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”*1,007-”

何かの端数、ではない。
コジローの預金通帳、その現在高――
つまりは、彼の持ち得る資産、そのほぼ全てである。
今月の給料日まで、残り10日。

(……さて、どうしたもんか、石田虎侍。)

―――しゃんとしなくては。
取り敢えずは、そう決めた。
それが彼の目指す「大人の強さ」その第一歩…のはず、だった。
だが、現実に目を向ければ、問題は堆く積まれた山のように屹然とそこにある。
家計簿をつける取っ掛かりになればと思い、レシートは残し、週末には通帳記入をするようにもした。しかし――

(これはビールの特売日、これもビールの特売、こっちはビデオの延滞…って、おい。)

まとめて記帳された実に76件ものカード取引件数、その日付と引き落とし金額は…
己の金遣いの荒さ、ムダさを如実に物語っていた。

(……とりあえず、酒は控える、として…問題は食い物だな…)

ちら、とキッチンを見やると。
そこに在るのは辛うじて実家から送られてきた僅かばかりの米と――
ほとんど空っぽの冷蔵庫の中には、先輩と飲んだ時の残りの枝豆が2袋。

(…これであと10日、か…)

―――はぁ、とひとつ深い溜息をついてから……がさごそ、棚を漁ってみる。
しょうゆ、みりん、サラダ油、砂糖、塩、酢、コショウ、味噌、バター、各種ソース―――
一人暮らしで自炊をしない男の部屋にしては、十分過ぎるほどに調味料の品揃えはいい。
ほとんど全て、実家から送られて来た物だ。
母曰く、お前もお料理くらいできないと今の時代お嫁さんも来てくれませんよ、とのこと。

(…単に、セットで買った余りだとか、お歳暮とかで貰ったのを俺に押し付けてるだけじゃねえのか?)

実家に帰った時に見た、コンビニ弁当で腹を膨らす父と母。
その姿をありありと思い出し、そりゃ調味料なんかいらんわな、と思いつつ――
何が嫁だ、ふざけんなあのババア、と一言漏らすと。

「……しょうがねえ、いっちょやったるか、料理」

コジローの人生における初めての挑戦は、そのような形であっさりと齎された。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


”¥1,105-”

先の口座の残高が増えた、わけではない。
引き落としが済み、生鮮100均ショップで買物を済ませた…
今のコジローの財布の中に納められているなけなしの生活費。その全てである。
紙幣1枚に僅か2枚の硬貨と少しのカードと免許証・職員証だけのとても簡素で軽い財布。

(――少なくとも、「大人の財布」ではないな、こりゃあ…)

そんなボヤキをどうにか肚に収めつつ。片手の買物袋には…
とりあえず卵に、ツナ缶、竹輪、胡瓜、玉葱。そしてスティック味噌汁。
そういった、なんとか主菜のごはんを引き立てられる食材。
これでどうにかまず5日凌げれば、という目論見と共に、部屋への階段を上がる。

「まずは、メシだな。……炊けてるかな?」

部屋に入って荷物を置き、まず買物に出る前に仕込んでおいたジャーを開くと…
それと同時にもわぁっ、とした白煙が立ちのぼ―――らない。

「…うわっちゃ、水が少なかったのか?」

それは、ごはん、と言えば間違いなくそうであるという形をしていたが…
”炊き立て”のつやと瑞々しさのイメージからは程遠い、
パサパサでいかにも味気の無さそうな白米であった。

(――ま、まあいい。米炊くのも久し振りだし…それにどうせ炒めるんだしな。)

心の中でそう呟くと、引き出しの中から。
引越しの時に母親にムリヤリ買わされ、押し付けられたまま――
およそ4~5年もの間、只の一度も使われる事のなかった――包丁とまな板を取り出す。
そのまま、玉葱を一刀両断すると、溢れる涙を抑えて微塵切りに。
タタタタタ、と小気味よい音が部屋に流れる。

(……なかなか手馴れたもんじゃないか、俺も。へへ)

そのまま油をひいたフライパンに移し、あめ色になるまで炒め…
頃合になるとまな板に移し返し、余った分をラップに包んで冷凍保存、一丁上がり。
自分で自分の手際の良さに感動しつつ、炒めたタマネギの香ばしい香りにお腹をぐぅ、と鳴らすコジロー。

(あとは、食べる分と一緒に飯を炒めて、と…)

ジュワジュワ、といい音をさせながらフライパンの上で玉葱と混じり合って踊る白米。
それに少しづつケチャップと胡椒で味付けをしていく―――とそこに、異変が。

「…む、なんか…ベチャベチャだな…?」

ケチャップをかけすぎたか、と思うが時既に遅し。
オレンジを超え、もはや真っ赤に染まった玉葱とご飯は…
オムライスの下地というより、さながらケチャップ混ぜご飯の様相である。

(こ、こりゃ…辛そうだな……まあ、次は卵タマゴ、と…)

一先ずソレをお皿に盛りつけ、といた卵をそのままフライパンに。
やや強火にしてぐちゃぐちゃに掻き雑ぜると、こんがり焼き上がるプレーンオム。
やれやれこっちはどうにかなったか…とコジローが胸を撫で下ろすと、
続いて最終段階、ハヤシソースの作成へ。

(デミグラスソースに、ケチャップとバターを混ぜて…と。こんなものか?)

オムを赤いごはんの上に乗せ、フライパンの上で調味料をかき混ぜると…
じゅわぁぁぁ、とこれまたいい音と共にソースの焦げる臭いが鼻を包む。
よしこんなもんだ、とオムの上にソースをかけ、完成。
”オムハヤシライス一人暮らし風”の出来上がり、である。

「よっしゃ!食うぞ食うぞっと!」

スティック味噌汁にお湯を注ぎ、机に運ぶと、試食タイム。……が、しかし。

―――がりっ。

一口目にして、口当たりに違和感。
オムの中から出てきたソレは紛れも無い、卵の殻であった。
そしてそのような違和感すら遥かに上回る勢いで訪れる―――さらなる違和感。

「かっ、かっ、辛れえ~~~~ッ!!!」

慌てて水道に駆け込み、蛇口をひねると口をすすぐ。
その常識外れの辛さの正体は……ケチャップの蓋に記されていた。

[”激辛”ホット・ケチャップ タイ人もびっくり]

そんなものを、浸かるほどにもかけてしまっては…
上に乗るプレーンオムレツの繊細な味など、ひとたまりもない。
おそるおそる、二度三度と…どうにか口に運ぼうとするものの、その都度辛さに音をあげそうになる。
みそ汁と冷水でどうにか誤魔化しつつ、半分ほど食べきった所で…ギブ。

「もう、ダメだなこりゃ…枝豆でも食おう……」

ヒリヒリする口で枝豆一袋を掻っ込み、皿を片付けた所で時間はもう23時を回ろうとしている。
いかんいかん、と大慌てで風呂に飛び込み、汗だけ流して一日終了。
布団に潜り込み、まだぐるるるる、と獰猛な音を立てるお腹からの追求をどうにか捌く。

(しかし、こんなに上手く行くかんとは…不器用にも程があるな、俺は――)

作成過程で有頂天にもなっていた分、一旦沈み込むとその振れ幅は限りなく大きい。
まして今日は適度な酒も入ってない。素振りもしていない。必然―――寝付けるはずもない。
布団の中で二転三転しながら明日からの事を考えると、ますます気が滅入る。

(まず一度、誰かに教わるべき、なのか…?)

―――”誰か”。
自分で考えておいて、一発で思い当たるシルエットが、一人。
猫口で、いつでも笑顔の絶えない、ポニーテールをゆらゆら揺らすその姿は、紛れもなく―――
もわもわ、と具体的なかたちを持ち始めたその空想を、しかし瞬時に脳内で打ち消しにかかる。

(……ったく、しっかりしろ!)

川添道場で目を啓いて以来、しゃんとしよう、という事と共にもう一つ考えていた、いや…
どうしてもそれと連なる思考のスミからこびり付いて離れようがないものが、ひとつ。

(俺は、俺自身は―――あいつにいつまで頼るつもりだ?)

