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アオイシロ・アナザーストーリー

★愛憎


1.失われた気高さ


 「梢子さん、おはようございます。」
 「・・・・・。」
 「もう朝ですので、ご起床下さい。朝食の用意が出来ましたよ。」
 「・・・・・。」

 虚ろな表情でベッドに横たわっている梢子に、綾代が朝食を差し出した。
 綾代の手を借りて身体を起こす梢子。だがその光を失った瞳からは、かつて剣道部の部長として気高く輝いていた、あの優しさと力強さがどこにも感じられない。
 それだけではない。虚ろな表情のまま、綾代の言葉にも全く反応さえしない。
 梢子は生きてはいる。だが今の梢子の状況を、果たして「生きている」と言えるのか。

 「ほら、梢子さん、コーンスープですよ。冷めない内にどうぞ。」
 「・・・・・。」

 梢子は応えない。綾代に差し出された容器に見向きもせず、虚ろな瞳で目の前の壁をボーッと眺めているだけだ。
 やれやれ・・・綾代は溜め息をついて、コーンスープを口に含み、そして・・・

 「ん・・・ふっ・・・んちゅっ・・・」
 「・・・・・。」 

 唇と唇が触れ合った。
 綾代の口から、コーンスープが梢子の中に流れ込んでいく。
 やがて梢子が飲み込んだ事を確認した綾代は、そっ・・・と唇を離す。

 「うっ・・・ゲホッ・・・ゲホッ・・・!!」
 「もう、梢子さんったら・・・むせる位だったら、ちゃんとご自分でお食べになって下さいな。」
 「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
 「全く・・・本当に世話が焼けますね。梢子さん。」
 「ん・・・ぐっ・・・!?」

 綾代はコーンスープを口に含み、再び2人の唇が重なり合う。
 梢子が飲み込んでから、綾代はまた同じようにコーンスープを口に含み、梢子に無理矢理飲ませていく。
 あの合宿から帰ってきてから、こんな事が既に1カ月近くも続いていた。


 あの卯奈坂での合宿中に、自分たちに何の断りも無しに、突然梢子と保美が姿を消した。
 卯良島へ行って来る・・・という書き置きを残して。
 そして翌日・・・2人は帰ってきた。
 いや、帰ってきたというよりも、卯良島から流れ着いたと言った方が正しいのかもしれない。

 そして綾代の元に戻ってきた梢子と保美は、見るも無残な姿へと変わり果てていた。
 一体あの卯良島で何が起きたのか・・・今の綾代には最早知る由も無い。
 だが梢子は自我を失って廃人と化し、保美に至っては魂が抜けたかのような、まるで眠っているかのような安らかな表情で死んでいた。

 当然、他の部員も葵先生も和尚も、たまたま卯奈坂に旅行に来て咲森寺に滞在していた桂と柚明も大混乱に陥り、駆けつけた警察も事件と事故の両面を視野に入れて捜査本部を設置。さらに警察から事情を聞かされた学校から強制帰宅命令が下され、合宿は終わりを告げた。
 そして、合宿中に部長とマネージャーが勝手な行動を起こした挙句に、禁足地に足を運ぶなどという愚劣な行為を犯し、さらに廃人と死体になって帰ってくるという前代未聞の事態を引き起こしたという事で、青城女学院剣道部は無期限の活動停止処分を受けてしまった。

 また、葵先生にも監督不届行だとして一ヶ月間の謹慎処分が下されたのだが、今回の一件にショックを受けたのと、インターネットや周囲の人間からの必要以上の凄まじいまでの批判や中傷、さらに週刊誌にある事ない事書かれた事によって精神的なダメージを受け、うつ病になって自ら教師を辞めてしまった。
 虚ろな表情でサクヤに引き取られる葵先生の姿は、見るも耐えないほどに痛々しい物だった。

 こうして青城女学院剣道部の、長きに渡る伝統と輝かしい実績に終止符が打たれた。
 青城女学院剣道部は、もう終わったのだ。

 そして綾代もまた、青城女学院に休学届を出して、廃人と貸した梢子を自宅に引き取り、献身的に介護している。
 当然、両親からは猛反対されたが、今の綾代にとって梢子のいない青城女学院など、何の価値も無いのだ。
 それに、廃人と化した梢子を引き取りに来た梢子の祖父・仁之介の言葉に、綾代は憤りを隠せなかったのだ。

