※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「面っ!」
 鋭い雄叫びと共に、竹刀の弾ける音が響く。
 ――その光景を見て、道場にいた全員が目を疑い、そして息を飲んだ。もちろんあたしも。
「あ……あれ?」
 でも、誰よりも驚いていたのは竹刀を振り抜いた本人――桑原先輩だろう。残心も忘れて、たった今面を決めた相手の姿を呆然と眺めている。
「決まっちゃった……の? 今の?」
 信じられないといった様子だった。無理もないけれど。
「……お見事、ですね。面あり一本ですよ、桑原先輩」
 そしてその相手――ユージくんは、にこりといつものそれとよく似た笑顔を浮かべてそう言った。
「え……う、うん」
 まだ事態を飲み込めてないらしく、桑原先輩がやっぱりどこかぼんやりと頷く。
 ――そしてやっぱり、それは桑原先輩だけじゃなかった。
 先生も、キリノ先輩も、宮崎さんも、栄花くんも、東さんも――あたしも。その事実を信じられなかった。
「え? あれ? あたし……勝ったの? ユージくんに?」
 そう。つまり、そういうことなのだ。
 桑原先輩が、ユージくんと稽古をして――勝った。
「ええ。どう見ても、俺の負けです」
 半信半疑の桑原先輩に、ユージくんが断言する。
 その顔は笑っていたけれど――いつものユージくんの顔じゃないことに、気付いていたのはあたしだけなんだろうか。

「むー……」
 部活が終わった後、桑原先輩は道場の真ん中にあぐらをかいて唸り声を上げていた。
「どしたのサヤん? 髪も直さずに。また爆発してるよ?」
 手拭いを解いてなんだか触覚みたいになっている桑原先輩の髪を指先でいじりつつ、キリノ先輩が声をかけた。
「爆発ってあんたね……こないだのさとりんじゃあるまいし」
「お、思い出させないでください先輩……」
「手拭いしてると大変ですよね、髪。まとめるのも面倒だし――タマちゃんは平気かな?」
 あたしよりずっと長くて綺麗な髪をブラシで整えながら、宮崎さんが言ってくる。
 ……確かに、女子の中ではあたしが一番髪が短い。おかげで他のみんなみたく、手拭いを解いた時に髪型が劇的な変化を遂げていたりはしないんだけど――
「あれ、でもタマちゃん、だいぶ髪伸びてきたねー。そろそろ切らないの?」
「え……そうですか?」
 キリノ先輩に指摘されて、あたしは軽く自分の髪に触れてみた。長く……なってるのかな?
「そだよー。そろそろ美容室行ってきたら?……って、そーじゃなかった」
 話が逸れていることを思い出したのか、キリノ先輩が桑原先輩へと向き直る。
「なにやってんのサヤ? また小説のネタでも思い浮かんだ?」
「いや、そーじゃなくてさ……さっきの」
 桑原先輩のその言葉で、全員が思い当たったようだった。
 さっきの――ユージくんと桑原先輩の稽古。
「あたしさ……ユージくんに勝っちゃったよ」
 ぽつりとつぶやく。
 ……それが快哉じゃないのは、桑原先輩自身わかっているからなんだろう。全員が返答に困っていると、
「あたし、もしかして……手加減された?」
「そうは……見えませんでした」
 東さんが否定の声を上げる――流石だ。ちゃんとわかってたみたい。
「――だな。俺にも、ユージが手ぇ抜いてたようには見えんかった」
 いつの間に男子更衣室から出て来ていたのか、先生が追従する。
 桑原先輩とキリノ先輩、宮崎さんの目があたしの方に向けられた。あたしはほんの少し躊躇した後で……
「……そう、だと思います。ユージくんは手加減なんてしてませんでした」
 東さんや先生と同じ答えを返した。
 ――嘘じゃない。本当に、さっきのユージくんは手を抜いていたようには見えなかった。真剣にやって、その上で負けたのだ。
 と言って、いきなり桑原先輩の剣道の才能が急成長した、というわけでもない。確かに強くなってはいるけれど、まだまだユージくんには及ばないはず。
 じゃあさっきの結果は、というと――
「……あいつ、最近調子おかしくなってないか?」
 先生があたしの方を見て言う。そう、つまり原因はそこなのだ。
 ユージくんの調子が良くない。というか、はっきりと悪い。
 ――そう、見えるんだろう。他のみんなには。
「……やっぱ、先生もそう思いますか?」
 キリノ先輩の問いに先生は頷き、
「まーな。あいつの剣道はなんつーかこう……安定さがウリ、って感じだからな。調子が崩れるとそれがモロに見える」
 つってもあいつの調子が崩れたとこなんて見たことなかったんだけどな、と続けてくる。
 ……まったくもって、その通りだとあたしも思う。でも――単純に調子が悪いっていうわけじゃ、ない。
「……なんか心当たりないか、タマ?」
 全員の視線があたしに向けられた。
 思い当たる節なら、ある。のだけれど。
「心当たり、って言われても……」
 ――ユージくんは今、ここにいない。部活が終わるや、早々と帰ってしまった。
 だから……ユージくんのいないところで、それをあたしが勝手に言ってしまうわけにはいかない。
「ユージくんにも、調子が出ない時くらいあるんじゃないですか?」
 それに、よく考えたら確証なんてないのだ。あたしの憶測に過ぎない。
 あたしの答えに、けれどみんなは納得していないような顔だった。
 でも……あたしの心当たりなんて、話すわけにはいかない。
「それじゃあ、お先に失礼します」
 あたしは踵を返して、道場を後にした。背後からの視線は感じていたけれど、振り向かずにまっすぐ自転車置き場へと向かう。
 ――最近、一人で帰ることが多い。

