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その人は美人だった。

 草木のようにそっと佇み、
 雪色の手で得物を握り、
 両の瞳で彼方を突き刺し、
 闘志の歩で大地を踏みしめ、
 長い黒髪を虚空に散らして、
 疾風の刃を、前へと振るう。

 
 綺麗だけでは物足りない。
 強いと言うには物騒すぎる。
 もっと静かで、でも激しくて。
 ただその人は、その人という美人だった。



 どこかで見た覚えがある女の子だった。
 太陽が照り付ける九州の地、ビル街のバス停である。夏休みを利用した遠征合宿の帰り、
空港のロッカーに荷物を預け、いざ、ついでに観光と洒落込んだユージは、そこで偶然に
も彼女と並んだ。並んで、妙な気分になった。
 さて、この人はどこかで見た覚えがある。どこの誰だったか。どうも喉元まで上ってき
ているが、何かに突っ掛かって出てこない。たしか、とても身近で、懐かしいような、照
れくさいような感覚は思い出せる。しかし、いやはや誰だったか。
 ともかく、隣でバスを待つ少女は美人だった。半袖のブラウスにスカートという制服姿
を見ると、地元の高校生には違いないだろう。少なくとも自分よりは年上だ。涼しげに長
い黒髪を後ろで一つに結っているが、しかしこの暑さもあって、頬やうなじにふつふつと
汗を滲ませている。肩には大きなバッグを抱えていて、ついでに親しみ深い包みもあった。
竹刀の袋だ。どうやら自分と同じく、剣道をやっている人らしい。
(剣道家……か)
 ふと、脳裏に誰かの影が浮かび上がって、またすぐに消える。もどかしさと気まずさで
足の位置がいまいち定まらなかった。その上に暑さがぐらぐらと頭を揺すって、観光気分
も優れない。こんなことなら真っ直ぐ帰ったほうが良かったかな、などと考えつつ、額に
溜まった汗を拭った。その手を払った、刹那だった。
「危ない! 看板が外れたぞ!」
「あっちからは蕎麦が!」
「ひったくりだぁぁぁ!!」

 突如、四方から轟く別々な糾号。仰天してユージが周囲を見回すと、右手からひったく
りらしき人物が突進して来るに加えて、左手から蕎麦がザルごと飛んでくる上に、何故か
影が出来たと思い見上げると「囲碁スクール」と書かれた看板が覆いかぶさるように落下
してくる。
「え、えぇぇぇぇぇえ!!??」
 咄嗟にユージは一般的かつ順当な反応を示した。あまりに突然で体が動かない。いや、
動いたとしても四面楚歌。逃げ場など無かった。もはや万事休すと瞬時に覚悟を決めかけ
たが、しかし、せめて隣の誰かさんだけでもと精神が強く働いた。突飛ばすか、自分が上
に覆いかぶさるかでもすれば軽症で済むかも知れない。一世一代の力を爆発させてユージ
は彼女を振り返った。
 が、しかし、そこに彼女の姿は無かった。大きなスポーツバッグだけ地面に投げ出され
ていただけで、その持ち主は影も形もない。
 どこに消えたとまた後ろに反転すると、いつの間にかそこに彼女の背中が移動していた。

 どくりと、ユージの心臓が鳴る。

 少女は凛と静かに腕を伸ばし、包みの紐をハラリと解いて、白い竹刀の柄を取り出し、
枝のような細い指で、ぎゅうとそれを堅く握った。
 
 そして竹刀を振るった彼女は、美人だった。 


 草木のようにそっと佇み、
 雪色の手で得物を握り、
 両の瞳で彼方を突き刺し、
 闘志の歩で大地を踏みしめ、
 長い黒髪を虚空に散らして、
 疾風の刃を、前へと振るう。
 
 綺麗だけでは物足りない。
 強いと言うには物騒すぎる。
 もっと静かで、でも激しくて。
 その彼女は、誰かに似た美人だった。
「あ」
「え?」

 彼女の竹刀は全てを弾き返した。落下してきた看板も、ひったくりも、蕎麦でさえも。
完全無欠の戦士のように、何者をも寄せ付けない一撃だった。
 その一撃の、余韻である。
「びゃぶっ!」
 最後に蕎麦を打った竹刀がそのまま流れ、ユージの顔面へ見事に滑り込んだ。鼻頭を叩
かれた激痛の余りに晴天を仰いで奇声を上げ、よろよろと後退する。
「あ、そっちは………」
 彼女が言うよりも早く。落下点を変えた看板がよろめいたユージの頭上に降りかかり、
彼を削った。

 語弊。ユージの削られたのは肉体ではなく、精神である。刹那は死をも確信したユージ
だったが、珍しくも幸運が味方した。囲碁スクールの看板が、ユージの眼前指一本という
絶妙な軌跡を辿って地面に突き刺さったのだ。何たる幸運。しかし、恐怖だけは絶大で、
猛暑のはずが全身に悪寒が走り、背中が凍えていた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
 竹刀を下ろした少女が寄って、おずおずとユージの顔色を伺った。当人は瞬間冷却した
心臓を解凍するので忙しがったが、ひとまずは彼女にも安心してもらわなければならない。
そう判断を下してユージは全力で笑みを作り、彼女へ向かって顔を上げた。
「大丈夫で……フ?」
 顔を上げた途端、ポタリと何かが落ちた。何が。再び地面を見下ろして確認する。する
と、なにやら赤い水滴が落ちて石畳に模様を付けている。何か。心当たりを辿って口から
鼻までを手で拭ってみると、案の定、右手の平は血の色で真っ赤に染まった。
「きゃあ!」
「うわっ!」
 二人、ほぼ同時に声を上げるに続いて、正常な判断力を失った。
「と、取り敢えず止めなきゃ。ハンカチ、ハンカチ」
「だ、大丈夫です。ちょっと上を向いてればすぐに止まります」
「そんな訳ないでしょ。はい、これ使って」
「いえ、自分のありますから」
「そう。なら……え、えと、救急車?」
「は、恥ずかしいのでやめて下さい」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
「だ、大丈夫ですよ。大したことありませんから」
 一見、二人とも冷静に見える。見えるが違う。少女が体中のポケットをパタパタと探る
一方、少年は凄まじい量の鮮血で顔面を汚しながらもその少女をなだめている。その異様
な光景に、エキストラは踏み出す善意の一歩をためらっていた。



 結局のところ、軽い混乱状態に陥っていた二人を確保したのは、駆け下りてきた囲碁教
室の従業員だった。
 右往左往していた二人の手を取り、事務室まで連れ込んで、奥から救急箱を引っ張り出
して少女に手渡し「手当てをお願い。アタシは取り敢えず看板どうにかして来るから」と
言って、跳ね返るよう階段を駆け下りていった。
 そのため、机と本棚が占領する八畳ほどの狭い事務室に、流血するユージと少女が二人、
邪魔する者もなく一対一で残された。
 冷房の効いた涼しげな空気を、気まずくも切迫した妙な空気が侵食する。パイプ椅子に
腰掛け、自分のハンカチで鼻血を押さえながら、ユージは少女になんと話しかけたものか
と考えたが、しかし、その間にも冷静さを取り戻した少女の方が、その妙な空気をものと
もせず積極的に動き出した。
「取り敢えず、これ使って。血は止まらない? 痛みはどんな感じ?」
 少女は机に置いてあったティッシュ箱をユージに渡し、前屈みで顔を覗いた。鼻血まみ
れの顔面で少女の美顔を直視するのはさすがに恥ずかしかったので、ユージは視線を下に
ずらした。と、今度は薄着の下にブラの透けた胸元が飛び込んできたので、慌てて横にそ
らした。
「だ、大丈夫です。止まってきましたし……痛みはしますけど」
 ユージはティッシュ箱を受け取って2・3枚を取り、血まみれのハンカチに代えて鼻に
当てた。「骨までやられてなきゃいいけど」と少女は言い、自分のバッグを開いてスポーツ
タオルを取り出した。
「濡らして来るから、ちょっと待ってて」
 るんと一つに結った髪を揺らし、少女は小走りで扉を出て行った。その瞬間にむんと、
暑い空気が流れ込んできたが、すぐに四散し冷やされる。外の熱気と比べると、この中は
天国のように涼しい。そのはずだったが、しかし、一人取り残されたユージの顔は、のぼ
せたように紅潮していた。

「娘がごめんね。いつもご苦労さま」
小さなあの子の手を引いて、その人のところへ帰る度、その人はいつもそう言ってくれた。
「ホント、君は将来女の子に苦労しそうだね」そう悪戯っぽく笑って、怪我した自分を手
当てしてくれた。その合間に、自分の背中に隠れたあの子を抱き捕まえて「もう、迷惑か
けるんじゃないぞ」と笑いかける。あの子は決まって、申し訳なさそうにペコリと頭を下
げて、「ごめんなさい」と小さな声で謝ってくれた。「気にしないで」と返すと、その人は
「えらい、えらい」と、あの子と自分の頭を優しくなでてくれた。
「ユージくん、ホントにありがとう。いつもタマキを助けてくれて」
 あの子の小さな手を引いて、その人のところへ帰る度、その人はそう言ってくれた。



 タオルを濡らして戻ってくると、少女は「じっとして」と言って、ユージの顔にタオル
を当てた。その瞬間にどんと心臓が高鳴って、恥ずかしさが洪水のように押し寄せてくる。
たまらずユージは顔を逃がした。
「動かないで。血をふき取るから」
「じ、自分でやります」
 彼女の手からタオルをもぎ取ると、ユージは顔の下半分を覆うようにタオルと当てた。
図太くティッシュをねじ込んだおかげで鼻血は抑えられたが、その変わり最悪なまでに不
恰好だ。見ないでくれという願いが切実に沸いてきたが、口には出せなかった。
「ホントに大丈夫?」
 救急箱の中をあさりながら、少女がまた訊いた。
「大丈夫です。俺、こういうのに結構慣れてたりしますから」
「そう。ええっと、中学生、よね?」
「はい。3年です」
「え、3年生?」
 もっと下に見られていたのだろうか、少女は驚いたように声色を変えた。
「ここらへんの中学?」
「いえ、こっちには合宿で着てただけなんで」
「3年生なのに部活の合宿? 受験はいいの?」
「もうスポーツ推薦を貰ってるんで大丈夫です。合宿は部活じゃなくて、個人的なもので
すよ。父の知り合いの道場が九州にあるんで、鍛えてもらいに来たんです」
「道場?」
「はい、剣道です」
 むき出しのまま立てかけられた彼女の竹刀に目を向けて、ユージは「そんなに強くはな
いですけど」と言葉を紡いだ。

「あなたも、剣道なさってるんですね。やっぱり高校も剣道部なんですか?」
「ええ、まぁ」
「それなら、これから部活じゃないんですか? 急がないと……」
「いいわよ、別に」
「別にって……」
 ふと手を止めて、少女は救急箱の中から消毒スプレーを取り出した。血をふいて分かっ
たが、どうやら血は鼻の内側からだけでなく、鼻頭の外傷からも出ていたようだ。
「目を閉じていてね」という彼女の指示に従い、ユージはぐっとまぶたを伏せた。途端、
シュっと音がして冷たいものが吹きかかり、つんと染みる痛みが走った。体を仰け反らそ
うとしたところを、「まだ動かないで」と彼女に止められ、また吹きかけられる。今度はそ
う痛くはならなかった。
「こっち向いて」
少女の細い指で、鼻頭に大きめのガーゼが押し当てられ、起用にテープで固定された。
その間もユージは穴に入りたい羞恥心と若干の幸福感にさいなまれていたのだが、少女の
方はなんとも真剣な顔で「取り敢えずはこれで大丈夫かしら」と救急箱をたたんだ。
「家に帰ったら、ちゃんと病院に行ってね。骨になにかあったら大変だから」
「そうします」
 しっかりと貼り付けられたガーゼを掻くようにして確かめ、ユージはひとまずは一段落
と安堵した。ついで、こっそりと深呼吸してかき回された気を落ち着かせた。
「いやぁまいった。急に外れるもんだから」
 タイミングよく扉が開き、囲碁屋がやれやれという表情で帰ってきた。
「この前の台風でネジがいかれたんかな。いやホント迷惑かけたね。下は旦那呼んで任せ
て来たから、まぁ、なんとかなるでしょう」
 ふうと息をつき、ユージと少女の二人を見比べて、囲碁屋は表情をゆるめた。少女は十
分に落ち着いているようだし、少年の方もあらかた手当て出来ている。少なくとも囲碁屋
の不安要素の大部分は解決済みとなったようだ。
「どうだい? 痛むかい?」
 パイプ椅子の前に屈みこみ、眉間に皺を寄せつつ、囲碁屋はユージの顔を覗いて少女と
同じ質問を投げる。ユージは笑顔で「少し痛みますが、大分楽になりました」と答えた。
「そりゃ良かった。でも、念のため病院には行っておきなよ。なんなら治療費もウチで出
すしね」
「いえ、大丈夫です。気にしないで下さい」
 気前の良さを見せた囲碁屋に対し、ユージは遠慮の念を返して見せた。痛々しいガーゼ
を補うように微笑みを浮かべ、「看板が落ちるなんて事故ですから、仕方ないですよ」と囲
碁屋の弁護を図ろうとする。
「それに、実際は看板が当たってこうなった訳でもないですから」
と、加えたその言葉で少女がビクリと肩を震わせた。囲碁屋の後ろで申し訳なさそうに
頭を垂れ、ズンとばつの悪そうな顔で沈み込む。
「ああ、いえ。別にそういう訳じゃ……助けて貰えなければ看板の下敷きになってました
し……あ、違う。そう言う訳じゃないんです」

 ユージは焦るようにわらわらと手を動かし、なんとか双方の過失を弁論しようと脳みそ
を回転させたが、いかんせん焦りで解答が導き出せない。口を開いても「あの」だの「で
も」だのという曖昧な言葉しか出てこないため、もはや苦笑を浮かべるしか場を繋ぐ手段
が思い浮かばなかった。しかし、それでも少年が言わんとすることは伝わったのか、囲碁
屋が「まぁ、ともかくは大事がなさそうで良かった」とまとめに掛かった。
「お姉さんの方はこれから部活かい? 時間は大丈夫? なんなら、アタシが車で送って
行ってもいいよ。運動部は時間とか厳しいだろ」
 後ろで佇んでいた少女を振り返り、囲碁屋がまた親切心を差し出した。少女の方は考え
るように少し間を置き、ふと顔を上げて「出来れば、お願いできますか」と返答した。
「よし来た。んじゃ、車まわして来るからちょっと待っててね。早い方がいいだろ。お兄
さんもついでに病院行こうか?」
 立ち上がり、ユージを見下ろすようにして囲碁屋が言う。ユージは「ええっと」と頭を
掻いた。
「本当に、怪我は大丈夫なので、病院はいいんですけど……」
 迷うように、考えるように、言いづらいようにユージは一端口を閉じたが、しかし、す
ぐに顔を上げ、少女と囲碁屋を向いておずおずと言葉を漏らした。
「一緒に学校まで乗せてもらって、剣道部、見学させてもらってもいいですか? もし良
かったら、ですけど」

