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まだ桜の残る陽春の候。その土曜日の、朝。
普段なら休日返上の朝練に忙しい時間なのだが、今日は誰もおらず、からっぽの道場。
その隅の壁に掛けられたカレンダーには今日の日付に”丸”がつけられている。
既に道場の外には部員が揃っており、あとは一人を残すのみだ。

「…おはよう、ございます」

そして、最後の一人、エース・川添珠姫の到着を受け――顧問が号令を飛ばす。

「よっしゃ、行くぞ!鳳凰旗!」

―――新生室江高校剣道部の、新たな門出の日である。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


……であった、筈なのだが。
その号令を発した当の顧問であるコジローは。
学校を出て、最寄りの駅に辿り着くまでの区間…
復帰早々いきなり己に降りかかった難題にひたすら頭を悩ませていた。

(……なんだろうな?)
コジローが、そもそもの違和感を感じていたのは、今朝――他の部員が来るより1時間程も前のこと。
いつも通り一番乗りで道場にやって来た彼は、いつも通りに後からすぐにやって来るであろうキリノの事を考えていた。
数日前、なんとか無事に帰って来られてから、あれきり――キリノとはまだ一言もまともに口を利いていない。
それだけに今日こそは、と言う思いで普段以上の、格別の早起きをしてキリノを待った。
が、いつまで経ってもキリノは現れない。待ち続けるうちにサトリ、サヤ、ダンミヤそしてユージと1年生の二人がやって来て、
そしてようやくのっそりと、何か疲れていそうな様子でキリノが現れたのは……タマが到着する5分ほど前の事であった。

(――やっぱり、まだ怒ってんのか。)
駅に着くと、人数分の新幹線のキップを現在の部長であるダンに渡し、全員に配らせる。
こういうことも本来なら、黙っていてもあいつが勝手にやっていた事、なのだが。
朝もそうだったが、やはりキリノは声を掛けて来るどころか、頑なにこちらと目を合わそうとしない。
これは相当だ、とコジローが慄き、ポケットの中の物をぎゅっ、と強く握り締めると、
定時通りに新横浜のホームに到着したN700系、新型「のぞみ」のドアが開く。
一斉になだれこむ部員たち。

「タマちゃん、富士山見るよね?」
「…うん」
「ダンくん、いっしょに座ろ♪」
「おぉ~」

ためらいもなくユージとタマ、ミヤミヤとダンが2席側をチョイスすると、残りの面子は必然的に3席側に固まる。
コジローは当然、キリノの隣に座るつもりだったのだが、何ともどういったものか、声をかけにくい。
ぼやぼやしてる内にサトリが前の窓際の席に座ってしまい、そのまま前にサヤとキリノが並ぶ。

「仕方ないな……1年、座りな」
コジローがはぁ、と軽い溜息をうち、通路側に身体をどかせてそう言うと。
新入生部員の片割れ――岩佐の弟の方の――誠が済まなさそうにこちらを見ている。

「ほ、ホントにいいん…ですか?先生」
「マコト、ほっときなさいよ」

小声でこちらを気遣う誠に対し、窓際からきつい言葉を浴びせてくるのは外山の妹、忍。
二人とも、あの光景は勿論見ている。隣に座る顧問に、抱きついた前部長――その光景を。まじまじと。
それだけに誠にはあれから今日、今に至るまで、この二人がどこか余所余所しくしているのが不思議でならなかったのだが、
忍の方は流石におおよその当たりを付けていた。
ともあれ、当のコジローにしてみれば、たまったものではない。

(……入ったばかりの一年生にまで気を使わせて、何をやっとるんだ、俺は?)
確かに、あの時――帰って来た時は、とてもではないが、素面で出て行く気にはなれなかった。
半年前、休部の責任こそ取ったものの……何も言わずに出て行った自分に。
あいつら――特にキリノが、どれ程の怒りを募らせているか。見当もつかなかったから。
だからこそ、いざ面前に現れるのにすらあんな小芝居までも、打たざるを得なかったのだが……

(許しちゃ、くれないよな、やっぱり)
あの時はおかえり、と暖かく迎えてくれた部員たち。
それはそれで有難かったし、実際とても嬉しかった。
……だが、肝心のキリノはあれから口も利いてくれない。
以前なら向こうからやって来ていた掛かり稽古の相手もなしのつぶて。
それだけに何か、こちらからは声を掛けにくい気がしてしまい、すれ違ってばかり。

(……どうすりゃ、いいんだろうな…?)
ええいくそ、と頭をかくが……初めから脳内に答えなど存在しないその問いに悩むうち、
徐々に朝から溜め込んでいた睡魔が首をもたげる。
薄れ行く意識の中で、コジローが最後に聞いたものは…
「のぞみ」の名古屋到着のアナウンスであった。時刻は11:52。みごとに定刻通りである。


……
………

びくっ、と落下するような感覚に襲われコジローが目を覚ますと。
「のぞみ」はもう岡山を発ち、広島に差し掛かろうという所だった。
つばきを溜め込んだ口から涎が垂れそうなのをぐっとぬぐうと、
よく見ると自分の足には膝掛けが掛けられており、その上に大きな弁当箱が置かれているのに気付く。