 ……調子が悪い、だけじゃない。他のみんなにはそう見えるのかもしれないけれど、本当はそれだけじゃない。
 表面上はいつも通りに振舞っているものの、あたしにははっきりとわかる。
 ――無理をしている。今のユージくんは。
 毎年このくらいの時期になると、こうなってしまうのだ。話しかければいつものように受け答えをしてくれるけれど、明らかに口数が減っている。
 いつも浮かべている笑顔だって絶やさないけれど、その奥ではずっとなにかを考えている。
 いや……なにかを、じゃない。なにを考えているのか、あたしは本当は知っている。それを直接問い質したことはないけれど。
 ベッドに寝転んだまま、あたしはカレンダーを見た。赤ペンで丸を付けた部分が、もう間近に迫っている。
 あたしのお母さんの――命日が。

 それから数日後。
「そっか……お母さんのお墓参りか」
「はい……ごめんなさい、無理言って」
「いーよいーよそういうことなら。ユージくんは付き添い?」
「はい。俺もタマちゃんのお母さんとは面識があるんで」
「うん。じゃー今日は二人の分まであたしとサヤで後輩の面倒見ちゃうよー!」
 いつも通りのテンションでそう言ってくれたキリノ先輩に頭を下げてから、あたしとユージくんは道場を出た。
「じゃ、行こうかタマちゃん」
「……うん」
 なんとなくユージくんの顔は見られないままに頷く。
 まず自転車で駅に向かい、そこから電車に乗った。距離の上ではそれほど遠いわけじゃない。三十分も揺られていればもう目と鼻の先だ。
 電車の中では、あたしもユージくんもほとんど喋らなかった。あたしはずっと窓の外を見ていたし、ユージくんはユージくんでなにもない中空を見上げていた。
 ――それに気付いたのは、お母さんが亡くなってから、割とすぐだった。つまりは、最初の命日が近づいた頃。
 と言っても、あの頃はまだ小学生だったから、ユージくんの様子がおかしいことには気付いたものの、その原因にまでは考えが至らなかった。
 ……あたし自身、お母さんのことを思い出していたせいもあるのだけれど。
 ともあれその日が近づくにつれて、ユージくんはあまり喋らなくなり、なんだか考え込むことが多くなっていった。
 ……ユージくんが思い悩んでいるんだと気付いたのは、中学に上がる前の年。その時になってようやく、あたしはユージくんの心中を察することができた。
 つまり――ユージくんは、あたしのお母さんのことを思い出していたのだ。
 そして、たぶん。お母さんのことが忘れられなくて、それを悩んでいたのだ。
 ――今も、まだ。
 ちらりと、ユージくんの姿を見る。いつもならあたしの視線になんてすぐに気付くんだけど、ユージくんはやっぱりなにもないはずのどこかをぼんやりと見つめていた。
 ――どうして悩んでいるのか。その答えも、思い当たった。
 忘れなくちゃいけないのに、忘れられないから。引きずっていても仕方がないのに、引きずっているから。
 そしてどうして引きずっているのかと言えば――考えると、ちくりと胸が痛んだ。あんまりおっきくない胸だけれども。
 そうしているうちに、目的の駅に着いていた。ユージくんと並んで電車を降り、今度は山の中腹へと続く石段を上る。
 ――街が一望できる見晴らしの良いところに、お母さんは眠っていた。あたしとユージくんは軽く手を合わせた後で、
「……お母さん、今年も来ました」
「お久しぶりです……椿さん」
 そう告げた。

