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「はぁ」
 何処の誰だろうか、始めに幸せが逃げるなんて言ったのは。大体、吐くと逃げるのではなく、逃げるから吐くのでは
ないか。そう思わずにはいられなかった。
 風が桜の花びらを運ぶ。木々はピンクの衣を脱ぎ、黄緑の羽衣を身に纏い始める。陽光は明るく地を照らし、道行く
人々の顔を煌びやかに映し出す。薄く澄んだ青空は、新たなる旅立ちの日に相応しい。
 皆が希望に満ちた笑顔で家路を急いでる中でただ一人、川添珠姫だけが沈痛な面持ちでトボトボと歩いていた。
「……なんでなんだろう」
 溜息と共に自然にぼやきが口を吐いて出る。それと共により深く、より暗く気分は沈んでしまう。
 こんな筈ではなかった。今朝、学校に着くまでは他の人と同じ様にこの先の新しい生活に希望を抱いていた。
 それが何故、今はこんなに沈んでしまっているのか。その原因は数時間前に遡る。

 
「あ、タマちゃん。おはよう」
 登校途中、背後から話しかけられる。その声は彼女のよく知る人物のものであった。
「……おはよう、ユージくん」
 振り返ると彼女が思い描いた通りの人物が此方に歩み寄って来る。彼が傍に来たのを見計らい、再び歩みを進めよう
としたが、何故か彼は棒立ちしたまま動かなかった。
「どうしたの?」
 呆気に取られた彼の眼は珠姫を見ている、もっと言うなら彼女の服だ。
 なにか可笑しい所でもあるのかと珠姫は不安になってしまう。この服を外で着るのは初めてで、家で試しに着た時も
何処か違和感があった。
「……何か変かな?」
「全然そんな事ないよ」
 つい口に出てしまった不安。だが、彼の言葉はそれを拭い去ってくれた。
「おかしくないし、むしろ似合っているよ」
 そう言う彼の言葉には軽薄さは無く。真摯に、心の底からそう思っていると珠姫は感じ取った。それは彼女の心に染
み渡り、温かくさせる。
「……そう」
 嬉しい。嬉しいのに発すべき言葉が見つからず、つい素っ気無い返事になってしまう。それが悔しくて悲しくて、俯
いてしまった。
「それに変って言うなら、俺の方だよ」
 襟の止め具を弄り、自重気味に言う。それは珠姫が感じた違和感と同等のものであろう。はじめての事に対する奇妙
な感覚を彼もまた覚えたのだ。
「そんな事ない。ユージくんもすごく似合ってる」
 だがそれも本人が感じるに過ぎず、他者もそう感じるとは限らない。
 真っ直ぐに彼の目を見て、そう豪語する珠姫。その強い光を宿した瞳に圧倒された彼は軽く笑いながら頬を掻くばか
りであった。
「……えっと……じゃあ行こうか。時間もないし」
「うん」
 首肯し、彼と共に歩みを進める。新たな生活へ、新たな学校へと。

 じっと見詰めるその先には巨大なパネルが何枚も設置されている。そのパネルには模造紙が貼られ、幾多の名前が羅
列している。所謂、クラス割り名簿である。珠姫はその羅列の中から目的の字列を探し出そうとするが、何度見返して
もそれは見つからなかった。
「……クラス、別れちゃったね」
 そう言った彼の言葉に若干の無念さを感じ取り、何処か満足する。彼も自分と同じ気持ちになっていると。
 だが、それに満足してはいけない。クラスが別れると言う事は、それだけ一緒の時間が減るのだ。今年から会えない
事が多くなると言うのに喜んでいてはいけない。
 ちらりと横にいる彼、幼馴染である中田勇次を見る。少しは残念そうな顔を見せたが、今は違う事に関心があるのか
此方を見ずに体育館をじっと見詰めていた。
 

 彼、中田勇次とは幼稚園以来の付き合いである。何時、どのように知り合い、友達となったかは全く覚えていない。
気が付けばそこにいた、そんな感じである。珠姫の実家の道場にもいつの間にか入門していた。そこにいるのが当然で
その存在を疑った事もなかった。この先もずっと自分の傍らに居てくれる、そう信じていた。誰が居なくなろうと、彼
だけは、ずっと。
 だが、あの日そんな事は夢幻でしかない事を思い知らされた。
 あの日、珍しく町が雪化粧に覆われたあの日。張り詰めた空気、全身を振るわせる寒気、足下を貫く痛み。それより
も冷たく、痛かったのは彼の言葉であった。
『今月一杯で辞めます』
 解らなかった、その意味が。勇次が何を意図してソレを発したのか、珠姫には理解出来なかった。
 真っ新になる、虚無、虚脱そして喪失感に襲われる。それは以前襲われた時と同等かそれ以上に思われた。それくら
いに彼の言葉は衝撃であり、且つ彼女にとっての彼の存在の大きさを物語る。
 嫌だった。そんな事は一刀の元に斬り捨てたかった。
 でも、出来なかった。言葉が喉に引っ掛かり出てこない。一番言いたい事が言えなかった。自分の口下手が恨めしく
思えたのは後にも先にも、この時ぐらいだろう。それほどに口惜しかった。