メシの事も勿論だが、それだけであろう筈もない。
その根本に根差しているのはおそらく春先、まだ一人ぼっちだったあいつに…
どうする事もしてやれなかった申し訳なさに端を発する、積み重なった罪の意識。
あいつが弱っていて、何か力になってやろうとしたIH県北予選では、結局、何もしてやれずに。
あまつさえ川添道場では、自分の取るに足らない面子を守る為に逆にまた…借りを作ってしまった。
このツケはいつか払わねばならない。そしてまさに今こそがその時である。それは分かっているのだが―――

そうは思いつつも、脳内に浮かぶその姿を無理にでも打ち消そうとすればする程に…
何の意識もしていなかった母のなんでもない言葉までもが脳内でフラッシュバックされる。

”お嫁さんも来てくれませんよ”

―――嫁、さん……母親。
これまで、それなりに多くの生徒や知人と関って来た、という自負もある自分の交友範囲の中で。
それでも……あいつ程その言葉に相応しい人間がいるだろうか?いや、おそらくは居まい。
まだ高校生でありながら、でしゃばらず、引きすぎず…
全ての人間に平等に接する博愛の目を既に備えており―――
加えて家事百般に通じ、気立ても勿論いい。それに努力家だ。
唯一、何事も自分で溜め込んでしまう癖だけは欠点と言えなくもないが…
何といってもまだ高校生のあいつにそこまで望むのは高望みという物だ。
ましてやあいつなら、そのような事をも優しく包み込むふくよかささえ―――じきに手に入れてしまう事だろう。

(あんな才能…って言うなら、あいつも十分すげーよな……はは)

自分には、過ぎたる宝が、二つ―――いや、七つ。いやさ…九つ、か。
ともあれ自分は、そういう光の粒たちに…
いやむしろ、自分に関わる全ての生徒の導き手として―――
恥じぬ態度を、姿勢を、そして在り方を示さなくては為らない。

(”大人の強さ”なんだ、コジロー。……いつまでもあいつに甘えていて、どうする。)

そう思うと、むくりと起き上がり、傍らの竹刀を携え、外へ。
一つ、二つ―――何かを確かめるように竹刀を振る。
日付が変わっても、その風を切る音が絶える事は無かった。


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――――”ごぎゅるるるる”

工事のドリルが地面を掘削する音ではない。
一人の人間の…お腹から発せられる――轟音である。
その音がする度教卓にへたり込んでいた以前までの姿とは異なり…
必死に背を起こし、なんとか教師らしく振舞おうとしているその姿は―――
違う意味で滑稽だと言え、やはり生徒たちにとっては失笑の対象でしかない。

あれから数日、料理はとにかく失敗続きであった。
米は何故かどうしてもムラができ、上手く炊き上がらない。
「ツナと胡瓜の味噌和え」は、またも味付けを間違えてほとんど味噌の味しかしなかった。
「ちくわと刻み胡瓜のマヨネーズがけ」は流石に上手くいったものの、ダイエット料理にも程がある。
辛うじて満足と言える出来栄えだったのは目玉焼きくらいのもので、結局のところは―――
ジャーに残ったまずいメシと小分けにした枝豆、そしてスティック味噌汁で凌ぐ毎日。
朝と昼は、抜き……その生活も限界に近付き、既に貧血に基く立ち眩みを起こす事2回。
そして今日も、終業のチャイムに救われなんとかふぅ、と片息をつくと…
コジローのそんな様子を見かねた生徒が、二人。

「先生、お腹すいてそうだから…パン食べる?」
「あたしもあげるよ…っていうか大丈夫、先生?」

数ヶ月前にも自分にパンをくれた女生徒二人が、いかにも心配そうに見つめている。
その目には、かつてのガツガツとした「残パンマン」コジロー復活への期待が湛えられていた。
が、しかし……今のコジローとしては、その好意に甘える訳にもいかない。
払拭せねばならない。醜聞を。そして、取り戻さなければならない。威厳を。

「―――はは。だらしねー先生で、ごめんな…」

辛うじてそう言い残すと、やつれた顔でどうにか笑顔をこしらえ…軽く手をあげ、教室を出る。
それを背後で見送る二人の生徒の瞳に、旗が――はっきりとはためいてしまっている事に。
彼はもちろん気付くよしもない。
ともあれ、そういう…ある意味今まで以上の天然たらしっぷりを見せつつ…
時間は刻一刻と放課後、すなわち部活の時間へと近付いていた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


―――ブンッ!ビュン!……ヒュンッ!

閑まりかえった道場に木霊するは、もちろん素振りの音。
川添道場にて「何か」を得る事のできた、もう一人―――即ち、ミヤミヤその人のものである。

(あ…最後のは、近かった気がする。)

一旦竹刀を降ろし、汗をぬぐって呼吸を整える。
―――よもや、ここまで自分が剣道にのめり込む事になるとは。
1年前の自分に言っても、恐らくは鼻で笑われるだけだろうな、と思う。
でも、悪い気はしない。こうして放課後、一番乗りで練習を始めている自分も――うん、悪くない。
よし、もう一回、と竹刀を強く握り締めたところで―――背後の引き戸が開くと。

「はよーっす……んっ、今日はまだミヤだけなのか」

一人でも練習とは感心感心、とでも言外に仄めかすような…
相変わらずの人を食ったような態度で顧問のコジローが入って来る。

「おはようございます、コジロー先生」

一旦竹刀に込めた力を抜き、軽く笑顔を作って会釈をし…
すたすた、と近付いてくるコジローをじいっと見る。

(…やっぱり――何も、変わってないじゃない。)

自分が直接、何かを見聞きした訳ではないが――元々、他人の気持ちには聡いミヤミヤの事。
川添道場の一件以来、部内の空気が微妙に変化してきている事は、十分に感じ取っていた。
そう、微妙に……今までのどこかのほほんとした温和で穏やかな空気は残しつつも、
何か確かな目標を見つけたような、そういう伸びやかな空気が今の部にはあり…
自然とそれが今の自分の成長を後押ししてくれているようでさえある。そういう感じ。
そしてその変化の中心に居るのが目の前に居るこの顧問であるという事も―――

……以前より自分はこの顧問とは、他の部員たちよりも幾分フラットな、
良く言えば依存の無い、悪く言えば距離を置いた付き合い方をしてきたつもりではある。
しかし、そのせいで見え難い部分もあるのだろう、という点を差し引いたとしても…
それでも、自分だけが具体的な「その変化」に気付けていない、というのはどこかもどかしく。
また同時にそれはミヤミヤのプライドを刺激してもいた。
――――ただそれでも、今の自分にもどうにか、分かる事があるとすれば。

「な…何だよ。俺の顔、何かついてるか?」

間近までやって来たコジローの顔をそのまま、ずい、と覗き込む。タバコの時のお返しとばかりに。
女の子にしては長身のミヤミヤとはいえ、元々の身長差に加え、背筋を立てた男性相手では…
さすがに下から睨め付ける様な視線になる。が……
その眼光と、眼の前まで寄せられた顔から漂う髪のにおいにコジローは息を呑む。

「……先生、あごの下にニキビできてますよ」

どんな生活してるんですか、と云うミヤミヤの言葉に慌てて下顎に手をやるコジロー。
その所作が少し、おかしく見えて――いや、Sの血が疼いたのか――にやり、と口角をあげると。

「――最近、ちゃんとごはん食べてるんですか?」

気になっていた事をズバリ、ぶつけてみる。
元々姿勢のいい人ではあったが、今なお背筋こそぴんと伸び、しゃんとしてはいるものの…
よく見ると日に日に頬はこけ、髪はパサつき、青白い唇の色はいかにも不健康さを表し、顔色もいかにも、よくない。
そういえば最近――とは言っても、ここ数日だけの話だが――皆での昼食の席に先生を見かける事が無かった。
まさかそれが原因で、とは思いもしなかったものの……
確かに目の前にいるコジローは”栄養失調”その典型的な患者であると言えた。

ともあれ、それは―――ミヤミヤからすれば、ほぼ純粋に心配の気持ちからの言葉であったのだが。
言われた当のコジローにしてみれば、またもや生徒に自分の不調を気遣わせてしまった事、そして何より…

”ちゃんとごはん食べてるんですか?”

その一言一句に”誰か”の姿をまたもや連想してしまっている自分に対する嫌悪感。
そして勿論、気を使ってくれているミヤをそんなふうに見ている事への申し訳なさ。
まとめて押し寄せるそんなネガティブな感情を振り払うようにぶんぶんぶん、と頭を振ると。

「はは…そうなんだよな、最近、晩メシがうまくできなくてさ」

頭をぽりぽりと掻きながら照れくさそうに告げるコジローの…
その何気ない言葉の中に、ほんの少しの違和感を見つけるミヤミヤ。

「うまくできなくて、って……自炊とかしてましたっけ?初耳ですけど」

料理をするようなタイプには余り見えないし、そんな話も聞いた事がない。
何よりこちらは彼が生徒に昼食をたかる姿を幾度も目にして来ている。
それが一体、どうした心境の変化だろう。

至極もっともなミヤミヤの疑問に一瞬、しまった、という表情を浮かべた後…
隠してもしょうがないかと一呼吸おいて、コジローが言葉を紡ぐ。

「いや……いつまでもお前たちの世話になってたんじゃ、みっともないだろ?」

たったそれだけの言葉ではあったが、聞くミヤミヤの耳には、それが何故か…
信じ難い情報となって飛び込んで来たように、思えた。
そしてそれと同時に。

―――ああ、こういう事なのか。

と得心の行く部分も、確かにある。
つまりは……「変わった」のだ。この顧問は。
別につまらぬ見栄を張る部分が無くなった訳ではないだろうし、
勿論これからも度々、そのだらしなさに辟易させられる場面もあるのだろう、とは思う。
しかしそれらが持つ意味は、おそらくこれまでの物とは大きく異なって来るのだろう―――
そういう不思議な確信をもつだけの理由が、その言葉からは感じられる。ような気がした。

