――――チチチ、チュン、チュン。
窓の外でスズメがようやく朝を告げ始める。が…残念。今日の準備はとうに完了済だ。
がちゃり、とドアを開けると…日の出前の薄暗さのせいか、やけに肌寒さを感じる。

(さすがに…ちょいと早すぎたか。)

駅のホームで電車を待つ携帯の時刻は、もう少しで5時になろうかと言うところ。
半年前のゴタゴタで愛車を手放した為に、通勤に時間はかかるようになったが…
始発でロングシートに広々と座れるというのは、少しは特権意識を感じなくもない。
電車の中からボーっと外を眺めていると、流れる景色の中に遠目に映る、市民体育館。

(村越杯、か……何をキリノに対抗心燃やしてたんだろうな、俺は)

あの日、キリノに競り負けて以来リベンジに燃え、どんどんと早起きを目指し―――
丑三つ時にも平気で叩き起こされるカニ漁船での荒仕事を終えた今の自分の体は、
いまや3時4時にも目が覚めるのがふつうになってしまった。
ともあれ電車を降り、やはり薄寒い空気に触発されると……思い出す、1年前の事。

-んもー先生遅いっすよ!
-わりーわりー、キリノ……今開けるからな。

道場の前の石段に座り、俺を待つ姿。
俺が近付くと嬉しそうに笑顔を浮かべ、鍵を開ける俺をまだかまだかと急かすあいつ。
…もし俺が、例えば風邪で来られなければ、あいつはどうしていたのだろう。ずっと待ち続けていたのか。
それが怖くて、どんなに朝が辛い日も必ず道場は開けていた―――それが二人きりでいた頃の毎日だった。
いずれ、俺の方が道場で待つようになり、その事を少し勿体無く感じたりしたのも…今となってはいい思い出だ。
そういう思い出の詰まった石段を軽く横目でちら、と見やり……ひとつ鼻頭を擦ると。
ギィィ、という音と共に扉は開かれ、道場の中へ。

「ただいま」

誰に言うでもなく、ひとつ、つぶやいてみる。いや、誰も居ないからこそか。
思えば昨日、帰って来る前にまず最初に感じた不安―――あいつは、待っていてくれるのか。
いや、ふつうに考えれば……「待つ」というのでさえこちらの勝手な思い込みに過ぎない。
朝、道場を開ける俺を待つのとはわけが違う。ましてや3年ともなれば勉強の出来るあいつは進学コースだ。
はっきり言って剣道を続けている保証など、どこにもない……だが、信じたかった。

(―――いてくれたか、紀梨乃…)

キリノが飛び付いてきた時、何よりもまずそれに安心してしまったのを思い出す。
それは、自分がこの半年の間考えて来た事が、無駄ではなかった事の何よりの証明。
”早く帰ってやらなくちゃ””しかし、帰った所で…”そのせめぎ合いの中で、自分が出した結論―――帰ろう。
泣かせてはしまったが、その喜びようは……自分の選択が間違いではなかった事を、力強く示してくれていた。
そんなことを考えながら着替えを終え、竹刀を握る。それから―――ひとつ、ひとつ。雑念を振り払うように。

「――――ふっ!ふんっ!」

回数を数えるのも忘れるくらいに集中して、竹刀を振り上げ、降ろす―――
その数大体100回目ごろ、だっただろうか。外からの声に手を一旦、止める。

「おはようございまーっす!」
「おお、はよーっす」

今日の二番手も、もちろんキリノ……この感覚も随分久し振りだ。
その懐かしさ、当たり前のうれしさ…思わず顔に出そうになるそういう気持ちを抑え、
少し訝しそうな顔をしているキリノの声に耳を貸す。

「…おりょ。もう着替えてるんすか」
「ああ、久々の道場だし…一人のうちに素振りでもしようかと思ってな」
「へえ~」

何やら、普段以上にボーっとしてこちらを見ているキリノ。
その視線に、奇妙な照れを感じつつ、ふとキリノの足元に目をやると…光る物。

「―――キリノ。おい、キリノ」
「……はっ、ひゃいっ!?」

素っ頓狂な声を出し、身構える。
何か今日のこいつは昨日にもまして様子がヘンだが、とりあえずは気にしない。
迂闊に身動きさせない様にじっ、と目をにらみ、そのまま近付く。