「それ…キリノ先輩が…」

隣の席でずっと起きていたらしい誠が気を利かすと、忍はまた膨れている。
どうやら二人とも、一部始終を見ていたらしい。
前の席では、先に食事を済ませたキリノとサヤが肩を寄せ合いスヤスヤ寝息を立てている。
多少、申し訳ない気持ちになるがとりあえず、いただきます、と前の席のキリノに手を合わせ、箱を開ける…と、そこには。

―――おかえり、コジロー先生。

白いご飯の上を彩る、高菜と海苔で描かれた文字に、さらには真ん中にご丁寧にハートマーク。
恥ずかしさの余り思わずにフタを閉じ、その中身を覗き込もうとしていた誠と忍にしっしっ、と手で合図を送る。
そのサインに、きょとんとする誠とその耳を引っ張る忍。

(…こいつらも、なかなかいいコンビだな)
ともあれ助かった、と一人ごちると、コソコソと弁当箱を開き…
エビフライやらメンチカツやらコジローの好物がずらりと並んだ愛情弁当を一気に平らげるとげぷ、とこぼす。
箸袋から取り出した爪楊枝で歯をきれいにし、ひとしきり安堵した所で、さらに生まれた疑問が一つ。

(…怒ってるんじゃ、ない、のか…?)
確かにあの時――帰って来た時も、キリノは一番に飛び付いて来た。まるで犬みたいに。
自分の方も、半年振りにその顔を見られた嬉しさで――思わず、忘れていたけども。
……でも、きっと素に戻れば。内心では、自分の事を恨んでいるに違いない。
おそらく今は、顔も見たくないってほどに、嫌われてしまっている。
そう、思っていた筈なのだが……この弁当は。膝掛けは。
様々な疑問符がコジローの脳裏に浮かんでは消える。

(――この態度の差は、結局、何なんだ…?)
前の席で右へ左へプラプラと揺れるポニーテールを見ながら。
再びコジローの自問自答が始まろうとしていた所で…
「のぞみ」は博多駅到着のアナウンスを告げていた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


恙無く”鳳凰旗”開会式を終え、今日泊まる予定のホテルへ向う途中。
コジローは全員をホテルへと先導しながら、
もう一度今日のキリノの行動を反芻していた…のだが。

(…ワケが、わからん。)
もう、いい加減「それ」は不可思議なものであるとしか表現できなくなりつつあった。
新幹線の中で食べ終わった弁当箱を、ありがとうな、ごちそうさま、と言って返そうとした時。
一応、感謝の気持ちを伝えているこちらに対し、俯いたまま、それを引っ手繰るようにして奪い…
自分と目を合わそうともせず、一言も発せずに離れる、などと。
少なくとも今までの自分が知るキリノの行動パターンの中には無い。
それには不快感を覚えると言うより、むしろこちらの行動に落度があったのではないか、という不安に直結する。

(しかし、その弁当の中身が。)
恥ずかしさの余り、視覚をあえて遮蔽して平らげてしまったが…
今までもあいつに弁当を拵えて貰った事は何度もあるものの、
あんな、気の利いた事をしてもらった覚えはさすがに、一度もない。
もしかしたら今回だけ特別、のつもりなのかも知れないが、しかし何でまた。
素直に全部ぶちまけて、訊いてしまえればいいのだが、
相変わらず当のキリノは、やはり自分を避けているのか、行列の殿にいて訊こうにも声の届く距離に無い。

ともかくも、コジローが脳内世界でまたもやそのような悶々の袋小路に入り込んでいると。
現実世界では、腕組みをして背中を折り曲げて歩くコジローに、後ろから部員たちの激しい声が飛んでいた。

「先生、信号信号!!」
「…え?」

―――1歩、2歩、3歩。
気付けば身体は完全に車道にいる。
右側にはもうすぐそこまで来てしまっているトラック。
ちょ、と言語にならない声が口をつくのが先か、車のクラクション音が耳に届くのが先か。
……或いは走馬灯が見えるのが先か。
いずれにせよ。

(…終わった。)

そう思った瞬間、しかしコジローの身体は何者かの手で、ぐい、と強く歩道側に引っ張られた。
行列の最後尾から血相を変えて車道に飛び出し、相撲の”小手投げ”をうったような格好で…
尻餅をつくコジローの上に一緒に倒れ込んだその人物――キリノは、そのまま、異様な形相でこちらを見つめている。

「あ、キリノ……ごめ…俺…」

ごめん。コジローがそう言い終わるよりも早く。
ばか、と言う怒声と共に固めた握り拳の横っ腹で胸に一発。
げふ、と呻くコジローにお構いなく、更に続けて二発、三発。

「…もう…もぉ!」

髪の毛の「しっぽ」を振り乱し、コジローの胸をどんどん、と叩く事数回。
その最中にも目から涙を飛散させていたキリノは、叩く事を止め、身体を起こし、ひと息大きく吸い込むと。

「…ばかぁ……」

そのままぶわっ、と洪水のような涙を溢れさせたかと思えば、
こちらの胸に顔を埋め、うっうっ、と何か呻くのみであった。
そこまで至り、ようやくコンクリートの固さがコジローの身体に感じられるようになると。
暫し唖然としていた部員たちも一斉に口を開く。