 お掃除をして、持ってきた花を捧げる。ユージくんがお線香に点けた火を手で扇いで消し、墓碑の前に置いた。細い煙がゆっくりと空に昇っていく。
 並んで屈み込み、今度はさっきよりも長く手を合わせた。目を瞑って、二人とも黙ったまま。
 ――言うべきことは、もう言ってしまった。何度も来ているのだ。そうそう毎年報告することがあるわけじゃないし、そもそも今年は既に一度あたし一人で来てしまった。
 後は、そう――
「……椿さん。タマちゃん、大きくなりましたよ」
 毎年同じ、ユージくんのこの言葉。
「それに、今年は剣道部に入ったんですよ。友達もできました――ちょっと騒々しい人達ですけどね。でも、凄く楽しそうです、タマちゃん」
 もう何度も来ているのに、ユージくんのお母さんへの報告は毎回違う。内容そのものはほぼ全部あたしのことなんだけど、あたし自身気付いてないようなことまで細かくお母さんに伝えている。
 ……あたしのこと、よく見てるってこと、なんだろうけど。
「よく笑うようになりました。そうそう、なんとアルバイトもしたんですよ。本当は校則で禁止されてるんですけど、先生がまた楽しい人で、途中で投げ出すよりは続けろ、って」
 ユージくんの顔は、笑っていた。それも無理して作っている笑顔じゃなく、ごく自然に浮かんできた笑み。
 ――昔、お母さんと話していた時と同じ、笑顔。
「ライバルも出来たんですよ。びっくりするでしょうけど、その人タマちゃんに負けないくらいブレイバー好きなんです。あ、シナイダーファンらしいんですけどね」
 気付けば、あたしはお母さんの方ではなくユージくんの横顔を眺めていた。
 ……本当に、嬉しそう。
「しかもその人と会ったのがきっかけで、タマちゃん今度映画に出るんですよ。嘘じゃありませんよ? タマちゃん本当に嬉しそうで、何度も何度も――」
 ――なんだか、流石に恥ずかしくなってきた。
 あたしは立ち上がり、そっとその場を離れた。
 ユージくんの声が聞こえないくらいのところで、持って来ていた(おかげで電車の中で変な目で見られたけれど、毎年のことなのでもう慣れた)竹刀を取り出す。
 振りかぶり――そして、振り下ろす。
 と、髪の毛の先が目の下に当たった。そう言えば、この間キリノ先輩に指摘されたものの、結局切りに行ってない。
 竹刀を下ろして、あたしは目を閉じた。瞼の裏に、袴姿のお母さんが映し出される。
 ――あたしの知る限り、一番強い剣道家。あたしに剣道と、そしてブレードブレイバーを教えてくれた、あたしのお母さん。
 そう言えば最近、生前のお母さんを知っている人(内村さんとか)によく言われるようになった――椿さんに似てきた、って。
 けど、あたしはあんまり似ていないと思う。お母さんはあたしなんかよりもっと背が高かったし、髪も長かった。あと身体つきも、あたしみたいに子供っぽくはなかった。
 でも……みんな、似てる似てるって、そう言ってくるのだ。お父さんでさえそれは否定しない。
 似てる、のだろうか。まあ親子なんだから、そしてあたしは明らかにお父さん似じゃないから、お母さん似なのは否定しないけれども。
 ……いや、やっぱり似ていない。なんでと聞かれると困るけれど、とにかく似ていない。似ていないと言ったら似ていない。
 強くかぶりを振り、あたしは目を開いた。竹刀を袋に戻して、お母さんのところに戻る。
 ユージくんの姿が見え、声をかけようとしたところで――