ともあれミヤミヤがそうして、ようやく分かった、という納得の笑みを浮かべていると…
その和やかな空気を引き裂くように、ムードもへったくれもない、地鳴りのような音が道場に鳴り響く。

――――”ぐぐぐぐぅ”

言うまでもない。コジローの腹の音、である。
流石に教室とは勝手が違い、多少は付き合いの深いミヤの前では照れを隠し切れず…
頬をぽりぽり掻きながら口元を緩ませ、申し訳無さそうに顔を赤くするコジロー。
しかし、ミヤミヤにしてみれば……従来の自分であれば。
ここで「はぁ?」とでもいうような態度を取るのだろうな、と思いこそしたものの…
何故かその心中は、自分でも驚くほどに穏やかだった。

「ぷっ…っく、ふふふ……ダンくんのお弁当の残りでよければ…食べますか?」

そう言ってお弁当を取って来ようとするミヤミヤの救いの手に…
一旦は乗りかかるような素振りを見せたものの、しかし手の平を向け、いやいや、と俯きがちに首を振るコジロー。

「いーんだって。自分の事は自分で何とかするさ。……まあ今日は何ともならなかったんだけどな、はは」

その言葉に、でも、とあくまで食い下がろうとするミヤミヤに対し、やや真剣さを混じえた表情で、さらに―――呟く。

「……俺はもう、お前らに頼るわけにはいかないから、さ…」

遠い目で、自分ではない誰かに向けて言っているような…
その、あまりの。依怙地なまでの頑なさに。お前ら、と口では言いながら―――
まるで誰か…特定の人物を指して言っているような錯覚をおぼえる。
そしてこの顧問を、ここまで真剣にさせている”誰か”とは…
―――ミヤミヤにとっても、思い当たるのは一人しかいない。

(……キリノ部長と、何かあったんですか?)

聞けない。なにかそれが……そこまで関ってしまう事が、自分のキャラではない気がして。
しかし目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので…
当のコジローにはその、じっとりと見つめるミヤの視線の意味がどんな物なのか、伝わっているようにも思えた。
実際、その視線攻撃に耐えかねてか、コジローの方が参った、とばかりに話をそらす。

「…また、今度でいいからさ、簡単なレシピ本でも貸してくれよ」

お前、料理得意だったろう、と締められたその言葉は―――
体のいい、拒絶のようにも聞こえ……先程までの穏やかさよりも、苛立ち。
いや、それよりももう少しだけ複雑な感情が先に顔を出す。

「そんな物なくても……部長に教わればいいじゃありませんか?」

思わずに投げてしまった直球に、コジローの顔がひきつる。のが見えた。気がする。
しかし、こちらとしても。こうなってしまった以上引き下がる気は毛頭、ない。

「さっきから聞いてると……随分逃げ腰なんじゃありませんか?」

「”関わらない事”と”頼りにしない事”は、違うでしょう?」

「それとも…そんなものが…」

―――先生の見つけた”正しい事”、なんですか。

ミヤミヤが、そのいつもの自分らしからぬ多弁さに自分でも驚いていると…
コジローは、ぐっ、と唇を噛み締め、その一言一言を真剣に咀嚼しようとしていた。
そこへようやっと、遅れて来た2年生組――キリノとサヤ――が、姿を見せる。

「おはようございまー、ってアレ?先生とミヤミヤだけ?」
「アヤシーなあ、二人で何してたんですか?」

即座に表情を切り替え、おう、遅いぞ、と答えると…
茶化すようなサヤの言葉にもバーカ、と笑顔で答える。
今の今まで自分に見せていた深刻な表情は、どこにもない。
それを見たミヤミヤが、

(―――やっぱり、変わったのね、この人は。)

と…先刻の自分の確信が間違いでは無かった事を改めて感じていると。
そんな事はつゆ知らないキリノが、二人の方へと近付き、朗かに話し掛ける。

「先生がまだ背広って事は…ミヤミヤ、一人で練習してたんだねえ。感心感心」

そういって、少しおどけ気味にキリノがミヤミヤを褒めると、

「いや…俺が、話しかけて止めちゃってさ。ごめんな、ミヤ」

コジローもそれに乗る。
そのまま始まりそうなこの部恒例のお喋り会に…
今はあまり乗り気にはなれず、メイク直してきます、と一人その場をはけようとするミヤミヤ。
その場に背中を向け、半歩ほど場を離れた所で、キリノの言葉。

「おりょ、センセー…最近やっぱり顔色悪いねえ。ダメですよー、ちゃんとごはん食べてるんですか?」

――――”ちゃんとごはん食べてるんですか?”
先ほど耳にした物と、全く同じフレーズに刹那、二者二様に動きを止める。キリノはわからない。サヤは気付きもしない。
しかしミヤミヤはすぐさま硬直を解くと、そのまますたすた、と洗面所のある更衣室の方へ去って行く。
コジローはそれを確認だけすると、言葉を紡ごうとする。が…

「ああ、それなんだが……」

……このまま、思い切って話してしまおう、とした所でやはり口の動きは止まる。
どうしても、理性ではなく本能的な部分で―――キリノに頼るのを、由としない自分がいるのだ。
それはもはや…母親に逆らい、自立をさけぶ反抗期の子供の感情のようなものだ、と自分でも分かってはいる。頭では。

(それでも、俺は……)

言葉を止め、目をいったん宙空に泳がせていると…
更衣室の扉に手をかけたまま、半眼でこちらをぎろり、と睨むミヤと視線が合う。
息を呑み、釘付けにされるこちらの視線に、ミヤは唇の動きでもって何かを伝えようとしている。
遠目にも確かに見えた、その三文字の科白、それは―――

――――せ・い・ぎ。

それはいつか、自分自身がミヤに言った事でもある。

”自分の行動で迷う時があったら、その行動が――『正義』かどうかで、俺は判断する。”

そして今、自分が。キリノに頼ろうとする事は―――
果たしてそれが大人として正しいのかどうかは、分からない。
だが、確かに……誰かの力を借りずに自分で解決しようとする事と、
依存を恐れ、関わり合いを持たないようにする事との間には、雲泥の違いが在る。
ましてやこんなにも誰かに心配をかけてまで…自分の、いわばエゴを貫く事が。
そんな事が果たして本当の”大人の強さ”だと、正しい事だと胸を張って言えるのだろうか?
―――違う。気がする。

(……ああ、分かったよ。ミヤ。)

扉に手を掛け、立ち止まったままでこちらを見ているミヤから視線を切ると。
一度ふう、と大きな嘆息を漏らし……すぐ傍にいるキリノの目を見て、話す。

「…キリノ。すまんが今度……料理教えてくれないか?」

コジローがそう言うのを確認し、ぱたん、と更衣室の扉を閉じると…
えーっ先生料理なんかするの、というサヤの驚きの声が遠くに聞こえるようになる。
それと同時に―――ポトリ。更衣室の床を濡らすもの。

(……あらら?)

安心の?後悔の?それとも―――その他の何か?
自分でも良く分からないが、少なくともそれは納得の行かない、理不尽な物ではない。

(…やれやれ、これじゃホントに顔、なおさなくちゃいけないじゃない――…)

笑顔で涙をぬぐうと、僅か扉一枚隔てた向こう側では…
なにやら賑やかに談笑する声が聞こえてくる。

「……あとでダンくんに、謝らなくっちゃ」

そう口にしながらも、そのミヤミヤの表情は―――やはり、穏やかなものであった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「こんにちはー、お邪魔しまーす!っと…」

がちゃり、とドアが開くと、七畳一間の狭い部屋にキリノの挨拶がこだまする。
入ってまずすんすん、と鼻を立てると、鼻腔を擽る、男の人の部屋特有の香り。
続いてガラス障子の向こうの寝屋を見やる、と。

「……いやー、これはまた…」

先生の部屋に上がるのは初めてではない。
以前にもサヤと一緒に、お掃除のお手伝いがてらに遊びに来た事はある。
しかし、その時は――感心したものだが――意外にも部屋は片付いていた。
…それが今日はどうだろう。
着替えは脱ぎ散らかされ、布団は敷きっぱなし、ゴミ箱はあふれている。
そこはまさに、帰って来て、寝るだけの部屋―――飾らないにも、程がある。

ともかく、そういう風にキリノが奥の部屋の汚れに眉をしかめていると。
コジローにしてみれば、学校で別れてすぐのその来訪に…
片付ける暇も無かった、と言い訳のひとつも挟みたい所であったが。

「――はは。きたねえ部屋で、すまんなあ…」

…と、無闇に虚勢を張らない言葉を返すのが精一杯。
とはいえそもそも、今更キリノの前で気取る必要もない。
となると、誰に対しても無遠慮に付き合える、コジロー本来の性質の方が強く顔を出し…
必然、キリノに自分のだらしない所を見られようとも―――いや、見せているからこそ。
ある種、心持ちは今日の天気を映したように晴やかでもあった。
台所の片隅に貼られた暦が示す日付は、川添道場から丁度一週間後の、土曜日。
"明日"に備えて練習はお昼迄で切り上げ、そのままこのような運びとなった次第である。
ともあれキリノが、ある物は買い込み、ある物は家から持ち込んだ食材をてきぱきと冷蔵庫にしまうと。

「…まずは、お掃除しましょう!」
「おお!やったるか、いっちょ」

阿吽の呼吸でそう言うや否や、キリノは洗濯物をまとめ、コジローは溜まったゴミを出しにいく。
気が付けば大きな袋三つ分にもなっていたゴミ袋を戸口に出し…
それらをどうにか結ぼうと、コジローが悪戦苦闘している間に。
寝屋で一人になったキリノは、洗濯物をまとめながらテーブルの上にあるプリントやら書類の山に目を向けていた。

(小テスト… 練習試合日程… 剣道部通知表、って…?)