「大丈夫ですか、先生、キリノ先輩」
「もー、気をつけてよね…」
「し、信号は守りましょう!」

四方からの声にすまんすまん、と謝りながら。
コジローが身体を起こそうとすると、のしかかったままのキリノが離れない。
未だ涙目で顔を紅潮させたキリノは、自身も身体をどかそうとしているようだが…どうやら腰に力が入らないらしい。
コジローが、仕方ないな、と腕に力を入れ、キリノの身体を抱えあげ、ぺたん、と一旦地面に座らせる。
それからホテルまでの地図をユージに渡し先導役を任せると、自身はキリノの所に戻り、背中を向けて屈み込む。

「腰、抜けちゃったんだろ?ほれ、掴まれ」

その申し出に俯いたまま首を振るキリノの背中をサヤが叩き、ワガママ言わない、と促すと、
渋々ながらコジローのおんぶに応じるキリノ。
そして行列はそのままユージとタマの先導で再びゆっくりと進み始める。
コジローとキリノは殿。初めはキリノを心配して傍を歩いていたサヤも気を利かせたのか、前の集団に混じって騒いでいる。
ともあれ、ようやくキリノと喋れる距離に来る事ができたコジローはまず、

「ホントに…ごめんな、キリノ」

と言って切り出すものの、背中のキリノは黙ったまま、ふるふると首を振るだけである。
コジローとしては仮にも命の恩人のキリノに、お詫びと感謝の言葉の一つも、と思っていたのだが、
その余りの反応の無さに二の句を続けられず、そのまま押し黙ってしまう。

―――それから、何も喋ることが出来ずに5分は歩いただろうか。
流石にきまりが悪くなったコジローが、意を決し、今日一日分の考え事にメスを入れる。

「……やっぱり、まだ、怒ってるのか?」

その質問の意味を最初は理解できなかったキリノだが、
頭を整理するとどうにか一定の理解にまでは辿り着き、またもふるふると首を振る。

「おこ…怒ってなんか、無い、です……」

――”です”。こいつ、こんなに敬語使うような奴だっけ?とコジローが少しの違和感を感じつつも、
ひとまず怒ってはいない事が本人の口から確認出来た事で満足しよう、としていた一方。

背中のキリノは、想えば想うほどに、どきどき、と高鳴る事を一向に止めようともしないソレ――
開けば危うく口から漏れて聞こえそうなほどの猛烈に高鳴る心臓の鼓動音を…
どうか先生が、背中越しに気付きませんようにと――願い、戦っていた。

―――幸いにしてか不幸にしてか、当のコジローは、全く気付いていなかったが。

そんな最後尾の二人はさておきながら。
やがて、先頭を行くユージが右手に見えて来た建物を指差すと――
長旅の疲れを溜め込んだ部員たちは、我先に、と走り出していた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


ホテルとりごや。
室江高校剣道部の、本日の寝床である。
鳳凰旗の会場からは近いが、繁華街にはやや遠く不便な場所にある。
それだけに今日は稼ぎ時なのだろう、実際制服姿の学生のようなのがラウンジに溢れている。
とは言え――名前こそヒドいが――外見や内装を見る限りでは、かなりちゃんとした場所のようである。

「ねえ…先生、本当にここであってるの。」

いつもと同じトーンで不安を顕にするダン部長に、勿論だ、とコジローが答える。
今回、鳳凰旗に出場する為の予算は、生徒たちの父母会の協力もあったとは言え…
その大部分はほとんど学校が出してくれたものだ。それには理由がある。
コジローははじめそれを、元々名誉欲に弱そうな理事長に、
教士7段である林先生の推薦状が効いたのだろう、と下卑た考えをしていたが、そうではなかった。
室江高校の、上層部――少なくとも校長は、半年前の一件の処理で、個人的にではあるがコジローを高く買ってくれていた。
生徒の為に、躊躇わずにその場で自分のクビを差し出す。しかも非常勤講師という明日をも知れぬ立場でありながら。
そんな事は中々出来る事ではない、と、コジローの復職にも一番熱心に、親身になって動いてくれたのが校長であった。
そして今回の旅費も、ほとんど全て学校持ちと言っても過言でない額を用意してくれたのである。

ともあれ、こうしてまともなホテルに泊まれると言うのは、部員にとってもありがたい。
最後に入ってきたコジローがラウンジの空いてるソファにキリノを降ろし、サヤにキリノを任せ、
早く早くとせがむ部員たちに急かされるようにチェックインを済ませ……心配そうに後ろを振り返ると。
どうにか自力で立てるようになったらしいキリノがサヤと何か談笑している。

よかった、元に戻ったんだな、とコジローが安心して女子部屋のキーをキリノに渡そうとすると、
それでも相変わらずこちらを見ようとしないキリノとの間にサヤが割って入り、笑顔でキーを奪ってしまった。

