その日、珠姫が道場へ訪れると、どういうわけか中には誰の姿も見当たらなかった。
(……あれ?)
 首を傾げる。いつもよりは多少遅れてしまったが――掃除当番だったのだ――それでも、全員が既に帰ってしまった後ということはあるまい。
 そもそも、中止になったのならその旨を伝えられていてもいいはずだった。携帯を取り出して確認してみるが、やはりメールが届いたりはしていない。
 ――なにより、道場の鍵は開いていたのだ。誰も来ていないということはないだろう。むしろ、自分以外の全員が遅れているのだろうか?
 とりあえず着替えておこうかと思ったところで。
「あ、タマちゃん」
 背後から聞こえた声に振り返ると、入り口から顔を覗かせていたのは鞘子だった。制服姿ではなく、道着に着替えていた。
「桑原先輩?」
 なぜ道場の外にいるのかとか、それとどうしてそんなに楽しそうな顔をしているのかとか、疑問に思うところはいくつかあったが、それを口にするよりも早く、
「なんて絶妙のタイミングで……! ほらタマちゃん、こっちこっち!」
 むんずと腕を掴まれ、そのまま道場の外へと引っ張り出された。
「あ、あの、桑原先輩?」
 引っ張られたまま慌てて靴を履き直しつつ聞くが、彼女は取り合ってこなかった。
「いやー、タマちゃん抜きでどうしたもんかと思ってたのよねー。やっぱり主役がいないと始まんないし」
(主役?)
 やはり意味がわからず、眉をひそめる。まさか特撮作品の上映会とか品評会でもしているのだろうか(道場の外で敢えてそれをする必要性は見出せなかったが)。
 鞘子(と自分)が向かっているのは、道場の裏手だった。ちょっとした植え込みとフェンスを挟み、その向こう側には屋外の運動部が使用しているグラウンドが見える場所だ。
 ――その植え込みに。
(おーい、タマちゃん連れてきたよー)
 なにやら先程までより声を潜めて、鞘子が手を振りながら呼びかける。
 植え込みから生えていた五つの頭が、ほぼ同時にこちらへと振り向いてきた。
(うおう、ジャストタイミンだねサヤ。こっちはそろそろって感じだよ?)
 なにやら期待を隠し切れないといった様子で、紀梨乃が言ってくる。
(あっちゃー……連れてきちゃったんですか)
(まあそう言うなよミヤミヤ。ある意味、タマちゃんが一番見ておいた方がいいんだしなー)
 紀梨乃とは逆にしまったという表情で額に手を当てる都に、段十朗がそれを嗜める。
(……?)
 彼女達がなにを言っているのか、というかそもそもなぜ植え込みに突き刺さるようにして身を潜めてなどいるのかがわからず、珠姫は首を傾げた。
(あー……タマ。ちっとばかり衝撃的な光景かもしれんが、とりあえずこっち来てみ)
 一番背が高いためだろう、他の誰よりも窮屈そうに身を屈めながら、虎侍がちょいちょいと手招きをして見せる。
 わけがわからなかったが、とりあえず珠姫は他の皆に倣って植え込みへと侵入した。自分の身長では、屈むまでもなくほぼ全身が埋まってしまうが。
(あ、あの、タマちゃん。驚かないでくださいね……?)
 なにやら恐る恐る言って、聡莉が植え込みの外側――道場とは反対側を指し示す。金網越しにどこかの運動部が練習している光景が見えるが、あれは野球部だろうか。
 ――その、金網の手前に。
 見覚えのある人影と、そうでない人影が向かい合っているのが見えた。
「……ユージくん? それに……」
(タマちゃん、しーっ!)
 言いかけたこちらを遮って、鞘子が口に人差し指を当てて沈黙を促してくる。珠姫が思わず口をつぐんだところで。

「――中田くん、今付き合ってる人とかいる?」

 勇次の前に立っている女生徒が、彼にそう尋ねるのが聞こえた。
 彼がかぶりを振る。
「へ? いや、いないけど」
「ふーん……そっか」
 勇次の否定に、なにやらその女生徒がうんうんと頷いている。
 ――これは、もしかすると。
(うわー、やっぱり! 告白だよ告白! 告白シーンだよ!)
