クーラーの効いた職員室から一歩外に出ると、
もわぁっ、とした生暖かい空気が身体の表面にへばりつく。
それと同時にジジジジ、といつまでもうるさい蝉達の鳴き声が耳を劈く―――季節は、初夏。

(――――暑い暑いと思っちゃいたが…もう完全、夏だよな。)

自然と道場に向かう足取りも、重くなる。
廊下をのそのそ歩いていると後ろからタタタタ、と勢いよく駆けて来る上履きの音、と―――いつもの声。

「センセー、練習行きますよ!ほら急いで急いで」

そのままぐいぐいと自分の背中を押し出す声の主は当然、キリノ。
その両腕は、おっ、おい、と戸惑うこちらの反応など見ちゃいない。
そのままドドドと、道場まで導かれるかに見えた2つの足音は、しかし。
2階の渡り廊下の手前で急に動きを止める。

「……どうした?」

そのまま、勢いに押し出されたように2歩3歩と歩みを進めると、
後ろの自分を押して来たキリノはそこに立ち止まったままだ。
周りをぐるり、と見渡してみると…

(そうか、ここは……)

”なんで逃げるんですか―――
 あんた顧問でしょう!?”

――――ちょうど1年前の今日、だったか。
今でも思う……あの時の自分の判断は正しかったのだろうかと。
立ち止まっているキリノも、当然その事を思い出しているのだろう。
……ともあれ、もうそれも過去の事だ。いつまでも引き摺っていても仕方が無い。

「行くぞ、キリノ―――」
「……なんで黙ってたの?」

早くこの場を離れようとする自分に即、返って来たその言葉は…
たしかに少しショックではあった。が、しかし。売り言葉には買い言葉。

「しょうがないだろ。あん時ゃ、ああするしか…」
「……あたし、先生のそういう所だけは嫌いですよ」
「嫌いも何もないだろ…」
「大事な事は何も言ってくれなくて、ごまかして……一人で背負い込んで…」
「当たり前だろ、先生が生徒に頼れるわけねーし……そもそも…」

――――”そもそも”。その後に続く言葉は…
直感的にやばい、と思った時にはもう、紡ぎ出される自分の言葉に制御が利かない。

「そもそも……それはお前自身がもろにそうじゃねーか。何でもかんでも自分でやろうとしやがって」

「俺があの時、何の為にサヤを一緒にいさせたと思ってるんだよ」

「遅かれ早かれ、いずれお前の前から居なくなる俺なんかを頼ってどうする」

「あいつをもっと頼ってやれよ……友達、ならさ」

口を動かしながら、背中に冷や汗が滲むのが分かる。
自分が今言っている事が、どれだけキリノの気持ちを抉っているか。
ともあれ、その返答は一瞬の、閃光のような刺激と共にもたらされる。

――――ぱしっ

「あたしが……誰を頼りにしたいのか、誰から頼りにされたいのか、なんでわからないの?」

その目からは涙を溢れさせ、小さな肩をわなわなと震わせるキリノ。
それはまるで―――あの日の再現だ。

そのまま、自分の横を抜け、走り去ろうとするキリノを…
棒のように動かないこの腕は、掴もうともせず。
鉛のように固まってしまったこの足では追う事もできない。
そして今ごろになって遅れてやってくる、ヒリヒリとした頬の痛み。

今日の暑さ以上に……ただ、寒気がした。


▽▽▽


「あー、だるー…先生、キリノは?メールの返事がこないんだけど」

あまりの暑さに、サヤが道場のスミで溶けている。
そしてそう言いながら、こちらの顔をちらり。

「うーん…今日はもう来ねえかもな…」
「何かあったんですか?…また」

心配そうにこちらを見るミヤミヤ。
その視線はやはり、こちらの顔の一点に注がれる。

「あんな事があっても、ケンカってするもんなんですね…」

発想をもはや異次元へと飛躍させるサトリ。
もちろんその目は自分の右頬を捉えて離さない。

「……ところで先生、そのほっぺた…」

タマがごく自然に、当たり前の声で、誰もが思うであろうふつうの疑問を発する。
うんうん、と力強く頷く残りの部員7名。

「あー…これはな…」

変に心配をかけるのもよくないと思い、何とか軽口でやり過ごそうとするものの…
逃がすものかよ、という勢いで訴えかけて来る8組の、目という目。
流石にこれは、やり過ごせる雰囲気ではない。
渋々と、今日の顛末を一から語り終えると――――

「バッカじゃないの!?」

開口一番。いつもの口癖を炸裂させるサヤ。
すまんサヤ、言われなくても分かってる。俺がバカだ。アイアムペン。This is バカ顧問。

「…呆れた。私だってダンくんに怒ったりした事もあるけど…」

ミヤミヤ。すまんがこれはそう言うもんですらない。
俺がバカなだけだ。正しい事も、くそもない。

「……知らなかった。先生、そんな事を考えてたんですね…」

おっ、おい?サトリお前、去年の事は一体どういう決着をしたと思ってるんだ?
しかしまあ、そういうものか。普通に顧みれば、あれはそんな大した事じゃなかった……のかも知れない。