 蝉時雨の降る日差しの下、熱心なのねと彼女が言った。他に趣味がないだけですと、ユ
ージはそれに答える。
 少女の高校の前で囲碁屋に降ろしてもらい、そんな会話で歩を進め、二人はグランド脇
にあるという剣道場に向かっていた。灼熱のグランド内ではご苦労さまにもサッカー部が
走り回り、サブグラウンドであろうフェンスを隔てた向こうでは、ダイアモンドを駆ける
野球部の姿も見える。活発ですねとユージがいうと、少女は熱中症が怖いのよ額に手を重
ねた。
その間も、ユージは踏みしめる一歩ごとに胸を高鳴らせていた。
 最初は否定的だったものの、ユージが強く押すと、少女は迷うようにだが首を縦に振っ
て見学を許してくれた。九州の高校レベルを間近で目に出来る、という期待も一つあるが、
しかし、それ以上にこの彼女がどのような剣道をするのか、どれほどのずば抜けた実力を
見せ付けてくれるのか、そんな期待感でいっぱいだった。何と言っても、彼女は突然に降
りかった災厄をたった一太刀で全て振り払ってしまったのだ。その時の体さばき、太刀筋
から見ても、彼女が常人でないことは確信していた。
「いつから、剣道をなさってるんですか?」
 ふとユージが少女へ問いかける。少女はうんと首をかしげて、少し眉をひそめた。
「覚えてないわね。物心付いたときにはもう竹刀を握っていたから。何歳だったかしら。
ごめんなさい」
「あ、いえ」
 また一つ、次元の違う話だな。顔に浮かべた笑みの裏でユージは思った。
「あなたは、どれくらいなの?」
「う~ん、そうですね。確か小学校の……」
 視線を虚空へ流し、ユージはうんと頭を捻った。しかし、はて、暑さで集中力がイカれ
てしまったのか、はっきりとした数字が出てこない。確か、そうだ小学生だったことは覚
えている。だが、それのいつごろだったか。
「え~っと」
 ユージは頭の裏を掻きながら、諦めたように苦笑を浮かべた。
「すみません。よく覚えてません」



 程なくして到着した剣道場は、ユージが想像していたよりも小奇麗で、小規模だった。
中学校にあるものとそう変わらないだろうか。少女が鍵を取り出して玄関を開き、どうぞ
と中へユージを導いた。
「うっ」
「あつ」
 分かってはいたが、やはり道場に踏み込んだ途端、ムンと蒸された熱気に奇襲された。
この暑さだ、夏場の、しかも屋外にある道場だから仕方の無いことだろう。二人はバタバ
タと裸足になって、四方の窓を開きに走った。全てを全開にすると、風はなんとか通るよ
うになったが、それでもあまり涼しくはならない。
「私は、先生に見学のこと伝えてくるわね」
 全ての窓を開ききった後、再び靴を履きながら少女が言った。
「はい、ありがとうございます。すみません、無理を言って」
「いえ、悪いことしたのは私だし、お詫びになれば」
 あらためて申し訳なさそうに頭を下げたユージに向かって少女は笑みを返し、つま先を
叩いて反転した。しかし、すぐにピタリと止まって、またユージへ向き直った。
「そういえば、名前は?」
「え? あ、そう言えば、まだでしたね。勇次、中田ユージです。よろしくお願いします」
「榊ウラです」
 お互いにペコリと礼をして、顔を見合わせる。今更丁寧すぎる気がして、お互いにクス
リと笑みを浮かべた。
「いいお名前ですね」
「変わってる、とはよく言われるわね。あっ、適当に脚を崩してくれてたらいいわ。まだ
誰もこないだろうし。鍵当番だから時間が早いの」
「ありがとうございます」
 またウラが「それじゃ」と踵を返し、真夏の陽射しの下へ去っていく。そのキャシャな
背中が角を曲がったのを見届けると、ユージは息をついて荷物を降ろし、道場の奥へ向か
って、そこからずらりと見回した。
 ――やっぱり、心地よい。
壁を埋め尽くすような賞状の軍隊と、剣心を語る古めかしい右読みの書。息を大きく吸
い込むと、外気や木造の香りに混じって、汗と覇気の残り香を感じた。素足に感じる床の
感触も、随分となじむようでしっくりとくる。
――高校の剣道か。
 耳に聞こえるは蝉時雨。加えて運動部の掛け声や、車などの雑音群集。肌に感じるは弱
電流と、骨をくすぐる小さな蠢動。まとわり付くような道場の熱気。傷のせいか、嗅覚だ
けはなにも捉えず、ただ滲む汗がじわじわとしみた。
ユージはすうと空気を肺に入れて、また深く吐いた。
両手をゆっくり前に伸ばして、竹刀を握るように腋を締める。左足を一歩引いて、紙一
枚の程度に浮かす。そこから両の視線で彼方を刺して、頭の上に両手を振り上げ、逆流の
如く渾身を集め、そしてゆらりと体を落とし、大きく、踏み出した。
「覇っ!」
空の竹刀が虚空を打った。閉ざされた大気が振るえ、轟き、雑音を喰らう。壁で跳ねる
ように何度も返って、暴れまわり、のた打ち回り、その度に一段一段力を弱め、いつしか
染み渡るように消えていき、程なくして、また蝉声が聞こえてきた。
それを聞き取ると、またユージは足を戻し、瞳を前に尖らせて、両の腕を頭上に振り上
げ、より豪快に、二度目を打った。変わらぬ列波に加え、全身の弱電流がビリビリと荒れる。

 ――心地よい。
 それからユージは、同じように何度も打った。みるみる軽くなる体に任せ、早々と留ま
ることを忘れて。頭からは一振りごとに雑念が消え、しばらくの内に無心へ染まった。踏
み出すごとに風を受ける額と腕が心地よく、床を叩く素足の裏も、実に快感だった。道場
内はすでに静寂を追放され、合間無く押し寄せるユージの覇気に埋められた。もう他の雑
音などは、気配すらも残っていない。
 大気は荒れるように増しては返り、また揺さぶられては震わされた。ぐるりぐるりと暴
れるように、彼方も此方も見栄えなくし、されるがままに掻き回される。
 と、不意にユージの動きがピタリと止まった。
 動き回っていた大気は気を失ったように大人しくなり、鈍足から寝そべるように倒れこ
んで、静寂に戻った。やかましい蝉声がじわじわと帰ってくる。
 その合唱を背に受けながら、何時の間にか帰ってきていたウラが玄関で棒立ちしていた。
彼女の脚が速かったのか、ユージの無心が時を進めたのか、いずれにしろ、知らぬ間に一
区間の時間が過ぎていたようだ。
「あ、すみません」
 焦るように構えを解いて、ユージは作り笑いを浮かべる。気付けば随分と汗もかいてい
て、額が冷たかった。シャツも重いほどだ。
「なんとなく、我慢できなくて」
「……いえ、いいんだけど」
 ウラは短く答え、靴と靴下を脱いでペタペタとユージに寄った。
「着替え、あるの?」
「まぁ、一組だけはリュックの中に」
 汗を拭いつつ、ユージは苦笑を浮かべる。ウラは呆れたように肩を落として、「ホントに
好きなのね」と呟いた。

「まぁ、こればっかりやってきましたし。その割りに全然強くないですけど」
「そう。でも、なかなか見事だったわよ。竹刀もなしで」
「じ、地味なのばっかり得意なんです」
 焦るように謙遜するユージをクスリと笑い、ウラはポケットから鍵を取り出して、道場
の奥の扉へ向かった。
「ええっと、ちょっと待ってね」
 カタリと開錠されて扉が開き、その隙間からロッカーらしき陳列が覗いた。どうやら更
衣室のようだ。ウラは中を見回すようにしてから仕切りを跨ぎ、姿を隠したが、程なくし
て胴衣袴を一組抱えて戻ってきた。
「これ、予備の胴衣。サイズは合うと思うけど」
「あ、ありがとうございます。わざわざすみません」
「ご丁寧に。男子は道場で着替えることになっているから、あなたもお願いね。えと、そ
うね。着替えは荷物と一緒にあの棚の上に置いておいて。他の男子もそうするし。それと、
話が面倒になるから、一応、私の親戚の子ってことにしておいたわ。話合わせてね」
「ど、どうも」
 胴衣を受け取り、ユージは微笑を決めた顔の裏で、感付かれぬように眉を曇らせた。
(ちょっと、迷惑かけ過ぎたかな)
「ああ、大丈夫よ」
「え?」
 驚いてユージが視線を上げると、ウラが不思議そうに首をかしげた。
「ちゃんと洗ってあるから」
「何を?」
「それ」
「あっ! あ、胴衣。はい、ありがとうございます」
「大丈夫?」
「たぶん大丈夫です」
 眉をひそめて覗き込んでくるウラに愛想笑いを返す。
「まったく、今からあんまり疲れると、後が大変よ?」
 呆れたように腰に手を当て、ウラがやれやれと言わんばかりの視線をユージに投げた。
訳の分かるわけもなく、ユージはただただ首を傾ける。
「後?」
「ええ、見学するくらいなら、一緒に竹刀握っていけって。ウチの先生、結構オープンな
所あるから」
「え?」
「つまり、あなたも練習に参加していきなさいってコト」
「そんな、いいんですか?」
「ご愁傷さまなことに」
「いえ、大歓迎ですよ!」
 胴衣を抱えたまま、ユージは力強くガッツポーズを取る。先ほどの焦りや着替えの心配
もどこへやら、ウラがたじろぐように「そ、そう?」など呟くのも耳に届かず、有頂天に
も上りそうな歓喜だった。
 九州の高校レベルを体で受けられる、という喜びも一つあったが、しかし、それ以上に、
この人と、ウラと打てるかもしれないという期待感が大きかった。



 少々、ユージは盛大に歓迎したことを後悔した。
 中学生と高校生の体は違う。成長期の男子の一年、それも運動部の一年にしてみれば、
その肉体の変化は天変地異に例える落差だ。身長の伸びはもちろん、筋肉はより大人へ向
かって膨れ上がり、肩幅も堂々たる様にたくましく、腰周りや下半身も、化け物のように
どっしりと変化する。また、一年を巡って鍛練を積んだ技と力は、巡らぬ以前と比べて圧
倒的に鋭く、重い。例えるとすれば猫と虎だ。
 そう、猫にとって、虎の世界は過酷だった。
「ヘイヘイヘイヘイヘイ! どうした親戚君!」
 一打一打とぶれて行く剣線を悟られたか、ユージの切り返しを受ける男子部員が挑発的
に笑った。ユージはなにくそと眉を吊り上げ、気合で体を引き上げて連打に鋭さを戻す。
男子部員はおうと慌ててそれを受けた。
「なかなか!」
 途端、顧問の号令で長いワンセットが終ると、すぐさま仕事が入れ替わる。それまで打
ち込んでいたユージは面の前に竹刀を立てて受けにまわり、太い掛け声と共に向かってく
る嵐のような相方の連打をさばく。その打撃は全て喰らいつくように重く、鋭く、受ける
たびに疲労した手首と腕が悲鳴を上げた。
(この人も、榊さんも一年生って言ってたっけ?)
 懸命に相手の動きを追いかけながら、ユージは思う。
(絶対ウソだろ!)
 口では謙遜しつつも、ユージは剣道の技量について多少の自信があった。あったがそれ
も既に粉微塵。相手の滑るような足運びに遅れぬよう、右から左へ次の一打に遅れぬよう、
それだけでユージは精一杯だった。
 ――少しでも気を抜けば置いて行かれる。
 相手の竹刀を受けつつ後退。変わって前進。また後退。何度か繰り返し、そこで念願た
る顧問の号令。それまで豪雨のごとく降り注いでいた打撃音と掛け声が一度に止み、息切
れの大合唱が取って代わる。無論、ユージもそれに大きく貢献した。
「大丈夫か少年?」
 面金の向こうで相手の部員がカカカと笑う。ユージや他の部員が呼吸を整えるので手一
杯というのに、なんとも余裕な面構えだ。
「次! 引き技返し技いくぞ!」
『押忍!』
 顧問の号令に男女の声が答える、その中にウラの声も混じっているのだろうが、いかん
せん、面を被ってからというもの、彼女の姿はおろか、周囲の様子もまともに捉えられない。
「うしゃ、俺から行くぞ。ガンバレガンバレ」
 相手の部員が竹刀を構え、ユージの様子をうかがう。半ばヤケになりつつも、ユージは
膝から手を放して竹刀を構えた。
「押忍!」



 汗で緩んだ鼻のガーゼをはがし、手洗い場の水で顔を洗うと、生まれ変わったように身
が軽くなった。水が少々鼻の傷にしみるが、それもこそばゆい程度だ。ふうと息をついて
顔を上げ、タオルがないことを思い出す。仕方なく犬のように顔を振り、両手でかき上げ
るように水気を拭った。蒸し風呂地獄の道場から脱出して来た為か、来た時はあれほどに
暑かった空気も初秋の冷気に、僅かに吹く風の流れも、極上の涼風に感じる。
 結局、まともな休憩が入ったのは、それから随分後になった。引き技返し技の応用練習
から打ち込み稽古、相手をとっかえひっかえの一本試合を十本。最後の一本などは半分意
識が飛んでいた。我ながらよく耐えたと誇りに思う。
「うあ~~~~~う~~~~~」
 ふと隣を見ると、練習中にやたらとユージの相手を務めたノリの良い一年部員(垂れを
見たところ『平井』という名前らしい)が、頭を蛇口の下に突っ込んでなんとも豪快に水
浴びをしていた。
「あぁ~~~気持ちいい~~~~」
 後頭部から鼻先に水を流しつつ満面の笑みで極楽を満喫する平井から視線を上げ、グル
リと見回してみると、他の男子部員は冷水機に並んだり、日陰で談笑したり、技の指摘を
入れあったりとそれぞれな様子だ。女子の姿が見えないが、更衣室にたむろっているんだ
ろうか。
「おい。中田、だっけか。榊の親戚」
「あ、はい」
 すっかりと定着したらしい、偽りの設定を呼ばれてユージが振り向くと、スポーツ刈り
のがっしりとした部員が立っていた。その風貌もさながら、練習中にも主将と呼ばれてい
た部員だ。彼はユージの顔を確認すると、おもむろにペットボトル入りの冷えたスポーツ
ドリンクを差し出した。
「飲んどけ。おごりだ」
「マジッスかセンパイ!」
「お前じゃない」
 主将は蛇口から頭を上げた平井をペットボトルで小突き、そのまま再びユージに向ける。
「水分取っとかないと熱中症になるぞ。水だけじゃだめだ」
「すみません、ありがとうございます」
 遠慮の思いも少々あったが、流石に喉の渇きと健康の危機に押されてユージは受け取り、
その場でパチリとフタを開けて景気良くがぶついた。乾いた喉に流れる水分が実に爽快。
実に美味い。
「チラチラとしか見れてないが、なかなか動けるみたいだな。剣道はいつからだ?」
「小学生からです。何年かは曖昧ですけど」
「おぉ~、んじゃ、少なくとも俺よりはベテランだな。俺は中学デビュー組だからよ」
 水道の水を止め、髪から水滴を落としながら平井が口を挟んだ。
「いやいやどーりで強い訳じゃん。んまぁ、ふふん。それでも年の差で俺の方がちょい上
って感じかな」
「はい、付いて行くのでやっとでしたよ」
 極力、平常な反応を心掛けつつ、ユージは胸の内に沸いた驚きと悔しさを押さえ込んだ。
(その通りだ。俺よりも数段強い)
 脳裏に過ぎったそのセリフも、口に出る前に飲み込む。
「調子に乗るな平井。少しはこいつを見習え」
「いや~センパイ、俺は気持ちで大きく出て押し勝つタイプですから」
「大きく出て毎回負けてるじゃないか、榊に」
「センパイだって負けてるじゃないスか」
「やかましいな。その内に勝つ」
「俺だってそうスよ」
「だって~ウラちゃん。いやん、三角関係?」
 野太い男声の中に、突如高い女声が割って入る。男三人がビクリとして目を向けると、
いつの間にやら手洗い場に乗り出すようにして、眼鏡の女子部員が一人ニヤニヤと笑って
いた。その後ろを見ると、救急箱を抱えたウラが無表情で佇んでいる。
「んだよお前ら。男の水場に何用だ」
「あんたにゃ用無しよ。えとユージくんだっけ。救急箱持ってきたから、バンソーコ持っ
ていきな」
 女子部員が言う間にも、無言のウラが隣で救急箱を開け、中身を探り出していた。
「すみません。あ、でも、もうほとんど大丈夫ですよ」
「いや貼っとけ。切り傷なめたら痛い目に遭うぞ」
 胸を張って言う主将に気圧されてユージが口ごもっている内にも、ウラが小箱の封を切
って大きめのバンソーコを差し出した。ここは好意に甘えてと判断し、ユージはどうもと
頭を下げつつ大人しく受け取る。
「ユージくん、この後の部内戦にも出るの?」
「さあ、どうでしょうか」
「まぁ、最後に特別戦とか言って出しそうだな。覚悟はしとけよ?」
「ハハハ、頑張ります」
 ユージが主将の言葉に苦笑する間にも、ウラが救急箱をテキパキと片付け、物言わず踵
を返した。
「ああん、まってよウラちゃん」
 それに気付いた女子部員がくるりと反転して後を追って去っていく。
(榊さん、機嫌悪い?)
 貰ったバンソーコをめくりつつ、ユージが首をかしげていると、他の二人も同じことを
思っていたのだろう、ウラと女子部員の背中を遠目で見送りながら、顔を曇らせていた。
「なぁ親戚よ、榊の奴は家でもあんなんなのか?」
「え、いえ……」
 これはよろしくない。平井の不意打ちにユージは瞬時に頭をフル回転させ、ウソがばれ
ない最善の応答を練った。
「どうでしょうか、そんなことも無いと思います」
「どっちなんだよ」
「家では、あんまり喋りませんから」
「そりゃま、あいつがキャピキャピ喋る姿は想像できんわな」
 やれやれといった様子で平井が濡れた髪をかき上げる。一方、主将もまた眉をひそめて
頭を掻いた。それからユージに視線を落として、助けを求めるように口を開く。
「前の大会が終ってからな、どうもあんな調子なんだ。最近じゃ、動きも随分悪くなった。
俺が一本取れるぐらいだ。前までなら考えられん。何か知らないか?」
「いえ」
 内輪事情を聞かれようと、事実は今日のさっき出会ったばかりの間柄である。答えられ
るわけが無い。
「分かれば、いいんですけど」
「んまあ、そんな話はいいじゃん? それよりさ~、ユージくんだっけ?」
 ユージの胸中に一抹の不安が突き刺さるが、考え込む前に平井が肩にがしりと腕を回し、
顔を寄せてきた。濡れた髪がちくちくと当たって不快だが、ユージは逆らわずに「なんで
すか」と訊き返す。
「実際どうなん? 榊と一緒にフロとかは……」
「入るわけないでしょ」



