時は元禄から宝永に移り変わる少し前。将軍綱吉の治世によって、日ノ本の人々は太平を謳歌していたという。
そんな時代のある地方、ある場所に川添藩という藩があったそうな。
その藩は、人々からの信頼も厚い藩主・川添三十郎が治める豊かな藩であった。
藩主は、正室・椿をたいそう愛していた。また、その間に生まれた姫・タマキを、それこそ珠のように大事に育てていた。
そのため、許婚である中田藩の跡取り息子、中田勇二とタマキとの仲はなかなか進展しなかったそうな。
今回は、そんな忘れられた時代の忘れられた逸話を紐解いていこう。

 始まりは、何の変哲もない春の日の午後である。
中田藩の息子と数人の供を連れて、川添城のお姫様は歌舞伎を見物に来ていた。
手には、この時代の浮世絵師・谷口悟郎丸が執筆したばかりの最新浮世草子「浮世絵と夢(どりいむ)」が収まっている。
 このお姫様、歌舞伎が大好きで今でいうオタクであったらしい。
当時、川添藩でのみ流行していた演目「無礼怒!無頼派」をはじめ、
「越す武士13(こすもののふ13)」や「待てい! 在る恥ずる」、「清村氏と杉小路氏よ」など、
ありとあらゆる娯楽を、町人に変装して見物していたと記録には残されている。
 そんな姫様がいつものごとく歌舞伎を見物し、城へと戻る途中、姫は茶屋に立ち寄っていた。
お供が団子を毒見をしたあと、姫は団子を口に運ぼうとする。そのとき、眼鏡をかけた1人の街娘がとことこと茶を運んできた。
 そして、「あ」と一声もらした後、石につっかけて転んでしまう。また、運の悪いことに運んでいた茶は姫の着物にかかってしまった。
「ごごごごご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!」
「すみません、店の者が粗相を……こいつ間が抜けているもので……ほら、サトリあやまらんか!」
「すみません、すみません!」
 店の主人と、サトリと呼ばれた街娘が必死に謝る。
 その様子を見て姫は「苦しゅうない。着物にかかっただけじゃ」ととりなすが、許せないのはお供たち。
やれ、切り捨てろ。打ち首だ、と騒ぎ立てるのである。
「困りました……勇二殿いかがいたしましょう」
 タマキが困り果てて中田勇二に顔を移す。タマキの困り顔を見た勇二はお供に話しかけた。
「まあまあ、ここは一つ。俺の顔を立てて不問ということでどうでしょう」
「中田殿! 甘すぎますぞ」
「んー、ではこの娘を城に奉公させて姫の世話係にするというのはどうですか。
 姫に対する粗相をつぐなうという意味でもいいと思いますが」
「私はかまいません」姫が中田に続いた。「それに」
 それに友達も欲しかったし、と心の中で姫はつづけた。姫は立場上、同年代の友人が少ない。
林家の幼女・お芽衣、彼女の藩で剣術指南をつとめるコジローの奥方・おキリくらいしかいないのだ。
あとは、遊女のおサヤがいるが遊女と友達などといったら父上が卒倒するので秘密にしている。
 勇二は、そんな姫の心中を察したのだろう。姫はそんな勇二に安らぎを覚えた。
彼とは、生まれたときから許婚である。だが、それを嫌だと感じたことはない。
輪廻というものを信じているわけではないが、生まれ変わってもこの方と一緒なのだろう、とタマキは思うほどだ。

 そんなこんなでサトリは姫の世話係として城に上がることになる。
まあ、そこでも命がいくつあっても足りない失敗を繰り返すのだが、それはまた別の話だ。
勇二たちはまだ気がついていないが、このとき、彼女たちの姿を見ていた一団があった。

「ダンくん、あれが川添藩のお姫様のようね」
「ああ、そうみたいだな~おミヤ~」
 町人の扮装をしているが、その殺気はまさしく玄人。同じ忍にしか気がつかないであろう、忍の者特有の殺気を放っていた。
「お、また、どこかに行くみたいだぞ~」
「つけていきましょう」