そのまま荷物を抱え、物凄い勢いで部屋へと走り去ってしまう女子部員たち。そのすれ違いざまには、
何か一部の女子部員――ミヤミヤとか、忍といったあたり――が、こちらをひと睨みしていったように見えた。
なんだよもう、と一言ボヤくと、その理不尽な憤りの矛先を、残された男子部員に向けるコジロー。
ダンとユージの肩に勢いよく手を回すと、

「……じゃあ、女子は女子、男子は男子で楽しくやろうぜ」

本場博多の豚骨ラーメンて奴を味わおうじゃないか、と持ちかける。
それに誠も含めた3人が威勢良く返事を返すと、荷物を部屋に置いていざ、繁華街へ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


―――結論から言えば、有意義な散策、であった。
比較的閑かな室江高周辺の街に比べ、普段見慣れない博多の町の煌びやかさは、
明日から始まる(男子の個人戦は明後日からだが)鳳凰旗大会前のよい骨休めになったし、
街で当たり前のように飛び交うこの土地の言葉はもうそれだけで新鮮であったし、
何よりも誠がわざわざネットで下調べしておいてくれたラーメン屋は最高に美味かった。

そして今はそのラーメン屋の近くの公園で、夜風にあたりながら、4人。

「しかしお前……実はオタクって奴なのか?…タマと気が合いそうだな」

コジローのそんな言葉に不思議そうな顔をしながら、
このくらい当たり前ですよ、とサラッと流す一年生。
無理もない、ユージもダンも…ついでに言えば女子部員も、コジローも含めて。
そういう何か……最新のツールにはまったく疎い、というか興味が無い。
辛うじてタマやミヤなら分かるのかも知れないが……
はっきり言って他の3人には、誠が別世界から来た生き物のように見えた。

「まあ、男子が増えてよかったよ、なあお前等?」

その言葉に、そうですね、と軽く相槌を打ちながら、誠の方を見ると、にっこり微笑むユージ。
そして誠は、それに一瞬照れながら頭をかくと、そのまま。
ここ数日のうちに溜まった疑問を――爆弾に変えて、投下する。

「ところで……先生は、キリノ先輩の事、好きなんですか?」

その、ひどく、あっけらかんとした響きに、一瞬残り3人の時間は硬直する。
逸早く冷静になれたユージは、コジローを見る。固まっている。ああもうアドリブ弱いなこの人。
ダンを見る。冷や汗を浮かべている。あのダンくんが。その事実に更に戦慄を覚える。
――以上を、ユージが瞬時に判断し、いやそれは、と口を開こうとするまでに0.5秒余り。
しかしそれよりも今回は、コジローの捻り出した言葉の方がわずかに、早かった。

「…ああ」

好きだよ、と言うコジローに、そうですか、と何か得心のいった顔の誠。
しかし残りの二人はそうも行かない。
コジローとキリノ――顧問と前部長が互いに好き合っている、などというのは。
今更新入生に指摘されるまでもなく、半年以上も前から剣道部員なら全員が周知の事だ。
しかしだからこそ、生徒と先生の関係なんてものを――明るみに出しては、いけない。
そんな事になれば今度こそ、この先生は学校にいられなくなる。
だからそこには、どんな事が起ころうとも――触れては、いけない。
そっ、としておくべきなのだ。少なくとも当人たちが自覚するまでは。
そしてこれは、部員なら全員が了承している、暗黙のルール、だった筈なのだが。

(でも、先生の口からちゃんと聞いたのは…初めてかも知れない。)

ユージは反芻していた。今までにだって何度も――東さんが入部した時にだって。
こういう話題が出なかった事はなかった。しかしその度、ルールだけが繰り越し上書きされ、
ついに当の、コジローとキリノの2人にその追求の刃が届く事は無かった。
しかし、この目の前に居る1年生――別世界から来た、と言っても今なら信じられる――岩佐誠は。
ただの一言であっさりとそのルールに風穴を開け、あろう事か当人の口から言わせてしまったのだ。
―――好きだよ、と。

コジロー自身に、この半年間、何かの変化はあったのかも知れない。
だけど、少なくとも帰って来てからの二人には、
これ以上関係を進めないでおこう、と言う意思が見え隠れしていたし、
むしろ意図的に互いを遠ざけているようなフシさえあった。
だから……と今度は、ユージが思考の堂々巡りに踏み込もうとしていた所に。
無造作に手を突っ込んだポケットの中の物に、縋る様に少しだけ触れると、力無い声で続けるコジロー。

「……あいつの方は、どうだかわからんけどな」

その、いかにも投げやりな言葉は、この半年間、共に過ごした部長のキリノが―――
何を考え、どんな風であったか、を知り尽くしているユージとダンには、いささか無神経が過ぎた。
ふざ、と口を開こうとするユージよりも更に早く、ダンがコジローの頬を殴る。

「ふざけんな~!」

その声はいつものトーンであったが、明らかに怒気を含んでいるのが分かった。

――ふざけるな、部長がどんな想いであんたの事を待ってたと思っているんだ。

ユージが言おうとしていた言葉をほぼそのまま、いつもの口調で告げると、背中を向ける、ダン。
それに追随する言葉を、さらに続ける、ユージ。

「この半年間……キリノ先輩、寂しそうでしたよ。……それに」

あんな風に先輩が、気持ちを顕にするなんて、先生以外にいませんよ、と締める。

ダンに殴られた頬を押さえつつ、それを聞いたコジローはまだ納得の行っていない、
不思議そうな面持ちではあったが――目にはしっかりと生気を宿していた。
そのまま、お前等にも随分迷惑かけちゃったな、と言うと立ち上がり――
背を向けたままのダンに呼びかける。