「……すいません、椿さん」

 ――聞いたこともないような声音で放たれたユージくんの言葉に、思わず足を止めていた。
 ユージくんは……俯いていた。お母さんの方も、そしてもちろんあたしの方も見ていなかった。
「俺……まだ、吹っ切れてません。頭ではわかってるんですけど……駄目なんです」
 なんだか申し訳なさそうな声だった。
 あるいは、悔やんでいるような。
「タマちゃんも、タマちゃんのお父さんも、ちゃんと受け止めてるのに……俺だけが、受け止められてないんです」 
 ユージくんの声は震えていた。
 ……泣いているのかと思ったけど、違う。
「俺はまだ……椿さんの影を追ってるんです」
 泣いてるんじゃない。ユージくんは、責めている。
 ――ユージくん自身を、責めている。
 ユージくんが顔を上げた。
「すいません……泣き言なんて、聞きたくありませんよね」
 ユージくんが立ち上がる。やっぱり、泣いてたわけじゃなかった。
 でも……目は、赤くなってる。
「また、来年来ますね」
 自嘲しているような表情でそう言って、踵を返す――あたしの方に振り向く。
 ――そして、目を見開いた。
「……!?」
 あたしを見て、ひどく驚いたような顔をした。
 そして。
「……椿、さん……!?」
 打ちのめされたような声で、そう口にした。
 ――それを聞いた瞬間、あたしは頭の中が真っ白になってしまった。
 しまった、というようにユージくんが顔をしかめ、首を振る。
「……って、タマちゃんか。それじゃ、そろそろ帰ろ――」
 聞こえていなかった。
 ……気付いた時には。
 あたしはユージくんに背を向けて、走り出していた。
「タマちゃん!?」
 ユージくんの声が後ろから聞こえてくる――けれど。
 あたしは立ち止まらなかった。
 ――立ち止まれなかった。
 今はユージくんの顔を見たくなかったし――あたしの顔も、見られたくなかった。

 ――こんな、ひどい顔なんて。


 ……どうやって家に帰ってきたのか、さっぱり憶えていない。
 ただ、あたしの顔を見たお父さんがびっくりしていたのはなんとなく記憶に残っていた。
 大丈夫かとか、なにがあったんだとか、色々と聞いてきてくれたけれど……あたしはろくに返事もできなかった。適当に頷いていただけだったと思う。
 ふらふらとした足取りでどうにか部屋に戻って、そして今。
 あたしは着替えもせずにベッドへと倒れ込み、枕に顔を埋めていた。
「う……うっ……」
 泣きたくなんてなかったけれど、どうしても我慢できなかった。枕に染みが広がっていく。

 ……椿、さん……!?

 思い出したくなんてないのに、さっきのユージくんの言葉が嫌でも甦ってしまう。他になにも思い出せないくらい、強烈に焼きついていた。
 ……確かに、最近よく言われるようになった。似てきた、と。
 あたしは嫌だったけれど、でも本当に、似てきていたのだろう。お母さんのことを知っている人達がみな口を揃えてそう言うんだから、それは事実だったんだと思う。
 ……でも。
 ユージくんだけは、今まで一度もそんなこと言わなかった。
 お母さんに似てきたね、だなんて。絶対に口にしなかったのだ。
 ひょっとしたら、あたしがそう言われることに抵抗を覚えていると気付いていたのかもしれない。なにしろユージくんは、あたしよりもあたしのことに詳しいんだから。
 お母さんのことを、口にしたくなかっただけなのかもしれないけれど。思い出したくなかっただけなのかもしれないけれど。
 ……その、ユージくんが。よりによって、ユージくんが。
 あたしを、お母さんと見間違えるなんて。
「……うっ……」
 また、声が出てしまう。あたしは更に強く枕に顔を押し付けた。
 ……ユージくんにだけは、そんなふうに見てほしくなかった。
 そう口に出して伝えたことなんてもちろんなかったけれど、それでもユージくんは今までそれに応えてくれていた。あたしとお母さんを重ねたりはしなかった。
 あたしの言ってもいないわがままを、ちゃんと聞いてくれていた。
 それなのに――
「……ユージくん……」
 あたしは、お母さんじゃない。あたしはあたしなのだ。川添珠姫なのだ。
 ……ユージくんにとって、あたしは川添珠姫じゃないんだろうか。お母さんの娘でしかないんだろうか。
 ユージくんはあたしを見てくれていたんじゃなくて、あたし越しにずっとお母さんしか見てなかったんだろうか。
 あたしだから、という理由で今までしてくれていたんだと思っていたことは、本当は全部、お母さんの娘だから、という理由だったんだろうか。
 ……あたし個人なんて、見てくれてなかったんだろうか。
 そう考えると、いよいよ嗚咽が止まらなくなってきた。嫌だ。泣きたくない。
 でも、やっぱり堪えられなかった。毛布を思い切り握り締めて、より強く顔を枕に押し付ける。
 せめて――あたしの泣き声が、お父さんには聞こえませんように。