 今だ清風を受けるうちに主将の号令がかかり、剣道部員一同は再び剣道場へ向かってぞ
ろぞろと動き出した。ユージもまた平井と肩を並べてその流れに乗り、灼熱地獄へ足を
踏み入れる。
「あっぢい。死ぬ。蒸し死ぬ」
「頑張りましょう」
 早々に弱音を吐く片方を片方が苦笑で励ましながら、二人は道場の隅に畳んでいた防具
を取り、試合場を向いて正座を組む部員の横隊に並んだ。
「おとなり失礼」
 ユージの隣に、先ほどの女子部員がちょんと腰掛けて防具を置いた。見れば、続いてウ
ラもその隣に正座を組み、黙々と防具の準備を始める。今だ西洋人形のような顔をして、
機嫌が良いのか悪のかさえも見て取れない。
「平井、今日は部長とやるんでしょ。ダイジョブ?」
 偶然視界に入った垂れを見ると、『望月』と言う名前だったらしい、女子部員が悪戯な笑
みを浮かべてユージの前に半身を乗り出し、平井にちゃちゃを入れた。
「ああん? それは勝っちゃまずいぜってことか?」
「ば~か」
「うるせぇよば~か」
「バカとはなんだドアホ」
「アホとはなんだ貧乳」
「ひ、ひにゅ!?」
 思わぬ一撃をだったのか、望月は口ごもって赤面し、うぅと唸って平井を睨んだ。その
反応に満足したのか平井がケラケラと笑う。と、望月は跳ねるように反転して隣のウラに
抱きついた。
「ウラちゃ~ん、平井が、平井がぁ」
「はいはい。早く準備しましょうね」
 また望月にも動揺せず、ウラは淡々と防具を調える。ユージは不安を込めながらウラの
様子を横目でうかがいつつ、一連の微笑ましい様子を静かに見守っていたが、トゲの無い、
やわらかな彼女の声を聞いて少しばかり胸を撫で下ろした。
(別に怒ってる訳じゃないか)
 ユージの胸中の一方、望月は悔しそうにふくれつつも「は~い」としぶしぶウラから離
れ、大人しく自分の防具に手をかけた。しかし、こちらの機嫌はそう簡単に直らないよう
で、紐を結びながらもぶつぶつと平井の悪態を呟き続ける。
「ふん、部長とウラちゃんにやられろ、やられてしまえ変態め」
「ユージくん、そんのやかましい小学生を殴ってくれい」
「いやいやそのアホを殴っといて」
「どっちも出来ません」
 二人の間でユージは苦笑を浮かべた。



 部内戦開始から実に二戦目。主将と平井の試合は早くにまわって来た。
 試合場の中央で蹲踞する二人の風格は正に威風堂々。流石は主将の貫禄と言うべきであ
ろうが、しかし、未熟ながらもそれに引けを取らない平井もまた大した度胸だ。
「始め!」
 顧問の合図が早いか否か、飛び出したのは平井。割れんばかりの強烈な掛け声を発して
主将の面に竹刀を落とす。しかし刹那、この一打は体を引いた主将が危うく交わし、転じ
て主将はそのまま小手打ちに竹刀を払った。平井はこれを柄で受け止め、ふんぬと一歩を
踏んでまたも面打ち。あわや一本かと思われたが、主将は間一髪に竹刀を戻し、鍔迫り合
いに凌いだ。
 心で大きく出て押し勝つ。自信に溢れる平井の動きは正に体言。鍔迫り合いの続く中も
押しに押す体勢だった。かたや主将の姿勢はと言うと、平井の野蛮に対して言わば紳士的。
ぐいぐいと押してくる彼を子供のように見守り、時を図るようにして持ちこたえ続けていた。
「一本ですね」
「かな?」
 言葉を漏らしたユージに望月が首をかしげると、その通り、次には主将が体を引いて平
井の体勢を見事に崩し、腕の間を縫って強烈な面を打ち込んだ。
「面あり一本!」
 主審を務める顧問が赤旗を揚げる。周囲の部員も納得の行ったようにうんとうなづき、
あるいは呆れたように肩をすくめる。
「いつものパターンだねぇ」
 見事にやられた平井にウサが晴れたのか、渋茶でもすする様に望月がこぼした。
「奴はアホだからねぇ」
「確かに、攻撃の後のスキは大きいみたいですね」
「まぁ、アレはアレで強いんだよ。部長とウラちゃん以外にゃめったに負けないくらいだ
し。男子の一年じゃ最強じゃないかなぁ」
 ユージと望月が無駄口を叩く中、顧問による二本目の合図が掛かった。ユージは心の底
で平井の飛び出しを予想したが、そこまで平井もアホではない。今度は落ち着き払った態
度で蹲踞からすうと間合いを取り、ジリジリと足をすらして主将の動きを探る。一方の主
将もまた平井の観察を決め込み、中段で構えたまま彼の動きに合わせていた。
「打っ!」
 しかし、先に耐え切れず動いたのは案の定平井。どんと一歩を踏んで主将の面に竹刀を
突き出す。しかし、主将はこれを軽く叩き払って身を転じ、平井の面を目掛けて一打を返
す。パンと景気のよい音が響いたがこれは平井がなんとか交わして無効打。これはしばら
く一打を譲らぬ打ち合いが続くかと思われたが、その予測を平井が裏切った。
「羅ぁ!」
 視線と殺気の合間を縫うような重い踏み込み、その一歩を軸に豪快な一発が主将の左胴
を直撃した。道場に響く快音が鼓膜をくすぐり、床を伝って観客の足に届く。しかし、
「惜しい!」
 ユージが思わず拳を握る。その通り赤旗は揚がらない。そればかりか主将が平井のスキ
を見逃す訳はなく、密着した彼から自ら一歩引くと同時、ねじ伏せるような面を平井に叩
き付けた。
「面あり!」
 すかさず、惜しげもない顧問の赤旗が上がる。



「だぁぁぁチクショウ! なんだよ! 今入ったじゃん……ですか先生!」
 蹲踞までは大人しくしていたが、それから試合が終った途端、平井が防具も脱がずにわ
めいた。望月は平井の暴言を恥じるように顔を苦めて俯き、ユージもまた困ったように苦
笑して首を傾けた。
「お前、今逆胴を打ったのは分かっているか?」
「もっちろんス」
 平井が顧問に自信満々といった様子で答える。その返答に顧問は眉を吊り上げ、威圧的
に言葉を続けた。
「逆胴は判定が難しいと前にも教えたろうが。それなりに綺麗に入らん限り一本は取れん。
今みたいに土壇場で強引に打ち込んだだけじゃな。もし、今のが普通の胴なら誰も文句は
言わんかったろう。実力以上のことをしようとするからだ。自分より上段者を相手にした
ときの、お前の悪い癖だな。ま、なかなか惜しくはあったぞ。精進せい」
「ぐっ……」
 顧問の弁舌を受け、平井はその場で踵を鳴らしたが、しかしほどなく妥協したのか諦め
たのか、ともかく悔しげにも引き下がって、どんとユージの隣へ戻り腰を下ろした。
「お疲れ様です。惜しかったですね」
「まぁ無効打にされたけどな」
 苦笑交じりにユージが声をかけると、平井は怪訝そうな声色で言った。
「いったと思ったんだけどな~自分では。チクショウ」
 面を脱いで息をつき、乱暴に手ぬぐいを脱いで汗をかき上げた平井の横顔は、セリフと
は半面、大真面目ながらも自嘲を含んだような笑みを浮かべていた。
「次はぜってぇ外さなねぇ」
 望月が身を縮めて小さく「ば~か」と呟いたが、ユージの耳だけに聞こえて消える。

「次、榊! 大谷!」
 野太い顧問の号令に、ユージは慌てて振り返った。見れば、すでに防具を着用していた
ウラが望月の隣で立ち上がり、試合場へ踏み出していく。
(榊さんだ!)
 ユージの胸を、歓喜と興奮が高らかに叩いた。
(ようやく見れる! あの人の剣道!)
 勢いの余りに自身から飛び出し、跳ね回りそうな感情を必死に押さえ込んで、ユージは
堅く拳を握った。
 二の情景が、ユージのまぶたの裏に蘇る。
 一つは、幾つもの災厄を一太刀で振り払った、今朝方の豪快かつ爽快な彼女の背中。今
思い返すだけでも胸踊り、背筋に電撃が走る。
 もう一つは――。
(――あれ? なんだろう)
 ふと、浮かびかけたイメージに濃霧がかかって白に消えた。なんだ、何を思い出しかけ
た。自問するが返答は『思い出せない』の画一点。頭の中をぐるぐると探しまわっても、
何一つそれらしいものが見つからない。
(『思い出さない方がいい』かな)
 浮かんだ雑念をユージは早々に振り払う。平井と望月が当人の変化に気付いたのか心配
そうな視線を送り、「どうかしたか」など言葉をかけたが、ユージは「なんでもありません」
と答え、ただ試合場へ意識を集中した。
「それならいいけどよ……」
「ウラちゃんファイトー!」
 試合場ではウラと、もう一人の『大谷』という部員が向かい合って竹刀を抜き、蹲踞の
姿勢に入った。身体を見る限り『大谷』は男子部員で間違いないだろう。それも主将より
頭一つは大きい巨漢だ。ウラの細身も助けて、それ以上に大きく見える。威圧感は十分を
二つ超えるほど重く、全身からにじみ出る闘志もこちらに分かるほど強い。そういえば、
副主将の札は彼の名前に掛かっていなかったか。対して、細身のウラは試合前の表情の通
り、無心を思わせる静寂さ。威圧感などもちろん皆無で、覇気も闘志も感じない。まるで
草木そのものか、幽霊の如く。ふわりと風で飛ばされそうな出で立ちだった。

(さて……)
 ユージは一度拳を解いて汗を離し、再び強く握った。口内には唾液が溢れてくるが、喉
の方は妙に渇く。ごくりと飲み込んで中和を取った。
「始め!」
 顧問の号令が掛かった、刹那だった。清風にウラの胴衣が揺らぎ、大谷と擦れ違った。
そう、見えた。それだけに見えた。
 慣れた様子で顧問が宣言する。
「面あり一本!」
 一層に静まり返る道場内。ウラの一本に対し、一人を除いてほとんどの者は表情を変え
ず、日常を見守るようにありのまま、目の前の情景を傍観している。除いた一人である望
月は「イヨッシャ」と強く強く密かにガッツポーズを取っていた。
 その隣で、ユージは静かに目を座らせた。
「二本目、始め!」
「だらぁ!」
 号令と共に大谷がどんと踏み出す。その巨大な一歩は床を震わせ喝破は空気を割ったが、
しかし、大谷の竹刀は目標を見失ってフラリと迷い、虚空に泳いだ。と、その一瞬手前、
一羽の燕が飛び抜けていた。
「胴!」
 ウラの竹刀が大谷の左胴を見事に打ち抜き、すうと振り返るように残心を辿っていた。
誰もが、その事実に事実の後で気が付いた。掛け声が随分と後から来たように感じた。大
谷が振り返る前に、顧問が文句なしに赤旗を上げる。
「胴あり一本!」
「イッヨッシャ! ウラちゃんカックイぃ!」
 顧問に聞こえないようではあるが、望月が盛大に歓声を上げる。平井が殴ってくれとユ
ージを突付くが、ユージは苦笑を浮かべて誤魔化した。
 大谷とウラが中央に戻り、蹲踞と礼をして試合を終えた。大谷は必勝の想いで試合に臨
んでいたのか、その背中に言い知れない遺恨の念をにじませている。
「お疲れ、カッコよかったよぉウラちゃん」
 隣に戻ってきたウラを望月が歓迎した。ウラはただ、面を脱ぎながら「ありがとう」と
望月に返す。
 解かれた面から上がったウラの顔は、西洋人形のように無心を思わせた。



 主将に惨敗したものの、平井の強さはにわかでなかったらしい。ウラの試合の後、平井
の試合は多く、2度も回ってきたが、その双方ともに賞賛を送りたくなる健闘だった。
 まず、2人目の相手は2年の部員。以前の玉竜旗でそこそこ成績を残した実力者らしく、
なるほど苦戦はしたが、結果だけ見れば勢いで平井の二本勝ち。次に団体で中堅を勤める
3年と当たり、開始早々に一本目を取られ、さらに猛打に乱打を喰らう危機に陥ったが、
これを力技で一本取り返し、さらに時間ギリギリまで粘り、すんでの所でまた逆胴を打ち
込む勇士を見せたが、これが無効打となって引き分けに終った。
「まぁ、諦めない姿勢は見習うべきだよね」
 平井の試合がやってくる度、いちいちユージに向かって対戦相手の解説をした上、最後
に「負けろぉ平井」と言っていた望月が、この時初めてその平井を評価した。
 その望月の実力はと言うと、こちらは実に吃驚仰天の太刀捌きで、連なる部員の中でも
ダントツで最下位に間違いない猛者だった。彼女の構えや剣筋の一つ一つを見ても、小学
生の方がマシだと思える遅さと鈍さ、その健気さ。掛け声は闘志に満ちているものの、叫
んでいる内に一本取られるのが入部当時からのお決まりらしい。それもよろしく、望月の
試合は同じ女子部員との試合を二回だったが、その圧倒的実力差でどちらもテンポ良いス
トレート負けに終った。
「まぁ、高校デビュー組だからな。しょうがねぇ。知識はあるんだけどな」
 惨敗の後、どこかコミカルにしくしくと落ち込む望月へ聞こえるよう、哀れみを込めた
声で平井が言った。