 興奮した様子で(ただしやはり声のトーンは落としていたが)鞘子が隣の紀梨乃に告げる。紀梨乃も似たような表情でうんうんと頷き、
(いやー、ミヤミヤの睨んだとーりだったねー。確かにあの女の子の態度、なんか怪しかったもんねー)
 はしゃぎつつ、鞘子と手を取り合っている。
(……まあ、怪しいとは言いましたけど。でもあたしが言ったのは――)
(さ、流石ですね宮崎さん。やっぱり告白されたことのある人は違うんですね……!)
 呆れ気味な視線を二人へと向けている都に、まるっきり尊敬のような声を上げたのは聡莉だった。そう言えば、彼女は中学時代に異性から告白された経験があったらしい。
 勇次達の方へと向き直る。
(……告白?)
 ――本当に、そうなのだろうか。
 珠姫がなんとなく、疑問のようなそうでないようなものを抱いたところで。
「じゃあさ。その、わたしと付き合ってくれない?」
 はっきりと、女生徒がそう口にした。自分を含め、傍観している全員が息を飲む。
 が、言われた当の勇次は、きょとんとしていた。
「は? 付き合うって、俺が、きみと?」
 稽古の最中に前触れなく目の前をねこが横切って行ったのを見て驚いたとでも言うように、ぽかんとした様子で聞き返す。
「もちろん、わたしと中田くんが。別にいいよね? フリーなら」
 これと言って悪びれたふうもなく、女生徒が頷いて答える。
 ――その返答に、勇次はなにやら考え込んだようだった。
(わ、ユージくん悩んでるっぽい?)
(そりゃまー、悩まない方がおかしいでしょ。見た感じなかなかカワイイ子だし)
(……悩んでるんですかね、あれ)
(まままさか、オーケーするんでしょうか、ユージくん……?)
 背後で女子一同がぼそぼそと言い合っているのを聞きながら。
(悩んでる……?)
 勇次の姿を眺め、珠姫は眉をひそめた。
 ――そうは、見えない。少なくとも、女生徒の提案に応じるか否かを思案しているようには思えなかった。
 ならばなにを考え込んでいるのかと問われれば、わからないとしか言いようがないのだが。
 やがて、勇次が口を開くのが見えた。
「……あのさ」
 と、それを遮って。
「――オイ!」
 まったく別の方向から、声が響いた。
 いきなりなにかと思いそちらを見やると、勇次の背後――つまり彼を挟んで女生徒の正面に、野球部のユニフォームを着た男子生徒が立っていた。ぜえはあと息を荒らげている。
 勇次がそちらへと振り向くや、
「……なんだよ、そいつ。お前、その男と付き合うつもりかよ」
 なにやら剣呑な声音で、男子生徒が問いかける。
 女生徒が顔を背けるのが見えた。
「そ、そうよ。悪い? 別にあんたが口出しすることじゃないでしょ?」
 勇次(と自分達)の視線が再び女生徒の方へと戻る。
「く、口出しってお前。オレはそういうつもりは――ただ、お前の姿が見えたからってだけで――」
 どこか焦ったように男子生徒が吐き捨て、再び勇次(と、やはり自分達)の顔の向きが変わる。
(……なに? どうなってんの?)
(これはもしや……修羅場ってやつかな?)
(あー……なるほど。そういうことか)
(え? え? あっちの人はなんなんでしょうか……?)
 こちらも戸惑っているらしい声が背後から聞こえてくる。
(……?)
 無論、珠姫も困惑していた。……なんなのだろうか、この状況は。
 首を捻っていると、
「……きみ、この子が誰かと付き合うと、困るの?」
 黙っていた勇次が口を開いた。珠姫は視線を彼へと戻し――
(……!? ゆ、ユージ……くん……?)
 彼がどこか不敵な、いや、もっと言えば挑発的な笑みを浮かべているのを見て取り、自分の目を疑った。
 ――彼のあんな顔など、一度たりとも見たことがない。どころか、想像したことすらなかった。
 男子生徒が先程よりも更にわかりやすく狼狽して見せる。
「べ、別に困らねーよ! 困るわけねーだろ!?」
「あ、そう。じゃあ――」
 と、続いて勇次の採った行動に、珠姫は今度こそ自分の視覚がまともに機能しているのかどうかを疑わざるを得なかった。
(……っ!?)