つい、そっと手を出して読もうとすると。
戸口のコジローからおい、机の上の物は勝手に見るなよ、との声がかかり…
にゃっ、と猫のように反射的に飛び退くキリノ。
あわてて散乱した服に手をやり、洗うべき物と汚れの少ない物とに分類し終わると、布団に手をつける。
ばさっ、とひとつ大きく布団に風を通すと、部屋中にその香りが広がるようだ。

(あ… 先生のにおいだね… ふふ)

多少、恍惚感を覚えながら、テレビ台の裏のカーテンと窓を開け放ち、ベランダに布団を干す。
その眼下には、脇の集積所に大きなゴミ袋を抱えて運んでいる先生の姿。
上からセンセー、と呼び掛け手を振ると、おー、片付いたか、すまん、と言う返事。
傍から見れば新婚のようにも見える二人だが、通りを渡るはねこの姿のみ。
ツッコミ不在のままで話は、進む――――


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「―――さて、片付いたところ、でだ……」

二人掛りで近くのコインランドリーに洗濯物を全て放り込み…
すっかり片付いた部屋でコジローがぽつりと呟く。

「……見るか?通知表」

その言葉に一瞬、キリノの呼吸が止まる。
机の上のソレを―――気にしていたつもりはない。
視線も切っていたし、さっき注意された時にだって先生はこっちを見てなかった、はず。
ましてやこの人は……自分の物を無闇に他人に見せたがるような人ではない。なのに。

「……いいん、すか…?」

おずおずとしたこちらの態度にぷっ、と吹き出しながら。
大人の余裕―――そんな物を感じさせるような態度で、コジロー。

「お前も…意外とまだ、子供で居てくれてるんだな?……顔に出てんだよ」

おどけるようにそう言いながら、少年のような笑顔を向けるコジローに、思わずはっ、と頬に手をやる。
その仕草をにやにや、と見守るコジローに多少バツの悪い顔を向けながらも…
差し出された自分のファイル―――通知表を手に取ると、そこには。

「まだ、途中なんだけどな…」

自分の癖や良い所、悪い所などがつぶさに記された「通知表」。
それには、踏み込みや素振りのクセ等から…これまでの試合の勝敗分析まで。
実に多岐に渡って事細やかに解析・網羅されており…
書いた者の眼力の確かさを否応無しにも感じさせられる内容になっている。
そしてその最後は、総評として、こう締め括られていた。

"面倒見のいい頼れる部長で、チームに欠かせないムードメーカーでもある。
 まっすぐで練習熱心なんだが、それゆえに相手は動きを読みやすいかもしれんな。
 もう少し技を覚えるとより強くなるだろう。"

こちらが一通り目を通したのを確認するや。
照れ臭そうに頬をかきながら、コジローが口を開く。

「もうすぐ学期末だから…俺まだクラス受け持ってないし、せめてこれくらいは、ってな…真似事だけど」

その内容の濃密さ、そしてその言葉は、言外に―――
いずれクラス担任を受け持った時、多くの生徒に関わる…
その責任の重さと向き合おうとする覚悟をも示しているようでもあった。
そしてその”強さ”は、今の自分たち剣道部員にもどこか友達か兄貴分のように接し、
ある種…責任ある立場からの発言を避けているようでもあった以前の彼には、無かったものだ。

(……そっか…)

それと同時にキリノの思考の内で、確かに結び付くものがある。
今日、先生の部屋に入った時に感じた片付かなさ。
それは食事等に於いては、確かに概ね自堕落ではあるものの…
こざっぱりとした衣服やある程度整頓された職員室の机、大事に使っていそうな剣道着等には。
いつもどこかに清潔感を感じさせていた先生のイメージとは異なるものだ。
―――では今、先生の時間を…そしてそのような清潔感までもを奪い去らせてしまっている物は何か?
必然……自分達、生徒の為に時間を取られ、部屋の片付けも。ともすれば、眠る事すらままならない。そういう像が浮かぶ。
そうとも知らずに、自分は―――

(また、失礼な事、しちゃったなあ……)

それはずっと前から根差している―――先生に対する、罪の意識。
部員が減って行き、どんどんやる気を失っていく先生をどう励ましてあげる事も、出来なかった自分。
タマちゃんや皆が入部してくれて、先生がやる気を出してくれても…そこに自分の力は何も働いていない、という無力感。
インターハイ予選では自分の事でたくさんの迷惑を掛け、しかも最後には……期待に応えられずに、負けてしまった。
川添道場の時にしてもそうだ。図々しくも興味本位で一緒に押し掛け―――
生徒に、私たちに。自分の弱い姿を見せまいとした先生の意図を汲んであげられなかった。

―――いつになれば自分は、この恩を…先生に返す事が出来るのだろう?

そのような思いが駆け巡り、キリノが口をつぐんだまま俯き、何も言えないでいると。
目の前のコジローはそんな事に気付く由も無く、生唾をごくん、と飲み込み…キリノからの評価に身構えている。
その可愛らしい様子と、脳内で描き出した大人である先生の姿とのギャップは…
何とも言えない可笑しさとなってキリノを包む。
その雰囲気に、ぷっ、と吹き出しながら、顔を上げつつ。

「…ホメすぎ、ですよ……もうちょっと厳しく見なきゃ!先生なんだから」

意外に厳しいキリノの採点に、ええ、そうかな、と不満気な顔を覗かせるコジロー。
それでも、そうっすよ、と鼻息を立てながらもどこか嬉しそうなキリノに、照れながら微笑みを向けると。

「…そう、かな…」
「そうっす、よ…?」

……刹那、目が合い―――二人の間に何とも言えない沈黙が流れる。
室内にもねこが通り掛かりそうな、生暖かな空気にお互いに俯き、喋る事ができずにいると…
間が悪く、コジローの携帯のアラームが鳴る。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


―――ピピピピピピ。

「ン、洗濯、終わったみたいだな……」
「そ、そうっすか。じゃあ取りに行きましょー!」

取り敢えず安堵した二人が、洗濯物を預けたコインランドリーに向かい…
キリノがシャツ類にアイロンをかけ、丁寧に畳むとそれを持ち。
コジローは洗濯カゴ一杯の洗濯物を抱え、家路に着く。
歩いて10分ほどの距離であったが、先の空気を引き摺ってか…互いに何を話せばいいか、分からない。

しかし押し黙ったまま、並んで歩く事数分―――
ふと、キリノはコジローと並んでいながらも、しばしば遅れそうになる自分に気付く。
重い物を抱えているとは言え、先生の歩幅は自分よりも広く……自分が3歩かけて歩く所を、2歩で行ってしまう。
それをトコトコ、と追いかけているうちに、それが楽しくなってにやけていると、コジローもその変化に気付く。

「あ…すまんな、歩くの、速かったか?」

コジローの気遣いにふるふる、と首を振ると。

「……いいんですよ、先生はそのままで」

その言葉に、そうか、と頷きながらも、歩みを少し遅めてくれるコジロー。
その優しさをすぐさま理解し、嬉しい、と素直に感じながらも、少しの胸の痛み。

(…また、気遣わせちゃってる…)

それは客観的には、ただの身長差の問題にすぎなかったが…
キリノにとってはもう少し、根本的な問題のように感じられていた。
自分が3歩かかる所を、2歩で進んでゆく先生。
それはきっと、何事に於いても―――剣道に於いても、そうなのだろう。
この人もまた、自分とは別種のひとだ。……才能、という点に於いて。
それは「火が点いた」日以来、メキメキと自分の実力を取り戻して行く様子からも…
対峙している時に感じる、タマちゃんにも通じる最近の集中力からも、窺い知る事ができた。

――――才能の壁。
そこに一人取り残される寂しさを、全く感じないかと言えばウソになる。だけど。

「……先生。あたし、ついて行きますから…普通に歩いて?」

精一杯の笑顔でそう言うと、コジローはひとつ、不思議そうな顔をしたが…
ああ、と呟く様に返すと、やがて元通りの、普通の速度で歩き出す。
その後ろを追うように、並んで離されぬように…再びトコトコ、と笑顔のままで歩き出すキリノ。

(…やっぱり、こうでなくっちゃ。)

……取り残されるのは、構わない。
でも、”先を行く人”のその歩みを、自分が止めてしまっては、いけない。
自分は、その背中を必死で追い掛けられれば、それでいい。
ひどく観念的で、抽象的な考え方ではあったが…
キリノにはそれが、自分の在り方だと言う自覚があった。が…

(―――でも、もしその背中が見えなくなったら?)