「ダン!…ありがとうな。お前を部長に選んだ俺の目に、狂いはなかったぜ」

いやあんた選んでないし、とユージが心で強烈な突っ込みを入れるも、
その言葉に振り返り、いい笑顔で親指をぐっ、と突き出すダン。
その、ドラマティックなのか何なのかよく分からない光景に呆然となる誠。
それに気付いたコジローが、そろそろ、と言うと他の三人も続く。

「まあ…じゃあ、帰るか」
「そうすね」
「だな~」
「はい」

―――そう言い残し、公園を去る4人。
それは十分過ぎるほどに、有意義な散策であった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「それでだなー、明日は…」
「それでねー、明日はねえ…」

「お。」「…ぁ。」

ばったり、という擬音が思わず浮いて見えそうなほど。
絶妙なタイミングで東と西から、同じ高校のグループの男子組と女子組が帰って来た。
ホテルの前でハチ合うと、いきなり気まずい空気が流れる。主に、先頭に立つ二人から。
思わずサヤがまたも割って入ろうとするが、女子組の先頭――キリノが俯いたままそれを手で制する。
一方の男子組の先頭――コジローはというと、脇で心配そうにこちらを見上げるユージに一言、

「…心配すんな。先行ってろ」

とだけ言い、部屋に帰っているように促す。
女子組の方も、それぞれその思惑を察し、一人また一人とホテルの中へ消えて行き――
やがて入り口の前には、コジローとキリノだけが残される。しかし、

(さすがに、ここでは――)
人目につきすぎる、と、コジローが場所を変えようと言うと、キリノも黙ったままでそれに付き従う。
ホテルから少し離れ、比較的人気の少なそうな小さな公園にやって来ると、そのブランコの前で立ち止まる。

「………」
「………」

そしてまたも、沈黙。
しかし流石にユージやダンにああ言った手前、
自分の方が引くわけには行かない、とまずコジローの方が口火を切る。

「…なんで避けるんだ?」

その、かけられる言葉に俯いたまま、びくん、と身体を震わせるキリノ。
消え入りそうな姿に良心が傷むが、それでは埒があかないとばかりに遠慮せずコジローが続ける。

「…掛かり稽古の時も、お前、気合入れてたのに、急にそっぽ向きやがって」

忘れもしない、最初に帰って来た時の稽古。
真っ先に威勢良く立ち上がったこいつが、自分と正対した時――
むむっ、と唸ったかと思うと、タンマ、とか言いだして、そのまま引っ込んでしまった。
そして、あれから、今に至るまで――キリノとは、一言も口を利けてない。一度も、向き合えていない。

「半年前、何も言わなかった事は、謝る。他に悪いとこがあったんなら――」
「…ちが…い…」

違います、という言葉さえ満足にはならずに。
なおも俯いたままだが、それでもやっとキリノが口を開いてくれた。
コジローはもう、それだけで満足してしまいそうなほどだったが…
すぅ、と息を吸い、続けようとするキリノの様子を固唾を飲んで見守る。

「あたしが…変なんです」
「…何が変なんだ?」
「先生のカオが、見られない…し」
「はぁ?なんだそりゃ?」

たまらず焦って言葉を埋めてしまい、しまったと思うがどうにか一つだけ聞き出せた。
顔が見られない、という事は、どういう事なのか?照れている?恥ずかしい?

(……まさか、な。)
あのキリノだぞ、落ち着け俺、とコジローがその考えを即座に打ち消そうとする。
だが実際、自分が目の当たりにしている人物は――キリノは。
顔を俯け、よく見るとその頬をりんごのように真っ赤にし、
前髪で必死に表情を隠し、読ませまいとしてる――その少女は。
どう見ても……好きな人の前で恥ずかしくて何も言えずにいる、年頃の女の子そのものだった。

コジローはこういう事に関しては、そこまでの朴念仁という訳ではない。
実際、半年前の、離れるよりずっと以前からも――キリノが、自分の事を。
好きでいてくれているのだろう、という程度の自覚はあった。
しかしそれだけに余計に、帰って来てから今日、そして今現在に至るまでのキリノの態度を、
さぞや珍妙なものに感じてしまったとしても――それはコジローの責任ではない。
ただ誤解があったとするならば、コジローにキリノの現在の気持ちを慮る余裕まではなかった事と、
そしてキリノの中でのコジローが、半年という時間の中であまりにも大きくなりすぎていた事。
計算外の事象は、時にありえない人物にありえない変化をもたらす――
現在のキリノが、まさにそれであった。