 勇次は。
「さっきの件だけどさ、別にいいよ。付き合おうか」
 女生徒の肩に手を回し、あまつさえ彼女の身体を自分の方へと引き寄せながらそう言い放ったのだった。
 ――その行動に、女生徒の顔が驚愕に染まる。
 が、それも一瞬だった。
「そ、そう? ありがと。あ、あいつのことは気にしないで。どーせ関係ないんだから、わたしが誰と付き合おうと」
「うん。はっきりそう言ったもんね」
 男子生徒からは顔を背けながら言う彼女に、勇次があっさりと頷きながら追従する。
 ――その男子生徒はと言えば、二人から目を逸らし、なにやら黙ったまま地面を見詰めていた。
(……あ、あれ? なんか、雲行き怪しくない?)
(うーん……怪しいっていうか、これはひょっとして)
(あ。先輩、やっと気付きましたか?)
(ゆ、ゆ、ユージくん、一体どうしたんでしょうか……!?)
 背後の声も耳に入らず、珠姫は信じられない心持ちで勇次の姿を眺めていた。
 ……様子がおかしい、どころの騒ぎではない。少なくとも今あそこにいる彼は、自分のよく知る勇次ではなかった。
 具体的になにがどう、と答えることはできないが、しかし明らかに違う。
 ――そして、なによりも。
 女生徒の肩に手を回しているその姿を目の当たりにするのは――ひどく、不愉快だった。
 勇次が男子生徒に背を向けるのが見えた。
「それじゃあさ、今からどこか遊びに行かない? もちろん二人で」
 その言葉に、またしてもえっと驚いたような顔を女生徒が浮かべるが、すぐに気を取り直した様子で頷いた。
「そ、そうね。カラオケでも行こっか?」
「いいね。オゴるよ俺」
 言いつつ、勇次と女生徒が歩き出す――男子生徒とは反対方向に。
 と。
「――待てよ」
 低く抑えた声音で、男子生徒が二人を呼び止める。
 あっさりと、二人は立ち止まった。まるでそれを見越していたとでも言うように――あるいは、それを待ち望んでいたとでも言うように。
 が、振り向いた勇次の顔にはやはり不敵なそれが浮かんでいた。似つかわしくない笑みが。
「なに? まだなんか用?」
 やたらと軽薄そうな印象を聞いたものに感じさせる声でそう言うと、男子生徒が顔を上げた。
 彼は勇次の顔を正面から見返しながら、
「お前に――なにがわかるってんだ。俺と、そいつの」
 震える声でそう告げる。
 勇次は反論しなかった。表情を変えず、ただ黙って男子生徒の姿を眺めている。
「そいつはな、はっきり言って性格悪いんだぞ。なにかっちゃ俺のことおちょくるし、ケチだし、素直じゃねえし、面食いだし――」
「……ちょっと、随分言ってくれるわね」
 こめかみに血管を浮かび上がらせ、女生徒が男子生徒へと身を乗り出しながら抗議の声を上げる。
 ――いつの間にか、勇次は彼女の肩からは手を離していた。
「……けどな。俺は……俺は、そいつがいないと」
 再び俯き、ぶるぶると拳を震わせている彼に――
「……もう、いいんじゃない?」
 ――ではなく、隣に立っている女生徒に向かって。
 唐突に、勇次がそう告げていた。へ? と彼女が勇次の顔を見返す。
「これ以上はもう、聞かなくてもわかるでしょ? ていうか、もう言ってるも同じだよ?」
 これもいつの間にか、勇次の表情は見慣れた笑顔へと戻っていた。
「見た感じ、随分と照れ屋みたいだね、きみの想ってる人は。これ以上言わせるのは、ちょっとひどいと思うよ?」
「お、想ってって、わ、わたしは――」
「ほらほら、もう意地張らなくてもいいから。折角彼の方がちょっと素直になってるんだからさ」
「……す、素直に……?」
「うん。俺の方は別に気にしてないから。ていうか、なんとなくそんなことじゃないかなーと思ったんだよね」
「え? ど、どうして?」
