一昨日も雨。昨日も雨。今日も…天気予報は、一日雨。
トレードマークの向日葵の傘を広げ、裏門を通り抜けながら、キリノは溜息をついた。

――――別に雨はきらいじゃないけど、これだけ続くとねえ。

洗濯物が干せない。手の平がパサつく。学校に行くにもバス代が嵩む。
勿論、ジメジメとした梅雨の空気は微妙に日本独特の「和」を感じて嫌いではないし、
この時期特有の苔生す防具から薫る香りは中学の頃から何よりの大好物、なのだが。

――――にしたって、続きすぎでしょお…?

そう一人ごちながら、いつもと変わらない道場を一瞥して通り過ぎようとした、その時。
よく見ると、見慣れないみかん箱が道場の植え込みの脇に捨てられている。

「おりょ?」

その中を覗き込めば、白い生き物がぽつん、と中にいる。
猫のような猫でないような、ふてぶてしい面構えのその奇妙な生き物は、
こちらが覗き込むと同時に、開いているのか分からないような目姿をし、しかし強い眼光でこちらを見上げ返してくる。

「…捨て…ネコ?」
「………」

見た所、ぽわぽわの毛は既に随分雨足に晒され、じとじとしている。そもそもみかん箱自体がもう、グショグショだ。
身体も小刻みに震えており、すぐにどうこうという事はなさそうだが、このまま放置しておけば……少々後味の悪い事になりそうだ。
そう考えたキリノがみかん箱の端に手をかけ、まず道場の屋根の下へ運ぼうとした所。

「………!!」

何故かは分からないが、箱の内側から激しい抵抗運動が起こり、爪でがりがりと中の箱を引っ掻く音がする。
どうやらここを移動してはいけないらしい。或いは、ご主人様がお迎えに来るのを、待ってるのだろうか。
キリノは少し眉間に皺を寄せ、そっとみかん箱にかけていた手を離すと。

「ふぅ、まあ、しょうがないか…」

そのまま、みかん箱を覆うように、植え込みに自分の向日葵模様の傘を挿すと、
鞄から取り出したハンドタオルで優しく白い生き物の身体をくるむ。
入れ替わりにキリノ自身の体が雨足に晒され始めると、心配そうに箱から見上げる目線。

「なに?心配してくれてるの?大丈夫大丈夫、あっはっは……よし!拭けたよ」
「………」

そのまま、ブルブルブル、と体を震わせ雫を飛ばすと、多少のぽわぽわ感を取り戻す体毛。
それを見て満足したキリノがタオルを底に敷き、じゃあね、と立ち去ろうとすると。

「…~~~…」

にゃー、でもなければ、なーお、でもない。
およそ一般的な猫の鳴き声からイメージできる響きとは全く異なる人間の言の葉が、
しかも耳を通じてでなく、頭の中に直接聞こえた気がキリノにはした。
数メートル進んだ先でおそるおそる振り返ると、みかん箱はそのまま、傘もそのまま、雨足を凌ぎ続けてくれている。

「……ありがとうね、変な生き物ちゃん」

そのまま、駆け足で雨と戦いながら校舎の方へと翔けて行くキリノ。
道すがら、その心の中には、先程聞こえたような気がする言葉が残響音のように響いていた。


――――"叶えて、あげるよ。"って……どういう意味だろ?



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さて、放課後になったというのに、雨は一向に止む気配を見せずに勢いを増している。
ソフト部の友達二人は練習がお休みになって嬉しそうに顔を見合わせると、そそくさに帰ってしまったが…
剣道部ではそうも行かない。雨の日であろうと、たとえ槍が降ろうと、部活は恙無く行われる。

――――でも。

自分には部活を休みたいと思う理由など何一つも無い。あの貴重な、大切な時間を。
そう思うとキリノには、剣道が屋内競技である事にむしろ感謝したいくらいの気持ちであった。
てきぱきと日直の仕事を仕上げると、片付けを終え、いざ道場へ。――――しかし、心配事がひとつ。

――――あのみかん箱…大丈夫かな?