 ウラの試合も、もう一度まわって来た。部内戦も後半に差し掛かった辺りだ。
 望月によると相手は女子の主将らしく、なるほど、ウラと変わらぬ細身ながら、それら
しい風格があり、試合の前から覇気に満ちている。
「でもね、ウラちゃんの方が強いんだ」
 望月が嬉しそうにユージにささやく中、ウラと女子主将の試合に開始が掛かった。
 互い、すうと間合いを取って鏡のように離れる。それからじりじりと足をすらしながら、
相手の隙を待つように、徐々に距離をつめ、また開き、一足一刀の間合いすれすれを行き
来する。
 しばらくも続けず、女子主将が先に動いた。探り合いの夜から一閃。火花の如く踏み出
してウラの小手に竹刀を突き出す。しかし、これは抜かれて空振り。だが女子主将は引か
ずに続いて一歩を踏み、面へと竹刀を突き上げる。突き上げるのだが、それが届く手前、
にウラの剣が風を切った。
 パンと爽快な打撃音。主将の一打は柳を払ったように虚しく空振り、転じてウラの一打
が主将の面を直撃した。
「面あり一本!」
 顧問の旗が上がる。
「不調つっても、やっぱ最強に変わりなしか」
 平井がやれやれと言うように言葉を漏らした。
「かぁっくイイねぇ……」
 望月がうっとりと頬に手を添えて、ため息混じりに言う。
「……そうですね」
 両隣の様子も蚊帳の外に、ユージは一人で石像面を浮かべ、両眼で試合場の様子を食い
入るように見つめていた。
「やたら真剣だな。顔怖いぞ」
「真面目だねぇ。見習えバカ」
 二人の雑談をかき消すように、また竹刀が高々と音を立てる。小手あり一本。ウラの二
本勝ちだった。



「さて、これで今日の部内戦は終わりだが……」
 窓枠の影が道場の端から動き始めた頃、顧問がユージを見てニヤリと笑い、腕組みをし
て言った。
「ゲスト戦と行こうか」
「ふ、来たか」
 平井が第一に反応する。その勇ましい口調に部員一同が一笑を上げた。
「誰もお前とは言っとらん」
「え~、い~じゃん。やろうぜユージ君、なっ?」
「あ……いえ」
 肩を組んでくる平井に、ユージは困惑の顔を見せた。
「やめんか平井。中田くんだったか。誰か、試合をしたい相手はいたか? いなけりゃ取
り敢えずそのバカになるが……」
「ひでぇスね」
 平井の腕から抜け出したユージは、一同の注目が集まる中、背筋を直して顧問の顔を見
上げ、そこから首を曲げて、未だ心ここにあらずのウラの顔を確認し、また顧問を向いて、
目の光を強めて口を開いた。
「榊さんと……お願いできますか?」
 一瞬、ウラの背中がピクリと震える。
 続いて、なごやかだった道場の空気が分かれた。
 4割は平井と望月を筆頭に「おぉ」と驚く。
 4割は嘲笑を浮かべる。
 2割は静かに眉をひそめる。
「おお、親戚対決か。おもしろい」
 4割の一員である顧問が笑顔で言う。
「榊、行けるか?」
 ユージの二つとなりでウラが「はい」と答え、静かに面の用意を始めた。ユージもまた、
顧問と榊に礼を言って、自分の防具に手をかける。
「ユージくん、しっかりね」
「この次は俺だぞ、俺」
「はい」
 平井と望月の声、ユージは低く答えた。
「ウラちゃん、ほどほどにね」
 望月の声に、ウラは長めの沈黙を挟んで、答える。
「どうかしら」



 ユージは憤慨していた。両隣で二人が雑談しようと、平井がちゃちゃを入れてこようと、
胸中で猛るこの怒りは終止揺らぐことは無かった。
この怒りは誰でもない、自分に対してである。
(俺は馬鹿だ!)
 己を縛るように固く面紐を結び、ギュウと深く小手をはめる。
(気付こうとすればいつでも気付けた。それなのに、俺は自分のことばっか考えてて……
最低だ)
 平井と望月の間でどんと立ち上がって、ユージは試合場に向かった。中から見るとやた
ら狭い正方形の枠の中心で、遅れてきたウラと対峙して、顧問の号令で礼をし、竹刀を差
し向けあって蹲踞する。
(榊さん……)
 面金の奥のウラの無表情を強く睨んで、ユージは思う。
(剣道、楽しいですか?)



「始め!」
 ユージとウラ、二人の試合に開始が掛かった。主将、平井、望月など部員一同の見守る
中、両者は切っ先を向けたまま磁石のようにすうと離れ、互いに間合いを計り始める。
「どうなるかな?」
「そりゃ瞬殺だろ」
 望月に平井が答える。他の部員も考えは同じらしく。試合場の外にはさて何秒かという
顔が並んでいた。
 ほどなく、一閃の火花が散った。仕掛けたのはウラ。副主将や女子主将の面を砕いたよ
うに、同じく、燕を思わせる音速の剣を空に放った。だれもがそれに気付かない。速過ぎ
る。気付いた時には終っているのだ。竹刀が面を叩いたという事実が事実として過ぎ去り、
ウラが残心をたどる頃にようやく意識が追いついて、大衆は訳の分からぬまま、そこに置
かれている結果を傍観するしかない。
 そう、結果は決まりきっていて、常に同じだった。
「面あり!」
 爆竹の鳴った後、高々と顧問が白旗を挙げる。
 試合場には二人の剣士。すらりと細身のウラが振り返るように残心を辿り、彼女の一撃
を受けた少年が、禿山に残された一本杉のように呆然と立ち尽くしている。ウラの見事な
一本だった。
「そりゃま、そうだろうさ」
 ぽそりと平井が呟いた。部員の4割が頷き、4割が唇の端を吊り上げる。合わせて八割
が納得の結果であった。もはや二本目は、強いて言えば試合結果は明々白々。部員一同の
心中は、さて次は誰か俺との算段を浮かべ始めていた。
 しかし、どくりと心高鳴らせたのが約2割だった。
「先生」
 手を挙げたのは男子主将。
「すいません、副審入ります」
「ん? 別に構わんぞ?」
「いえ、やらせて下さい。悪い、大谷、来てくれ」
 主将の声に、部員の列から巨漢の副主将がのそりと立ち上がった。何事かと一同が見守
る中、二人で道場の隅のホワイトボードへ寄り、その裏から紅白旗を二組取り出して、互
いに一組ずつ互いに分けて持った。

「ねぇ、平井さん、今の見てた?」
 主将らが準備を進めるうちに、望月がおずおずと上目使いに口を開いた。
「見てたけど?」
「ウラちゃん、変じゃなかった?」
「はぁ?」
 平井がこの上ない疑問符を浮かべて返した。
「どこがだよ?」
「どっかだよ」
 さきほどまでユージのいた間に手を突き、望月が身を乗り出して平井に訴える。
「ちょっと違ったもん。足、怪我したのかな?」
「そうは見えんけどなぁ。さっきまでだって………いや、待てよ」
 平井は手を顎に当て、考え込むように眉をひそめた。望月もまたそれに表情を一層曇ら
せて、まじまじと彼の顔を覗き込む。
「まさか、アレの日?」
「バカ!」
 望月の拳が平井に飛んだ。その一方、試合場では主将と副主将の二人が旗をパラパラと
解いて確かめ、待たせたと侘びを入れながら配置に付いていた。同じく、顧問やウラとユ
ージの二人も中央へ戻り、蹲踞の姿勢へ入り始める。
「まぁ、心配ないだろ」
 ふくれつつも正座を組みなおす望月に、平井が殴られた頬をいたわりながら言った。
「今日の榊は、ついさっき大谷先輩とアイコ先輩を瞬殺してるんだぞ。怪我して勝てる二
人じゃない」
「……うん、そうだけどさ」
 望月の不安も最中、顧問が二本目の始めを掛けた。副審に付いた主将と副主将が身構え、
ウラとユージがまた間合いを取る。続いて、二者共に剣先が触れないすんでの距離をジリ
ジリと保ちつつ、観察眼を飛ばして、自身の集中力を切迫させる。その様は剣道部にとっ
て見慣れた様子だった。
 だからこそ、8割はこの時に違和感を覚えた。小石を当てられたようにこんと目を覚ま
し、その視線の矛先を、全て試合場の少女に向ける。
 ――足りない。

 何、何だ。彼女の身からさっきまではあった何かが抜け落ちている。これまでは無感情
を装ってはいたものの、それは確かに、満ち溢れるほど彼女に足りていた。しかし、何故
だ。今、彼女は明らかにそれを欠いている。どうした。いや、それは『何』だ?
 気迫か? 闘志か? いや、それは先ほどから皆無に等しかった。
 観察眼? 集中力? そんな具体的なものではない。
 何だ。彼女は、『榊ウラ』はどうした?
 そう一同が心中で考えるうちに、試合場で少年が動いた。雷鳴のような喝破を上げてど
んとウラの間合いに踏み込み、小手に刃を打ち放つ。が、これが届く前にウラが超絶な反
応で踏み出し、滑るように面を狙った。だが一閃。少年はその反撃を弾いて砕き、ぐいと
手首を捻って右胴へ一打を走らせる。あわや一本、いや遅い。ウラは神速で竹刀を引き戻
して柄で受け止め、ぐいと一歩下がって少年の間合いから逃げた。しかし、少年がぐんと
一歩を踏んでそれを追撃する。
「スマン、前言撤回。あいつヘンだ」
「でしょ!」
 平井と望月を始め、部員一同が困惑を浮かべ始めた。
 数々の強敵を一瞬で葬ってきた彼女が、どうしたことだ。完全に逃げ腰になっている。
引き面も打たずに後退したのがその証拠。どうした。彼女はどうした。
「阿ぁ!」
 刺すような覇気を上げ、少年が豪雨のような乱打を振るう。いつもの彼女ならばその一
発をひらりと交わして試合に終わりをつけているはずだ。しかし、何故だ。彼女は防戦を
手一杯に後退を続けている。主将相手にも、そんな様子は一度たりとも見せたことは無かった。
「どうした榊! 打ち返せ!」
 平井が声をかけるが、ほどなく、ウラの踵が白線を踏んだ。それより一歩後ろは場外。
逃げ場を失うと同時にウラの身体が硬直する。すかさず、少年が気合を爆裂させ、落雷の
如く床を踏み込み、渾身の一発を打ち出した。



「う、そだ……」
 全員。我が目を疑った。虫のように声を絞りだした望月の隣でも、平井が目玉を丸くし
て一点を見つめている。
道場内が静まり返っていた。誰一人身動きをせず、物音を立てず。ただ、外で騒ぐ蝉時
雨だけが、染込むように鳴り続けていた。
「場外! いや、止め!」
 顧問が両手の旗を平行に上げ、血相を変えて叫んだ。
 部員が視線を送るその先で、ウラが、床に尻と両手を突いていた。
 荒く肩で息を弾ませ、面金は少年の足元に向いている。
「……レ?」
 激しい呼吸の合間を縫うように、ウラが面の中でピアノを弾いた。
「アレ?」

 避けたいけれど、避けたくない。
 何かあれば逃げないけれど、何も無ければそれでいい。
 そう思っていたから、彼が自分と試合したいと言った時、別段、拒否もしなければ文句
も言わなかった。
 流れのままに防具を固く結んで、試合場に向かう。先に来ていた彼からは、何か攻撃的
で、荒々しい空気を感じた。
(怒ってるの?)
 そう思うと自分の責任に感じて、チクリと胸が痛んだ。
 先生の号令で礼をして、蹲踞の姿勢に入る。彼が、面金の向こうから自分を睨んでいる
のが分かった。恐ろしい感じがして、少し下に視線を逃がした。
「始め!」
 先生が開始を掛けた。自分も彼も、間合いを計るように離れていく。それと同時に、彼
の気配が少し変わった。先ほどまでの荒々しい怒りではない。強いには変わりないが、ど
こかドゲだけが抜けたような気配。剣士の覇気か、威圧感か、それに似たものではあった。
(とにかく、打ってみよう)
 間合いを計るままジリジリと足をすらしつつ、彼の動きを観察する。構えも足運びも安
定しているが、しかし、未熟に違いなく、彼に踏み込む隙は幾つもあった。それでも気を
抜かずに時を見計らい、その多くの一点から一つを厳選して、刹那、疾風迅雷の如く一歩
を踏み出す。
 その瞬間だった。
 全身を氷の鞭が叩いた。つま先から脳天までくまなく、骨と肉の間を狙ったような激痛。
心臓がきゅうと縮まり、肺が極寒の冷気を吸う。何が起こったのか全く想像付かなかった。
気付いたときには、面を打ち終わっていた。
(何?)
 自分に起きた怪奇にも気付かず、先生が面ありを宣言する。周りも、いつも通りの表情
を見せていた。しかし、自身に残る痛みだけは鮮明で、未だ痛烈な痺れが残っている。自
分だけが、唯一自分の異常に気付いているのだ。そう思った。
 しかし、主将が手を上げた。手を上げて、副審に付くと名乗り出た。必要性を無しと言
う先生の言葉も聞かず、副主将を呼んで紅白旗を取りに行く。周りは皆首をかしげたが、
自分はそれほど驚かなかった。
 何か、普段と違うことが起こっている。
 主将と副主将が試合場に戻ったところで、また先生が号令を掛けた。自分は彼と合わせ
て中央に戻り、竹刀を差し向けて蹲踞に入る。

 嫌な予感がする。早く終わらせてしまおう。訳の分からない恐怖感にも煽られて、次の
一本をイメージしつつ、彼の構えを確認した。
(あっ……)
 それで、初めて気が付いた。
 ――見えない。
 彼の構えも、その剣先も、さらには自分の姿でさえも。世界は、いや試合場の内側は白
の濃霧で覆い尽くされ、何も見えない霧海に呑まれていた。
 厚い雲の掛かった真冬の朝が如く、寒く、乾いた空気。眺める向こうは濃霧で塞がれ、
手を伸ばす先は空虚を掴み、足元は雲海の如く白に染められて、感覚でしか足場をつかめ
ない。ひどく不安だ。
 この世に一人残されたように、白闇の内側は何も見えず、虚しく、嘆かわしく、何も無
かった。
 いや、違う。唯一、見えるものがある。唯一、確かなものがある。城壁より厚い白の濃
霧を切り裂くような、強く、鋭い。眼光だった。正面から自分を刺して来る、彼の猛々し
い眼光。それだけが煌々と輝いて、まるで太陽のように鮮明に存在している。
 その太陽から放たれる光は全て、自分の身体を捕らえていた。いや正確にはその奥、胸
の、心臓の裏側、自分の心とでも言うべき場所に向かって、一直線に。そこに問い掛ける
ような光だった。
(……ダメ)
 隠そうとしたが、両手は竹刀を握り、動かせなかった。
(それを、私に訊かないで)
 問われているものは分かっていた。理由、理想、目的、信念。誰がために、何のために。
問い掛ける少年の眼光は揺らぐことなく、自分の内側へ侵入してくる。得体の知れない焦
りと羞恥心が自身の内側で渦を巻き、足元をさらにふらつかせる。

