(おりょ、竹刀…割れてる)

キリノがその異変に気付いたのは、
昇龍旗に向けた練習の日々、その締めの地稽古の途中だった。

「センセー、ちょっと竹刀替えてきていいっすかー?」
「なんだ、割れたのか?…しょうがないな、丁度キリもいいし、休憩にしよう」
『はーい』
皆がそう言うとすぐ、用具室に入り、竹刀入れから出来るだけ新しいのを、と物色するキリノ。

(なんだか、傷んでるのばっかりだなあ…)

代々の先輩方が置いていった竹刀も、もう殆どがボロボロになるまで使い込まれている。
それはとりもなおさず、ここ数ヶ月の部の充実振りを物語っていた。
しかしそれが同時に、キリノの胸を締め付ける。

(…これで…よかったん、だよね。)

まだ胸中の複雑な思いは抜け切らないが、それは自分で決めた事。
納得してくれたとは言え、結果として二人を切り捨て、部の存続を決めたのは…己自身なのだから。
自分たちはあの二人の分まで部活動を、精一杯楽しまなければならないと言う義務がある。
その思いで今日までやって来て、今の充実がある。それを忘れる事は出来ない。
竹刀の山を掻き分けながらそんな事を考えていると、
背後から顔の横にスッと差し出される――――竹刀の柄。

「これ…使うか?」
「コジロー先生…」
そう言って先生の差し出す竹刀は、使い込まれてはいるものの…
ささくれの一つもなく、手に持ってみると軽く、自分でも扱いやすそうな物だ。

「でも、いいの…?」
「ああ、別に。俺んちにまだ同じのが一本あるからな、それに…」

(……どっちかっつーと、俺がお前に持ってて欲しいからな。)

「???」
「何でもない、さ…戻ろう」
そう言って、用具室を出て行こうとする先生に、どうしても聞きたい事がひとつ。

「先生…これで、ホントによかったの?」
ぴた、と足を止める先生。その背中は、微動だにしない。
元より曖昧過ぎる、相手を困らせるだけの問い掛けだと言うのは、分かっているつもり。

(…でも、聞かずにはいられない。)

その問いに、しばらく立ち止まった後、振り返ると…
困ったような苦笑を浮かべるコジロー。

「さあ、なあ…」

それはどうしようもなくいつもの先生の反応で…
今は少し、その軽さといい加減さに腹の立つ所もある。
でも、それこそが自分の守りたかった物なのだから…仕方がない。
こんな重荷は――――自分だけが背負い込んでしまえば、それでいい。
キリノはそう思い、深く嘆息をつくと、出かかりそうな忌み言を飲み込んで、何か…明るい話題を探す。

「…でも、あとは……明日の昇龍旗大会であたしたちが実績を残すだけですね!」
「ん?ああ…そうだな」
「??嬉しくないんですか?タマちゃんが優勝すれば、先生のクビだって…」
「…そう……だな。でもタマだけじゃなくて、お前も頑張ってくれよ、部長さん」
「いえっさー!」

そう言い残し、コジローの脇を抜け勢いよく用具室を飛び出して行こうとする所で…
ふと立ち止まるキリノ。

「そういえば先生この竹刀、ありがとうございます!大事に使いますね」
「あーいいよいいよ、持っとけ持っとけ」
「二人の愛の竹刀ですねー」
「…何を言ってやがる」

そう、あくまで自分の気持ちを茶化した…冗談のつもりだった。あんな事があるまでは。

―――――大会のさなか、先生が姿を消す、その時までは。


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あれからあっという間に、半年が過ぎた。
吉河先生から全ての顛末を聞き、何もなくなった先生の机の前で泣き崩れた事も。
実りこそしなかったけど…コジロー先生の行動をムダにしない為に、
剣道部皆で外山君と岩佐君が部に戻れるように働きかけた事も。
全てがあっという間に過ぎ去り、過去の出来事になってしまった。

(…でも…いつも…)

自分の傍らには、先生のくれたあの竹刀があった。
辛い時や、困った時、悩んだ時…そんな時はいつでもあの竹刀を振れば、吹っ切れるような、そんな気がして。
そして、きのうは―――――

(まさか…ね。)

