(失くなった…よねえ?)
(まあ、たしかに…)
(そ、そういえば、そんな気も…)

―――――誰が言い出した事だか、知らないが。
”そのこと”について、いつの間にか。そこにいる部員の誰もが見解を一致させていた。……確かに、最近見ていない。
しかし続けざまに、大元でそういう話の流れを作り出した首謀者であるサヤは述べる。

「だけどさ、あそこは無闇に突っつかない方がいいよ…ね?」

親友の為にも。
ならば初めからそういう話をしなければ良いのでは、と思ったサトリは、しかし口を噤んだ。
このようなウワサ話とて見方を変えれば、いわば部活動の華。醍醐味だとさえ言える。
それ故、ただでさえ入部も遅く、遠慮がちな性格のサトリには意見を差し挟むのにも些か、ハードルが高い。

「…なら、初めからそんな話振らないで下さいよ」

そんなサトリの気持ちをミヤが一句違わず代弁すると。
ウンウン、と頷くサトリを横目に、でもねえ、と切り出したサヤはそのまま言葉を続ける。

「心配、なんだよねえ。あっ、いや、先生が相手としてどうなのか、とかじゃないよ」

――――まあ、それも多少はあるけど。それはさておき。

「なんかさ、あのままで放っておいて、それでお互い、幸せなのかなあって。いや満足げではあるんだけど…そういう事じゃなくってえ…」

いまいち当を得ないサヤの意見ではあるが、言わんとする事は他の二人にも十分理解できる。
すなわち……やはり、相当に、歪なことだったのだろう。”あれ”は。誰の目から見ても明らかなほどに。
それは最早この部における共通の認識であり、おそらくは男子にもそれに異を唱える者は居ないと思われる――――
当人たちと、そして或いは同じ次元の(もしかするともっと深刻な)問題を、しかも本人の与り知らない所で抱え込んでいるユージを除けば。
そして、今日の議題はそこから更にもう一歩進んで―――――歪、では無くなった事に、その歪さがある。

「まあ、いいんじゃないですか?……色々問題があったのは間違いないんだし」

ミヤが現状をそう分析すると、他の二人はそれに頷く他にない。
しかし、そう言った当のミヤをしてすら、どうしても、奇妙な釈然としなさが残る。
その日の議題は、つまりはそういう類の物であった。すなわち――――

"何故コジロー先生は、部長(キリノ)に対する一次的接触をやめてしまったのか?"

……という事である。
思えば事の始まりは、別段最近になって急にどう、と言うような事ではない。
いつの間にかそうであったものが、いつの間にかそうではなくなった、というのが、あるいは適切なのかも知れない。
しかしその微妙な差異は、二人とは一番長い付き合いであるサヤをしても、改めて他人に聞いてみなくては確信の持てる事ではなかった。
そして本日下された結論は見事に三人ともが「yes」……つまり先生は、やはり客観的には、キリノと距離を取り始めた、という事になる。

(一体キリノの、何が不満で…)

やや短絡的ではあるが、サヤの苛立ちはまず、そこにある。
自慢の親友であるキリノに何の瑕疵があって、距離を置こうというのか。
そもそもがサヤの目には、口惜しいながらも…あの二人の相性はとてもいいように思われていたし、またある一面でそれは事実でもあった。
まさに阿吽、と言うのだろうか。言葉よりも深く通じ合い、時には間柄を超えた夫婦のような関係ですら、あるようにも見えていた二人。
……だがしかし、その気安さの象徴的出来事が何故ぽっかりと、いつの間にか消え失せてしまっているのか。
或いは”そのこと”はそれとは直接の因果は何もなく、こちらの杞憂であるだけなのかも知れないが。
できれば、そうであって欲しい、というサヤの願いと想いを同じくしつつ、三人が眺める視線の先には――――

休憩時間だというのに竹刀を振る部長に、それを見る顧問に、それにつく小さな師範が一人。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「やっぱり、手首だけで振るクセ、直ってないな」
「ふえー、そうなんすかねー」

ブインブイン、と鈍い音を立てて振り下ろされる竹刀に突っ込みを入れると。
お手本を示そうとするタマを右手で制し、自ら竹刀を握り―――振り被った竹刀を一気に振り下ろす。

「こっから…こうだ!」

その切っ先はブレが無く、ゴウ、という力強い音を立て、しっかりと正中線上で静止した。
自身の素振りに、まだ七分八分だな、という感触を改めたコジローが目で促すと、

「…先生の振りで、概ねいいと思います」

タマもまた、師範の観点から素直な感想を述べる。
…が、同時に。
見せ場を奪われたヒーローはやはり、余り気分のいい物ではないらしい。
ほんの僅かに不満気な顔をタマが覗かせ、それに目聡く気付いたキリノが

「もー先生、お手本はタマちゃんが居るからいいんですよー、無理しなくても。ねっタマちゃん?」

と、取り成すと。
間に入ったつもりのキリノのその緩さに、今度は表情を強張らせるコジロー。
声を荒げる訳ではないが、ひといき大きく嘆息をつくと、静かに告げる。

「あのなキリノ……お前がケガするから言ってんだぞ?」
「えっ…いやー、その…」

何の競技をしようにも、スポーツで一番怖いのは怪我をする事である。
その次が、気の緩み。……言うまでもなく、怪我にも繋がり易い。
両方に当て嵌まってしまったキリノがしばらく言葉を失うのと同時に、
そのコジローの言葉にハッとさせられたのは、三人の中では最も熟練者であるタマも同様であった。