「なっ、なっ、何です…かぁ?」
「―――動くな。じっとしてろよ…」

足元に屈み込み、ひょい、と摘み上げてみると……画鋲。
大方ダンの絵のが外れでもしたのだろう。大丈夫か、と一声かけて少し距離をおく。
……まあ、何にせよ、キリノが踏まなくてよかった。
そのまま再び竹刀を握り、素振りを再開しようとする、と。

「……先生」
「んっ、なんだ?」

思い詰めたような顔で、こちらを呼ぶキリノ。
なんだか少し顔が赤い…熱でもあるのか、こいつ。
しかしその要求は、そんな様子に輪をかけて謎なものだ。

「”キリノ”って、10回言ってみて?」
「何だ、そりゃ……随分なつかしい遊びだな?」
「いいからいいから、10回…」
「うーんと、キリノ、キリノ……」

”キリノ、キリノ、キリノ――――”
渋々ながら数え始めたその名も、なにか言い続けているうちに…
昨日のキリノが飛び付いて来た時の事を思い出す。
「先生、先生、先生」と泣きながらこちらの胸に顔を押し付けるキリノ。
すると今しているこの行為が、まるで昨日の反復を自分がお返しにしているようで…
急に物凄い気恥ずかしさと照れ臭さに襲われそうになるが、なんとかそれを隠し、最後のひとつ。

”キリノ。”

その最後の一回を、こちらとしても名残惜しく呼び終えると。

「…これで10回、だよな?それで?」
「……うん。じゃあ先生、あたしは?」

躊躇なく、遠慮もなく、こちらの目を覗き込むように問い掛けて来るキリノ。
以前と全く変わらないその笑顔に……今日の照れ具合と気恥ずかしさはピークに達する。
落ち着いて、その意味を探ろうにも頭が働かない。俺の目の前にいるのは――――

「……き…キリノ、だろ。……何だそりゃ?」

搾り出すようにそう呼ぶと、キリノの笑顔はさらにふくらみ、今にもはちきれそうだ。
すさまじいばかりのその輝きに、まさかまた、飛び付いてくる気か、と咄嗟に身構えるものの。
その反応は、昨日のような勢いを潜め…むしろ淑やかな、落ち着きを湛えた声で意志を伝えてくる。

「先生…」
「…な、何だよ?」
「あたし…先生のことが…」

その声の調子に、ただならぬ雰囲気に…
次のキリノの言葉を一瞬で察した頭脳はフル回転で警鐘を鳴らす。
ダメだ、ダメだ、ダメなんだ…それだけは、言わせてはならない。
どちらが先か、などという問題ではない。
キリノがまだ生徒で、俺がこいつを預かる先生であるうちは―――
そう思い、無理にでも両手でキリノの口を塞ごうとした瞬間、後ろから聞こえて来る沢山の声。

「おはようございまーすっ!」
「あ…やっぱり先生とキリノ先輩、早いですねー」
「おお~。なんか久し振りだぞぉ~、この感じ~」

遅れて来る、サヤ、ユージ、ダンら他の部員たち――――正直、助かった。
はぁ、と一息つくと、どうにか先刻までの照れと緊張を隠し、残るなけなしの先生らしさを発揮させる。

「お前ら遅いぞー、さっさと着替えてこい!」

その言葉を機に、数秒前までの二人きりの時の静謐さはなりを潜め、途端に賑やかになる道場。
これもまた、久しい物だ。そんな感慨と共に、キリノの方を振り向くと、そこには。
先程までのどれとも違う、深く落ち着いた顔を浮かべるキリノ。

「…コジロー先生?」
「…ん?」

名前を呼びながら、道着の裾をギュっと掴むその手の繊細さに。
頬を染め、こちらを見上げるその視線に。
またもや五感は全て、目の前のキリノに向けられる。
この気持ちを……言葉にして表すのなら、「愛おしさ」とでも言うのだろうか。

「続きは…もうちょっとだけ、待ってて下さい、ね?」

すこし残念そうに、自分に言い聞かせるようにそう言うキリノの目には―――
しかしながら、覚悟を決めたような強さがあるように見えた。
”もうちょっとだけ”、即ち…キリノが卒業して、同じ立場でちゃんと向き合える時まで。
その時を待ち焦がれる、この思いは……きっと二人、同じ物のはずだ。だから。

「……うん。俺の方こそ、な」
「………はい!」


そしてもちろんその時は―――俺の方から、がスジってもんだろう。



おわり
最終更新:2008年05月25日 07:38