やっぱり強引にでも屋根の下に運んであげるべきではなかっただろうか。
傘を借りて、お昼に様子を見に行けばよかったという後悔が、道場へ向かうキリノの足を少し急がせた。
なおも雨足を強め、吹き付ける豪雨にめげずに道場に辿り着くと……箱は、ない。

「…もう誰か、持ってっちゃったかな…」

思わず口に出しながら、入口の屋根の下でどうにか雨露を掃うと、いつものように挨拶を―――と。しかし。
今日はどうしたものか、大きなタオルで頭を拭く先生が居るだけだ。

「よぉ、おはようさん。……なんだ、ずぶ濡れだな」
「なんで今日、先生一人なんですか…?」
「ここ、校舎から遠いだろう?流石にこんだけ雨だと、出席率悪いんだ、昔から。……てかお前、タオルは?」
「あ…えっとぉ…」

変な生き物にあげました、ではなんの説明にもならない。
そもそも先に来ていた先生なら、ひょっとしてあの子の事も何か見ているのではないだろうか。
まず何から尋ねるべきか、答えるべきか。キリノが頭の整理をつけていると。

ぽさ。

ずぶずぶのキリノの頭に、かけられる大きなタオル。
そのままコジローがわっしゃわっしゃと両手を動かすと、
髪の乾き具合と反比例するように混乱を極めるキリノの脳内。

「……うそだよ」
「…ほへ?」
「これ、お前のだろ?」

そう言ってコジローが差し出す傘は、
向日葵の模様がぎっしりと描かれている―――紛れもない、キリノの傘。

「タオルの方は今、洗濯機で洗ってるよ。でもこんな悪趣味なの、お前のだってすぐ分かったぞ」

その言葉の端々に見える断片情報から、どうにかあのみかん箱をどけた人物にアタリはつく。
では、その中身はどこへ行ってしまったのだろう。

「あの…変な生き物は……」
「ん、ああ…」

軽く汗をかきながらコジローがちら、と道場の隅に目をやると。
その先にはまるでこの道場の”主”のように居座る白い生き物が一匹。
気のせいか、見つけた時よりもその姿は白く光っているように見える。

「俺がきた時にもう、ドロドロだったから…シャワー浴びるついでにちょっと洗ってやったんだよ」
「……先生、猫とか飼ってた事あったんですか?」
「ああ。…知らないか?酒屋と猫って相性いいんだぜ。ウィスキーキャットつってな…」

コジローの語る薀蓄はともかく、拾ってくれていた事でもう既にキリノの胸は一杯であった。
しかし同時に、引っ掛かる点がひとつ。

「あの子、ダンボールから出そうとした時に…渋りませんでした?すごく」
「…いや?最初から随分人懐っこい奴だなって感じだったけど」
「……あれえ?」

では、あの抵抗は何だったのか。
ふと少しキリノは思い悩んだが、案外考えてみれば簡単な事ではあった。

――――じゃあ、先生を待ってたんだね、あの子も。

とりあえずそう思ってしまえば、何とはなしに笑みがこぼれる。

「…何がおかしいんだ?」
「…ううん、なんでも!」

そのまま思い切って近付き、抱き上げる。―――今度は、抵抗はない。
嬉しそうにはしゃぐキリノに、コジローはやれやれ、とひとつ嘆息をつくと。

「しかし、どこで飼うかだな…俺んちは下宿でペットNGだし…」
「あたしんちのお店も、衛生面の事で何か言われるかも…」

言葉の上でのやり取りがそう交わされ、しばらく悩んだような素振りを見せると…
どちらから、というでもなく、ぷっ、と同時に笑い出す二人。
結論は既に、お互いの胸の内にある。

「じゃあ、やっぱり…」
「ここで飼ってあげるって事で!ですね?」

そういって、キリノがぱあっと笑顔を輝かせると、どこか茫洋とその光景を見ていたコジローははっと我に返り、目を逸らす。
照れ、と言っていいのかも知れないが、それ以上にこうした気持ちは中々態度や言葉に表せるものではない。
……変な物を愛でるその姿に、一瞬自分の母親を重ねていた、などとは。
堪らずに違う話題を振ろうとするが、それも僅かにキリノの方が早かった。

「この子…なんて名前にしましょうか?」
「ん?うん…そうだな…猫っぽいし猫っぽくない…」
「じゃあ…」

『”ねこ”!』

声が被さり、再びどちらからともなく失笑が漏れる。
一緒に居て、どうしようもなく楽しいこの時間。―――永遠に、なんて…続くはずもないのだけど。
ふと、今朝の不思議な声が脳裏を過ぎる。

―――"叶えて、あげるよ。"

思わず頬を上気させ、抱き締めたままねこの頭を撫でるキリノ。

「…ありがとうね」
「???」
「…何でもないっすよ、さあ、練習練習!」


しかしその願いが、本当の意味で叶えられるには……更に、もうしばらくの時間を待つ事になる。



【終】
最終更新:2008年07月14日 12:06