 「あの・・・あなた1人だけですか?梢子さんのご両親は何故来ないのですか?」
 「悪いんだけどよ・・・2人共仕事が忙しくて、どうしても来れないんだってよ。」
 「仕事・・・!?仕事ですって・・・!?自分たちの1人娘がこんな事になっているというのに!?」
 「ああ、お嬢さんが怒るのも当たり前だ。本当にあいつらはどうしようも無い連中だよ。だが梢子は俺が必ず責任を持って・・・」
 「ふざけないで下さい。あなた方のような無責任な方たちに、梢子さんは任せておけませんわ。」
 「お嬢さん・・・けどよ、俺は梢子の・・・」
 「梢子さんは私が引き取らせて頂きます。誰にも文句は言わせません。」

 こうして綾代は梢子を引き取り、学校を休んでまで献身的に介護を続けている。
 あれから1カ月・・・未だに状況は好転しない。梢子は相変わらず廃人のままで、綾代の献身的な態度に何の反応も見せない。
 だが綾代は信じていた。いつか必ず、梢子があの優しくも力強い、輝かしい笑顔を自分に見せてくれると。
 あの誇り高い剣道部の部長としての姿を、必ず自分に見せてくれると。

 何年、いや、何十年もかかるかもしれない。いや、もしかしたら梢子さんは、もう元に戻らないかもしれない。
 いや、元に戻してみせる。この私が必ず元の梢子さんに戻してみせる。
 例えどれだけの年月をかけようとも・・・。私の人生の目的は、もうそれだけで構わない。

 綾代は強い決意と覚悟を秘めていた。だからこそ綾代は、梢子の介護も全然苦にならなかった。むしろ梢子のそばにいる事が出来て楽しかった。
 綾代の両親は病院に入院させるべきだと主張し、綾代に学校に行くよう促すのだが、綾代はそれを断固拒否した。
 今の綾代は、大好きな梢子を独り占めしているのだから。
 大好きな梢子を、誰にも渡したくないから。 

 「梢子さん・・・焦らなくてもいい・・・焦らなくてもいいんですよ。ゆっくりと自分の気持ちを整理していけばいいんです。」
 「・・・・・。」
 「何年、いえ、何十年かかったって構いません。私が梢子さんの面倒を見て差し上げますから。」
 「・・・・・。」
 「私がずっと、梢子さんのそばにいますから。ですから安心して下さい。梢子さん。」
 「・・・・・。」
 「私が梢子さんを、決して1人にはしませんから・・・。」

2.強い嫉妬故に


 とてもいい天気の、清々しい土曜日。
 綾代は車椅子に乗せた梢子を連れて電車に乗り、近くの自然公園までやってきた。
 都会の喧騒とは掛け離れた、静かで美しい光景。木々や花畑が広がり、小鳥たちがさえずり、多くの人々がくつろいでいる。
 広大なグラウンドや球戯場では子供たちや同好会の人たちが、野球やテニス、バトミントン、サッカー、ベイブレード、ラジコンなどの様々な球技や遊戯を楽しんでいる。
 その一挙一動に声援を送り、楽しそうに騒ぐ人達。

 そんな中でただ1人、梢子だけが周囲の楽しそうな空気から完全に浮いていた。
 焦点が定まらない虚ろな瞳で、憔悴し切った表情で、目の前の光景をボーッと眺めていた。

 「梢子さん・・・私はよくここに足を運ぶんです。電車に乗らないと行けないのは難点なんですが・・・まあ、私の通学定期券で行ける範囲ですしね。」
 「・・・・・。」
 「都会の騒々しさから隔離された、とても静かで綺麗で和やかで、落ち着ける空間・・・私はこの雰囲気がとても気に入っているんです。」
 「・・・・・。」
 「梢子さんはどうですか?この公園を気に入って頂けましたか?」
 「・・・・・。」

 梢子は応えない。
 いや、今となっては、綾代の声が届いているのか、綾代の存在自体を認識しているのかどうかさえ疑わしい。
 それでも綾代はそれに動じる事無く、とても穏やかな表情で、梢子の車椅子を押していく。
 どれだけ長い年月をかけようとも、必ず梢子さんを元に戻してみせる・・・この強い決意と覚悟があるからこそ、綾代は頑張れるのだ。
 今は応えてくれなくても、いつか必ず応えてくれる・・・綾代はそう信じているから。