「……謝った方が、いいと思います」

―――そのとおりだ、タマ。

頬に残る、手形の痛みが。少しは引いた気がした。


▽▽▽


それから翌日の放課後。
朝練にも昼練にも、キリノの姿は見えない。携帯もメールもつながらない。
だがサヤが昼休みにやって来て言うには、学校には居るらしい。
でも先生には会いたくない、と…

-…キリノ、相当だよ先生、カクゴ決めなきゃ。
-ああ、わかってる。

肚を括り、教室にキリノを探しに行くと―――居た。
キリノは何やら俯いて本を読んでいて、傍に立つまで俺に気付かない。
こちらに気付き、ぎょっとなるその腕を引っ掴み、強引に立たせると…そのまま教室を出る。

「ちょっ、センセー?」
「…黙ってろよ、歩きながら喋ると舌噛むぞ」

早足がいざなう先は、勿論昨日と同じ…
そして去年とも何も変わっていない、あの渡り廊下。
強引に連れて来られたキリノは昨日以上の拒絶を、これまたあからさまに表情に出している。
……しかし、ここで引く訳にはいかない。

「―――済まなかった。昨日の事」
その言葉に、目を背けるキリノ。

「お前の気持ち、分かってやれなくてごめん」
「う…」、と背けた顔を赤らめ、目線を下にやるキリノ。

「でもその前に………一つだけ、弁解させてくれないか」
ひとつ、驚いた顔を見せ、オロオロと、慌てだすキリノ。

「あの時、黙ってたのは―――うぷ」

勢いよく左手でこちらの口の動きを押さえ、右手でそっと”内緒”のポーズ。
こちらの目を凝視しながら、頭をそのままふるふる、と数回横に振ると。

「わかってます……先生があの時、あたし達の為に黙ってくれてた事は…」
「キリノ…?」
「先生はそういう人だもんね」

その手を離した後は、完全にいつものキリノだった。
背を向け、どこか空に呟くように喋りだす。

「でもあたしが昨日……ガマンできなかったのは…」
のびをするように、両手を大きく天に広げ。

「きっと、先生のそういう所が…あたしと同じに見えたからかな」
その両手をぎゅっ、っと球体状に封じ込め…

「自分が嫌いなんですよ、あたし。分かってるのに…」
胸の手前に置き、くるっ、とこちらを向き直ると。

「何でも自分で解決しなくちゃ、自分だけで、って思い込んじゃうの」
両手の間の”空間”を見つめ、それに向けて話しているかのようなキリノ。

「だから―――先生があたし達にそれをしてくれた時――」
そのまま両手を前へ…こちらへ差し出す。

「嬉しかったけど、寂しかったんですよ。……えへへ」

涙目で、しかし笑顔で―――自分の気持ちを必死に伝えようとするキリノ。
差し出されたその”空間”にひょいと手を入れ、摘んでみると…
何かそれが、心のうちに、あたたかな空気となって広がるように感じる。

「―――俺ら、結局……似た物同士なんだろうな」
「あたしと……先生が?」
「そうさ。俺にとってのお袋がそうなんだが……
 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる人に、わざとつっけんどんな態度をとったりとか、な」
「あ…」

様子が変わり、ややしょんぼりとした表情を浮かべるキリノ。

「あたし……サヤに一番、迷惑かけちゃったんだ…」
「…心配すんな。あいつなら、分かってくれるだろうさ―――なんせ、あいつは」
「?」
「お前が思ってるのの2倍はいい奴で、3倍まっすぐな奴だからな」
「ふふ…そうかも知れませんね」

キリノの表情にやわらかさが戻る。
それと同時に、渡り廊下に一迅の強い風がよぎる。
その風は、一年前の、そして昨日ここで行われた事、全てを吹き飛ばしてくれるかのようだった。
キリノはその風に髪を押さえながら、やがて風が止むと。

「あたし……あと8ヶ月したら、卒業したら―――まず一番に、先生に伝えたい事があるんすよ」

”伝えたい事”。
それがどういう物であるかは、誰にでも想像がつく。しかし。

―――奇遇だな、俺もだ。

そう言えたらどれだけいいだろうか。
想いを通じ合える事。そのよろこび。
それを教えてあげるのも教師の仕事、であってもいいかもしれない。だがしかし。
教師とか生徒であるとか以前に、このような中途半端な所で…
折角のこいつの気持ちを昇華させてしまうのは、何よりもキリノに失礼だ。
だからこそ――――

「ああ、楽しみにしてるよ、キリノ」


――――今はこれが、精一杯。



おわり
最終更新:2008年05月18日 20:18