこで行われた出来事には、我ながら、それなりの自負がある。
(…俺は、どうだった?)
まさかそんな話にはなるまい、と思いつつも、立ち止まらざるを得ない。
あの時――自分を突き動かした、奇妙な力。それが生徒たちの目にはどう、映っていたのか。
自分は指導者として、恥ずかしくない態度であれただろうか?試合の最中、おかしい所は見せていなかっただろうか?
果たして、塞翁が馬。
「―――そういえばキリノ」
「ん?」
「コジロー先生なんだけど…」
サヤの切り出した話に、身を乗り出しかかるが……息を呑むほかにない。
「なんか、カッコよくなかった?いつもと違ってたってゆーか…」
(――――おいおい。)
その想定以上の戦果に、瞬間的に満足はするものの…
「まあ、向こうの石橋先生が超カッコ悪かったって言うのもあるんだけど」
その通りである言葉に、一旦盛り上がりかけた分、感情の落差は激しい。
(まあ、な…)
自分自身の、かなりの重きをかけて臨んだ大一番―――
であった筈のあの試合は、正味の所、先輩の自滅と言ってまず間違いのない形で幕を閉じた。
それで自分の評価をどうこういうのは、およそ、おこがましい事なのかも知れない。
――――しかし。
「そんな事ないよ」
キリノ。まあ根の優しさの分、サヤよりはよく見てくれているかも知れない、という程度の認識でいた彼女の告げる言葉は―――
「コジロー先生は、前からああだよ」
(前から、ああ…?)
一瞬、意味が分からない。表情を覗く事は出来ないが、サヤの反応を見るに―――そう悪い物でもないようだ。
しかし、こちらとしては……そんなに以前から、キリノに評価されるような行動を重ねた覚えはない。
(―――と言うよりも、だ。)
考えてみれば自分はほぼ、彼女にいい所など、見せた覚えがない。
お弁当はたかる、エビフライは奪う、クビに怯え自信を失くしかけていた所を救われる。
おまけにあれだけサヤに注意を促したインターハイ予選の時でさえ、自分は眠りこけてミーティングに遅れ、
川添道場では、プライドを守る為にあえて自分から目を背けさせたりもした。
そもそもが――――自分には何よりも、最大の負い目がある。
(剣道部がまだ、あいつ一人しか居なかった頃、か…)
自分は何かしてやれただろうか―――いや。
実際、自分がした事はと言えば、その時もまた私欲のため―――部員を集めたのも、偶々に過ぎない。
ではなぜ、それでもいいのだ、変わらないのだと、こうも容易く言い切れるのか。
そしてその言葉が―――なんでこうまで、やかましくも、耳に残るのか。
その場に蹲り、しばらく考え込んでいると。
「ミ~ヤ~コ~ちゃ~ん」
「…あ」
どこかで見た事のある少女がガラスに顔を押し付け、それと入れ違いに道場には内側から鍵が掛けられる。
しかし、それよりも早く少女の姿は道場の中に消えていたのだが…それを目で追い、過ぎると。
(速えー…)
呆然、という気分が頭を埋め、その次にやって来る物は―――
「っぷ。っく、はっはっはっは……あーっ、くしょう…」
胸の内からあふれ出るこの歓喜を、なんと表現すればいいのか。
とりもなおさずそれは恥じ入るのでもなく、申し訳なさでもなく、ただ、よろこび―――
例えるなら、子供の頃、母親に褒められたときのようなシンプルな感動。
(…………)
(――――まあ、そういうこと…なんだろーな)
他の誰に認められたとしても、こうはなるまい。
おそらくはそれが、彼女―――で、あったからこそなのだろう、この喜びは。
ならば、であればこそ、自分はその期待に応える義務がある。
(もっともっと、しっかりせんとな……こんなとこで、盗み聞きしてる場合じゃないぜ、俺)
そうして威勢良く、立ち上がろうとした所で。
またもやひとつの違和感に躓きを覚える。
「…さて。…その前に、この顔どうすっかな…」
――――残念ながら。
頬の緩みを抑え切るのには、もう暫くの時間を要しそうだ。
最終更新:2008年09月17日 21:36