 ――酸素が足りなくなって頭がくらくらしてきたところで、あたしはようやく泣き止んだ。いや、泣いてはいたけれど、少なくとも涙は出なくなった。
 仰向けになって、ぼーっと天井を見つめる。しばらくすると、そこにぼんやりとなにかが見えてきた。
 ……小さい頃のあたしと、ユージくんと、そしてお母さんの姿だった。
 そう――とっくにわかっていた。あの頃からずっと、ユージくんが想っているのはあたしのお母さんなのだ。
 お母さんがこの世からいなくなってしまった後でも、それは変わらなかった。ひょっとしたら、いなくなってしまったからこそ、なのかもしれない。
 ユージくんの中に、他の誰も入り込めない――もちろんあたしもだ――場所ができてしまった。もういない人への想いであるそれは、誰にも消せない。
 ――ユージくんは、今でもあたしのお母さんのことを忘れられないでいる。だから、誰にもそこに踏み込ませたりしない。
 ……あたしだけは、お母さんの娘だからということで、そこになんとか近づくことができたんだと思う。けれど、そこまでなのだ。
 あたしはお母さんじゃないから、その代わりなんてできない。ユージくんにとっての、お母さんの代わりになんてなれない。
 だから――あたしは、ユージくんの目に入らない。見てもらえるとしたら、それはお母さんに似ている誰かとしてのことなのだ。
 あたしはベッドから下りると、机の引き出しから鋏を取り出した。伸びてきた髪を掴んで、適当に切り落とす。
 ……全部ではないけれど、原因の一部は間違いなくこれなのだ。お母さん、あたしよりずっと髪が長かったから。
 近くに鏡がなかったのできっと全然揃ってなんていないだろうけど、構わずにもう一房掴み、切り落とす。とにもかくにも、この長さがいけないのだ。
 ――それこそ、親の仇でも討つような心持ちで。あたしはそのまま鋏を進めた。
 その間ずっと脳裏に浮かんでいたのは、ユージくんの顔だったのだけれど。