自分でも何故そんな事を考えたのかよく分からないが―――
突然、去来したその疑問に胸がざわつく。
そうなっても、自分は頑張れるのだろうか。心を…折らずに居られるのだろうか。
弱りそうになる心をぶんぶん、と頭を振る事でどうにか払拭しようとしていると…
気付けばそこはもう、コジローのアパートの階段であった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「お邪魔しまーす…」

先ほどより幾らかテンションの低いトーンでキリノが挨拶すると。
その元気の無さを気にかけていたコジローは、せめてその場をリードするように指示を出す。

「じゃあ俺、布団取り込んじまうから。悪いけど洗濯物、畳んで仕舞っといてくれるか?」

それにコクン、と頷くとてきぱき、洗濯物を畳みに掛かる。
流石に下着類はコジローのたっての願いで別口で、という事になり…
シャツやズボン、上着類といったあたりを簡単に畳み、タンスに仕舞うと。
丁度コジローも布団をあげ終わり、襖の奥に仕舞い終わった所である。
ちょっと休憩だな、と言って台所からお茶を持って来るコジロー。

「なあ…さっきから元気ないな?どうした?」

二度目の気遣いに、流石に申し訳ない気持ちが一杯になり…
大丈夫ですよ、とカラ元気を振りまいてみるが、コジローにはお見通しのようであった。
しかし、いざ打ち明けようにも、このような漠然とした不安を何と言って表現したものだろう?
表情をクルクルと変え、必死で脳内のアーカイブを開いていくと―――あった。
そうだこれは、あの時。……先生があと1年で首になると聞かされた時に感じたものと、同じだ。
しかし、あれから状況は変わってないと言うのに、前を向いて歩き始めたこの人に比べて。
無根拠に自分で励ましておきながら今、ありもしない妄想に取り憑かれ…
しかも心配までさせている自分の心の何という弱さだろう。

―――そう、自分は弱い。
それを確認できただけで、随分先刻よりの胸の痛みと不安は和らいだ気がする。
ともあれ何か、喋らなくてはと思い、センセー、と言いかけた所で…
またも、ムードと言う物に一切気を遣わないコジローのお腹がその存在を声高に主張する。

――――”ぐごごごごごごごぅ”

地獄からの咆哮にも似たその響きは。
もはや一個の人間から発せられているのも疑わしい。
ああもう勝手にしてくれ、とばかりにコジローが…
強情とも開き直りともつかない不可思議なものを撒き散らしていると。
目の前のキリノは、お腹を抱えてはちきれそうな笑いを堪えている。
……しかしどうにか、すぅ、と一呼吸置いて、涙目を軽くぬぐいながら。

「じゃあ、じゃあ…ご飯、やっちゃいましょうか」
「…おっ、おう…」

ひきつった笑顔で目線を下げ、顔を耳まで赤くしたコジローの…
背後の目覚まし時計が指し示す時間はちょうど、4時。お腹の空き始める頃ではある。
無節操なお腹とは言え……その腹時計の正確さは、中々のものであるのかも知れない。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「…よかった。お父さんのだけど、サイズ合いますね」
「い、いや、でもこれ…」

キリノが鞄から取りい出したる、大小お揃いの花柄のエプロン。
さらに胸の所にはひまわりの刺繍がしてあり、男がするにはやや可愛すぎる代物である。
エプロンなんて、と躊躇するコジローに上から無理矢理被せ、背中の紐を結ぶと―――
見事なペアルックの新婚夫婦のできあがり、である。
……尤も当人たちは、カケラもそんな事を考えてはいないが。
ともあれ、キリノがイキイキとした表情を復活させ、嬉しそうに料理のプランを話してくれるのは…
コジローにとっても、やはり嬉しく……ついつい、表情を綻ばせてしまう。すると。

「……聞いてます?センセー」

気が付けば、間近にキリノの顔が在る。
不意を突かれ驚いたコジローが両の掌を正面に向け、うんうん聞いてるよ、と軽い相槌を打つと。
キリノはほんとかなあ、と軽く牽制を入れつつ、炊飯ジャーに手をかける。

「さて、まずはご飯、なんですけど……上手く炊き上がらないんですか?」

そうなんだよ、と一気にしょげかえるコジローに…
ふんふん、と釜を一通り覗き込んだ後、ひとつ問いかけるキリノ。

「先生、例えば……3合炊く時って、お水の量どこに合わせてます?」

それに答えてコジローが指差したラインは、下から3番目の短いライン。
キリノはそれを確認すると、やっぱり、と言う顔でちっちっちと指を振ると。

「それ、2合の線です…多分これ、数字消えちゃってる…」

……言われてみれば。
おふくろに貰ったこの炊飯器、オジさんか誰かの引き出物だって言ってた気がする…
しかしてその裏をよく見てみると―――その底面に記された文字は「88年製」。

「に、二十年前の遺物かよ…あのババア…」

ひきつるコジローにあはは、と薄ら笑顔を浮かべながら…
まあ炊けるだけいいじゃないですか、と窘めつつ、キリノ。

「……とにかく、仕掛けちゃいましょう!」

その意見にコジローもそうだな、と合意すると…
計量カップでお米を掬い、二人替わりばんこでお米を洗って、浸水。

「ちょっと浸けとかないと、ご飯が白くならないんですよ」

キリノの語る薀蓄に、コジローがふむふむ、と頷きながら逐一メモを取っていると。
大きな身体に似合わない小さなメモ帳と、そのいかにも不器用そうな様子がおかしく、ついにやけてしまう。
なんだよ、と口を尖らせるコジローに尚一層その笑顔は膨らみ―――次の工程へ。

「じゃあ、次はお野菜!行ってみましょう」

ビタミン摂らないと、ニキビ沢山出来ちゃいますから、と言うキリノの言葉に…
一瞬反応し、下顎のあたりを抑えるコジロー。それを訝しがるキリノに、首をぶんぶんと振る。
その不思議な動きにんっ、と口を猫の形にし、頭の上に「?」を浮かべるキリノ。
しかし、まずはお構いなし、とばかりに野菜を流水ですすぎつつ。

「よく洗わないと、虫さんとかがいますから、念入りにですよー…ハイどうぞ」

といって、手渡されたジャガイモをごしごしと束子でこするコジロー。
何やらこの歳で手習いの気分のようにもさせられるが、「上司」であるキリノの顔を見ると…悪い気はしない。
続けてキャベツ、ピーマン、人参等を順々に洗い出し、浸し終わったお米を炊き付けると…メインの―――調理法へ。
まないたと包丁を取り出し、温水で洗うと。

「まず、むき方なんですけど……ピーラーなんて無いですよね…」

しょうがないのでお手本を、とばかりにキリノが包丁を持つと、するするする、と剥けて行くジャガイモの皮。
そのままはい、とコジローに手渡された新しいジャガイモと包丁に、悪戦苦闘はしてみるものの…
そこには形の歪なオブジェが1個、また1個と増えていくのみ。
流石に見かねたキリノが小さな身体をすっぽり、コジローの両腕の間に入り込ませると。
包丁を持つコジローの手にそっと自分の手を添える。

「おっ、おい…」
「いいですか、親指の使い方がコツですよ」

そのまま添えられた手に力を入れると、コジローの手の中で先程見たのと同様にするすると剥けて行く皮の部分。
コジローはその技術に感動……してはいたものの、ある意味でそれどころではなかった。
二人羽織のような体勢で、余りにも近くにキリノの髪のにおいを、体温を感じ…
いかな理性が勝るコジローとはいえ、脳天に直通で感じるそのクラクラ感は抑えようが無い。
事実、後に思い出そうとしても、この後他の野菜をどう切ったかの記憶を呼び出すのは…なかなかに難儀する事になった。