 眼光の経路の途中。自分と彼との間に、何か白い丘が現れた。彼の眼光のすぐ手前、や
たらと大きく、鋭い。それが竹刀の剣先だと気付いた時、自分から何かが転がって落ちた。
(……い、ヤダ。怖い、怖い!)
 どこからか始めと声がする。はっと我に返ったが闇は晴れず、光の象徴である彼の姿は
未だに鮮明だった。
(イヤだ)
 自分の身体が闇の中を勝手に動き始めるのが分かった。雲海の床をすり足でなぞり、見
えない自分の剣先を彼に差し向ける。感覚だけでもその小ささ、弱々しさが分かった。い
つもは鉄砲に勝るほど頼もしい自分の剣が、今はなんとも情けない。
 やがて彼が動いた。絶大な剣先に雷光を乗せて打ち出し、自分の面を狙ってくる。途端、
機械のように身体が反応し、それよりも早く一歩を踏んで、彼の面に剣先を振り下ろした。
しかし、その一打は銃弾を当てられたように弾かれる。何に弾かれた? 無論、彼の刃だ
と考える内、右胴に寒気が走った。その刃が返ってそこを狙っている。また考えるより早
く、手元が勝手に動いてその一打を弾いた。
(逃げなきゃ)
 次の瞬間、己の意思で後退した。純白で埋められた頭に、ただそれだけが浮かんだのだ。
 しかし、彼は追ってくる。
 後ろへ後ろへと逃げる自分を追い詰めるように、一打、二打、三打、必殺の一撃を打ち
込んでくる。それらは完全自動の身体が全てはじき返すが、足は常に後ろの床を踏んで、
自ら逃げ場を削り続けていた。

(来ないで、打たないで)
 その願いも虚しく、左の踵がそれまでとは違う感触を踏んだ。白線。試合場の、霧の世
界の端。それより先は黒い壁に阻まれて、後退することが出来なかった。
(やめ……)
 ギラリと雷光がした。彼の眼光が一層に強まり、剣先がこれまで以上に恐ろしく、強烈
な殺気を放つ。
 ――一撃がくる。
 自分を殺す一撃が、自分を壊す一撃が来る。そう悟った。打たれてはならない。打たれ
た時に何かが終わる。逃げろ、回避するのだ。乱気流のように信号を飛ばす脳内とは反面、
身体は木偶人形のように固まって動かなかった。
 目前にドンと落雷が降る。その轟音にのせて、剣先が向かって来た。避けられない。そ
う頭が判断した瞬間、全身が勝手に禁忌を破り、後退した。しかし、黒壁の向こう、白線
の外は奈落。下がった一歩は床を踏むことも無く空回り、重心を見失った肉体は宙に背中
を預ける。つかまる物が何も無い。彼の一撃をはるか上空に見送りつつ、自分の身体は奈
落へ倒れた。

 尻餅を打ちつけた時、声が出なかった。それが、声が出ないほど息が荒れているからだ
と気付くのに、少々時間が掛かった。
「……レ、アレ?」
 腰周りの痛みが治まりだした頃、ようやく、息継ぎの合間に機械的な発音が出来た。ど
こか下手糞なピアノに似ている。こんな奇天烈な自分の声は始めて聞いた。
 呼吸が整い始めるにつれて、視界もはっきりして来た。まず見えているのは、床を踏み
しめている少年の素足が二本。そこからゆっくり上に顔を上げると、紺色の袴に、練習用
の垂れと胴。それから胴着の胸元まで見えたが、それ以上、上を見る勇気が無かった。
 その代わりに周りの様子を伺ってみる。紅白旗を平行に揚げて脂汗を滲ませている先生
と、神妙な顔つきをしている副審の二人が見えた。どうやら、自分が転倒した事で、『止め』
を掛けられたようだ。彼の向こうに見える部員の列もまた、みんな目を丸くして驚いている。
「大丈夫ですか?」
 空の上から彼の声が降りてきた。見れば、面金の前に右の小手が下りてきて、自分の起
き上がるのを支えようとしてくれている。どうしよう。その手を取るべきかどうか迷った
が、十分に間を置いて考えたあげく、何か分からない強いものが、取っては行けないと判
断させた。「大丈夫」と断ってからぐいと両腕に力を入れて、自力で立ち上がる。不思議と
どこも痛くなかった。
「大丈夫なのか? 榊」

 横転した我が子を見るような顔で先生が駆け寄ってくる。これにも「大丈夫です」とオ
ウムのように返した。
「体調が悪いなら、もう止めておくか? 練習で故障したら元も子もないぞ」
 先生が、不意に思わぬ道を自分に見せる。その一本道の前に立った途端、すうと力が抜
けていくのが分かった。なんと楽で、安全で、心地よい道なのだろうか。今の自分にとっ
て、この上ない魅力を持つ道だった。その道を歩みたいと、そう急かす気持ちが滞りなく
湧いて来た。
 しかし、不思議とその道を取る選択肢は無かった。
 ――まだ、早い。まだ、選ぶには早すぎる。もう少し。
 静かに気を落ち着かせ、息を吸い込み、はっきりと答える。
「大丈夫です。続けられます」
「し、しかし……」
「お願いします」
 言い放ってしまうと、先生は怪訝そうな顔を浮かべつつも配置に戻ってくれた。不安そ
うに事を見守っていた主将と副主将も同じく動き出す。しかし部員の列は、動かぬまま緊
張を続けてこちらを観察し続けていた。
(何故逃げなかったの?)
 それが自分でも不思議だった。こんな舞台、あの道を辿って、さっさと降りてしまえば
いいのに。別段、最後まで続けなければならない理由はない。様子がおかしいと判断され
たのだから、降りていいはずだった。
 まだ、自分の中にプライドが残っているのか、それとも。面の中で小さく自嘲の笑みを
浮かべ、胸中で爆笑する。その笑いは胸に熱を生み出し、火球を作った。火球の炎は染み
渡るように腕へ、脚へと広がっていく。それが肉から肉、間接から間接を侵食し、ついに
は指先まで行き渡って、全身が内側からの熱に包まれる。そしてその熱をなびかせるよう
に、試合場を振り返った。

 ――霧が晴れている。
 あれほど厚かった白の濃霧が、嘘のように消え去っていた。見えるのは4人。そこから
無装備の3人がすぐさま消えて、一人が残る。何時の間にか、彼は試合場の中央に戻って
自分を待ってくれていた。
 見える。彼の姿がくっきりと。今や彼は太陽でも恐怖でもなく、ただの少年、一人の試
合相手に違いなかった。それに加えて自分の姿もまた同じく、見える。先ほどまで霧闇に
迷い、逃げ惑っていた弱者ではく、ただの少女、一人の選手なのだと確信が持てた。
 ――大丈夫。今度は、向き合える。胸を張れ。
 頭の中でそう唱えて、試合場の中へ一歩踏み出す。意外と軽い一歩だった。二歩目も同
じく軽く、跳ねるように彼の前へ舞い戻り、竹刀を抜いて差し向ける。
 さっきまでと同じ眼光が、こちらを強く見ていた。大丈夫。もう一度口の中で唱える。
 そうだ。何故この眼光が恐ろしかったのか、何故問い掛けに答えたくなかったのか、分
かった。自分が怠惰していたからだ。真剣に試合に臨む事を、真剣に相手の相手となるこ
とを。怠惰して醜く錆付いた自分の心を、彼に見られるのが、知られるのが恐ろしかった
のだ。
 ――だが今は、今度は。
 悪いことをした。彼はこんなにも真剣に挑んできてくれたのに、自分は後ろめたさで逃
げてしまった。
 早く終われと思ってしまった。流れ作業のように竹刀を振ってしまった。それは、誠実
と義を重んずる彼にとって最大の侮辱だったろうに。
 謝りたい。でもどうやって。どんなに言葉を羅列させても、それには足りないだろうと
思う。じゃあ出来ないのか。自分は、彼に何も償えないのか。もう二度と。
 ――大丈夫。
 竹刀をぎゅうと硬く握り、言い聞かせる。そう、大丈夫だ。自分はそれが出来る最高の
方法を知っている。そしてそれは今出来る。今しか出来ない。ならば、今、全力でそれを
しよう。
 ムンと暑い道場の空気を大きく吸って、また吐き出す。そして頭の中から雑念を飛ばし、
両の瞳で彼を突き刺し、闘志を足に大地を踏みしめ、己の剣先で、彼を捉える。
 ――だけど今は、今度はむき出そう。真剣に、全力で。
 ――私の、錆付いた答えだけれど。

 顧問の始めと同時、二つの爆風が道場を揺らした。
 爆風は衝突してはね返り、壁を叩いてまたはね返る。縦横無尽に暴れ周り、他の雑音を
全て喰らった。その情景を例えるとすれば、蜂。一億の蜂。飛び交う一億の蜂の羽音と殺
気だった。
「……何?」
 対峙する二人の喝破に身震いしつつ、望月が小さくこぼした。
「ウラちゃんどうしたのさ」
「さぁ?」
 その間を空けた隣で平井がこの上なく嬉しそうに、少年の笑みを浮かべ言う。
「でもすんげぇ面白れぇ」
 瞬間、嵐を裂く迅雷の一打。怪鳥の如く奇声を上げながらウラがユージの面を狙う。し
かし、これをユージが頭をずらして擦れ擦れに交わし、一打に肩を叩かせるとすかさず引
き胴に竹刀を返した。が、ウラも一歩退いて間合いから離れ無効打。かと思うと間髪を入
れずまた跳ね返って面を狙う。させずとユージも大きく踏み込み、ウラの竹刀に自分の竹
刀を絡ませた。
「ヂ!」
 互い、至近距離で眼光を衝突させる。どちらも雌雄を付けがたい、修羅の眼光だった。
その密着したままギリギリと腕で押し合い、ある一点、弾けるように離れる。同時、二本
の竹刀が音速に飛び交い爆竹の山を破裂させた。
「入った!」
「いや浅い!」
 主将が旗を揚げるが、顧問と副主将がそれを否定した。
 一方、間合いを離した両者だったが、一時もその場に留まるつもりは無いらしく、すぐ
さまに飛び返って火花を散らした。
 一瞬先に踏み出したのはユージ。ウラの小手を狙った一打だったが、的はひょいと交わ
して空を切らせる。同時、上に逃げた竹刀がそのまま面打ちの構えに流れ、入れ違う寸前
に落下。ユージの面に痛烈な一撃を叩き込んだ。これは決まりと思われたが、上がった旗
は副主将の一本。主将と顧問は無効打と首を振った。

 そう、思わぬことにユージが兆速な反応で有効打突を避けたのだ。擦れ違うウラの動き
に合わせるように回転し、首を限界まで外側に反らす。命中はしたが致命傷には程遠い打
突だった。
「……カンペキに読んでるな」
 瞬きもせず試合を追う平井が、ニヤつきながら呟いた。
「何が年の差で俺だよ。ったく」
 これまで、榊ウラの一打を先読みすることは、自分はもちろん、主将でさえ危うかった。
その一打の俊敏さはもちろんだが、何よりそれをさせなかったのは、踏み出すその瞬間ま
での静寂と、閃光のような一瞬の覇気である。
 いつ、どこに打ってくるか分からない無心。探る内に気が付けばもう打たれている。榊
ウラの強さとは、言わば闇から狙い一瞬で命を奪う暗殺者の強さだった。
 だが、今、目前で暴れる彼女は違う。全力にして全快。覇気と殺気に溢れ、真夏の蝉よ
りさらにやかましく気合を叫ぶ。これまでの静かに相対して言わば猛り。正々堂々たる猛
烈な、侍の戦いだった。
(けど、その代わりに太刀筋が見え見えになった。部長クラスなら、もう抜き技で勝負が
付いてるよな。たぶん)
 まぁ、俺は見るだけで精一杯だが。分析にそう付け加えて、平井はまた笑った。
 濁流の如く荒れると思われた試合の流れが、意外にも安定してきた。上流に居るのは、
ユージ。技数はウラが圧倒的に多いものの、ユージはその全てを先読みして見事に防ぎ、
逆に点々と返す一打一打、また巧みな足捌きでウラの体勢を崩して、追い詰め始めている。
その証拠に、先ほどまで一進一退を繰り返していたウラの足が、いつの間にかゆるりと後
退に偏りつつあった。
 まさか、このまま打たれるのか。今や攻防は完全に逆転し、ウラは試合場の端へ追い詰
められて行く。これで場外を喰らえば、打たれずともそれで一本。誰もが己の目を疑いつ
つも、その奇想天外たる展開を思い浮かべた。

 だが、榊ウラがこのまま黙っている訳が無い。幾人がそう思った通り、彼女は動いた。
 ユージの猛打に追い詰められる中、あと一歩で試合場の端というところで、自らその一
歩を退き白線を踏んだのだ。あわてて竹刀を戻し、追撃とユージが追い討ちをかける。が、
ウラがそれを遠くに弾き飛ばし、その勢いのまま逆胴を打ち放った。
「決まった!」
 望月が思わず叫ぶが、しかし、これも無効打と三者が首を振る。打突が明らかに浅かっ
たのだ。
「あぁもう! 普通の胴だったら一本だったのに!」
「馬鹿、それだったらまず入ってねぇよ」
 悔しがる望月に平井が言葉を挟む。
「あの局面からあの逆胴だから、なんとかギリギリ叩けたんだ。まぁ……」
 言いながら、平井は計時係の顔色を伺った。彼は試合の行方をチラチラと伺いながらも、
手に持った時計から注意を逸らさず、また反対の手はいつでも鳴らせるように、笛を準備
し始めている。
「もう長くねぇな。そろそろ疲れが足に来る頃だ」
 平井の分析は的を付いていた。
 ウラの逆胴から位置関係が逆転し、仕切り直した途端の一打目、明らかに両者の動きが
重い。先に打ち込んだウラの小手。それを交わすユージの腕。追撃の面、それを受ける刃。
守る、追うと間合いを計る足運びの音も、段々と不規則になってきた。外から見ているだ
けでも、二人の荒い息遣いが耳に聞こえてくるようだ。
 真夏の暑さの中、さらに重い防具を付けてあれだけ激しい打撃戦を繰り広げれば、体力
が奪われるのは必然だろう。加えて、それ以上に削られるのは集中力だ。
 何かの拍子か、先にそれを途切れさせた方が、確実に打たれる。
「阿ぁ!」
 ユージが声を荒げて突進した。疲労困憊のウラの面を目掛けて一打。しかし、遅い。頭
をどかしてウラが肩を叩かせる。同時、ウラが引き胴に手首を返すが、またユージが飛び
出して鍔迫り合いに持ち込んだ。ガタリと鈍い音のした後、互に組合う。しかし、すぐさ
ま相手の重心を外してウラが離れ、間合いを計った。

 両者、満身創痍の面持ちを浮かべつつも殺気は鋭く、今だ、隙あらば速攻と目を光らせ
ていた。
 道場内を飛び交う殺気蜂も衰えを知らず、祭りや祭りと数を増やして羽音を散らしている。
 そう、蜂が増える。
 肌をぴりぴりと刺されるような感覚。いやどうした。榊ウラも中田ユージも喉を枯らし、
喝破を上げるにも子犬に似てきたと言うのに。どうしてこの感覚は衰えるどころか、増し
て来ている。増すだけではない。統一し始めている。ある一点を中心にぐるぐると回りだ
し、速度を増して、集まり始めている。どこに。蜂は今や竜巻となり、全てを喰い付くさ
んと唸りを上げている。勢いも鋭さも実物に見紛うほど強まり、頬が裂けんと感じたその
時、その数億の蜂が竜巻を作ったその中心で、ウラが動いた。

 どくりと、ユージの心臓が音を立てた。
 ウラが両腕を振り上げる。
 草木のようにそっと佇み、
 闘志の根を大地に深く、
 威風堂々胸をはり、
 すらりと背中を真っ直ぐに、
 得物を頭上に高く構え、
 その刀身に蜂軍を寄せ、
 両の瞳は雌鷹を宿す。
 その瞳に逃避はあらず、
 その瞳に迷いはあらず、
 あるのは只、強き戦意と厚き自信。
 勝利との誓約と、敗北との決別。

