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――――あのときから。
あの日、あの人への想いをはっきりと自分の中に見つけた瞬間に。
今迄感じた事のない喜びで体中が溢れんばかりに満たされた。
それは驚愕でもあり、嬉しい驚きだった。
その気持ちのままに零れた笑顔は今にして思うと、人生で一番の喜びを湛えていたかもしれない。
片思い。一方的な自己満足に過ぎないキモチ。おそらくは、明かされる事はこの先ない。それで構わない。
ただこの満ち満ちた気分を抱えながら自分は、自分のやるべき事をやっていけばいい。少しの寂しさは、あるけれども。
(そんな風に、考えてた…)
自分はそこまでお堅い人間ではないけれど。理性的な方ではあると思っていた。
セルフコントロールも、言ってはなんだが他の部員と比べれば利く方だという自負も、あった。
(…はずなのに、なぁ?)
しかしながら。いつの間にか生まれた、この想いを相手に伝えたいという欲求は日々募りに募り続け…
あの人との、今迄とは異なる関係を求め、今でも身体の中でうねり続けている。
いや、もしかすると実はそんな欲求はずっと昔からあって、知らないふりをしていただけなのかもしれない。
「……どうしたものかね」
心の声に、やっと実声が追いついた。


 そう呟いてからも、キリノは姿勢を崩さず、試合場の真ん中にいる二人を見つめている。
 そのうちの一人がそっともう一人の肩を叩くと、一人は俯いたまま自陣に戻り、そしてもう一人は…
 ゆっくりと此方に帰ってくるコジローを、キリノは複雑な思いで見つめていた。
「大人になってから…本気の出し方、忘れちまうぞ?」
 激昂のあと静まり返った道場に、その声はやけによく響いた。いやむしろ心に、と言うべきか。
 深い意味まで察する事は困難だったが、その言葉は自分に向けても放たれている。それはおそらく明白だった。
(大人に、なったんだねえ…先生。)
 多少おどけ混じりにもそう考えてみると、不意に心臓が早く脈動を始める。
 その余りの激しさに、音はもしかしたら道場中に響いているのではと錯覚するほどだった。
 やがて試合を終えたタマが隣に座り、続いてユージに審判旗を預けたコジローがその隣に腰を降ろすと、
 依然として自分を急かし続ける心臓の早鐘とは裏腹に、顔を上げる事ができない。
「………キリノ先輩?」
 こちらの様子を気にしたタマが面を取り、訝しがっている。心配をかけるわけにはいかない。
「…んーん。大丈夫だよタマちゃん。お疲れ様。また、たくさん試合しちゃったね」
 タマがそんな、と言って頬を染めると、その向こう側に、いつになく真剣な表情のコジローがいる。
 そのまま見入ってしまいそうだったが、コジローはしばらくすると視線に気付いたのか、驚いたような顔を見せる。
「お、お前等……どーしたの?」
 気が付けば、コジローを見ているのはキリノだけではなかった。
 先鋒のサトリから、大将のタマまで。全員が面を着けようとするコジローに注視している。
「先生…ホントに石橋先生と試合するの?」
 沈黙を破り、最初に言葉を発したのはサヤだった。
「勝てるんです…か?」
「無理はよくないぞ」
「殺されちゃうんじゃ…」
 そのまま、皆が身を乗り出し、次々に不安を口にする。キリノも何か言わねば、と思うが、言葉が出て来ない。
 コジローがそんな自分の信用の無さに苦笑を浮かべつつ、淡々と手ぬぐいを頭に巻いていると、
 初めて、不安ではない純粋な励ましの言葉がその耳に届けられる。
「先生、頑張って下さい」
 その声に反応し、う、とキリノが喉元まで出かかった言葉を飲み込む。先んじた声の主はもちろんタマ。
「おお、ありがとうなタマ」
 コジローはそう言うと、少し目を見開いたままギュっと手ぬぐいを堅く縛った。
 それと同時に、先程までの不安の声は熱い声援に変わる。
「そうだよ先生、頑張れっ!」
「見せて下さいよ、先生の実力を」
「が、頑張って下さい…!」
 一度飲み込んだ言葉を咀嚼し、再び気持ちを乗せて伝えるまでのタイムラグ。
 戸惑うキリノはその故に、周囲に溢れる声援のことばにも、自身の気持ちを乗せる事が出来ないでいた。
(いつもの自分だったら…)
 こんな逡巡は無かったろう。だが、どう足掻こうとも今の頭の中は真っ白であり、
 「がんばって」のただ一言の発声方法もこの口は忘れてしまったかのようだ。
 また自分の思い込みに違いないが、キリノはふしぎと、面を着けるコジローの所作がゆっくりに見え、
 自分からの応援を待ってくれているようにさえ思えていた。
 しかし焦れば焦るほどにますます言葉は出て来なくなり「あ…」とか「が…」とかの意味を成さない文字列を撒き散らすのみ。
 そうこうしている内に、ついに面を着け終えたコジローは立ち上がると、
「じゃあ、いっちょ行ってくらぁ」
 キリノの方へ向けて威勢良く、そう言い放つ。
 それと同時に、キリノは先程の思い込みが実は思い込みではなかった事に気付いたのだが、時既に遅し。
 両陣営からの声援が飛び交う中、コジローの身体はもう試合線の内に踏み出されようとしており、
 声の出せないキリノとの距離は絶望的に拡がってしまった。
 自分の不甲斐無さに、もういっそ涙まで零れそうだったが、もう一度だけ歯を食いしばり、声を出そうと藻掻いてみる。
「がん…ば…」
(頑張って、先生…!)
 それでもやはり気持ちだけが先に飛び、言葉は人間の声のかたちをなさない。情けなさと罪悪感で胸が締め付けられるようだ。
 しかしその、伝わるはずの無いキリノの声に反応したコジローは、少しキリノの方を振り返り、軽く右手を挙げると、
「――――おう!」
 しっかりと、そう答えた。
 それはまるで、キリノの声にならない意思が何か不思議な力によってテレパシーのようにコジローに伝わったかのようだった。
(…え?)
 キリノはそれが、しばらく理解できなかったが、不意にその意味に気付くと、顔が赤くなるのを止めようがなかった。
 声とは、想いとは違う。例えば調子によって様々に意味を変え、また善意のことばに悪意を、悪意のことばに善意を持たせる事も出来る。
 それが声と言うものであって、また、どれだけ正しく伝えようとても少なからず誤解を孕んでしまうのを避けられない性質を持っている。
 ところがそういう声の性質の壁を乗り越え、想いをそのままの形で伝えられるとしたら、また伝わってしまったとしたらどうか。
 キリノが自分の裸の気持ちまで読まれてしまったような錯覚を覚えたのも、無理なからぬ事ではあった。
 そしてそれはキリノ自信の気持ちにも、思わぬ効用をももたらす――――開き直り、という形での。
 やがて審判役のユージの「はじめ!」の号令が鳴り響くと。
 室江側からいのいちに、一際大きな応援の声が飛んだ。

「頑張れ、センセーっ!!」



【終】