「じゃあ次はおそば…ですね。先生、大丈夫?」
「ああ…どうにか…」

キリノが体を離し、なんとか眩暈感が収まって来ると、キリノがコップに塩ダレを作っている。
小さじ半分の塩と、わずかにレモン汁と胡椒をコップの底に溜まる程度のお水に溶かすのみ。
それは自分でも作れる、できるだけ簡単な料理を、と言うコジローのリクエスト通り…
これならば一人でも出来そうだ、と自信を持つには十分な程のシンプルさであった。
さらに麺をフライパンに取り、お好み焼きのように焼き色がつくまで引っ繰り返すのみ。

「……ね、簡単でしょう?」

そう云いながら、こんがり焼き上がった麺を一旦お皿に取り、野菜を炒め始める。
そこからコジローに交替し、シャバシャバと音を立てる野菜に少しづつタレを加えてゆくと…
香ばしい匂いが上がり、同時に”く~”、と気の抜けるような可愛いお腹の音が部屋に響く。
コジローはまたかよ、と恨めしげに自分の下腹部に目をやるが―――違和感。
あの、音がした直後の……突き刺すような感じが今の音には、しなかった。
そもそもキリノは。こういう時に真っ先にリアクションを見せるあの元気娘はどうした。
……と、そう思い後ろを振り返ると…そこには赤い顔を見せながら、頭をぽりぽり掻くキリノ。

「お前も、すいてたの?お腹…」

いやー、あっはっは、と照れを隠しながらも、顔は耳まで赤い。
まあ、無理もない。今日の稽古が終わってからこっち、自分は勿論…
こいつも家に戻ったり何やかやで、何かを口にするヒマなど無かったはずだ。
あまりまじまじ見てしまうのも悪いなと思い、一応すぐに目線は切る。しかし。

(まあ、そりゃ恥ずかしいだろう…女の子だもんな。……でも、可愛い音だったな、「ク~」って。)

…と、それでもまだそのようにコジローが後ろのキリノに気を取られていると…
突然、そのキリノの怒声が部屋中にこだまする。

「センセー!……野菜、焦げてますっ!」

うおっ、と慌ててフライパンを持ち上げようとする手が、飛び付いて来たキリノのものと重なる。
そのまま、合わせた手で一緒にフライパンを安全圏まで離脱させ、ほっと一息つくと…
いつの間にかぴったり密着している身体に気付き、慌てて離れる二人。

「え、えっと……ごめんなさい…」
「い、いや俺も…気付かなくて…ありがとな、キリノ」

またも流れそうな”そういう”空気に、今度は戸口の外からがりがり、とドアを引っ掻く音がする。
その音に二人してびくっ、と反応し固唾を飲むと……可愛らしい鳴き声が、ひとつ。
―――なんだ、ねこか、と同時に胸を撫で下ろすと、ぷっ、とどちらからでもなく笑い出し…
その笑いがひとしきり収まると、威勢のいい声で、コジロー。

「……さぁて、残り、片付けちまうか!」

それにキリノがうん、と答え―――そこからは、早かった。
フライパンに麺を加え、十分に汁気を吸わせてさらに炒めた「野菜たっぷり塩そば」、
余ったスティック味噌汁に残りの具材を加えてコトコト煮込んだ「具だくさんおみそ汁」の完成である。
同時にぴー、と音が鳴り……どうやらご飯も炊けたようだ。今度こそ、お米は見事に銀色の輝きを放っている。
最後に…キリノが自分の家から持ち込んだメンチカツをオーブンで解凍し、できあがり。

「な、何日かぶりの人間の食事だ…!」

必ずしも豪勢とは言えない、いかにも男の手料理然とした料理の数々に…
しかしそれでもコジローが感動を隠し切れずに居ると、しかし同時にふと、湧き上がる疑問が。

「そう言えば…このメンチカツとか食材とかって、タダって事は…無いよなあ?」

―――そう思うと、背筋が凍り付く。
今の自分の財布には、確かランドリーで使った分も引いて…硬貨が3枚。
"明日"必要な分を抜いて考えると、その額わずかに……5円玉ひとつ。

「く…また借金か…しかも今度は生徒に……どこまで落ちるんだ、俺?」

食事を前にした喜びも束の間、完全に顔色を失い意気消沈してしまっているコジローに…
にひひ、と少しいやらしい笑みを浮かべながらキリノが話し出す。

「そうですねえ、トイチで貸して……だとちょっとあくどいですから、出世払いで!」

やっぱりかよ、と尚も血色を失おうとするコジローの表情に、次はふふん、と鼻息を立てながら。

「冗談ですよ…ふふ。……先生、ホントはお金あるの、知ってますか?」

それはいつぞやの―――コジローが実家で得た、一晩のバイト代。
キリノに預けたその5万円は、手付かずのままで今も貯金箱の中に在る。
コジローは、あ、とすっかり忘れていたようであったが…
それを聞くと漸く安心したような、困惑のような、不可思議な顔を覗かせる。

「じゃあ…自炊する必要も無かったんだな…はは…」

その、どこか自嘲気味に乾いた笑いを浮かべるコジローに…
またも、ちっちっち、と指を横に振るキリノ。

「いやいや、センセーもお料理くらいできないと、今の時代お嫁さんも来てくれないっすよ?」

まるで、母親から聞いたのと全く同じ言い回しに―――
しかし今度は反発を覚える事もない。
軽く笑顔を覗かせると、どこか遠い目で、ぽつり。

「はは、誰かにも同じ事言われたっけな……」

そのように、自分の母親と重ね見るキリノの姿に向ける、コジローの優しい視線に。
意味が分からないキリノは始めはきょとんとするばかりだったが…
それが自分にとってイヤな物でない事が分かり、笑顔でひとつぱちん、と拍手をうつと。

「―――さあ、冷めない内に食べちゃいましょう!」
「…おお、そうだそうだ!」

両手を合わせて、全ての生命へ―――感謝のしるし。
その心と声が、ばっちりと重なる。


『いただきまーす!』


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「…なんか―――おふくろの味、ってやつだよな」

うめーうめー、と絶賛の嵐で始まった夕餉の膳。
その酣を迎えんとする時に……手を止めぽつり、コジローの言葉。
キリノはほえ、と一瞬呆けつつ、しかしそのただならない雰囲気にお箸を止め…
それを確認すると、ン、とすこし躊躇いがちに喋りだすコジロー。

「いや…うちのお袋が、テレビとかに染まりやすい人でなあ……元々料理もそんなに得意じゃなかったんだが…」

「健康特集みたいなのがあった日にゃあさ、身体に良いんだ、とかってカレーに野菜、ばかみたいにドカドカ入れやがって」

「―――それが…俺がまだちっちゃい頃に、風邪で熱出した時にさ」

「また変な……白菜だか山芋だか人参だか、とにかく野菜一杯入れたスープ、作ってくれたんだけど…」

「それが偶々ツボにはまったのか、えっれえ美味くてな」

「何度かまた作って、ってごねてみたけど、結局再現できなくてさ」

「これ作ってて、食ってて……ちょっとそんなこと、思い出してた」

そこまで言い終わると。
改めてキリノの目を正面から覗き込むように。
或いはキリノの目に映る自分の姿を確認するかのように。

「俺の身体に……気ぃ使ってくれたんだろ?ありがとうな、キリノ」

―――その言葉に、その笑顔に。
図星、であったにせよ返事はできずに……穏やかながらも少し、緊張した空気が流れる。
黙りこんで俯いたまま、しかしチラチラと上目遣いにコジローの顔色を見上げるキリノ。

(いつごろから、気にしてたんだっけ…?)

とびっきりのごちそうより、まずは身体の事を考えた食事を―――
先生が体の具合を悪そうにしているのに気付いたのは、昨日今日の話ではない。
少なくとも、週の頭に集まった昼食会に先生が姿を見せず…
沢山作っておいた筈のお惣菜を余らせてしまった時から違和感はあった。
その後どんどん窶れていく先生を見かねて、お弁当をあげようとしたのが、一昨日。
そしてその時は、自分と同じようにパンを差し出す女生徒の好意をすまなさそうに断る先生に…
自分もまた、何となく渡しそびれ……しかしお料理の相談を受けたのも、その日だった。

(今でも…不思議なんだけど…)

具体的な変化が伴い始めた川添道場の日から、ただの一週間ではあるけれども。
先日の―――ミヤミヤが感じたのと同じ事を、キリノもまた…もう少し以前よりではあるが、感じていた。
最近のどんどん上昇志向にある剣道部。その根源にある先生の、部員や生徒に向ける「目」の変化を―――
一方の当事者とも言えるキリノは逸早く感じ取り、自分なりに咀嚼できているつもりではあった、筈なのだが。

(だからって、なんで……お料理なんだろう。)

自分に一言―――任せてくれればいいのに。……食べる物の事くらい。
ふと、そう考えた所で、しかしそれはすぐさま現実によって打ち消される。
あの.日、川添道場で交わされた先生とのやり取りと、その後の先生の得心の表情は…
もう少し深い意味を持っていたような気がする。
即ちそれはおそらく、だらしなく生きる事をやめた―――というと言い過ぎなのかも知れないけど…
少なくとも、今までの様な自堕落さを他人に晒すのを良しとしない、そうした矜持を感じさせるものがあった。
しかし、それが今、このような形で現されているのは……キリノにしてみれば、やや不満もある。

(それを―――ちょっと寂しい、って考えちゃうのは……勝手な事なのかな?)