「……で、どーすんの?」
 ミヤミヤの視線が俺に突き刺さる。まあ無理もないことだけど、怒りを通り越して呆れきっているような目だった。
 他のみんなも、概ね似たような表情だ。サヤ先輩とダンくんは明らかに怒ってる顔だし、コジロー先生とキリノ先輩、東さんは怒りが半分、呆れがもう半分、といった感じだろうか。
 俺は今、道場の壁に背中を預けて、剣道部一同に包囲されている。ちなみに誰もまだ着替えていなかった。
 ――椿さんのお墓参りにいった翌日。タマちゃんは部活どころか、学校にも来なかった。
 無論、俺としては自分で呆れるくらいに心当たりがある。どう考えても、昨日のあれが原因だ。
 そして放課後、というかたったさっき。
 連絡もなしに(しかも椿さんの墓参りに行った翌日に)タマちゃんが休むなんておかしいとコジロー先生とダンくんに問い質されて、俺はみんなの前で昨日のことを白状した。
 俺が、絶対に言っちゃいけないことを言ってしまったこと。そのせいでタマちゃんを傷つけてしまったこと。
 コジロー先生とダンくんの反応は予想した通りだったので、俺は大人しく二人に殴られた。正直、メチャクチャ痛かった。
 その後の女子陣からの叱責も甘んじた。反論の余地なんてありゃしない。どこからどう見ても、100%俺が悪い。
 そうして、ミヤミヤが放った言葉がさっきのものだ。俺はそこでようやく口を開いた。
「……謝ってきます、タマちゃんに」
 当然の答えだった。タマちゃんを傷つけたのは俺の不用意にも程がある一言なのだ。
 ……前からそうだったけど、最近になってタマちゃんは益々生前の椿さんに似てきた。
 でも、周囲からそう言われる度に――タマちゃんは、それを嫌がっているようだった。顔にこそ出してはいなかったけど、俺にははっきりわかったのだ。
 だから、俺は絶対にそれを口にしなかった。だって言うのに。
 あの瞬間、俺はタマちゃんを――ほんの一瞬だけど、椿さんと見間違えてしまった。のみならず、それを口にしてしまったのだ。
 タマちゃんがそれを嫌がっていると、そう知っていたはずなのに。
 だから、俺はタマちゃんにそのことをちゃんと謝らないといけない。許してもらえるかどうかはわからないけれど、謝らないという選択だけは絶対に存在しない。
「……ユージくん、一つ聞いておくけど」
 キリノ先輩が言ってくる。俺は顔を上げた。
「なにを謝るつもりなの?」
「……はい? なに、って……」
 言いかけたところで、更に今度はサヤ先輩が、
「まさかとは思うけどさ。見間違えちゃってごめん、って言うつもりじゃないでしょーね?」
 ……思い切り、そのつもりだったんだけど。
 先輩二人の表情を見る限り、どうやらその選択肢は誤りらしい。
「ユージくん……タマちゃんが傷ついたのは、そういうことじゃないんですよ」
 俺の不理解を東さんが指摘してくる。……どういう、ことだろう。
「あのね。タマちゃんがショックを受けたのは、ユージくんに自分のお母さんと見間違えられたからだってこと、ちゃんとわかってる?」
 今度はミヤミヤが目を吊り上げて言ってくる。俺は頷いた。
「……もちろんわかってる。だから、俺はそれをちゃんと謝らないと――」
「ちっがーう! そーじゃなくて!」
 がしがしと頭を掻きながら、サヤ先輩が俺の言葉を遮った。びしっと指を俺の鼻先に突きつけて、
「『見間違えられた』からじゃなくて、『ユージくんに』だからなの! わっかんないかな!?」
「…………は?」
 サヤ先輩の言葉の意味がよくわからず、俺は途方もなく間の抜けた声を返してしまっていた。
「……あのなー、ユージ」
 と、ダンくんが腕組みをしながら口を開いた。
「お前、タマちゃんがどうしてショック受けたと思ってるんだー?」
「どうしてって……タマちゃん、椿さんと似てるって言われるの、嫌がってたから」
 そう、それは事実だ。他のみんなにはわからなかったのかもしれないけど、付き合いの長い俺としてはタマちゃんがそれを快く思っていないことがわかったのだ。
「……じゃあ、今回に限って、学校にも来れないくらいにショックを受けたのはどういうことなんだー?」
「え……それ、は」
 返答に詰まった。
 ……言われて見れば、確かにそうだ。内村さんだとか道場の門下生だとか、そういう人達に言われた場合、嫌がりはしてもそれを顔には出さなかった。
 なのに、昨日は違った。どうしてだろう。
「それを言ったのが……俺だった、から? そう言いたいの、ダンくん?」
「そこまで教えないとわかんないのかー、ユージ?」
 そう言われてまたしても、俺は答えに窮してしまった。
 ――考える。俺だったから、という、先輩やダンくん達の言葉の意味。
 その間、誰もなにも言ってこなかった。
 ……俺が明答に到るのを、なにも言わずに待ってくれていた。
 やがて、俺は顔を上げて。
「……タマちゃんのところに、行ってきます」
 はっきりとそう告げる。
「なんて……言いに行くつもりなんですか?」
 東さんが不安のような期待のような、そんな声音で聞いてくる。俺は首を横に振った。
「わからないよ……なんて言えばいいのかなんて。でも」
 それは嘘だった。本当は、言うべきことなんてわかりきってる。
 でも、流石にそれをここでみんなに言うのは躊躇われた。打ち明けるべき相手は――一人しかいない。
「なにをすればいいのかは、ちゃんとわかったから」
 それだけ言って、俺は道場を飛び出した。