躊躇いながらも、恥ずかしいのか?と冗談混じりに尋ねるコジローに、黙って一度、コクン、と頷くキリノ。
そのまま――堰を切ったように言葉が流れ出る。

「だって…」
「だって、じゃわからねえよ」
「…先生見てたら、なんだか…」
「……なんだか?」
「くるし……じゃなくて、いたい…でもなくて……」
「………」
「あたしの顔、こんななっちゃって…恥ずかしい…からっ…」

両手で顔を覆うと、そのままそこに屈み込んでしまうキリノ。
コジローは一瞬絶句した後、思考をまとめる。

(こいつ、こんなに――)

子供、だったのか。
これではタマキどころの話ではない。
未だ信じられないが、目の前にいるのは、千葉紀梨乃――
剣道部の前部長であり、皆のお姉さんであり、剣道と部活をこよなく愛する…ちょっと臭いフェチ。
そんな、およそ乙女らしい恥じらいなどとは無縁であった筈の、肝っ玉姉さんが。
何故どうしてまた、自分の目の前でこんな事になっているのか。
当人に分からない物を、コジローに想像せよという方がどだい無理な話であるかも知れない。
しかし、話を進めない事にはどうにもならない。

「じゃあ、何で――」

それだけ言うと、コジローはその先の質問に困ってしまった。聞きたい事が多すぎる。

抱き付いてきたのは?
何故、いつからそんな事になっているのか?
そもそも今までは何故、平気だったのか?

正直、その疑問のどれもが、

(――もう少しで全部、繋がりそうなんだが。)

と思えるものだったが、確証の無いまま、二の句が告げられないまま、時間ばかりが過ぎていく。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


そのまま二人の間に、3点リーダにして500個分くらいの時間が流れた頃に、であろうか。
両手を顔にやり俯いたまま、何とかキリノが立ち上がると。

「先生…あたしのあげたマスコット、まだ持って…ますか……?」

―――マスコット。
コジローが即座にその言葉に反応し、
ポケットから今日一日大事に持ち歩いていたそれをキリノの前に差し出す。

「…これのことか?」
「……!」

その、少し痛んだ――コジロー長官の、マスコット。
それを見たキリノは、ひときわ大きく身体を震わせ、一瞬言葉を失ったかと思うと。

「…うれしい…今も、持っててくれてたんっすね……」
「お、おい」

そのままそれを持つコジローの手ごと、全身で愛おしむように抱きしめる。
胸に触れる手から、どくんどくんと脈打つキリノの心臓の鼓動を感じるコジロー。
つられてこちらの鼓動も高まって行くのを感じる。
俯いたまま、少しづつ言葉を紡いでいくキリノ。

「あたし、先生が帰って来てくれた時に…竹刀袋に、これ、見つけちゃって」
「……ああ」
「それ見てたら、涙……出てきちゃって」
「……そうか」

コジローが照れくさそうに鼻先をこすっていた片方の手を掌に変え、
そのまま優しくキリノの頭を撫でる。
コジローの指が触れるとまたもぴくん、と身体を震わせ反応するキリノ。

「そしたら、その時……わかっちゃったんです」
「……うん」
「あたし……この人のことが、ホントに」

――好き、なんだなぁって。

そこまで言い終わると、顔を耳まで真っ赤にさせ、こちらの身体に凭れかかるキリノ。
その小さな身体が、抱きかかえようとするコジローの腕の中にすっぽり収まると。

「…大好き、です…コジロー先生」

その言葉と共に、今度は全身でその鼓動を伝えてくるキリノに…
言わねばならない事が押し寄せ一瞬戸惑うも、生唾をごくん、とひとつ飲み込むと。

「俺も…大好きだよ、キリノ」
「………うれし…ぃっ…!」

ぽろぽろ、と大粒の涙がキリノの瞳からこぼれる。
コジローの胸に凭れかかりしばらくシャツを濡らした後。
ひとしきり泣き止み、顔を上げると、目線が重なる。
コジローがそのまま、黙って目を閉じるキリノの下あごに指をやり、くっ、と少し引き上げると…
ゆっくりと顔を近づける。

「んっ……」

初めての――キス。だが…しかし。

(……むう。)

名残惜しそうに唇と唇が離れると…
眉をしかめるコジロー。
涙目で、しかし猫口であは、と小さな笑顔を作るキリノ。
そのまま、くすくす、とどちらからともなく笑い出す二人。

「なんか、お前」
「え~、先生の方こそ」
「…ギョウザくさいぞ」
「ニンニクくさいっすよ、うふふ」

――そう言えば、あのラーメン。
注文の紙にニンニク1片って書いたっけ――
などと思い出し、少々照れ臭くなって頭をかくコジロー。
しかし今、目の前で。咲いた向日葵の様に笑うキリノが……
全く半年前の――自分のよく知る――千葉紀梨乃、そのものだと分かると。
その頭をぽんぽんと撫でる。そして。

「…やっぱり、お前はそのくらいの方がいい」
「あは、あはは……そうですか?」
「ああ……好きだぞ、キリノ」
「あたしもっす!…えへへ」

そのまま、正面から向き合い、抱きしめ合うと――2度目の、今度こそ本当の、仲直りのキス。
息を止めたまま数分間唇を重ね、ぷぁ、と触れ合った唇と唇が離れると。
しばらく余韻に浸る――はず、だったのだが。
キリノが不思議そうな顔をしてコジローの左胸のあたりを覗き込む。