 ふと、そこへ綾代の目の前に、懐かしい人影が現れた。

 「あら・・・綾代ちゃんじゃない。久しぶりね。」

 桂と柚明がこの公園に散歩に来ていたのだ。
 ふと、綾代は、この2人の住所がこの公園のすぐ近くだった事を思い出した。
 梢子の携帯電話のアドレスを調べてみたら、桂の住所が記されていたのだ。

 よく考えてみたら、桂の住所は梢子の住所からそんなに遠くない。2人の住所は電車で2駅程度しか離れていない。
 そう言えば桂は他校の生徒でありながら、合宿先でたまたま宿を共にする事になった梢子に常にくっついていて、梢子とやたらと親しかった。
 一体この2人の間に何があったのかは綾代は知らないし、綾代は気になって合宿中に梢子に問い正したのだが、梢子は恥ずかしがって応えようとしなかった。

 だが1つだけ確実なのは、桂と梢子はやたらと仲が良かったという事だ。
 合宿中に今は亡き保美が、それはもう百子が恐怖に震えて腰を抜かす程の物凄いジト目で桂の事を睨んでいたのを、綾代は鮮明に覚えているのだが・・・。

 とにかく、もう1つ確実な事・・・
 それは、綾代が桂に嫉妬しているという事だ。

 「ああ、柚明さん・・・桂さんもお久しぶりです。あの合宿以来ですね。」
 「そうね・・・それで、梢子ちゃんの様子はあれからどう?」
 「見ての通り・・・未だにこの有り様です。」
 「そう・・・梢子ちゃんはまだ・・・」
 「そういう柚明さんはどうしてこの公園に?桂さんやノゾミちゃんと一緒にお散歩ですか?」
 「ええ、ちょっと気分転換にね。私たちの家、この公園のすぐ近くだから。」
 「そうですか・・・。従姉妹同士で仲良く楽しんで下さいね。私たちは邪魔のようなので、これで失礼します。」 
 「あ・・・綾代ちゃん、ちょっと待って!!」

 何食わぬ顔でその場を去ろうとする綾代を、柚明が慌てて呼び止めた。 
 早くこの2人の前からいなくなりたいのに・・・綾代は心の中のイライラを抑えながら、あくまでも平静を装って柚明に向き直った。 

 「あら?柚明さんどうなされました?私たちはあなた方に構っていられる程、暇では無いのですが・・・。」
 「あのね、この間桂ちゃんとノゾミちゃんと話し合って決めた事なんだけど・・・後で綾代ちゃんにも電話で話しておこうかと思ったんだけどね。」
 「だから一体どうなされたのですか?そんな真剣な表情で。」
 「梢子ちゃんを、私たちが引き取りたいんだけど・・・駄目かしら?」
 「え・・・?」

 綾代の両肩を優しく掴みながら、とても真剣な表情で柚明は綾代の瞳をじっ・・・と覗き込んだ。
 その穏やかながらも神々しさすら感じる蒼白の瞳に綾代は一瞬戸惑ったが、それでもそれに動じることなく柚明を睨み返す。
 梢子さんを引き取りたい・・・この言葉で綾代の心の中のイライラは、次第に増幅しつつあった。
 それは、綾代が桂に嫉妬しているから。桂に梢子を取られたくないから。

 「私の『力』なら時間はかかるかもしれないけど、梢子ちゃんを元に戻せるかもしれないから。私の『力』は綾代ちゃんもよく知っているでしょう?」
 「はい、何しろ目の前で見させて頂きましたから。合宿での肝試しで、柚明さんと組ませて頂いた時に。」
 「それで、梢子ちゃんの治療の為に参考にさせて貰いたいんだけど、お医者さんは梢子ちゃんの容体をどういう風に言っていたの?」
 「精神科専門のお医者様に診て頂いたのですが、こんな状態の患者は今まで診た事が無くて、治療法も分からなくて、手の施しようが無いと・・・ただ1つだけ言えるのは・・・。」
 「言えるのは?何?」
 「・・・梢子さんの脳内をスキャンして頂いたのですが・・・何かは分かりませんが、強い干渉を受けたような痕跡があると・・・。」