そうとは思いつつも、自然とキリノの顔がほころぶと、
その様子を見ていたサヤが、訝しげに問い掛ける。

「…何か、いい事でもあった?」
「??ううん、なんで?」
「いや、久し振りに見たからさ、あんたのそういう顔」
「そうかな…」
道場へと歩く道の途上、親友に指摘されて初めて、自分の纏う雰囲気のおかしさに気付くキリノ。
気恥ずかしさと期待感が綯い交ぜになり、勝手にテンションが上がる。

「…サヤ、早く行こう!」
「はいはい…」

駆け出して道場の扉を開くと、そこに待っていたものは――――
新しい仲間と、新しい生命の誕生と、そして。



”―――俺の名は、武礼葉武礼人!!”




…その声と姿は、まぎれもなく。
感情に突き動かされ足が前に出る。
ただ一つの単語が頭の中をうめつくす。

「……せんせえっ!せんせえっ!…ふっ、うっ…せんせえ~っ!」
『おかえり、先生!』
「…ただいま」

二人きりの思い出が。
楽しい部活の思い出が。
悩み続けた三ヶ月の出来事が。
そして、あっという間に過ぎ去った半年間の全てが…
輝きの中で満ちてゆく。

そしてまた、竹刀袋にぶら下げられたマスコットは―――
何よりも雄弁に自分達の繋がりを気付かせる。
”何で”、好きだったのか…こんなにも。

(こういう人、だからだ……)

昨晩解き明かせなかった謎が、音を立てて氷解していく。
何より、誰より―――時には、生徒と先生と言う壁を超えてさえ―――自分の、気持ちを察してくれる。
それは不満を燻らせ続けたあの三ヶ月の間であっても……そうだったのだから。
つまりは、あの竹刀をくれたのも―――

自然と、涙がこぼれる。
そして気付く。返さなければならないものの存在に。

「今日は、倒れるまでやるぞぉーっ!!」
喜びは抑えられず、その声が高く響き渡ると…帰って来たばかりのコジローの口元が少し緩む。
面越しではあるが…何故か、キリノにはそれが見えたような気がした。


― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


「先生、これ…」

稽古が終わり、掃除も終わって一段落ついた時間。
他の皆は気を利かせてくれたのか、すぐに出払ってしまった。
誰も居なくなったのを確認すると、竹刀を抱え、同じく竹刀を袋にしまおうとするコジローの傍に立つキリノ。

「…ああ、別にいいのに」
「いりませんよこんな…誰が持っても蛍光灯割っちゃうような竹刀なんて」
「…って…お前もやっちゃったのかよ。呪われた竹刀だな…はは…」
コジローがひとつ苦笑いを作ると、
キリノはそれに応えるようにくすくす、と小さな笑みを浮かべ、そのまま続ける。

「でも…おかげで…」
「ん?」
「先生が帰って来るの、この子が教えてくれて」
「そっか…」
「他にも…たくさん…」
「…うん」
キリノが隣に屈みこむと、座り込んだままその頭を撫でるコジロー。
少しづつ、ゆっくりと―――隔てた時間を、解きほぐすように。
すると下から、少し驚いたような表情で、コジローを見上げるキリノ。その瞳は潤んで揺れている。
そのまま、撫でる手の方へと身体を寄せていくキリノ。その小さな身体がぴったりと腕の中に収まると。

「でも…先生?」
「ン…どした?」
「あたし、本当に悲しかったんだから……!」
「あっ…ああ…ごめんな、本当に」
「もうっ……もう、あたしに隠し事しないで…」
「…ゴメン」
震える声でそう告げると…
頭は撫でられたまま、コジローの身体に抱き付き、
ひと時前と同じように顔を胸に押し当てるキリノ。その体もまた、強張り、そして震えている。
そのまま、抱き付く腕の力をひときわ強くし…ひとつ、生唾を飲むと。

「大好き」
「…うん」
「迷惑かも知れないけど…大好き」
「うん」
「…先生は?」
「迷惑なわけが…ないだろ」
「うれしい…」
そういうとコジローの方も、キリノの体を抱き寄せる。

「おかえり、センセー」
「ただいま…キリノ」

その声が重なり、そして――――



二人のすぐ傍で、二本の竹刀だけが折り重なるように融れ合い、見つめていた。




終わり
最終更新:2008年06月10日 07:58