 と、これは完全に不意を突いた発言だったらしく、女生徒が怪訝な声を上げる。勇次はなにやら照れ臭そうに頭を掻きつつ、
「だって、ろくに会ったことも話したこともない俺にそんなこと言うの、おかしいでしょ? なにか他の目的でもない限り、俺みたいな地味な男にさ」
 ……その言葉に。
「…………へ? い、いや、わたし、中田くんのことは前からフツーに知ってたんだけど……一部の女子の間じゃ有名だし」
 なにやら戸惑ったように言うが、しかし勇次はあははと笑うだけだった。
「うん、そういうことにしとくから、ほら早く」
「しとくって……ま、まあ、その、ありがと。あと、ごめんね」
 言って、女生徒は勇次の傍から離れ、男子生徒へと駆け寄っていった。そのままなにか二言三言言葉を交わした後で、ぽかんと彼の頭をはたき――
 しばらくしてから、勇次に背を向けて二人は去っていった。――こっそりと、手を繋いだりしつつ。
「……やれやれ。慣れないことしちゃったもんだなあ」
 二人を見送ってから、勇次がぽつりとつぶやくのが聞こえた。そして踵を返し、道場の方向へと歩き出す。
 ――そこでようやく。
(……って、ヤバ! 見つかる!)
(早く戻らないと!)
(宮崎さ――って、早っ!?)
(ほらタマ、急げ!)
 ばたばたと慌しく、それでいて勇次には見つからないよう気をつけながら。
 珠姫達は、植え込みから抜け出したのだった。




 部活が終わり、更衣室で。
「いやー、でも驚いたねー。まさかあーいうことだったとは」
「……もしかしてミヤミヤ、怪しいって言ってたの、あれだったの?」
「ええまあ。なんか、告白するにしては態度おかしかったですからね、彼女」
「ユージくんって、結構鋭いところもあったんですね……」
「あ、それあたしも意外だった。鈍感なのかなーってなんとなく思ってたから」
「ただ、気付いてた理由っていうのがねー」
「自分のことに限っては鈍感みたいですね……他のことにはともかく」
「あと、タマちゃんのことに関しても鋭いですよね……」
 言いながら、彼女達の視線が自分へと向けられる。
 が、珠姫は彼女らの方を見ていなかった。
(…………)
 なぜか、不愉快な気分が完全には消え去っていない。
 ――先程の勇次の態度の理由に関しては、概ね理解した。まあ、見聞きしたそのままだった、ということなのだが。
 にも関わらず。どういうわけか、珠姫は胸中に得心し難いなにかがしこりとなって残っているのを自覚していた。その正体までは判然としないが。
(……な、なんか、タマちゃんご機嫌ななめじゃない?)
(そりゃまあ、色々とショッキングな場面見ちゃったから……ってことじゃないかな?)
(んー……いえ、あたしが思うにこれは)
(え、なんですか宮崎さん。そんなことまでわかるんですか?)
 なにやらひそひそと話し合っているが、よく聞こえない。
 黙々と手を動かしていたせいか、他の四人よりも明らかに早く珠姫は着替えを終えた。ぺこりと頭を下げ、
「それじゃ、お先に失礼します」
 言い放ち、更衣室を出る。
 道場を出たところで、待っていたらしい勇次と顔を合わせた。彼はやはりいつもの、見慣れた笑顔を浮かべ、
「それじゃタマちゃん、帰ろうか」
「…………うん」
 言ってくる彼に、やはりまだ胸中のしこりが抜け切らないまま頷く。
「……? タマちゃん……なんか、機嫌悪い?」
 怪訝な顔で聞かれるが、珠姫は。
「別に……気のせいだよ」
 彼の顔を見ぬまま、そう答えたのだった。


「――そりゃ、ユージくんがダシに使われるところを見ちゃったんですから。タマちゃんがいい気がするはずないでしょう?」
『な、なるほど……ミヤミヤ、鋭い』



 終
最終更新:2008年05月22日 04:15