自分を、生徒を。あまり頼りにしてしまう事は……当然その決意にはそぐわない。
それは感覚としては分かるし、実際自分もその通りだとは思う――――だけど。
それと同時に今までの、自分に対するあの気兼ねの無さまでもが失われてしまう事に、一抹の寂しさを覚えてしまうのは…
我侭であると分かっていても、偽らざる本音というものだ。

(結局……頼りにされたいんだね、あたし自身が。)

思えばどこかに、そういう自分も確かに居るのを感じる。
もっと先生から頼りにされたい、自分を頼りにして欲しい。
自炊なんかしなくても、ただ一言。
”毎日、お弁当作ってくれ”とだけ言ってくれれば。
自分は喜んでその期待に応えられる。その筈なのに…
……そんな事を頭の中で囁くのもまた、間違いなく自分の一部なんだろうな、と。

しかしそのような妄想は、客観的に見れば…
いつまでも子離れできない母親の気持ちのようなものだ。
ともあれ今、栄養不足で悩む先生に、お料理を教えてあげる事。
そのこと自体には、何の不満があるわけでもないのだから。
そして実際、今日は―――自分にとっても楽しい一日であった。はずだ。

そのようにキリノが自分の気持ちに整理をつけようとしていた頃。
さらに一方の、コジローはというと。

(……俺は、なんでこんな話を、こいつにしてるんだ?)

相変わらず黙ったままのキリノに、その緊張は高まる。
喋り始めた当初はただの何気ない、お料理の感想のつもり―――のはずだったのだが。
改めて自分の言葉を咀嚼してみると、その端々に現れているものに身悶えがする。

(マザコン、なのか俺は―――しかも。)

その母の像を、あからさまに目の前のキリノに押し付けている事がまた羞恥心を加速させる。
それは別に好意を抱いているから、というわけではなく、キリノだからこそそう見えてしまうのだし…
またキリノだからこそ、変な誤解を持たれたくはない、というのも勿論、ある。
そうした逡巡の中、コジローもまた二の句を告げられないでいると、どうにか先に頭を整理したキリノが言葉を紡ぐ。

「……先生は、どうしてお料理、あたしに教わろうと思ったんですか?」

キリノにしてみれば当然の疑問ではあった。
だが、コジローには思考の死角を突かれた格好になり…
んむ、と少しアゴに手をやると。

「いや、さすがにお前に……”毎日、お弁当作ってくれ”なんつー訳にもいかんだろう?」

…それはほとんどミエミエの、体のいいごまかし。
いっそ開き直って、先日のミヤとのやり取りをそのまま話しても良かったのだが…
コジローにも多少は面子を守りたいという気持ちがある。
まさか自分の度重なる失敗のせいで生徒に心配をかけ、それでやっと踏ん切りがついた、などと…
流石に話せるわけがない。ましてや当初はそれを最も知られたくなかった相手であるキリノに。

―――しかしその言葉は、またも多少の誤解を含んでキリノの耳に届けられる。

とりあえず整理のついた筈の頭の中に、再びそれを掻き乱すもの。
しかし先生の気持ちを慮れば、その返事は想像出来ない範囲の回答ではない。
何故かは分からないが、先生はむしろ、他の生徒よりも特段に…
自分に依存するのを避けているのではないだろうか。
そのような漠然とした感覚は、今日の些細なやり取りの中においても確かにあった。
そして今の言葉は、まさにそれを証明する物であり……ひいては、自分との距離を感じさせるものだ。
そんなつもりは全く無くとも――――自然と、皮肉の一つも、口をつく。

「じゃあ…お料理、出来るようになっちゃったら……あたしのお弁当、もういらなくなっちゃいますね…」

そう言って、直ぐさまやって来る反省と後悔。逆走にも程がある。
自分で言っておきながらこれではまるで、貰って欲しいと催促しているようなものだ。
全く、今日の自分のネガティブさはどうした事だろう、とキリノがままならない自分の態度に歯痒さを覚えていた頃。
しかし一方のコジローはと言うと……うむ、と少し考え込んだ後。

「―――いや、そんな事はないぞ…料理できるようになっても、さ」

「やっぱり、たまにはお前の弁当も食べたくなるだろうし」

「作ってくれよ……今までどおり、気が向いた時とかでいいから」

そう答え、照れ臭そうに……少し、はにかんだような笑顔を向ける。
”今までどおり”でいい―――キリノにしてみれば正直な所…
それが自分にとって、とても喜ばしい物か、少し残念がるべき物か、もうひとつ判然とはしなかったが。
とりあえずは喜びの方が勝ったキリノがにへら、とひとつ笑うと立ち上がり、コジローの背中に回り込むと。

「…おっ、おい?」
「お弁当の代わりに……いつものお返しっすよ」
「代わりっつーか……お、おお、おっ」

――――もみんもみんもみん。
座るコジローの肩へそっと添えられた手にぐっと力を込め、抜き、その繰り返しがリズムを生む―――
それは普段ならコジローが、肩に力の入り過ぎなキリノをリラックスさせる為にしてやる行為の裏返し。

「…よく凝ってますねーセンセー?」
「あっ、ああ、そりゃまあ……う、おお」
「最近、頑張ってますもんねえ、うふふ」
「………」

見透かす様なキリノの言葉に返事は返せず、ただ頬をぽりぽりといじるのみ。
しばらくはそれに負け、ただ心地好い感覚に酔いしれていたコジローだったが…
やがてキリノの指の力にも慣れてくると、ふう、と一つ大きな嘆息を吐き出し、おもむろに。

「……俺、最近さ。自分で言うのもなんだけど―――変われた、と思うんだ。お前達のお陰で」
「あたしたちの、おかげ…?」
「…うん」

肩を揉む力は維持したまま、その話し出す声に耳を傾けるキリノ。
先生が何かを掴もうとしている、というのは……傍目にも、わかる。それは大半の部員の皆とて同じ事だとも、思う。
だがそれに自分達がどう貢献していたのかと言うと―――分からない。それが正直な所だった。
ともあれ今、そうやって話す先生の目線は……こちらへの意識は残しつつ、真っ直ぐに一点を見ている。

「ちょっと前までの俺なら、先輩に直接試合、持ち掛けられた時にもさ…
 何のかんのと理由をつけては、避けてた気がするんだ」

言葉を紡ぎ出しながら、コジローは振り返る。先輩に勝てた時の事。
二度と勝てる気がしなくて再戦を避け続けて来た後ろ向きな自分の事。
そして、壊してしまったトロフィーの事。

(思えば、あれだって……逃避行動のようなものではなかったと…言い切れるか?)

砕けたトロフィーを見て、「しまった」と思うよりもどこか「ホッとして」しまった自分。
―――――これで再戦する理由もなくなる。
あれが再び賭けの俎上に載せられた時、知られたくなかったのは、本当はむしろ…
壊したというその事実よりも、チラとでもそう思ってしまった自分の逃げ腰ぶりの方ではなかったか。

そう、思い悩むコジローの気持ちは伝わるものの…
やはり釈然としないキリノは指を動かしながら、性急に解を求める。

「…それがなんで、あたし達と関係あるの?」

……勿論こんな気持ちは、具体的に伝えようにも伝えようがない。
しかしコジローは、んむ、とまたひとつ腕を組み、少し考え込んだ後に。

「そうだな…例えばインターハイの後。
 負けたお前達はもっと悔しかっただろうけど……俺だって悔しかったんだぜ?」

その言葉に。
――――――痛い所を突かれた。
キリノは咄嗟にそう思ったが、慌てて表情を隠し、指の力も緩めない。
あの日に味わった口惜しさは、未だに拭い難い後悔となって自分の胸の中で燻り続けている―――

”あの時、あたしが勝ててさえいれば。”

…しかし勿論、皆の前で露骨に悔しがる事など出来る筈もない。
そんな事をして、あの場で一番責任を感じていたとても小さなあの両肩に…
自分の分まで重荷を背負わせるような真似を、はたして誰が出来ただろう。
その責任感だけを頼りに、どうにか抑え込んだ筈のくやしさを甦らせる、先生の言葉。
辛うじて態度は保持したものの、返事は囀るような小さな声にしかならない。