暗殺者たちは、ススッと姫のあとをつけていった。



「お、あれは……」
 街にある食事処・ちばから出てきたコジローは姫の姿を見てつぶやいた。
「あれえ、どうしたんですか、あなた」
 さっきまで一緒に食事をしていたおキリが、店から出てきてコジローに腕を絡ませる。
「ん、うちのお姫様たちがいたんでな」
「あー、まあた歌舞伎鑑賞してんのね。高貴な方はまったく暇なのかしら」
 店の奥から、コジローとおキリの友人である遊女、おサヤが千鳥足で歩きながら愚痴を言う。
「昼間っから、お酒飲んでる遊び人がいうことじゃないだろ」
 コジローが呆れながら、おサヤに突っ込む。「だいたい、お前、仕事はどうした仕事は。そんな適当じゃ吉原に売られるぞ」

 このおサヤという遊女、スタイルは抜群で器量もよいため、巷でも評判であったのだが、
どうにも突然抜け出しては失踪する癖があるのが難点であった。
 とはいえ、彼女に心奪われた武士も多いため当時にしては信じられないことに黙認されている。
また、彼女は、戯作者というもう一つの顔も持っており、浮世草子も売れていたため女衒も手が出せなかったらしい。
早く身請けするものが出ないと、全体の士気にも関わるため、ほとほと手をやいていたそうだ。
 コジローは、そんなおサヤの身請け人としてお上が押し付けようとしていたのだが、
すでにおキリと深い中になっていたため、今現在は身請け先の予定もない。

「いいのよ、あたしやりたいことが見つかったんだから!」
「戯作じゃないの?」おキリが突っ込む。
「三味線っす!」
 やりたいことが見つかったと騒いでは、周りを巻き込むのがいつもの癖なので、
相手にせずに2人はおサヤを置いて歩き出していた。
「それで、お姫様がどうかしました? いつものことじゃないですか」
「ん、ああ。姫だけならいつものことなんだが……」
 町人が、その姫のあとをつけているような気がした、とコジローは話す。
いや、町人があとをつけてもおかしくはない。姫は街の人々の憧れだからだ。
通常は、恐れ多くて顔も上げられない身分であるはずだが、姫はそういったことを気にしないおおらかさがある。
それが、ますます街で人気になる理由であった。
 だが、あの町人はどうもそういった感じとは違う気がした。
「すまぬ、お前は先に帰っていてくれ」
 コジローは、嫌な予感がして姫のあとを追うことにした。
「あ、待ってくださいな」
 あわてておキリが後を追う。
「ちょっと、待ちなさいよ~」
 さらにその後ろからへべれけになったおサヤが後をつけていった。

 姫に追いついたコジローは、辺りをうかがう。さきほどの町人を見失ってしまったようだ。
と、すると自分の気のせいなのだろうか。コジローは姫に話しかけた。
「姫、この辺りでこう、どんぐりのような町人を見かけませんでしたか?」
 コジローは、町人の特徴を姫に話す。男のほうはどんぐりのようだったことは覚えていた。
「見ていませんが」
「むう」
 完全に見失ってしまったか……。コジローは、ますます嫌な予感がしていた。

 その頃。
「ちょっと、あんた。こんな場所で煙管吹かすってどういうつもり?」
「げ」
 忍びが連絡に使う狼煙を上げようとしていたおミヤは、不意をつかれてたじろぐ。
 大声で叫ばれたため、人も集まってきてしまった。
「火が燃え移ったら、どうすんのよ。火付けは大罪なんだからね」
 遊女のおサヤが義憤にかられてまくし立てる。めんどくさい性格がこんなところで幸いしたとは姫も気がつかないだろう。
「うるさい!」
 おミヤはおサヤを突き飛ばして駆け出した。