「でも、本当の事…です」
「え…?」
「今の先輩の振り方では…当たり方が悪いと、肩や手首を傷めてしまうかも知れません……あ」

―――――即座に。
今度は先輩相手につい言い過ぎてしまったのを反省し、とたんに蒼褪めるタマ。
しかしその2つの正論にしたたか殴り付けられた当のキリノはと言うと、表情は崩さず。
対照的に、申し訳なさでシュンとしたままのタマの頭を優しく撫でる。

「ありがとうねタマちゃん。気をつけるよ。ごめんねあたし、部長さんなのにね」
「いえ、あたし……言い過ぎました。ごめんなさい、失礼します」

そう言ってぺこり、と頭を下げ、逃げ去るようにその場を離れたタマが
遠巻きに様子を窺っていたサヤを中心とする野次馬たちに鹵獲される一方。
キリノは珍しい溜息を浮かべつつ、コジローにすこし、寄り添うと。

「ダメですねえ、あたしゃー…」

そう言ったきり、肩を落とす。
結局のところ――――はじめから何も、気付けていなかったのは自分だけなのだ。
二人ともが、自分の心配をしてくれて、それが有難い事で無かろうはずがない。なのに。
技術の拙さもよくないが、それ以上に心の問題として、汲み取る事の出来なかった事が恥ずかしい。
結果的に自分の余計なおせっかいは、タマにこれまた余計な一言を言わせてしまっただけだ。

――――そうして、キリノがはぁ、と二度目の溜息をつこうとした、その刹那。
その背中に、沈む肩に。そっと乗せられる、人の暖かみがある。

「ひゃっ!?」
「肩に力、入り過ぎなんだよ」
「…は。はい?え…あれえ?」

かたや。
ぷにぷにの頬を指で突付きつつ、タマから先程のやり取りの一部始終を聞き出しながら。
ふと、ミヤとサトリの驚きの表情から”それ”に気付いたサヤが、巨大な感嘆符を道場いっぱいに響かせる中。
我関せず、といった様子で………鮮烈に、見事に。”それ”は復活していた。
もみもみもみもみ。

「せ、先生?」
「おう、なんだ?」
「か、肩…」
「だから抜けって、力」

幾久しい感触に、緊張は増すばかりで肩の力を抜くどころではない。
しかし、知らぬ間に僅かに硬さを増したその掌のぬくもりは…
かつて自分がどんな風にその心地よさに身を任せていたかを思い出させるまでに、一秒と時間を待たない。

「は、っあ、あああ、あう」
「…変な声出すなよおい」
「あー気持ちいー…」

そのまま、しばらく両手の動きに身を任せていると、しかし不意にその動きが止まった。
首をぐいっと持ち上げ、訝しげに見上げると、彼はその頭越しに言葉を寄越して来る。

「…頑張ってる方だと、思うぞ?」
「な、なにがですか?」
「いやさっきの、タマの事にしてもな…」
「ああ、気にしないで下さい。あたしが変な事言っちゃったから」

ふと、そう口に出してしまうと、罪悪感が甦る。
おちゃらけ過ぎていた自分の態度が先生の怒りに触れ、
タマには言いたくもない事を言わせてしまった――――全て、自分の責任だ。
その重圧に、すっかりリラックス出来ていたはずの身体も自然と強張ってしまう。
しかし、その少し硬くなった身体を、じんわりと解き解すように。
指の動きを再開させるコジロー。

「いや別に…変じゃ、ないだろ」
「は、あぁ……へ?」
「俺が調子に乗ってた事も、分かんなかったしな。…そういう事じゃないのか?あれって」
「いえあの、タマちゃんが」
「知ってるよ。だから見せ場を取られて…悔しかった、てとこだろ?」
「!!わかってたんですか?」
「今にして思えば、だけどな。でも、そういうとこにサッと気が付けるだけ、お前はえらいよ」
「………」
「俺も反省しなきゃな」

――――コジローに、してみれば。
手本を自ら示してみせたのは、たまたまに過ぎない。しかし。

(それなりに振れるようになって、格好つけたかった…ってのも、あったか?)