「あの…さっきから気になってたんすけど…ポケットの中、何入れてるんすか?」

身体を寄せ合って初めて気付いた違和感。――箱、のようなもの?
コジローは慌ててそれを手で庇うが、もう一度、ひとつ生唾を飲み込むと。
潔く、その――今日一日、持ち歩いていた、もう一つの――”大事なモノ”を取り出す。

「いやその……卒業してからで、いいんだけど……」

差し出した掌の上に乗る箱がぱか、と開くと、その中には――
薄暗い公園の電灯の下でもハッキリと翠色に輝く、キリノの誕生石――エメラルドをあしらった指輪。

「きれ…い…って、えええ!?」
「ああもう、順番がメチャクチャだ…」

いやそりゃあんたの方だよ、と呆然とするキリノに。
困惑が抜けやらぬといった顔で脂汗を浮かべるコジロー。

「本当は、もうちょっと……ああ何つーか、ムードってもんが…ああもう畜生、とにかくだ」

――結婚、してくれないか?

(……とにかく、かい。)
さすがにキリノとはいえ、これには即答は難しい……かに見えた。
しかし、一度嘆息をつき、随喜の涙をぽろり、と一筋こぼすと――満面の笑顔で。


「――はい。幸せにして下さいね?センセー…」

その答えに、思わず嬉しさの余り飛び上がりそうなコジロー、だったが。
キリノはそう答えつつも怪訝そうな目で見つめている。

「でも…こんなの、お金かかったんじゃ……生活費、大丈夫なんすか?」
「いや、俺けっこう外洋とかにも出てたからさ、お金は足りてて、当面、生活するのに不便はないんだよ」

愛と平和に満ちた表情で、不安そうなキリノの質問をかわすコジロー。
そんな心配そうな顔するなって、とキリノの背中を叩くと。

「…ちゃんと復職してからのお給料3ヵ月分だぞ?」
「え、でもまだひと月も……」
「校長に、さ。俺が復職する時に――ダメ元で頼んでみたんだよ、前借りできませんかって」
「理由は…なんて言ったんすか?」
「聞かれなかった。けど、笑ってた。あの校長……実はすごい人なのかもな」
「どうして…」

そんなに律儀にする事もないのに、と言うキリノに、
多少謙遜しながら――でも彼はしっかりと、こう言った。

「お前を…もう、待たせたくなかったんだよ。1日だって、1分だって――1秒だって」

そう言われると、ついさっきまでの――初恋の気持ちを持て余す少女のようであった――自分が首をもたげ、
途端に顔を真っ赤にするキリノ。またも、蹲りそうになる身体を、しかし今度は両の脚でしっかりと支える。

「ゆ、指輪…つけてみても、いいですか?」

コジローが勿論だ、と答えると、その震える指先で…
指輪を左手の薬指へと運ぶ。二人同時にごくり、と生唾を飲むと。
するり、と吸い込まれるようにキリノの指に収まる指輪。

「ふぅ」

と、これまた二人同時に胸を撫で下ろすと、キリノが尋ねる。

「でも…あたし、指輪なんてつけた事も無いのに、なんでサイズとか、分かったんですか?」
「ああ…それはな……」

小手だよ、とコジローが答えると、目を丸くするキリノ。

「ちょっ、どういうことっすか?」
「だから、お前の小手を借りてさ。…ぴったりはまる女の店員さんのサイズで、作ってもらったんだ」
「はあ……」
「いやー、大変だったぜ。皆小手なんてくせーくせーって中々つけてくれなくてさ」
「そりゃ…普通は、そうでしょうけど…」
「おまけにお前、手ちっちゃいからな。完全に同じサイズの人探すのに苦労したよ」

ぽかん、と実際に聞えそうなほど思うさま放心した後、
この日一番の大きな声で、堰を切ったように笑い出す。
あははははははは。

「お前なー、笑うなよ。こっちは結構必死だったんだぞ?」
「だって、そんなの…聞いた事無いっすもん……ひっ…小手で、婚約指輪なんて……あははは、ダメもう…」

よろめきながらブランコに凭れかかると、そのまま座り込んでしまう。
それに倣う様に隣のブランコに腰掛けるコジロー。
ひとしきり笑いも止むと、その横顔を見ながら……ちょっと意地悪な質問をひとつ。

「でも――あたしが、そんな気ちっともなかったら、とか思わなかったんですか?」

それに少し悩んだ後、星が瞬き始めた夜の空を見上げて――コジロー。

「そん時は、俺の勝手な暴走だったって事だな。……半年間、素振りをしてるとさ」
「…はい」
「俺にだって、色んな思い出がある筈なんだけど――出て来るのは、室江の事ばっかりで」
「……あたしの事も?」
「うにゃ、何つーのかな……とりわけ、っつーのか……」
「……ん?」

コジローはたまらん、とばかりにあさっての方向に顔を背けると。

「――お前の事を思い出さない日なんて、一度も無かったよ」

口元を緩ませ、頬をおそらく自分と変わらない程真っ赤にして、
そんな事を言いながらそっぽを向くコジローに。

(……なんて可愛いんだろう、この人は。)