「こ、怖かった……なんなのよ、あの娘」
 おサヤが冷や汗をかきながら、路地裏から現れた。
 そのまま、先に姫と合流していたコジローたちの方へと駆け寄っていく。
「あれ、どうしたの? お姫様」
 ただならぬ様子を察して、おサヤはタマキに話しかけた。
「いえ、わたしもよくわかりませんが……」
「ああ、こら、おサヤ。遊女がいきなり姫に話しかけるなよ」
 コジローが、おサヤのほうを向いて軽くたしなめる。
「いーじゃない、別に。そういえばさあ、さっき向こうのほうで何か怖い女の子にあったよ。
なんか、狭いところで煙管使おうとしてたから注意してきたんだけど、すごい怖かったわ」
「怖い女子だと……」
「それは、気になりますね」
 コジローから話を聞いていた勇二が、コジローと同じような予感を抱く。
「中田殿、姫を城へ連れ戻したほうがよいかもしれませんな」
 コジローの忠告に、その通りだと勇二がうなずく。
「姫、本日のお戯れはこれまでです、城に急ぎましょう」
 とタマキの手を引いた刹那のことである。
 先ほどまでタマキが立っていた場所に高速で何かが突き刺さった。

「何奴!」
 勇二が叫ぶ。地面に刺さっている物体は手裏剣だった。
「あ~ん、外しちゃった~」
「そういうところも、可愛いもんさ~」
 そう間の抜けた会話をしながら、物陰から2人の忍びが姿を現した。
片方は、どんぐりのような姿かたちの男。もう1人は覆面で顔を隠しているとはいえ
目元だけでも美人とわかるくの一である。
「もう、手段は選んでいられないからな~」
「お命頂戴!」
 クナイを手に忍びが襲い掛かる。
「姫。ここは、お下がりください」コジローと勇二が腰の刀に手をかけて姫をかばうように立ちはだかった。
「よい。それより、ユージ殿。刀を借してもらえますか」
 そう言って、勇二に近づくと手から強引に刀を奪った。
「あ、まずい。それはまずいですよ、姫」
「オホホホホホ、お姫様自ら戦っちゃまずいわよねー」
 くの一が笑いながら、タマキに迫る。だが、そんな余裕も次の瞬間には吹き飛んでいた。
彼女の持つクナイがタマキの刀ではじかれ、地面に突き刺さったからだ。
「うそ……」驚きを隠せないのは、くの一である。
「ああ、やりすぎちゃうかもしれないからまずいって言ったのに」
「うちの藩はお姫様が武芸に秀でてるんだ。忍びのくせに知らなかったのか」
 コジローと勇二が肩をすくめながら、忍びに話しかけた。
「ミ、ミヤミヤ~」男の忍者が、彼女に近づいた後。仇をとらんとばかりにタマキに襲い掛かる。
 しかし、それもクナイを弾かれた挙句、首に刀を当てられて失敗に終わった。
「く……殺しなさいよ」くの一のほうが諦念と憤怒の入り混じった声で叫ぶ。
「どうします、姫。こいつら、おそらく町戸藩の忍ですよ」
「いや、コジロー殿。鎌崎藩の可能性もありますよ」
 コジローと勇二は、川添藩と敵対している2つの藩の名前を挙げた。
町戸藩は、陰湿姫の異名を取る安藤姫が治める藩。
鎌崎藩は、岩堀家と豪傑な家臣・内村が名をはせているわりと新興の藩である。
「あたしらは、町戸の忍さ。どうせ失敗したし追っ手が来るだろうからからね。さっさと、今殺してくれない?」
「俺は、こいつと一緒ならいいぞ~」
 ヒシと抱き合う2人の忍を見て、タマキは困ったように裾をモジモジとさせている。
 その様子を見て、勇二が助け舟を出した。
「姫、この者たちは町戸藩の内情をしっているはず。生かして城に連れ帰りましょう」
 コクリとうなずいてからタマキは言葉を続けた。「あなたたち、ワタシに使えてみませんか」
「はあ?」くの一が素っ頓狂な声をあげる。
「そうすれば、今のことは不問にしてあげます」
「正気ですか? あたしたち、姫様の命を奪おうとしたんですよ?」

