「…来たか、コジロー」

剣道部の部長だと言う男の子に連れられて、やって来た道場でまず最初に聞いたのは。
コジロー先生の先輩…石橋先生のそんな、低くて重々しい呟きだった。
それを聞くと同時にコジロー先生の空気が変わったのをあたしは見逃さない。
ああ、あの時と一緒なんですねえ、先生。

▽▽▽

―――もう何年も前の事。あたしがまだ8歳くらいだったかな?
たまたま仕出しの仕事をする叔母さんに付いて行った先の剣道の大会で、
ぼけっとしていて叔母さんとはぐれたあたしは、何故か変なトコに迷い込んでた。

「ん…お嬢ちゃん、ここに何か用か?」

そこは会場の一角の、どこかの学校の待合所のような所だった。
心細くは無かったと思うのだけど、他の人にはそんなふうに見えていたのかも知れない。
質問にふるふる、と首を振るあたしに、声を掛けてくれた優しそうな坊主頭の人が続ける。

「じゃあ、迷子か。弱ったな、お兄ちゃんこれから試合なんだけど…しょうがねえか」

そう言うなり、その変な鎧を着けた坊主頭のお兄さんはあたしをいきなり肩車すると、
あたしの保護者……叔母さんを捜して場内を走り回ってくれた。
頭にしがみついて揺られながら、10分くらいも走っただろうか。
なんとか入口近くで叔母さんを見つけて喜ぶあたしを降ろすとすぐ、
そこへもう一人、お兄さんを捜していたらしい、同じ格好の人が慌てて呼びに来た。

「おいコジロー、何やってんだよ!決勝始まっちまうぞ!」
「すいません先輩、すぐ行きます!……じゃあキミ、もう迷子になるなよ?」
「…ふん、逃げたのかと思ったぜ」
「逃げるわけねーっすよ、今日は勝ちますよ!?」

なにか、和やかなようで、どこか緊張感を漂わせたそんなやり取りをしながら…
お兄さんは、そのままお礼の言葉も聞かずに”先輩”と言う人と試合場へ行ってしまった。

その二人の独特の雰囲気に気圧されて呆け気味だったあたしが気を取り直して、
お兄さんが行ってしまった方向にぺこり、とお辞儀をしていると。
ニヤニヤしながらそれを見ていた叔母さんが、折角だから坊主頭のお兄ちゃん応援して行こうか、なんて言い出したのは…
―――子供心に、さすがうちのお母さんの妹さんだなあ~、なんて思ったりもしたっけ。
でも嬉しかったあたしは、そうして叔母さんと一緒に”コジロー”お兄さんの試合を応援する事にしたんだった。
だけど…

▽▽▽

「面ェェェン!!」

それは…がんばれ、の一言も言えない程の、一瞬の出来事だったと思う。
当時は、剣道のルールなんて全然知らなかったけど…
見始めた時にはもう、お兄さんと、先輩と言う人がお互いに一本づつ取り合った三本目。
互いに大きな掛け声を飛ばし合った二人が動いたかと思った刹那、
お兄さんの竹刀が相手の人の面をとらえた瞬間の光景は、それでも、未だに目に焼き付いている。

そして同時に、試合に勝ったお兄さんが面を外した時の…
嬉しいような、何かを達成した時の充実感にピンと来ていないような、少し寂しそうな…
今まで見たどんな人の顔にも無かった、たぶん生まれて初めて見るその表情は、
それが何故なのかを知りたくて、あたしに剣道をやりたいと思わせる切っ掛けになるには十分だった。

▽▽▽

その後あたしは、ちゃんとお礼も言えないまま、お店に戻らないといけない叔母さんと一緒に会場を離れ…
家族にワガママを言うのは嫌だったから、中学に入るまで待って、部活で剣道を始めて…
高校に入って、剣道部の顧問があのコジロー先生だって知った時は、驚いたっけ。
すっかり人は変わっちゃってたけど…優しい所がそのままだったのは、嬉しかったかな。
でも、あれから今、こうしてここに立ってる先生は、きっとあの時のお兄さんと同じくらいに。
ううん、あの表情の先に答えを見つけられた今はきっと、もっとカッコいいコジロー先生のはずだよね。

――…の筈、なんだけどなあ?

「コジロー先生?……武者震いっすか?」
「い、いや…ちょっと、な」

後ろから、背中を叩く。バシッ!

「大丈夫ですよコジロー先生、いつも通りにやれば勝てますって!」
「お、おぉ…つーかお前がなんでそんな盛り上がってんの?」
「えへへー、なんででしょうね?」

――だって、宿命の対決だもん。

「……勝ってよね、お兄ちゃん?」
「誰が兄貴なんだ、誰の」
「えへへ、勝てたら教えてあげます」

――できれば一緒に、あの時のお礼と…気持ちも、かな?ふふ。

やがて皆が着替え終わって最初の試合の準備が整うと、
道場に審判役のユージくんの声が響く。

”はじめっ!”

――あの日は掛けそびれた応援の声、今日は目一杯聞かせてあげるからね?コジロー先生。

「がんばれ、コジロー先生っ!!」


終わり
最終更新:2008年04月20日 13:57