とキリノが思ったか思わないか、とにかくその数瞬後に…
目を中空にやったままのコジローがとす、と自分の身体に圧し掛かる重みと温もりを感じると、そこには。

「おっ、おい……何やってんだよ?」
「……一人じゃ寂しいですもん」

ブランコに腰掛けるコジローの膝の上に、キリノがいる。

「お前…恥ずかしいだろ……」

その言葉にえー、と返すと、その胸の中、満面の笑みでコジローの顔を見上げるキリノ。

「婚約者同士がそんなにヨソヨソしくしてちゃ、ダメでしょう?」

それを聞くと、キリノの体温の上昇がそのまま乗り移ったかのように…
真っ赤に頬を上気させるコジロー。まだ少し寒さの残る4月の空気に、頭の上からその蒸気が通り抜けていく。
それを見たキリノは、

(……やっぱり、可愛いなあ…)

と思い、更にもう一つのイジワルな質問を。

「――怒ってはいませんけど、理由は教えてくれませんか?」
「……?なんのだ?」
「半年前――居なくなっちゃった時の事を」

それにコジローはああ、と少し嘆息を漏らすと、

「あの…お前のくれたさ。さっきの……長官のマスコット、あるじゃないか」
「??……はい」
「ずっと考えてたんだ。あれを――つける資格が、俺にあるのかなって」
「資格…っすか?」
「…いずれ顧問じゃなくなって、”長官”でもなくなる自分にさ。そんな資格はないよなあって」
「そんな事…」
「でも、外せなかった。……正直、タマに背中を押されたからっていうのもあるけど――ムリだった」

――いつか、絶対に…この高校に、お前達の所に、帰って来るつもりだったから。

コジローがそこまで言い終わると、やや不満気に、キリノがつぶやく。

「でも…それなら、一言くらい言って欲しかったなぁ…」

(――あたしだけに、くらいは。)
キリノがそんな、ささやかな独占欲をほんの少しだけ覗かせると。
それに困り顔を浮かべるコジロー。

「あやふやな約束は、したくなかったんだよ……いつ戻って来られるかも、分からなかったし……それに」
「にょ?」
「言ったらお前、止めてただろ?だから……」

本当に済まなさそうにそう告げるコジローの言葉に、キリノは。

(…男の人の理屈だなあ…)

と素直に感じたものの、でも、そんな所も。

「かわいい」

と思うと、そのつい口から飛び出した想いは、コジローの耳にも届く。

「ん…何がだ?」
「んふふふ、センセーが、かわいいなぁ、って事ですよ」
「お、おい…」

マタタビに酔ったネコの愛情表現のように、身体を後ろに居るコジローに摺り寄せるキリノ。
そのまま姿勢を横向きにし、コジローの胸の中に顔を埋めると、

「先生のニオイ、落ち着く――」
「お前、さっきはニンニクがどう、とか言ってなかったか、俺の記憶だと」
「…センセー…」
「ん?」
「だいすき…」

それを受け、ふぅ、とまたも深く嘆息をもらし――その内心で。

(……こいつには、かなわんな。)

と思うと、ゆっくり――子猫を可愛がる様に、胸の内にいるキリノの頭を撫でるコジロー。


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……しばらく、そのままでいた二人が――
コジローの、明日の試合に障るといけないから。
という言葉で帰路についたのは、殆ど日付が変わってからの事だった。

それから二人手をつなぎ、公園を出る道すがら。

「明日の試合……頑張れよ。お前なら大丈夫だから」
「ういっす!ラブラブパワーで頑張るっす!」
「そ、そういう事をあまり大声で言うなって」
「えー、ダメなんすかぁ…?」
「まぁ一応…まだ先生と生徒なんだしな」

その言葉に、少し頬を膨らせたキリノがつないだ手をぐっ、と自分の側に引っ張ると…
よろめいたコジローの頬にキリノの唇が優しく触れる。

「ちっちっち、許婚と婚約者、ですよ?センセー…ふふ」
「…お前自身が先生、って呼んでるじゃねえか…ったく」

コジローと並んで歩くキリノの、そのつないだ左手には――
翠色の指輪が街灯に照らされ、輝いていた。
いつまでも、いつまでも。

そのようにして、去った二人のすぐ後を追うように―――
がさごそ、と公園の茂みの影から現れる出歯亀たち…その数じつに、8名。

「せ、せ、先生、プ、プププロポプロポロ」
「ちょっとサトリ、うっさい」
「よかったなぁ、ぶちょ~」
「キリノ先輩、良かったね。ね、タマちゃん?」
「うん、先生も…嬉しそう」
「っとに…変な部。顧問と部長がデキてるなんて」
「メデタシメデタシ、なのかな?」

(…キリノ、おめでと。絶対幸せになってよね!)



――その日、上書きされた、室江高校剣道部の暗黙のルール。
  • 基本的には、アンタッチャブル。
  • 探りを入れても、いけません。
  • 愛でるだけです、愛でるだけ。
  • 無理な介入には、AFBくらわすぞ。

そして。

  • ”二人に幸、多からんことを――”
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