「正気です」
 タマキは、真っ直ぐ彼女たちを見据えて言葉を続けた。
「……ぷっ。あははははは」
 その顔を見ていたくの一は、思わず噴き出してしまう。
「まさか、そんなことを言うとは思わなかったわ」
 一通り、笑った後くの一と忍者は、その場で頭を下げる。
「どうせ、捨てた命です。誠心誠意、お使えいたします」
「正気ですか、姫様!」
 お供たちが、タマキの言葉を否定して忍を切り捨てようとした。
だが、すかさず勇二が刀を抜いてその剣先をそらす。
「まあまあ、きっと大丈夫ですよ」
「中田殿!」
「そうですね、そんなに心配なら俺もずっと川添城に残りますよ」
「え、それって……」
 婚約、長崎の商人に聞いたぷろぽおずというやつなのではないか。
恥ずかしそうにタマキはうつむいたが、勇二は気づかなかったようだ。
 こうして、タマキに2人の忍が仕えることになる。
とくにミヤというくの一は、タマキにとっても貴重な同年代の友人になったそうだ。
 ちなみに、抜け忍となったミヤは、その後彼女を追うおレミというくの一、
さらに長崎の出島にやってきたきゃりいなるオランダ人と一騒動起こすのだが、
それもまた、別の記録である。

 その後、城に帰ったタマキは母に勇二の言葉を伝え祝宴が開かれたそうな。
いきなり姫を掻っ攫われた藩主の怒りはすさまじく、決闘寸前までいきそうになったものの
正室の椿にたしなめられた、とも伝えられている。というところで、今回はここまでにしよう。

「今回はここまでにしよう、だってさ」
 道場で歴史書を開いていたサヤが、本を閉じて仲間たちに語った。
「なんかさあ、偶然にしては名前も似てるし運命を感じない?」
「たんなる偶然だろ。別に、ここら辺にその藩があったわけでもないしな」
 コジローが呆れながらサヤに突っ込んだ。
「でも、でも、先祖とかじゃなくても生まれ変わりとかさ」
「ハハハハ! あるわけないだろ、そんなの」
 コジローが腹を抱えて笑う。その様子を見てサヤが怒り出した。
「いーもん、夢のない大人はさ。タマちゃん、どう思う?」
「え?」
 生まれ変わりだと、遊女が先輩になっちゃうんじゃ……と思ったがタマは黙っていた。
「よく、わかりません」
 そういって、ユージの方を見る。
 その瞬間、ほんの一瞬だが腰に刀を刺した武士の姿が見えた。
思わず、生まれ変わってもこの方と一緒なんだなあとタマキは思う。
「??????」
 自分は何を考えたんだろう、あわててタマキは目をこすった。
 よく見ると、ユージのほうも目をこすっている。
「ど、どうしたの、ユージ君」タマキがしどろもどろになりながらユージにたずねる。
「え、いや、なんでもないよ。姫……タマちゃん」
 勇二も、めずらしくしどろもどろになって答を返した。
「ま、前世とかそんなことよりも、今の飯のほうが大切だな」と、コジローがまとめる。
「そっすねー、あなた」そんなコジローにキリノがふざけて話しかけた。

 あれは、なんだったんだろう。何か一瞬変なものが見えたような……とタマキは考える。
でも、悪い気はしなかった、とも思った。
 暖かい春の日の午後。気持ちのいい風が、懐かしさを感じさせたのだろう、と彼女は結論付けた。

 その後、室江高校剣道部に持ち込まれた歴史書「川添藩の歴史」は
サヤが投げ捨てたため、部員たちに忘れられて部室の片隅で眠り続けることになる。

 それが再び開かれる機会がくるのだが、それはまた別のお話である。

最終更新:2008年05月29日 22:19