 後から聞かされた話では、進学して更に高度になる授業に対応する為の勉強時間を確保しなければならないから、道
場を辞める、そうだ。
 よくある話であるし、事実珠姫の道場でもそう言って辞めていく人は多い。万人が納得できる理由である。
 だが、珠姫には納得出来なかった。それは彼女の我が儘や夢想の為ではない、彼女が勇次の剣道好きをよく知ってい
るからである。そのくらいの理由では彼が道場を辞めるなんて、到底信じられなかった。
 しかし、信じようが信じまいが、彼が辞めるのは事実である。足掻く事の出来ない珠姫はその不信と不満を籠めた視
線を彼に送る事しか出来なかった。それが功を奏したのかそうでないのか、彼は最後に、
「ごめんね……でも、剣道は続けていくから」
 そう残して道場を去っていたのだ。

 見渡すと見知った顔とそうでないのが半々くらいだった。教室の内装はそう変化したように思えないが、机と椅子は
前より一段大きくなった気がする。珠姫にとっては特にそう感じられた。
 教室内ではまだ同じ出身校同士で固まっている。それぞれが互いに距離を取り合って牽制する。このぎこちなさはこ
の時期特有のものと言える。その中でもあえて、果敢に他校出身者に突撃する勇者もいるが……
 そんな光景を横目に珠姫は窓の外を見ていた。一人でいるのは彼女の社交性の無さが原因でもあるが、今はそれより
も考えなくてはいけない事があるのだ。
 それは勿論勇次の事である。道場でも逢えなくなるのに、クラスまで違ってしまっては一緒に居られるのは登下校の
時くらいしかない。いや、下手をすればそれすらなくなる可能性すらあった。
 彼の、道場を去っても剣道を続けると言う言葉。それは剣道部に入部するという意味なのではないか。だとすれば、
下校時は当然の事、登校だって朝練があれば一緒になる事は無くなってしまう。そうなれば彼との接点は皆無になって
しまう。
「……そんなのいやだ……」
 どうすれば彼との接点を保つ事が出来るのか。その答えは実に簡単なものである。
「……剣道部に……入部する?」
 実に解りやすく、これ以上もこれ以下もない手段だった。そうすれば万事解決の上、三年間は、例えクラスが違った
として、接点を保ち続ける事が出来るのだ。
 だが、彼女はそこで戸惑いを覚えてしまう。それは彼女にとって剣道がどういうものなのかに起因していた。
「でも……家でもやってるのに、学校でもするの……?」
 彼女にとっての剣道は、食事、入浴、睡眠と同じ様に生活の一部である。わざわざ学校でもする意義が解らないのだ。
 しかし、勇次と一緒に居るには剣道部に入るのが一番の上策である。ならば、やはり入るのが賢明ではないのか。
 と、そこでふと気が付く。何故自分は勇次にここまで固執しているのだと。
 小さい事からずっと一緒だから、一番親しい人だから、自分を理解してくれる人だから。理由は色々と思い浮かぶが
それは正解であり、間違えである。確かにそうだが、そうではない。彼がいるのはそのさらに上だ。
「……よくわからない……けど」
 珠姫にはそれがまだ解らない。今、解る事は、彼とずっと一緒にいたい、と言う事だけである。

 結局、悩みは解決しないままに学校は終わり、下校の時刻となってしまった。


 隣では勇次が自分のクラスの事を話していた。が、珠姫はそれを上の空で聞いていた。
 こうして二人並んで歩くのも無くなってしまうかもしれない。それは非常に寂しいし、悲しかった。
 それを防ぐ答えはある。だが、その決断が出来なかった。そして、何故そう思うのか、その理由が出ない。
「……タマちゃん、どうしたの?何か悩んでいるの」
 僅かな機微でも、彼は見逃さない。此方の心情を汲み取り、答えてくれる。それは勇次が珠姫を理解してくれている
と言う事である。そして、自身を理解してくれる者が居る事は最上の喜びである。水魚の交わりと言うが、珠姫にとっ
て勇次はまさに水であった。
 嬉しかった。でも、何となく彼には話してはいけない気がした。
「……別に、なんでもないから」
 だから、素っ気無く返し話さなかった。胸にチクリと小さな痛みを感じる。
「……そっか」
 彼の返事もどこか素っ気無く聞こえたのは自身の後ろめたさの所為なのだろうか。

 気が付けば、もう勇次との別れ道であった。また明日、と言い自分の家に足を向ける。
「待って、タマちゃん!」
 歩き始めたところで呼び止められた。振り返ると、何かを決意した目で勇次が立っていた。
 一体なんだろうと、疑問に思いつつ彼に向き直る。
「あ、あのさ。いっ……。け、剣道部に入らないかな?タマちゃん」
 虚を衝かれた。まさか、彼から言ってくるなんて思いも寄らなかった。正に青天の霹靂である。
 だからだろうか、珠姫が咄嗟に出した言葉は、
「え、えっと……なんで?」
 であった。
 それは一種の期待であった。勇次もまた自分と同じ気持ちを抱いているのではないかという。
 だが、変なところで鈍い彼にはその真意は届かず、別の答えを導き出してしまった。
「え!?い、いや、別に嫌ならいいんだよ。無理強いはしないから。じゃ、じゃあまた明日!!」
 そう捲し立てて言うと砂埃を撒き散らし去ってしまった。
 呆気に取られ、気が付けば珠姫一人が取り残されていた。よく解らない、よく解らないが、兎に角選択肢を間違えて
しまったのは確かに違いなかった。


 その後、勇次が勧誘してくる事はなく、結局珠姫は剣道部には入部しなかった。そして、珠姫は学校生活において剣
道のけの字も出す事はなかった。むろん選択授業のときもそれだけは選ばなかった。
 後に彼女は語る、「ユージくん。あの時の分も含めて慰めてください」と。

 彼女の望みが叶うのは、更に先の三年後。2人の進学先、室江高校剣道部においてである。