 そして両刃の覚悟と決意を持って、之を『上段』と成す。

 彼女が見せたそれ言い表すには、言葉が少し見当たらない。
 綺麗だけでは物足りず。
 強いと言うには物騒すぎる。
 もっと静かで、でも激しくて。
 ただ、言えるとすれば、美人だった。
 頭の隅に残るあの人に似た、ただ一人の美人。
「……椿、さん?」
 面金の中で、ユージが小さく呟く。

「馬鹿! 受けろ!」
 平井の大声も虚しく、雑音は轟く爆裂に飲み込まれた。大気を伝い衝撃が駆け抜け、大
地が怯えて震え上がる。
 全員、思わず、一瞬目を閉じた。自分の脳天に激痛が落ちたようだが、それは錯覚。振
動が止んだ所でおそるおそると目を開けてみる。火山の噴火か、大地震かとも思ったが、
どちらも違った。
 試合場には二人の剣士。中段で呆然と立ちすくむユージと、彼の背中側で一打の残心を
辿るウラ。その姿は美しく妖精を思わせ、彼女の身体に纏う風の尾が、虚空になびく黒髪
が、そしてこの上ない爽やかな笑顔が、幻のように見えた気がした。
「めっ、面あり!」
 顧問が高々と白旗を挙げた。副審の二人も文句なしと承認する。
 一時、静寂が流れた。
 あれほど激しかった蜂軍も消え、暴風も消え、蝉時雨も背景に溶け込んで聞こえない。
 オーケストラが終わったような、虚しさと清々しさの混じった心地よい静寂。
 程なくして、小さなカスタネットが鳴った。幾人が音源の望月に目を落とす。彼女は何
の言葉もなく、ただ目を丸くして試合場を見つめ、無心にぱちぱちと拍手を鳴らしている。
それにつられて、他の部員達も手を叩き出した。
最初は戸惑いながらの演奏だったが、やがて次第に大きくなって、重なり合い、道場に
割れんばかりの雨を降らせる。試合場の顧問が深々と頷き、副主将までもが旗を脇に抱え
て拍手に参加した。主将もまた、たくましい微笑みを見せて、拍手の中棒立ちする二人を
見守っている。今や、部員が一丸となって試合場の二人に賞賛を送っていた。ただ一人、
苦い顔を浮かべた平井を除いて。

「こ、こら、礼がまだだぞ」
 我に帰った顧問が言うと、ウラが気付いたようにビクリと震えて振り返り、副審の二人
も苦笑を浮かべて動き出した。しかし、ユージだけが今だに呆然と突っ立って、動く気配
が全く無い。それに気付いた主将が、擦れ違い際に肩を叩いた。
「どうした? 大丈夫か?」
 途端、グラリとユージの身体が傾いた。そのまま重心を見失い、支えの無い棒のように
無機的に、何も無い宙へ身を預ける。そのまま倒れて床へ衝突と思われた時、主将の手が
俊敏にユージの腰に周って彼の身体を抱かかえた。
「おい! どうした! おい!」
 面越しに耳元で叫ぶが、ユージに反応は無い。主将の身体に圧し掛かるまま、だらりと
腕を垂らし、竹刀もかろうじて小手に引っ掛かっているだけだった。あわてて顧問と副部
長、それにウラもが主将とユージに駆け寄った。
「担架! 一年! 担架持って来い!」
「押忍!」
 部員が全員青ざめ、悲鳴で騒然とする中、即座かつ冷静に動いたのは平井であった。




 彼女の姿は誰かに似ている。それが誰なのかを思い出した。
 自分が剣道を始めた時期が分からない。それの理由も思い出した。
 答えはどちらも同じだった。
 自分の知る内で誰より強く、誰より綺麗で、そして一番に懐かしい人。
 その人に憧れて竹刀を握った。
 その人に憧れて竹刀を振った。
 親友の母。
 初恋の女性。
 最強の剣士。
 そして、始めてこの世から去った自分の知人。
 ――椿さん。
 辛いから忘れていた。その人との思い出。自分が剣道を始めた頃のこと。
 辛いから忘れていた。その人の勇士。絶後現れることの無い華麗な剣術。
 彼女の姿は彼女に似ている。それをようやく思い出した。
 しかし、彼女は彼女じゃない。
 彼女にはもう二度と会えない。
 それにようやく気が付いた。



 目を覚ました途端、ユージの脳天から顎を激痛が貫いた。
 矢、矢だ。これは間違いない矢だ。
 矢に頭を貫かれた。これは、死ぬ。ユージは一刻も早く矢を抜かねばと頭を掻き回した。
しかし、どれだけ手探りしても、濡れた布があっただけで一向に矢が見つからない。何故
だ。苦痛にたまらず頭を抱えて身をよじらせ、鉄板で焼かれるイカの如く踊った。



「だ、大丈夫?」
 ふと、空の上で風鈴が鳴った。その音色でユージは我に帰り、ようやく頭痛が矢傷でな
いことに気付いた。よく考えれば、脳天から矢が貫通していたのでは、痛いどころか即死
である。そうして段々と常識や冷静さを取り戻しつつ、はねた濡れタオルを拾ってゆっく
りと身を起こした。
「いってて……」
 上半身を持ち上げるだけで、頭の中に盛大な鐘音が響く。しかし、反面で意識はハッキ
リと戻ってきて、目の焦点も合ってきた。その両眼で胴衣を着たままの自分の身体と、清
潔そうな白のシーツを確認してから、顔を上げて周囲の様子を伺ってみる。
 まず正面を眺める先にはポスターで埋まる壁がある。その一枚一枚はどれも健康促進を
促す内容で、怪獣じみたキャラクターがコミカルかつ幼稚なデザインだ。その一帯から右
に視線を流すと、本やファイルの詰まった棚や、ごちゃごちゃとビンの並んだ机、身体測
定の道具なども見えた。どうやら保健室で間違いないようだ。何故だか全てが朱み掛かっ
ていると思い、窓の外に目を向けてみると、案の定、その向こうには夕方の世界が広がっ
ていた。
「起きて大丈夫?」
 窓の外に唖然としていると、左手側からまた風鈴が聞こえた。ユージは初めて気付いた
ようにはっとして、そちらに首を曲げてみる。そして、思わず息を呑んだ。
 視線を送った先に、美女の姿があったのだ。
 全身に夕日の色を受け、ほんのりと朱らむその姿は、一時だけ舞い降りた妖精を思わせ
る。こちらを気遣うやさしい瞳はルビーのように輝き、また凛々しく、形の良い鼻先から、
桜色の唇まで、ただひとつを取っても芸術品のようだ。
 その風貌からして少なくとも自分よりは年上、半袖のブラウスにスカートという制服姿
を見ると、高校生には違いないだろう。涼しげに長い黒髪を後ろで一つに結い、少し朱ら
んだ色白のうなじがちらりとのぞいている。
 その美麗さのあまりにユージはしばし頭痛も忘れて見入った。
 その美女が榊ウラその人だと気付くのには、それより少し時間が掛かった。
「大丈夫?」
「い、いえ!」
 その内にまた、風鈴を鳴らしてウラが首をかしげると、少年は羞恥心のあまりに慌てて
視線を下にそらした。と、今度は薄布の下にブラの透けた彼女の胸元が飛び込んできたの
で、急いでまた横にそらす。その反動で再び頭痛の波が襲ってきた。



「ぐっ……たたた」
「う、ウソ、そんなに痛い?」
 少々焦りの交じった声でウラが乗り出し、ユージの頭にそっと手を重ねた。途端に少年
の全感覚器官が停止し、ピタリと石像のように硬直する。
「熱も無いし、コブもあるし大丈夫だとは思うけど……やっぱり病院行く?」
「大丈夫、だと思います」
 硬い笑みを浮かべてユージが断ると、ウラは苦笑を浮かべて身を戻した。頭から離れる
柔らかい感触が名残惜しかったが、口に出せるわけでもなく。ユージは自分で頭を掻いて、
そこに残る色々な感覚を散らした。
「えっと、俺、どうしたんでしたっけ?」
「ええ、えと……」
 ユージが照れ隠し半分に口にすると、ウラはほの赤い頬を一層に紅潮させて下を向き、
さらに手を組んだり離したりと言い辛そうな仕草を始めた。どうしたのかと考える内に、
ユージの脳裏に閃光の如く試合の記憶が戻る。彼女の一撃必殺にねじ伏せられた、その試
合の記憶だった。ついでにその激烈な衝撃と痛みもあらためて蘇り、ユージは思わず片目
を閉じて、頭をさすった。
(そりゃ、女子にしれみれば、気まずいよな。男子を失神させるとか)
「えっと」
「度重なり、本当にごめんなさい」
 彼女の心中を察してユージが口開こうとするが、その前にウラが頭を下げたまま返答した。
「ちょっと、力を入れすぎたみたいで、その……」
「ああ、いえ、気にしないで下さい」
 そのユージの言葉も聞き入れず、ウラは頭を横に振った。
「前に平井にやってから、気をつけるようにしてたんだけど……」
「平井さんに、ですか?」
 再度確認すると、物言わずウラが頭を上げ、赤面のまま瞳を泳がせた。
「不良だったから。中学の時は」
 彼女は恥ずかしげに口にするが、しかし、ユージの脳裏には成敗とねじ伏せられる平井
の姿が鮮明に浮かんで来て仕方なかった。思わず吹き出しそうになったのをすんでの所で
耐える。なるほど、しかし、平井少年もまたよく今日まで更正したものだ。



「でもホントに、ごめんなさい。今日は顔といい頭といい、ポカポカ殴っちゃって……」
「そんな、どっちも不可抗力ですから」
 頭を下げるウラに弁護を図りつつも、ユージは言われて思い出した鼻の怪我を手の甲で
軽く触って見た。そうするとさすがに痛みが走ったが、頭の方ほどではない。
「そうだ。えと、部活はどうなったんですか?」
「あ、ええ。そうね。それなら大丈夫。ひとまず解散になったらしいわ。私は、交代で着
替えに戻った以外こっちに居たから、詳しく知らないんだけど。元々、メニュー自体も終
わっていたしね」
 一度、言葉を区切って眉をひそめ、後悔と反省を合わせたような息を吐いて、ウラは続
けた。
「あなたが失神したので動揺した人もいたみたいだけど、部長と先生がなだめてくれたみ
たい。たぶん大丈夫だろうって」
「なんか、すごい適当ですね」
「前例が頑丈だったせいで……」
「……なるほど」
 一時、時が止まったような沈黙。その後、二人が同時にクスリと吹き出した。
「どうする? もう少し休む?」
「いえ、ちょっと痛みますけど、これくらいは大丈夫です。俺の着替えはありますか? な
んか胴衣が重くて」
 ユージが笑み、汗ばんだ胴衣をつまんで言うと、ウラはそこに持ってきていると言って
彼の足元を指差した。



 彼女の姿は誰かに似ている。それが誰なのかを思い出した。
 自分が剣道を始めた時期が分からない。それの理由も思い出した。
 答えはどちらも同じだった。
 自分の知る内で誰より強く、誰より綺麗で、そして一番に懐かしい人。
 その人に憧れて竹刀を握った。
 その人に憧れて竹刀を振った。
 親友の母。
 初恋の女性。
 最強の剣士。
 そして、始めてこの世から去った自分の知人。
 ――椿さん。
 辛いから忘れていた。その人との思い出。自分が剣道を始めた頃のこと。
 辛いから忘れていた。その人の勇士。絶後現れることの無い華麗な剣術。
 彼女の姿は彼女に似ている。それをようやく思い出した。
 しかし、彼女は彼女じゃない。
 彼女にはもう二度と会えない。
 それにようやく気が付いた。



 目を覚ました途端、ユージの脳天から顎を激痛が貫いた。
 矢、矢だ。これは間違いない矢だ。
 矢に頭を貫かれた。これは、死ぬ。ユージは一刻も早く矢を抜かねばと頭を掻き回した。
しかし、どれだけ手探りしても、濡れた布があっただけで一向に矢が見つからない。何故
だ。苦痛にたまらず頭を抱えて身をよじらせ、鉄板で焼かれるイカの如く踊った。



「だ、大丈夫?」
 ふと、空の上で風鈴が鳴った。その音色でユージは我に帰り、ようやく頭痛が矢傷でな
いことに気付いた。よく考えれば、脳天から矢が貫通していたのでは、痛いどころか即死
である。そうして段々と常識や冷静さを取り戻しつつ、はねた濡れタオルを拾ってゆっく
りと身を起こした。
「いってて……」
 上半身を持ち上げるだけで、頭の中に盛大な鐘音が響く。しかし、反面で意識はハッキ
リと戻ってきて、目の焦点も合ってきた。その両眼で胴衣を着たままの自分の身体と、清
潔そうな白のシーツを確認してから、顔を上げて周囲の様子を伺ってみる。
 まず正面を眺める先にはポスターで埋まる壁がある。その一枚一枚はどれも健康促進を
促す内容で、怪獣じみたキャラクターがコミカルかつ幼稚なデザインだ。その一帯から右
に視線を流すと、本やファイルの詰まった棚や、ごちゃごちゃとビンの並んだ机、身体測
定の道具なども見えた。どうやら保健室で間違いないようだ。何故だか全てが朱み掛かっ
ていると思い、窓の外に目を向けてみると、案の定、その向こうには夕方の世界が広がっ
ていた。
「起きて大丈夫?」
 窓の外に唖然としていると、左手側からまた風鈴が聞こえた。ユージは初めて気付いた
ようにはっとして、そちらに首を曲げてみる。そして、思わず息を呑んだ。
 視線を送った先に、美女の姿があったのだ。
 全身に夕日の色を受け、ほんのりと朱らむその姿は、一時だけ舞い降りた妖精を思わせ
る。こちらを気遣うやさしい瞳はルビーのように輝き、また凛々しく、形の良い鼻先から、
桜色の唇まで、ただひとつを取っても芸術品のようだ。
 その風貌からして少なくとも自分よりは年上、半袖のブラウスにスカートという制服姿
を見ると、高校生には違いないだろう。涼しげに長い黒髪を後ろで一つに結い、少し朱ら
んだ色白のうなじがちらりとのぞいている。
 その美麗さのあまりにユージはしばし頭痛も忘れて見入った。
 その美女が榊ウラその人だと気付くのには、それより少し時間が掛かった。
「大丈夫?」
「い、いえ!」
 その内にまた、風鈴を鳴らしてウラが首をかしげると、少年は羞恥心のあまりに慌てて
視線を下にそらした。と、今度は薄布の下にブラの透けた彼女の胸元が飛び込んできたの
で、急いでまた横にそらす。その反動で再び頭痛の波が襲ってきた。



