「おはようございまーっす!」
「おお、はよーっす」
「…おりょ。もう着替えてるんすか」
「ああ、久々の道場だし…一人のうちに素振りでもしようかと思ってな」

先生が帰ってきた翌日。
いつもの様に朝練の道場の扉を開けてみると……やっぱり、先生だ。嘘じゃない。

(―――本当に、帰って来てくれたんだ…)

思わず涙腺が緩みそうになるのを必死で堪える。
そして思い出す、一年前の…まだ二人だけだった頃のこと。

-んもー先生遅いっすよ!
-わりーわりー、キリノ……今開けるからな。

…あの頃だったら、いつもあたしの方が先に来てたのにな。
あれから、皆が入部してくれて……いつ頃からだろう?
先生があたしよりも先に来て道場を開けてくれるようになったのは。
そして―――それが少し、名残惜しかったのも覚えてる。
ゆっくり後から来ると、あたしの名を呼び、申し訳無さそうに扉を開ける先生。
それを見るのも、その声を聞くのも、あたしの朝のささやかな楽しみのひとつだったのに。

そうして、あたしが昔の思い出に少し、浸っていると―――
耳の遠くで、先生の声がする。

「――リノ。…キリノ」
「…はっ、ひゃいっ!?」

気がつけば間近に居る先生の姿。
真剣な顔であたしを見つめている。

「なっ、なっ、何です…かぁ?」
「―――動くな。じっとしてろよ…」

心臓のドキドキが外まで漏れ聞こえそうになる中、思わずグッ、と目を閉じると―――
そのまま屈み込み、あたしの足元に落ちている物を拾い上げる先生。

「ホラ、これ…」
「………が、画鋲?」
「大方ダンの絵のが風で外れでもしたんだろ……危ないな、大丈夫か?」
「あ、あたしは……踏んでないっす。大丈夫っすよ」
「そか、なんかお前、来るなりボーっとしてたからな…気をつけろよ」

そのままニコリ、と笑顔を見せ…再び道場の中央で素振りを始めようとする先生。

”大丈夫か””気をつけろよ”
…その、ただの、何でもない気遣いの言葉が―――随分とうれしくて。
そして久し振りに聞いた、あの言葉が……何よりも耳を、そして心を騒がせる。

”―――キリノ。”

気のせいか、以前よりずっと優しく響いて聞こえたその声を。
少しだけ、確かめたくて。ほんの少しのワガママ。

「……先生」
「んっ、なんだ?」
「”キリノ”って、10回言ってみて?」
「何だ、そりゃ……随分なつかしい遊びだな?」
「いいからいいから、10回…」
「うーんと、キリノ、キリノ、キリノ…」

一度その名を呼ばれるたびに、胸の内に何か―――
あったかいものが広がっていく気がする。
胸に手をやり、目を閉じてその陶酔感に浸れるのも、あと一回。

”キリノ。”

「…これで10回、だよな?それで?」
「……うん。じゃあ先生、あたしは?」

問い掛けながら、先生の目を覗き込むように見ると。
瞳に映っているあたしの姿から―――ほんの少しだけ、目を逸らし、頬を赤らめる先生。

「……き…キリノ、だろ。……何だそりゃ?」

照れながら、恥ずかしそうにあたしの名を呼ぶ、先生―――
その反応こそがきっと、この半年の間……一人ぼっちだと思っていたあたしが、一人ぼっちじゃなかった証拠。
近くに居なくても、声が聞こえなくても、それでもあたしがずっと先生の事を考えていたのと同じように…

(―――先生も、きっとあたしの事、考えてくれてたんだよね?)

胸いっぱいに幸福感が広がる―――満ちてゆく。
今なら、もっと素直になれるかも。そんな気がして。

「先生…」
「…な、何だよ?」
「あたし、先生のことが…」

そう言い掛けた途端、後ろから聞こえて来る沢山の声。

「おはようございまーすっ!」
「あ…やっぱり先生とキリノ先輩、早いですねー」
「おお~。なんか久し振りだぞぉ~、この感じ~」
「お前ら遅いぞー、さっさと着替えてこい!」

塞翁が馬か、それともワガママの報い?
皆がやって来て、途端に賑わう道場。

(そう、だね―――皆も、心待ちにしてたんだもんね。)

「あたしだけの先生」じゃない…
そこに少しだけ、寂しさを感じなくはないけど、でも。

「…コジロー先生?」
「…ん?」

先生の、道着の裾を少しだけ引っ張ると。

「続きは…もうちょっとだけ、待ってて下さい、ね?」

あたしがそう言うと先生は…
ちょっと残念そうな顔を見せ、でもはにかむように笑うと、頬をかきながら。

「……うん。俺の方こそ、な」
「………はい!」


――――その返事は、何よりの…



おわり
最終更新:2008年05月21日 21:54