「…クビに…届かなかったから?あたしが負けちゃったせいで…」

その声の調子と内容、そして次第に弱まっていく指の力からキリノの気持ちを察し…
しまった、と思ったコジローが強い口調で振り向きざまに否定する。

「ちげーよ!!……違うよ」
「……でも…」
「ホントに違うんだって…あのな」

コジローはごほん、と喉の調子を整えると、再び前を向き直り…
やや照れ臭そうに薄目を閉じ、言葉を続ける。

「俺が悔しかったのは…
 もっとお前達にしてやれる事があったのに、
 もっと教えてやれる事があったはずなのに……それが出来てなかった自分への歯痒さ、だよ。
 クビの話だって、いわば俺の指導力の無さの問題だからさ。……お前がいつまでも、気に病むような事じゃない」

「……だけど、ごめんな。”俺だって”なんつっても…そりゃ、お前達の方がくやしいに決まってるのに」

その真剣さに、キリノは一度、はっ、とコジローの意図を解し…
それにふるふる、と首を横に振ると。

「……あたしの方こそ、ごめんなさい」

――――いくら罪悪感の方が勝ったとは言え。
相手の言葉を曲解して、自分を責めている、などと取ってしまった自分が恥ずかしい。
それもこうまで自分達の事を気にかけてくれている先生に対して、それは見縊っていたのと同じ事だ。
申し訳なくて、どれだけ謝っても謝り足りない。顔から火の出そうなくらいの反省があった。

そのまま、少し…キリノがコジローの背中に凭れ掛かるような姿勢になって、沈黙が数分。
始めはそれに弱ったな、と言う表情を浮かべていたコジローは、またもふう、と嘆息をつくと。

「…でも、先輩の話を受けた当時はまだ漠然としてて、気付いてなくて……結局、後で分かった事なんだけど、な」
「バクゼン…と?」
「ああ、フワフワしてた……でも、どっかにそんな気持ちが、きっとあったから―――」

相変わらず抽象的で当を得ないコジローの言葉だが、キリノに急かす気持ちはもはや無い。
ただ両手をコジローの背にぴったりと付け、軽く寄り掛かり…少しづつ紡ぎ出されるその声に耳を貸すのみ。

「あのとき多分、俺も悔しかったから…
 お前達の為に、俺自身が”もっと強くならなきゃ”って思えたから…
 そういう気持ちが何処かに引っ掛かってたからこそ、先輩の試合を受けたんだと思う。
 先輩と戦って……あの頃の、強かった頃の自分をちょっとでも思い出せれば、って―――
 ……大人の持つべき心の強さって言うのは、多分そういう事を積み重ねて、乗り越えていく事なんだ。
 それをきっと、最初に教えてくれてたのが…お前達なんだよ」

そう喋りながら、活発に脈打ち始めるコジローの心の音。
背中越しに、キリノにもその緊張は伝わり…
ドクンドクンという音がそのまま自分に伝播したかのようにシンクロを始める。
だが、ふっ、と気配が変化するのと同時に、片やのコジローの心音は何故か弱まってしまう。

「……先生?」

心配するキリノの不安をよそに、自らの手をじっと見つめているコジロー。
背中越しに覗き込めば…竹刀タコはここ数日日を追う毎に増し、その手は立派な剣道家の掌だ。
…が、その手はかすかにだが―――震えている。

「―――でも、さ。少し、怖くも…あるんだ。明日の試合が…」
「怖い…ことなんて…」
「はは、なっさけねえ…」

背中越しで見られないその表情も、口調の上では薄ら笑みを浮かべているのだが…
その雰囲気は少しも笑ってなどおらず、むしろ今まで以上に真剣そのものに見える。

「…思うんだ。これでもし明日、何も出来ずに負けたりしたら…」

「また俺は、ちょっと前までの、だらしない俺に戻っちゃって―――」

「そのまま、何も出来ないで…何もしてやれないままで……来年もう、お前達と一緒に居られなくなっちまうかも知れない」

―――その、かつての先生からは不似合いなまでの悲愴感に。
うまく励ます言葉の一つも見つからず、ただ項垂れるキリノ。
そして自分にもまた否応無しに、数刻前に抱いた不安が再び降りかかる―――

”でも、もしその背中が、見えなくなったら?”

弱い自分は、頑張るしかない。それは……理解したはず。
でも、いざ先生から突き付けられると、不意にあの想像が現実味を帯びてくるようで…
必然、胸の奥が締まり、息をするのも苦しくなる。中腰の姿勢から、両膝をつき、寄りかかるように。
徐々に……コジローの背中にかかる重みが、増してゆく。

そしてまた、その負荷を感じながらも、ただネガティブな自分を垂れ流すしかできない自分自身に…
益々コジローの自責の念は強くなり、ついには――キリノにとっては絶望的な――結論に辿り着こうとする、その時。

「もし、俺が…」
「―――だめ。」
「キリノ…?お、おい」

片膝をついて少し身体を起こし、肩越しに腕を回すと……震える両手で、いまだ震えている先生の手を握る。
キリノの震えがコジローの震えに重なり、そのまま二人羽織のような格好で―――数秒のあと。

「……勝てますよ、先生は。だから…」

”(―――いかないで。)”

顔を肩に乗せ、耳元で呟くその声も、ほとんど涙声のようなものにしかならない。
しかし、その想いをどうにか察したコジローが、空いたもう片方の手でみっともなく震え続ける手を抑えつけ…
ぴた、とその震えを止める。―――教師として、これ以上情けない物を晒してどうする。そう自分に言い聞かせつつ。

「キリノ、俺…」

そのように、なんとか自分を立て直させてくれたキリノに感謝のことばを―――
しかし生憎、携帯の着信音がジャマをする。

――――ピリリリリリリリ。

「……あたしのだ…先生、ごめんね」
「…いや、いいんだ。たぶん家からじゃないか?」

両手を離し、電話に出るキリノ。
相手はやはり家からのものであったらしく、キリノにしては珍しく表情に落ち着きが無い。
ふと時計を見やると、もう6時前……普段なら、それこそ晩ご飯にでもありついている時間だろう。
コジローがそんな事を思ってるうち、どうやら話の終わったキリノが電話を切ると、済まなさそうに話し掛けてくる。

「お母さんが……帰って来るの、何時くらいになるの?って」
「そっか…親御さんに心配かけちゃいけないな」
「あたしは…まだ大丈夫なんだけど…」
「ダメだろ」
「…うん」

そうして少し躊躇いがちではあるものの、キリノが帰り支度を始めると…
コジローはふう、と嘆息をつき、食べ終わった食器をまとめて洗い桶に浸け込む。
その作業も粗方終わり、戸口に立つ二人。

「じゃあ、また明日な…」
「うん…」

何か、決定的な何かを言いそびれているのではないか―――
お互いがお互いにそういう思いで目線を被せるが、言葉が出ない。
大事な物は、キリノの側に謝りたい事が、ひとつ。コジローの側にも伝えなくてはならない事が、ひとつ。

「へ……」「あ……」

計らずとも、声が重なりあう。
しかし、まるでそうなる事が分かっていたかのようにコジローが先を譲ると…
それを不思議に感じながらも、手で促され、キリノがまず先手を指す。

「……変な事、言っちゃってごめんなさい」
「ん?ああ…」

―――――「いかないで」。
それが、あの消え入るような囁き声で聞こえていたかは分からないけど。
聞かれていようといまいと、流石にあれは……取り下げたい。
恥ずかしさも勿論だけども、艱難辛苦を乗り越えようとする先生にあの言葉は…重荷にしかならない。そう思う。

…が、しかし。キリノのそんな想いが伝わったのか伝わらないのか、当のコジローの反応は鈍く…
その様子をもって、聞こえてなくて良かった、とキリノが胸を撫で下ろすと、そこへ繋げる様に言葉を紡ぐコジロー。

「…じゃあ次、俺…いいか?大した事じゃないけど」

キリノがそれにこくん、と頷くと。
そのままキリノの頭上には掌が置かれる。

「明日…勝とうな、キリノ。俺達…みんなで」

その掌は―――もはや震えていない。
コジローにしてみれば、どうにか不安そうなキリノを安心させてやりたい苦肉の策ではあったが…
どうにか奏功し、頭上に置かれた手の甲に自分の手を重ねるキリノ。
見上げるその笑顔に曇りは無く―――

「……はい!」

―――その返事もまた、いつものキリノだ。
そうして、しばらく頭を撫でた後、コジローがそっと手を離すと…
ニコリ、と更に弾けるような笑顔を返すキリノ。

「今日はごちそうさまでした、センセー」
「…ああ、こっちこそ……ありがとうな。おそまつさま」

にひ、と、はは、と言うお互いの笑みが重なり、それが通じ合ったのを確認すると。

「……じゃあ、また明日!頑張りましょう!おやすみなさい」

そのまま踵を返し、大きく手を振り上げながら去って行くキリノにいつまでも手を振り返し…
やがてその姿が見えなくなると、ふと再び自分の掌を見やるコジロー。
その具体的な意味すら定かではないが…
キリノの囁いた言葉が奇妙に頭の中でリフレインする。

「”いかないで”、か…」

――――その意味すら、定かではないのだが。


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