「ぐっ……たたた」
「う、ウソ、そんなに痛い?」
 少々焦りの交じった声でウラが乗り出し、ユージの頭にそっと手を重ねた。途端に少年
の全感覚器官が停止し、ピタリと石像のように硬直する。
「熱も無いし、コブもあるし大丈夫だとは思うけど……やっぱり病院行く?」
「大丈夫、だと思います」
 硬い笑みを浮かべてユージが断ると、ウラは苦笑を浮かべて身を戻した。頭から離れる
柔らかい感触が名残惜しかったが、口に出せるわけでもなく。ユージは自分で頭を掻いて、
そこに残る色々な感覚を散らした。
「えっと、俺、どうしたんでしたっけ?」
「ええ、えと……」
 ユージが照れ隠し半分に口にすると、ウラはほの赤い頬を一層に紅潮させて下を向き、
さらに手を組んだり離したりと言い辛そうな仕草を始めた。どうしたのかと考える内に、
ユージの脳裏に閃光の如く試合の記憶が戻る。彼女の一撃必殺にねじ伏せられた、その試
合の記憶だった。ついでにその激烈な衝撃と痛みもあらためて蘇り、ユージは思わず片目
を閉じて、頭をさすった。
(そりゃ、女子にしれみれば、気まずいよな。男子を失神させるとか)
「えっと」
「度重なり、本当にごめんなさい」
 彼女の心中を察してユージが口開こうとするが、その前にウラが頭を下げたまま返答した。
「ちょっと、力を入れすぎたみたいで、その……」
「ああ、いえ、気にしないで下さい」
 そのユージの言葉も聞き入れず、ウラは頭を横に振った。
「前に平井にやってから、気をつけるようにしてたんだけど……」
「平井さんに、ですか?」
 再度確認すると、物言わずウラが頭を上げ、赤面のまま瞳を泳がせた。
「不良だったから。中学の時は」
 彼女は恥ずかしげに口にするが、しかし、ユージの脳裏には成敗とねじ伏せられる平井
の姿が鮮明に浮かんで来て仕方なかった。思わず吹き出しそうになったのをすんでの所で
耐える。なるほど、しかし、平井少年もまたよく今日まで更正したものだ。



「でもホントに、ごめんなさい。今日は顔といい頭といい、ポカポカ殴っちゃって……」
「そんな、どっちも不可抗力ですから」
 頭を下げるウラに弁護を図りつつも、ユージは言われて思い出した鼻の怪我を手の甲で
軽く触って見た。そうするとさすがに痛みが走ったが、頭の方ほどではない。
「そうだ。えと、部活はどうなったんですか?」
「あ、ええ。そうね。それなら大丈夫。ひとまず解散になったらしいわ。私は、交代で着
替えに戻った以外こっちに居たから、詳しく知らないんだけど。元々、メニュー自体も終
わっていたしね」
 一度、言葉を区切って眉をひそめ、後悔と反省を合わせたような息を吐いて、ウラは続
けた。
「あなたが失神したので動揺した人もいたみたいだけど、部長と先生がなだめてくれたみ
たい。たぶん大丈夫だろうって」
「なんか、すごい適当ですね」
「前例が頑丈だったせいで……」
「……なるほど」
 一時、時が止まったような沈黙。その後、二人が同時にクスリと吹き出した。
「どうする? もう少し休む?」
「いえ、ちょっと痛みますけど、これくらいは大丈夫です。俺の着替えはありますか? な
んか胴衣が重くて」
 ユージが笑み、汗ばんだ胴衣をつまんで言うと、ウラはそこに持ってきていると言って
彼の足元を指差した。



 ベッドカーテンをウラに閉め切ってもらうと、ユージの視界は箱の中のように遮断され
た。周囲は全て朱色の壁。純白のカーテンに映えた夕日の色がやわらかく、とても優しか
った。
「さて……」
 外界から隔離されたその中で一息を付き、ユージはそろりとベッドから足を下ろした。
その動き一つにも、傷みと歪みが一度に襲って来る。体重の負担具合はともかく、頭の位
置を動かすことが響くようだ。しかし、この程度、かつて正義マンゴッコの巻き添えを食
らった時に比べれば微々たる軽症。それにその痛みも、徐々にだが薄らいで来ている。
 などと、自分で自分に言い聞かせつつ、ユージは立ち上がって袴の紐に手を掛けた。
『そう言えば、帰りの時間は大丈夫なの?』
 不意に、カーテンの向こうからウラが声をかけてきた。気恥ずかしい感じはしたが、ユ
ージは脱衣の手を休めず返答する。
「はい、大丈夫です。元々、夜の便で帰るつもりでしたし」
『飛行機? その状態で乗って平気?』
「平気ですよ。そんなに気にしないで下さい」
 袴と胴衣を脱ぐと、裏地はどちらもべっとりと汗で濡れて、変色していた。さすがに重
かった訳だ。ユージはその二着をベッドの上において、パンツ一丁で隣のリュックから私
服を取り出した。
「剣道やってれば、たんこぶぐらい日常茶飯事ですし、それに元々、試合中にぼうっとし
て打たれたのは俺ですから」
 ユージがズボンを履きながら淡々と言う内、ふと、カーテンの向こうでウラが黙り込ん
だ。どうしたかとユージは小首を傾げる。
「榊さん?」
『……私に打たれたと言うより、あなたが、ワザと打たれなかった?』
 返ってきたウラの声に、一時、ユージは着替える手を止めた。
『あなたなら、普通に受けられたと思うんだけど……』
「そう、ですか?」
『そうじゃない?』
 持ち上げたTシャツを持ったまま、上半身も裸のままで、ユージは髪をかき上げ、うん
と眉をひそめた。
 何故、自分は痛恨の一撃にまるで反応せず、のうのうと受け入れたのか。その理由は記
憶と共に既に頭に戻っていて、今のユージにとっては明白だった。



 ――誤魔化すか、素直に言うか。
 頭の中に二択を並べ、その間を行ったり来たりとしてみるが、ある時息をついて口の滑
るままにと決意し、ユージは無心で返答した。
「見とれてたんです」
『え?』
 カーテンの向こうでウラが短く声をあげ、驚きを見せたのが分かった。また自分の顔が
この上なく赤面していくことにも気付く。口の滑りめ、後者を取ったようだ。観念したよ
うに息をつき、ユージはあらためてシャツに袖を通しながら続けた。
「榊さんが、あんまりに綺麗だったから、見とれてました。見事な上段でした。ホントに、
綺麗な姿勢で、隙が無くて。それに、知り合いにもの凄く似てたんです。それで、二重に
驚いちゃって、気付いたら、打たれてました」
 シャツのしわを整え、静かに一笑を入れ、赤面を落ち着かせてユージは一息をついたが、
壁の向こうのウラが黙り込み反応が無い。また名前を読んで声を掛けてみるが、それもま
た一方通行。どうしたかとカーテンを開けようとすると、向こう側からウラの手が伸びて
きて、むんずとそれを押さえられた。
「ど、どうしたんですか?」
『……何? 口説かれてるの? 私?』
「え? いやそんなつもりじゃ……」
『……バカ』
 ウラは堅くカーテンを握っていたが、しばらくして不意にその手を解き、コツコツと床
を鳴らして離れて行った。その後で、カタリと椅子に腰掛ける音がする。ユージがカーテ
ンを開けて様子を覗うと、彼女はこちらに背を向けて、何か思いつめたように机に突っ伏
していた。
「あの、ごめんなさい?」
「……いい、なんでもない」
 言うとウラは寝起きのように頭を上げ、深くため息をついた。
「ちょっと、びっくりしただけだから」
「……どうも」



 また一時、沈黙が流れる。
 蝉はこの時間になってもまだうるさく、どこで騒いでいるのか、その声だけが部屋に流
れ込んでは静寂に溶けて行った。ウラは今だ背中を曲げて頭を抱えている。何か分からな
いが、酷く動揺させたようだ。
 状況に首を傾げつつも、ユージは取り敢えず着替えの続きと反転し、リュックに手を伸
ばして靴下を取り出した。と、そう言えば靴はどこへやったと思い出し、何気なく目を落
としたベッドの下にすぐその姿を見つけた。おそらくはウラが持ってきてくれたのだろう。
「……その、知り合いの人は、剣道してる人なの?」
 沈黙に耐え切れなかったのか、ユージがベッドに腰掛けたところで、おもむろにウラが
切り出した。椅子を半回転させて久しぶりに見せた彼女の顔は、心なしか赤面しているよ
うにも見える。しかしそれも夕日の効果かと思い込んで、ユージは気に留めず返答した。
「はい、そりゃもう。俺の知る限りでは、一番強かった人です」
「へぇ、そうなんだ。年は近いの?」
「いえ、大人の人ですよ。確か二代後半の……」
「……ちょっと?」
 虚空を見上げかけたユージは、声色を変えたウラに視線を戻した。見れば、彼女は腕を
組んでむうと眉をひそめ、こちらに怪訝そうな視線を送ってきている。
「どういう意味かしら?」
「え? 何がですか?」
 ユージは疑問符を浮かべて首をかしげた。少々間の抜けたその顔に肩を落とし、ウラが
また空気を抜くように言う。
「あなた、もうちょっと発言に気をつけた方がいいわよ。色々と」
「……はぁ」
 曖昧に返事を返したものの、言葉の意味が飲み込めない。ユージは仕方なく忘れること
にして、靴下の踵の位置を整えた。
「でも、『強かった』ってことは、その人もう剣道してないのね」
 また、ぽそりとウラが呟いた。
「いえ、まぁ……」
 ユージが言葉を詰め、下を向いたまま返事を渋った。しばし間を置き、ぐるりと思考を
一周させる。答えるべき言葉に迷ったのだ。
 彼女は、川添椿は、言うなれば確かにもう剣道をしていない。ならばそう答えるべきな
のだろうか。



 なんとも言えない状況だったが、しかしユージはここで微笑んだ。
 不意に、脳裏を過ぎったのだ。飽き足らずに向こうでも竹刀を振るい、笑顔を振りまい
て一層に活躍する、元気でたくましい彼女の姿が。
 クッと、吹き出しそうになった息を飲み込む。
「……そうですね。事情で出来なくなってしまいましたけど、でもそれが無ければ、一生
続けていたと思います。あの人なら」
 それから再び頭を持ち上げ、ユージはウラに微笑を見せた。言葉を聞くと、ウラは含み
のある笑みを浮かべて「そうなんだ」と呟く。それから背もたれに体重を掛けて、窓の外
へ視線を投げた。
「やっぱり、ずっと剣道を続けるなんて、難しいのね」
 ぽつりとウラが小さくこぼす。ユージの耳に届くかどうかあやしい、それほど僅かな声
音だった。
 しばし、また無音が流れる。
「えと、榊さん」
 そしてしばらく続いた静寂に、ユージの声が一輪咲いた。
「榊さんは、剣道、やめるんですか?」



 ガタリと雑音がした。
「え?」
 雑音を立てたのはウラだった。外へ向けていた視線をパチクリとユージの顔へ向け、寝
水を打たれたような顔を浮かべる。
「え~っと」
 拳を右頬に当て、窓とは反対側の壁へ視線を泳がせ、閉口する。と、また跳ね返るよう
にしかめっ面を浮かべてユージを睨んだ。
「あなた、本当に言葉に気を使わないわね。まさか、本当に訊いて来るとは思って無かっ
たわ」
「それっぽいコト言うからですよ」
 鋭い視線をものともせず、若干の笑いを含んでユージが言う。ウラはふくれて言葉を返
した。
「言ってないわよ」
「そう聞こえました」
「独り言のつもりだったのっ」
「そうは聞こえませんでした」
「……意地悪ね」
「ずっと気になってましたから」
 ユージはベッドに座ったまま腰を捻り、隣の胴衣と袴を慣れた手つきで畳み出した。
「榊さん、試合中、ずっと楽しそうじゃなかったから。ひょっとしたら、そうなのかなって」
「……やっぱり、そんな風に見られてたのね」
「違いました?」
「ううん、適当にやってたのは正解。鋭い観察力ね」
「部外者だから、分かりやすい事もありますよ」
「そうなのかな」
 ウラが両手を挙げ、うんと背中を伸ばして、崩れるように脱力した。それから、静かに
沈むように色を暗ませ、椅子の上で両脚を抱える。その膝頭の谷に唇を埋めて、声をぼか
す様にして言った。
「聞かせていいのかな。部外者のあなたに」
「だからこそ、聞けることもありますよ」
 胴衣と袴を几帳面に畳んで重ねると、ユージは半身でウラを向いて、道を尋ねるように、
改めて口にした。
「剣道、やめるんですか?」
 ウラが前髪で顔を隠す。すぐには答えなかった。また沈黙が流れる。もはや雑音は平常
に溶け込み、完全な背景と化していた。背景の上にあるのは無音。白紙のページをめくる
様な、ただただ虚しい静寂だった。ユージは物言わず、身動きをとらず、静かにウラの返
答を待った。しかし彼女は膝を抱えたまま、動く気配は無い。また一枚、白紙のページが
めくれる。



 まだしばらく続きそうかと、ユージがそう思った時、ウラの鈴が音を立てた。
「うん、近いうちに、やめるかも」
 前髪の裏から聞えるそれは、これまでと変わりない、清流のような音色だった。
「本当は、今日やめようと思ってた。うんと早めに行って、竹刀と防具を部室に置いて、
鍵を返して、みんなが来る前に帰るつもりだった」
 ウラが顔を上げた。乱れた前髪がまつげに掛かり、表情が一段と大人びて、妖艶さを思
わせた。しかし反面、その奥の瞳はとても幼く、純潔で、異様なほどに、少女的だった。
「でも、素振りしてたあなたを見て、もうちょっとだけ、やってみようと思った。ホント
に、あなたが楽しそうだったから、あんまり、真っ直ぐだったから。あんな必死で試合し
たのも、久しぶりだった」
 ウラがさらに強く脚を引き寄せ、頭を横にして、膝頭に頬を乗せた。黒髪が滝の如く床
へ向かい、白珠のような首元が裸になる。視線は虚空を見ているようだった。
「でも多分、もうちょっとしたら、やっぱり気も変わると思う」
 クスリと、野花が揺れるような小さな一笑。
「最後にいい試合が出来ました。なんて言ったら、怒るかな?」
 ウラが頬を上げ、膝の谷間に顎を乗せて、少女の瞳をユージに向けた。自然にウラの視
線が、ウラの様子を見守っていたユージの眼差しと合わさる。
 ユージはほころぶように、ニコリと微笑んだ。
「いいえ」
「怒らないの?」
「う~ん、まぁ残念ではありますけど、むしろ光栄な気持ちの方が大きいです」
「てっきり、『やめちゃだめだ』とか言われるんだと思ってた」
「ハハハ、俺、そんな熱血イメージですか?」
「手ぶらで思いっきり素振りしてた所でもう」
「自分ではそんなつもりは無いんですが、そう見えるんでしょうか」
 ユージは不意にベッドから立ち上がり、前に両手を伸ばして、竹刀を握るように腋を締
めた。そして一度、ゆっくりと素振りの真似をして、クっと笑った。
「……でもそうですか。ありがとうございます。聞けてすっきりしました」
「理由とかは、言わなくてもいいの?」
「ええ、結構です。竹刀を握る理由なんて、人それぞれですから」
 もう一度、むんと両腕で同じ軌跡をなぞり、ユージは続ける。
「竹刀を置く理由だって、同じことだと思っています。いくら言葉で聞いても、きっと俺
には分かりません。榊さんの理由は。残念ですけど。ただ、これから榊さんがどうするつ
もりなのか、榊さんの言葉で聞いておきたかっただけです」
「そっか」