思う。考えてみれば、たいした後戻りだ。
見栄を張ることで得られる強さなど、知れた物だというのに。
自分はここ数日の出来事で、それを大いに分かっていながら。
それでもやはり、教え子の前では。体裁を保っていたい、特に―――

「…なんすか?」
「いや」

――――この一途な、頑張りやの前では。

「…ほれ、終わりだ」

そう言って両手を離すと、解放された両肩を回しつつ、首を曲げるキリノ。
同時にコジローもまた、すこし肩揉みに疲れた首を鳴らすと。

”コキッ”

という、ふたつの音が道場に響き合う。
振ってみろ、と差し出された竹刀をグッと握ると、猫口をやめ、集中する――――キリノ。
一旦閉ざした目が、かっ、と見開かれると。

「てェいッ!」

翳りのない、健やかな掛声を追うようにビュン、という音が通る。
やわらかく絞り込まれた手首は竹刀をしなやかにしならせ、
その描く動線はそのまま持ち主の素直さを表す様にまっすぐな軌跡を描き、ぴた、と静止した。
それを繰り返すこと数度。

「ん。まあ、いいんじゃね」
「…ありがとうございます!」

軽く汗をぬぐい、ふふ、と満面の笑顔をつくったキリノは、そのまま一方の―――
未だ茫洋と立ち尽くすサヤ達のほうにその笑顔を向けると。

「よっしゃー休憩終わりっ!練習するよ皆!」

両手をぱんぱん、と叩きながら道場の中央に向けて歩き出す。
その背中をゆっくりと追いながら、コジローは。

(――――まあ、今は、こんなもんだろ。)

ふと、内心でそう呟いていた。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


結局、なにごともなく――――恙無く、本日のメニューは終了した。
まだ少ししこりを残すかも知れなかったキリノとタマの関係も、キリノの笑顔パワーにより

「ごめんねー」
「あ、いえ、こちらこそ…」

の、ただの二言で元鞘へと収まった。
そして今日もいつもと変わらず仕事を終え、クタクタの身体を抱えて帰途に着くだけの…はずだった。

「先生!ちょっといい?」

どえらい剣幕を抱えた、その声に呼び止められるまでは。
声の主はもちろんサヤ――――同じ鞘でも、随分違うもんだな。こいつのは。
コジローはふとそう思ったが、気の利いた喩えも特に浮かばなかったので慮外へと流した。
しかるに。

「キリノとタマちゃんから話は聞いたわよ!…全部先生が悪いんじゃない!」
「はぁ!?なんでそうなるんだよ!」
「だってそうでしょ?先生なんだから」
「う…そりゃまあ、そうなんだが」

”先生なんだから”。
たったの一言であのやり取りを括ってしまう事の出来る眼前のサヤに軽い尊敬をおぼえる。
それはまあ、先生なのだから、奇妙な見栄を張ってはいけない。
しかもそれが切っ掛けで、生徒同士の諍いを生むなど、もってのほか。
しかし、想像してみて欲しい―――歳が10足らず違うだけで。
十年前は自分も彼女らと同じような顔でただひたすらに竹刀を振っていた、だけだったはず。
それをたかが十年でいきなり聖人の様になれと言われても、それは少しばかりムチャな要求ではないだろうか。

(人生は、理不尽―――――まあこれも理不尽のひとつか。)

「…お前は、分かりやすくていいなあ」
「な、何がよ!?」

呆れる様なこちらの褒め言葉に、逆に警戒心を強めるサヤ。
ひとつ深呼吸を大きく吐き出すと、本題だ、という目をこちらに向ける。

「…まあいいわ。今日はそれより別の事」
「なんだよ」
「なんで最近、キリノを遠ざけてたの?」
「はあ?何だそりゃ?」

まるで覚えがない、というかヒントをくれ、とでも言わんばかりのこちらの対応に少し戸惑ったのか、
続く言葉はゴニョゴニョとつぶやくように小さな声になる。

「その、肩揉んだりとか、色々と…」
「…ああ!」

それか。
脳内で色々と結びつく物がある。
とはいえ、こちらにも明確な答えが用意できている、と言うわけではないのだが――――

「…問題があるからな、色々と」
「じ、じゃあ、今日はなんで?」
「あいつが落ち込んでるのなんて、見たいか、お前?」
「それは…ありがとうだけど…」

落ち込んでいた、という事実を今更ながらに知ったサヤが目を白黒させる。
遠目に見ていてもそんな事はわからなかった(第一タマに夢中だった)し、
後にした練習中の会話でもキリノはそんな話は一言もしなかった。
加えて言うなら、二人の話の中に先生を責める文言は一言も出て来ていない。
ただ状況的に自分が、目の前に居るこの人がしゃんとしていれば全てが上手くいく、と思い込んでいたに過ぎない。
――――必然、残りの疑問を搾り出す声は更にもっとか細いものになる。

「キリノに不満があったんじゃ…」
「あいつに不満なんかあるのかお前?そりゃ、贅沢ってもんだぜ」
「うぅ…」

徹底的にやり込められ、グゥの音も出ない。
ただ不満などない、と言うあまりにハッキリとしたその態度に、

(……ウソじゃあ、ないんだね)

そういう匂いは、間違いなく感じ取る事が出来た。
――――杞憂、だったのだ。何もかもが。取り越し苦労だった。
氷解してゆく疑問の数々に、しかし残った物が、ひとつだけ。

「先生って、どこまで分かってやってんの?」
「どこまでって……何の話だよ?」
「色々とよ!」
「あー、まあ、なんだ」


―――――大人はさ、ズルイもんなんだよ、色々と、な。


なによそれ、とその返答に鼻息を荒くしながらも。
その時のサヤの笑顔は、概ね―――満足気なものであった。
最終更新:2008年08月25日 20:47