「――ふむ、誰も、来ねえな…」

新年度の始業式を終え、数日経ったある日の放課後。
がらん、とした道場で一人ぽつり、力無い言葉が漏れる。
顧問であるコジローは、誰より早く道場の鍵を開け、
部員の来るのを待っていた――のだが、姿を見せる部員は今現在、ついに一人としていない。

――今に始まった事では、ない。
昨年度の後半から続く部員減少は、もう歯止めが利かない所まで来ていた。
その原因。強い者による力の誇示――そんな大げさなものではないのかも知れないが。
とにかくその様な事が部内で行われている、そんな噂はコジローの耳にも届いている。
実際、目の当たりにした事もあるし、その時は止めもした。だが。

(しかし……あれは、イジメなんていうような物か?)

多少は、楽天的であったのかも知れない。
だが、コジローにしてみれば、どうしても生徒を「加害者」と「被害者」という風に分けるのに、どこか抵抗を感じていた。
自分のかつて受けて来た、ほとんどイジメ、いや、虐めとしか思えないようなシゴキからすれば、あんなものは。

(―――軽い軽い。)

それだけに。減っていく部員数にも……
正直な所、自分の出る幕ではないと感じていたし、事実。

(まあ、しょうがない…か。部活動なんて、イジメられたり、辛い思いしてまでするもんじゃない。)

それが剣道部の現状を鑑みるコジローの…殆ど本音だと言えた。
その様に今日一日を総括し、ともあれ帰るか、と立ち上がろうとした所に。

「……すいません、遅れました!」

道場の引き戸が開き、飛び込んで来る声。
金色の長髪を後ろで結び、それを揺らしながらにこやかに話し掛けて来る少女に。

「…遅いぞ」

それだけ呟くと、少女はすいません、と言いぺこり、と頭を下げ、
再び後ろで結んだ髪を揺らせながら、慌てて更衣室の方へ駆けて行く。
おそらくはただ一人残った、最後の部員にして、現部長――少女の名は、千葉紀梨乃。


― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


「えいっ!てぇいっ!とおっ!たぁぁっ!」

ただ二人だけの道場に繰り返しこだまする、竹刀のビュン、という風をきる音とキリノの掛け声。
やや、肩に力が入り過ぎのきらいもあるのだが…その太刀筋は素直で、美しいものだと言える。
とは言えそれにただ見入っているわけにもいかず、自分も素振りをしてはみるものの。

(――ナマクラだ。)

不摂生、不養生、稽古不足――あらゆる物が祟り、今ここにいる自分の、その振り下ろされる切っ先は…
とてもではないが、人の事を言えたものではない。全盛期には程遠く、ましてや「模範」と呼べたものですらない。
まだ辛うじて、剣道に冷めながらもどこかで剣道から完全に離れてしまう事を恐れ、それと付き合って来た「目」だけは…
どうにか生徒の未熟な技を指摘する事は出来るものの、「腕」は、「体」は。どうにも自分の思うようになってはくれない。

(…こんなもの、お手本なんかに、するもんじゃない。)

コジローが深く溜息をもらし、素振りを止めると。
隣で素振りをしていたキリノも丁度1セットを終えたのか軽く額の汗をぬぐい、息をつく。
そのまま二人して腰を下ろすと、キリノも溜息混じりに口を開く。

「ふぅ~、今日も結局あたし一人っすかあ?」

どうやら、心のどこかで素振りをしながら、部活仲間がやって来るのを期待していたらしい。
ともあれそんな願いも叶えられる筈も無く、再び竹刀の音も掛け声もなくなった道場は、閑とした沈黙に包まれる。

「……サヤも最近、学校にも来てないみたいです」

何とかその空気を変えようと、健気にこちらに話を振ろうとするキリノ。
だがその話の内容にも希望はどこにもなく、そうか、と頷くだけのこちらの対応と共に、道場の空気を更に鈍色にするだけだ。

「何で…皆剣道、やめちゃうんでしょうね…」

とうとうその声からも元気の色が消え失せ、表情も普段のキリノからすれば数段、暗い。
さすがに教師としての顔がもたげ、落ち込んだ生徒を励まそうともするのだが…

「仕方が――無いさ。個人の意思を尊重してやらないとな」

その程度の言葉にしかならず、再び、沈黙。
そのまま二人ともに押し黙ったままでいると……ややあって、消え入りそうな声が耳に届く。

「でも…こんなに楽しいのに…剣道……」

その、かすれた声に変調の欠片を見つけ、横を振り向くと……
その瞳からは、大粒の涙がぽろりぽろり、とふきこぼれている。
こちらがそれに気付いた様子を見せると、慌てて手ぬぐいで顔を覆うキリノ。
さすがに見かねて立ち上がると、座ったまま震えているキリノの前で屈み、ぽんぽんと頭を撫でてやる。

「泣くな…よ。まだ何とか、俺とお前がいるじゃねえか」

大した言葉もかけられない。
だが、手ぬぐいに顔を押し付け、肩を震わせ泣くその小さな姿に…良心が傷む。
ただそれだけの行動だった。それだけの行動のつもりだった。
しかし、キリノは――思い余ったのか、こちらに飛びついて来ると、そのまま胸の中で泣き始める。
流石にこりゃまずいだろう、と無意識に周囲を窺うが、当然誰も居るはずもなく、隅でねこが鳴き声をたてている位だ。
そうして、始めはすんすんと声にならない声をあげるのみであったキリノも、少し時間が経ち落ち着くと…
申し訳無さそうにこちらから体を離し、少し呼吸を整え、俯いたままの低いトーンで深刻な言葉を紡ぐ。

「……先生は、居なくなったり、しませんよね?」

コジローは一瞬、キリノが何を言いたいのかが分からなかったが…
身体を少し空けながらも、こちらの剣道着の袖の裾を掴み、離そうとしないキリノの頭を再びぽんぽん、と撫でると。

「心配すんなって。生徒のお前より俺が先に卒業しちまうなんて事、ありえねーから」

少しはにかみながらそう答えるコジローに、絶対ですよ、と念を押し……
それにコジローが当たり前だろ、と答えたところで。
多少は元気を取り戻したキリノがにこり、と微笑みながら声をあげる。

「……じゃあ、引き立て稽古、しましょう!」

そのキリノの様子にどうやら胸を撫で下ろしたコジローがおう、と答え、互いに面を着ける。
正面から向かい合い、おねがいします、と声を重ねた後、打ち合う二人――



”居なくなったり、しませんよね?”
”当たり前だろ”

―――その約束は、将来、最も皮肉な形で一度破られ……そして守られる事になる。


[終]
最終更新:2008年04月20日 13:19