 気が解けたように、ウラは抱えていた足を床に戻した。それからふうと背もたれに体重
を掛けて、クスクスと肩を揺らす。
「でもまさか、始めて打ち明けるのが、今日会ったばかりの人だなんて思ってなかった。
それも年下だし」
「そりゃま、そうでしょうね。ごめんなさい。無理に言わせちゃって」
「ううん、聞かれなかったら、多分、私の方から無理に言ってたと思う。あなたを介抱し
ながら、まさか聞いてもらおうかな、なんて考えてたし。むしろ、あなたから聞いてくれ
て良かった」
 一度言葉を区切って、また、ウラがクスリと笑った。
「ホントに。お互い、ヘンな一日だったわね。ごめんね、最後にこんな話しちゃって。あ
なたにしてみれば、私、さぞかし情けない人なんでしょうね」
「いえ、そんなことありませんよ」
 ユージは緊張を解いたウラの顔を真っ直ぐ見つめ、真顔で言う。
「ウラさんは、美人ですよ。迷って迷って、悩んで悩んで、それでも真っ直ぐに立って、
自分の意思で一歩を踏み出そうとしている。誰の力にも頼らずに。竹刀を交えたので俺に
は分かります。ウラさんはとても強くて、純粋で、綺麗な人です。だから、自信を持って
ください」
 言い切ると、ユージは誇らしげに腕を組んでうんと強くうなづいた。その顔付きはどこ
か大人びて頼もしく、深く根をはった一本杉のように、力強かった。
 その一方で、ウラは赤面してユージから視線を逸らし、野うさぎのようにキョロキョロ
とその居場所を迷わせていた。ユージがそれに気付き、はてなと首を傾げる。その内に、
ウラは魚のようにふいと反転した。
「ウラさん?」
 気付いたユージが呼びかけるが、ウラは背中を向けたまま縮こまるばかりで、振り返る
気配はなかった。その代わりに、背中越しに声だけ返る。
「もうなんて言うか……あなた、本当にバカ?」
 その音色、清流は雨で増水したように、僅かに乱れていた。
「えっ? なんでですか?」
「いいもう」
「どうしたんですか」
 突然、音を立ててウラの背中が立ち上がり、スタスタと保健室の出口へ向かった。慌て
てユージが追いかけたが、また突如にウラがピンと静止し、振り返らずに手の平を見せて
ユージを止めた。
「先生呼んでくるだけだから待ってて。頼んだら空港まで送ってもらえるかも」
「えっ、はぁ。お願いします」



 二者、ピタリと止まったまま一時の間を挟み、またウラがブリキ人形のように歩き出し
た。何か、その間接の動きがだとだとしいなとユージが思ったのもつかの間、彼女の手が
引き戸に触れた瞬間、その背中が猫のようにビクリと跳ね返った。
 壊れた自動式でもあるまいに、ドアが独りでに、それも大した勢いで開いたのだ。その
予期せぬアクシデントに二人は目を丸めて心臓を揺らしたが、しかし冷静になれば何のこ
とはない。向こう側から別な人間がウラより先にドアを開いただけだった。
「おう?」
 平井が間抜け面を浮かべ、眼前のウラを見下ろし開口する。
「どうした榊? そんな顔して」
「別に……」
 ウラが顔を逸らし、平井は怪訝そうに顔をしかめた。


「おおう! ユージ君! 復活したのか!」
「はい、どうも……」
 姿を見つけるなり、満面の笑みを浮かべてウラをすり抜け、平井が小走りでユージに寄
ってくる。
「ご心配をお掛けしまし……はごぉ!」
 迎えたユージの脳天を、飛び込んだ平井が右手の平でバシリと殴った。これには息をひ
そめかけていたユージの頭痛も爆発的にぶり返し、ぐらぐらと世界を揺れる。
「なにちゃっかり着替えてんだコラ。こっちはずっと待ってたんだぞ」
「え? はい?」
 また乱れた視界でユージは平井の足元から胸元までなぞって見る。彼は裸足に胴衣姿の
まま、実に臨戦態勢と言って不備の無い格好で腰に手を当てていた。
「すぐ着替え直せって。大丈夫、一本勝負にするから、なっ?」
「おバカ!」
 幼げな女声と共に平井の頭がごんと傾く。背後から望月の一撃。見事な拳だった。
「怪我人に何してるのもぉ!」
 望月がむんと腕を組んで平井を咎める。こちらはさっぱりと制服に着替え、眼鏡も胴衣
の時のより凛と知的に似合って見えた。買出し帰りなのか、片手にはコンビニ袋を携えて
いる。
「ユージくん大丈夫? ごめんね、こいつは後でお仕置きしとくから。はいコレお見舞い」
「あ、ありがとうございます」
 片手で頭を押さえつつも、ユージは望月に差し出されたコンビニ袋を受け取った。重さ
と透けて見える感じに、飲み物やおにぎりなどを大量に買ってきてくれたようだ。
 その一方、望月に殴られた頭をなでながら、再び平井がしゃしゃり出てくる。



「いやユージ君、無理しなくていいぞ? 榊のアレはそうとうキツいはずだ」
「じゃあなぜ殴った!?」
 再び望月の拳が平井に飛んだが、しかし、今度は平井がひょいとそれを交わし、逆に望
月の首にガチリと腕を回してヘッドロックを決めた。
「ちょっ! やっ! セクハラ! セクハラ!」
「知るか」
 平井は腕の中でもがく望月をケラケラと笑い、ついで彼女の髪を鷲掴みにして無茶苦茶
にかき回した。
「きゃっ! ちょっと! やめろぉぉい!」
 悲鳴を上げつつ、望月がその短い両腕を振り回して暴れる。が、それも体格差で無効化。
小さな頭が雑草の如く跳ね返るまでになったところで、平井はようやく腕を解いて解放し
た。自由の身になった少女はその場にヘタリ込んで髪を押さえ、ゆでダコのように赤面し、
うぅと唸って目に涙を浮かべ、チラリと一人を見上げる。
「ウラちゃぁぁん! 平井がっ! 平井がぁ!」
 望月が子犬のように飛び上がり、ムスとした顔で棒立ちしていたウラに抱きついた。不
意打ちに少々ダメージを受けたようだが、ウラは「はいはい」と苦笑してその頭を撫でる。
「よしっ! てな訳で、行くぞユージ!」
 威勢のよい一声と共に、平井のヘッドロックがユージに襲い掛かった。泣きっ面に槍を
突き刺すようなその仕打ちにユージは呻いたが、しかし、平井は犬でも連れるようにその
まますたすたと足を進めていく。
「ちょ、ちょっと待ってください! 頭が、頭痛が!」
「たんこぶくらい大丈夫だって。俺なんか3発目まで耐えたんだぞ」
「え?」
 ユージは平井の腕の中で頭を回し、ウラの元へ視線を投げた。皿を割った子供のような
渋顔が、その視線から逃げる。



「それに部長らだってまだ残ってくれてるんだ。ちょっとくらい挨拶していけ」
「そ、そうなんですか?」
「え、まだ残ってたの?」
「そだよ~、みんなユージくん待ちだよ?」
 ウラの胸から顔を上げ、望月がユージを振り返って言う。
「なんつったって、このウラちゃんをあそこまでさせたんだからね。そいつと部長を筆頭
にもう、オレもオレもでてんやわんや……」
「そ、そんな……勘弁してくださいよ」
「んま、今日で全部とは言わねぇって。明日も来りゃあいいだろ?」
「宿泊は今日までの予定で……」
「良いって良いって気にスンナ。榊んとこ追い出されたら俺ン家来い。男同士で語り明か
そうぜぇ?」
「そ、そんな訳には……ちょっと、待って下さいって!」
 言う内にもユージの身体はずるずると廊下に引きずり出され、靴も履かないままに持っ
ていかれる。平井の笑い声と共に、少年の哀れな悲鳴だけが反響して虚しくも消えて行った。
「……不憫な子」
「あなたねぇ」
 その後で、頷くようにして少女二名がこぼす。





 蝉時雨の降る晴天の下。水しぶきを上げて少年が顔を上げた。ぱあと豪快に息継ぎをす
すと、犬のように頭を振るい、手洗い場周辺にぬるい雨を降らせる。
「ちゃんとタオルで拭け平井。不衛生だぞ」
「あ、すんません先輩。タオル忘れたんスよ」
 胴衣に雨の被害を受けた主将が呆れ半分に言うと、平井はケヤケラとした顔で髪を掻き
あげ、笑い混じりに返答した。
 と、その後方で小さな影が跳ねる。
「このおバカちんがぁ!」
 突如に割って入る高い女声。同時に平井の顔にバサリとタオルが掛かり、小さな手でグ
イと後方へ引き寄せられた。
「そんな事だと思ったよ! こうか! こうか!」
「痛って! 痛ってぇ! てめ! こら! 引っかくな!」
「昨日のお返しじゃ!」
 引き寄せた平井の頭をタオル越しに望月が引っ掻き回す。しかし、もがき回る男性の力
には及ばず、すぐに振りほどかれて立場を逆転された。昨日と同様、ガチリとヘッドロッ
クを喰らって、首を締め付けられる。
「このヤロ! こうか! こうか!」
「ちょ、ひら、ひらい……息が! マジで息が!」
 微笑ましくじゃれ付く二人を見守りながら、主将はふむと腕を組み顎に指を当てた。
「榊、俺は彼らを何と言って叱ったら良い?」
「知りません」
 おそらくは望月と共に来ていたのだろう。いつの間にやら胴衣姿のウラが主将に並んで、
同じ情景を見守っていた。
「親戚君は無事に帰ったのか?」
「はい、一応、昨日空港でも元気な顔してましたし、大丈夫だと思います」
「そうか。部活でボコボコにしてしまったから心配してたんだが」
「そう、ですね」
 ウラが苦い顔で視線を泳がせた。その心中を察してか、主将がクッと唇の端を歪ませる。
「おう、そうだそれ。榊、お前が手加減しねぇからこんな事にだな!」
「だからいつもまでも引きずんな!」
 一瞬の隙をついて望月が脱出し、パコンと平井に拳を落とす。しかし、それもまた彼の
怒りを増進させただけだった。振り返ったその眼光はまるで猛獣。睨まれた少女がネズミ
のように震え上がった瞬間、そのこめかみを厳つい拳骨がガシリと挟み、幼児に行うそれ
のようにグリグリと力を込めて捻り始める。



「あううう、痛い! ホントに痛い! やめっ! やめっ!」
「知るかこのボケ」
「ウラちゃぁぁん」
「はいはい」
 しかし助けに行くことはせず、ウラはただただその様子を傍観し続けた。苦笑をうかべ
つつ、ぼそりと「ホントに仲いいわね」と一人呟く。
「しかし、彼と試合できなかったのは、俺も残念だな」
 その隣で、主将がまた寂しそうに肩を落とした。結局、怪我もあって彼はあの足で空港
に行ってしまったから、誰とも試合は出来ていない。平井とこの主将を筆頭に、残念がる
部員は多かった。
「もう会うことも無いだろうから、なお悔しい」
 続けて主将が言葉を漏らす。よほどに彼と打ちたかったのだろう。普段から寡黙で誠実
な彼だが、諦め切れないらしい。その、もの惜しそうな表情は、どこか子供じみて可愛げ
があった。
「……またいずれ、会うことになります」
 野花が揺れるようにぽつりと、ウラがまた短くこぼす。主将はうんと頷き、いつもの顔
付きに戻って、納得したように言う。
「それもそうか」
 そしてまた、主将は大人びた足取りで踏み出して、望月イジメを遂行する平井の肩を叩
きに行った。
「平井、やり過ぎだ。もうそのヘンにしておけ」
「いや先輩、こういう生意気なお子様はいっぺん痛い目に遭わせて置いた方が……」
「誰がお子様だぁ!」
 晴天の下。仲の良い二人が騒ぐ。
 それに負けじと蝉の軍隊も騒がしく、日差しの暑さを助長する。
 しかし、さらりと吹く風は極めて涼しく、どこか汗と覇気と、竹刀の香りが混じっていた。
 騒然たる世界の、しかし静かな一角で、ウラが一人に凛と佇み、雫のようにただ一回、
清流のような鈴を鳴らした。
「……私、以外は」
 その小さな小さな呟きは、誰の耳も主張せず、ただ騒々しい雑音に、紛れ込んでは溶け
て消えた。





 それは、一人の女性としての分岐点だったのだろうか。
 それとも、一人の剣道家としての壁だったろうか。
 自分でも言ったように、自分にはそれは分からなかった。
 おそらくは彼女自身も分かっていないだろう。そう言うとおこがましいだろうか。
 彼女の返答は、聞く前から分かっていた。
 ただ、ひょっとしたら規格外の何かが返って来るかも知れない。そんな期待があった。
 もっとも、そんな軽々しい期待は、無残にも外れてしまったが。
 しかし、それでも。
 あの時、ある確信が出来た。
 あの人は少女であり、未完成であり、
 そして絶世の美人であり、根っからの剣道家、それも達人であると。
 そして……。


「へー、そんなことがあったのか」
 ほほうと、コジローが興味深げな顔を浮かべ、続いてウムと顎に指を当てた。
「そいつは絶対に剣道の達人だな。間違いない」
「そうなの? コジロー先生」
「なんでわかるのさ先生」
 キリノとサヤが素振りもそこそこに雑談を続ける。
 どうやら先日。彼女らが揃って出かけた際に、とてつもない剣豪少女に出会ったらしいのだ。
 聞くと、その少女は突然に降りかかった看板、ラーメン、引ったくりなどの災厄を一太
刀に振り払い、ダンの危機を救ったのだという。
 にぎやかな雑談に耳を傾けながら、ユージは一人素振りを続けた。
「ああ、『剣道の達人は剣道の達人と惹かれ合う』ってのをどこかで読んだことがある。き
っとそのコとタマキは巡り合う運命だったんだ」
「へー、そうなんだ」
「すごいねタマちゃん!」
 得意げに語るコジローの言葉を聞くと、二人は揃って竹刀を下ろし、隣に居たタマキの
頭をなでて愛でた。しかし、当の本人はポカンとうつろな表情を浮かべ、難解な講義でも
聞くように、「はぁ」と気のない声を漏らす。
「運命ですか」
 ぼうとしたまま平静を乱さない彼女を良しとせず、暗黙の集合を掛けられたようにわら
わらと、サトリやミヤコとったメンツも彼女に寄った。



「タマちゃんあんまり興味ないの?」
「どうしたんですかタマちゃん! わくわくしないんですか?」
 眼前に詰め寄る友人に、タマキは疑問符を浮かべながらも虚空を見上げ、頬に手を当て
て首をかしげた。
「……別に、かな」
 途端、ギャラリーがハチの巣を突付いたように騒ぎ出す。
「えー! なんでさなんでさ!」
「剣道で戦ってみたいとか思わないのー?」
「スポーツ漫画の基本でしょー!」
 バタバタと大勢が、各々に彼女を揺らす。さすがの事態に困惑の面持ちを浮かべながら
も、しかしはやはり分からないらしい。一端の間を空けた後、タマキは頭を掻くようにし
て、もう一度口を開いた。
「えと、やっぱり、別に……かな」
 純粋無垢に不思議がる少女の様子に、誰も彼もが諦めたのだろう。子豚のようにブイブ
イと不満を上げ、「つまんなーい」などとぼやきながら彼女に背を向けた。
 その言葉にショックを受けたのか、タマキは小さな身体をビクリと震わせ、初めて無表
情を歪ませた。迷子のように不安を顔中で表し、おどおどと両手の在り方を迷わせ始める。
 その様子を微笑ましく見守りつつ、ユージは振り返って視線を尖らせ、竹刀を握る手に
ぐいと力を加えた。
 そして大きく息を吸い、頭上に高く刃を振り上げ、グンと虚空に打ち落とす。
「いずれ出会いますよ」
 突然に咲いた彼の声に、他の部員が注目を集めた。しかしそれも気に止めず、ユージは
また強く竹刀を握る。
「本当に剣道の達人なら、勝ち続ければ必ず、いつか戦うことになりますよ」
 両手を軽く前に伸ばして、ギュウと堅く竹刀を握る。乱れぬように脇を締め、左足を一
歩引いて、紙一枚の程度に浮かす。そこから両の視線で彼方を刺して、頭の上に両手を振
り上げ、そしてゆらりと大きく踏み出し、鋭く刃を前へと放った。
 草木のようにそっと佇み、
 闘志の根を大地に深く、
 威風堂々胸をはり、
 その剣に己を映す。
 彼女が見せたそれ言い表すには、言葉が少し見当たらない。
 綺麗だけでは物足りず。
 強いと言うには物騒すぎる。
 もっと静かで、でも激しくて。
 ただ、言えるとすれば、美人だった。
 迷い、足掻き、進んでいく、その人という美人。
 剣先に見えるその幻影に、ユージは勇ましく笑いかけた。
「……必ず」