 ……お腹が空いた。
 泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたけれど、それでもちゃんとお腹は減るものらしい。よく考えたら、昨日のお昼にお弁当を食べてから、なにも口にしていなかった。
 泣くのにも栄養は必要なんだと思いつつ、あたしはようやく部屋を出る決心が着いた。ご飯が目的だなんて、我ながら現金なものだとも思ったけれど。
 ――お父さんはいない。親戚の人達と、お母さんのお墓参りに行っている。
 あたしを残して家を空けることには抵抗があったみたいだけど、あたしは平気だから、とドア越しに伝えると、渋々といった様子で出かけていった。
 昨日はあたしとユージくんが行ったんだから、今日はお父さん達の番なのだ。あたしのせいでそれを覆させてしまうのも申し訳ない。
 キッチンに行くと、お父さんが用意した(んだと思う)ご飯がテーブルの上に置かれていた。朝と昼の二食分。どっちも手付かずだけど。
 たぶん朝の方だと思う皿をレンジに入れて、スイッチを押したところで――
 ピンポーン、と音が聞こえた。
 ……誰か、来たみたいだ。どうしよう。
 はっきり言って、今のあたしはおよそ人前に出られるような顔をしてない。居留守を使ってしまおうかとも思ったのだけれど――親戚の人だったら、まずい。
 迷っていると、もう一度チャイムが鳴った。
 ……せめて、顔くらいなんとかしよう。
 あたしは少しだけ急いで洗面所へと向かった。とりあえず顔くらい拭おうかと思ったのだけど――

「タマちゃん!」

 玄関の方から聞こえてきた声に、ぴたりと足を止めていた。
 ……ユージ……くん?
 廊下に飛び出した格好のままで、あたしは視線を声の聞こえてきた方へとやった。
 ……聞きたかったけれど、聞きたくなかった声。
 来て欲しかったけれど、来て欲しくなかった人。
 会いたかったけれど、会いたくなかった人。
 ぐるぐると、頭の中でいろんなものが回っていた。
 でも――それらを押し退けて、脳裏に瞬いたのは。
 昨日、最後に見た……自分の口にしたことをひどく後悔しているような、ユージくんの顔だった。
 それに後押しされて、あたしはゆっくりと玄関へと向かっていた。
「……ユージくん?」
 恐る恐る、聞いてみる。
「タマちゃん? 良かった……やっぱりいたんだ」
 ほっとしたようなユージくんの声。
 それを聞くや、あたしも思わずほっとしてしまい――同時に、昨日の出来事が一度に思い出されてしまった。
「……どうしたの、こんな時間に。部活は?」
 戸は開けないまま、あたしは尋ねていた。自分でも低い声音だったと思う。
 ……そう意識して喋らないと、また嗚咽が漏れてしまいそうだったから。
 ユージくんは少しの間を置いて、
「みんなにさ、怒られたんだよ。なにやってんだ、って」
「……あたしのことで?」
 お母さんのことで? とは聞けなかった。そんな勇気はなかった。
「タマちゃん……先に言っておくけど、ごめん」
「…………」
 あたしは答えなかった。答えられなかった。
 ……謝って欲しいんじゃ、ないのに。
 でも、だからって本当の望みなんて、言えるわけがない。
「……どうして謝るの? ユージくん、なにを謝ってるの?」
 聞くと。
「違うよ」
 きっぱりと、ユージくんが否定した。
「……え?」
 なにが違うんだろう。よくわからない。
「タマちゃん、俺がごめんって言ったのは――昨日のことについては、謝れないからだよ」
 ――わけが、わからない。
 わからなくて、脚が震えた。
「本当なら謝るべきなんだろうけど、でも、俺にはそれができないから。それをタマちゃんに謝ることはできないから――だから、ごめん」
 わからなかった。さっぱりわからなかった。
 ――戸を開く。ユージくんが、そこにいた。真っ直ぐに、あたしを見つめて。
「ユージくん、なにを言ってるの? 全然わからないよ。できないって、なにが――」
「俺、たぶんまだ――椿さんのこと、好きだから」
 あたしの言葉を遮って、ユージくんは。
 はっきりと、そう口にした。
 ……頭の中が、真っ白になる。昨日と同じように。
「だから――傷つけてごめんなんて言う資格、俺にはないと思う。まだ、椿さんのこと忘れられないから――タマちゃんの気持ちが変わらない限り、いくら謝ったって意味がないんだ」
 聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。大声で泣いて、ユージくんの声を遮ってしまいたかった。
 でも、あたしはなにもできなかった。馬鹿みたいにその場に突っ立って、ただユージくんの言葉を聞いているだけだった。
「俺が忘れるか、タマちゃんの気持ちが変わるか、そのどちらかに転ばない限り、きっとこれからもタマちゃんを傷つけちゃうから。だから――俺は、謝れない」
 涙が出てきた。身体も震えていた。
 ……ひどい。そんなこと、わざわざ聞かせて欲しくなんてなかった。
 それならまだ、たとえお母さんの代わりでしかなくても――今まで通りの関係に戻れるような嘘を、言って欲しかった。
「……だったら……!」
 非難の声が口から飛び出した。
「謝らないなら……どうして来たの……!? そんなの、聞きたくなかったのに……!」
 言いながら、あたしはユージくんの服にしがみついていた。
 ……そうしないと、倒れてしまいそうだった。
「はっきり言わないといけないと思ったから。ちゃんと、俺の気持ちを」
 ユージくんは抵抗しなかった。あたしの頭の上から、あたしと違って取り乱してるわけでもない口調で言ってくる。
「それと、もう一つ――約束しようかなと思って」
「……ひっく……約束……?」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまった顔をユージくんのシャツに押し付けながら、聞き返す。
 ユージくんが頷くのが気配でわかった。
「うん。……もう二度と、タマちゃんと椿さんを一緒にしたりしないって」
「…………え」
 嗚咽が止まり、あたしはユージくんの顔を見上げた。
 ユージくんは――見慣れた、いつもの笑顔を浮かべていた。
「俺が好きなのは、椿さんだから。タマちゃんじゃなくてね。だから――もう二度と、タマちゃんと椿さんを重ねたりしない」
 その言葉に、またぐさっと胸に刺さるものはあったけれど。
 それでも――その言葉の意味を、あたしは辛うじて理解することができた。
 どうにか理解が及んだそれを、口にする。
「それって、つまり……あたしを、あたしとして見てくれるって……そういうこと……? お母さんの代わりじゃなくて……」
「タマちゃんはタマちゃんだよ。椿さんじゃない。そうなる必要もない、と思う」
 言いながら、ユージくんはぽんとあたしの頭の上に手を乗せた。
「俺はまだ椿さんのこと忘れられてないけど――椿さんの面影をタマちゃんに見るようなことは、絶対にしない。それだけは約束する」
 ……正直、返答に困った。
 喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、よくわからない。
 ただ、一つだけ。確信があった。
 ユージくんが嘘を言ってないということ。考えてみたら、いつだってそうだったのだ。
 ユージくんがあたしに嘘を言ったことなんて一度だってない。
 現に、今だって。まだあたしのお母さんのことが好きなんだって、ちゃんと口にしてくれた。それは嘘じゃない――はっきりとわかる。嬉しくはないけれど。
 だから――信じられる。
 今まで通りに、あたしはユージくんの言葉を信じることができる。
 ……でも、やっぱり嬉しいわけじゃなかったから。
 あたしはもう少しの間、ユージくんの胸で泣いた。
 泣き止むまで、ユージくんはあたしの頭を撫でてくれていた。


「タマちゃん……髪、ひどいことになってるよ?」
 洗面所で顔を洗っていると、後ろからユージくんが声をかけてきた。あたしの涙と鼻水でべたべたになってしまった上着はとっくに脱いでいる。
 鏡を見ると、確かにあたしの髪はかなり無残なことになっていた。まあ無理もないんだけど。
 あたしは誰かの散髪をした経験なんてないし、まして昨夜は綺麗に切り揃えようなんて考えが頭の片隅にもなかったんだから。
「ユージくん……切り揃えてくれる?」
 あたしが振り向かずに言うと、
「うん、いいよ。鋏ある?」
 あっさりと、ユージくんは頷いた。
 ……どんな表情をしているのかは、見なくてもわかった。
 きっと、いつも通りのユージくんの顔だ。
 そして、たぶんあたしも。いつも通りの顔をしていたんだと思う。
 だって、ユージくんが特になにも言ってこなかったから。

 あたしの目の下にできた隈と、ユージくんが上着を羽織ってないことを除けば。
 それはやっぱり、いつも通りのことだった。