 柚明は冷静に綾代の言葉を分析し、その僅かな手掛かりから、自らの『力』を使った治療法を迅速かつ的確に頭の中で作り上げていく。
 精神科専門の医者・・・診た事も無い症状・・・治療法が分からない・・・脳内をスキャン・・・脳内に強い干渉・・・
 恐らく、何かの術で梢子の記憶がごちゃごちゃにでもなっているのだろう。でなければ精神科専門の医者が「こんな状態の患者は診た事が無くて、治療法が分からない」などと言い出すなんてあり得ない。

 柚明の頭の中で、梢子の治療法が確立した。
 かなり面倒な作業になるが、治療法自体は極めて簡単だ。梢子と意識をシンクロし、そのごちゃごちゃになった記憶をゆっくりと元通りに組み直すだけの話だ。柚明の『力』なら、それが出来る。
 例えるなら、完成品の模範を見ながらジグソーパズルを組むような物だ。時間はかかるが柚明にとっては造作も無い事だろう。 

 とても強い意志を秘めた瞳で、柚明は綾代にはっきりと告げた。

 「綾代ちゃん。かなり時間はかかるけど、私が必ず梢子ちゃんを元に戻してみせる。だから梢子ちゃんを私たちに預けてもらえないかしら?」
 「・・・それは出来ません。お断りします。」
 「そんな、どうして!?百子ちゃんに聞いたんだけど、綾代ちゃんはもう1カ月近くも学校を休んでいるんでしょう!?」
 「そういう柚明さんはどうなのですか?梢子さんのご両親のように、梢子さんの事をほったらかしにされても困るのですが。」
 「私は今は主婦だから時間的にゆとりがあるし、テレビにも出てて出演料とか放映権料とか色々入るし、サクヤさんに頼まれて自宅で雑誌のコラムも書いてて原稿料も貰ってるから、安定した収入があるの!!だから綾代ちゃんが心配するような事は何も無いから!!」

 綾代だって分かっている。柚明が自分や梢子の事を大切に想ってくれた上で、こんな事を言っているのだという事を。
 柚明の穏やかで真剣な瞳が、また自分の両肩を掴む柚明の両手の温かさと優しさが、それを物語っていた。
 そして、柚明の『力』なら梢子を治す見込みがあるという事も。いや、時間はかかるかもしれないが、柚明なら本当に治してしまうだろう。

 そして、柚明は自分の発言にはしっかりと責任を持つ人で、しかも思いやりもある人だから、梢子の両親のように仕事が忙しいという理由で梢子の事をほったらかしになど、絶対にしないだろう。
 それは綾代も充分に承知している。だからこそ綾代は、本心では柚明に梢子を任せたかった。

 だがそれでも綾代の頭の中では、桂への嫉妬がそれを遥かに上回ってしまっていた。
 梢子さんを誰にも渡したくない、梢子さんを桂さんに取られたくない・・・と。
 それ故に綾代は、頭の中では柚明を侮辱する事だと分かっていても、柚明に申し訳無いと思いながらも、思わずこんな事を口走ってしまった。 

 「とても柚明さんなんかには任せておけませんわ。だって私、柚明さんの事を信用していませんから。」
 「綾代ちゃん、どうして!?私は預かるからには責任を持って梢子ちゃんを・・・」
 「柚明さんこそ、桂さんの事を10年間もほったらかしにしていたではありませんか。」
 「・・・!!あ、綾代ちゃん、それは・・・!!」
 「神を封じる為だか何だか知りませんが、ご自分の従妹を置き去りにして、10年間も樹の中に閉じこもるなんて。」
 「それは・・・確かにそうなんだけど・・・でもね綾代ちゃん、私は」
 「柚明さんのせいで桂さんは、ショックで記憶を失われたそうではありませんか。大切な人が目の前からいなくなる事がどれだけ辛い事か、桂さんがどれだけ辛い思いをしたか、柚明さんに分かりますか?」

 綾代の言葉で柚明は言葉に詰まった。言い返せなかった。
 10年前に桂を助ける為にオハシラサマになった。それは桂を想うが故の事。
 だが柚明のその行為が桂を絶望のどん底に突き落とし、自分との記憶を失わせる事になってしまった。

 経観塚で自分の事を「ユメイさん」と呼ぶ桂の姿を、柚明は今も生々しく覚えている。
 桂が自分の事を覚えていない・・・あの時の柚明は周囲には平静を装いながらも、心の中では絶望に打ちのめされていた。
 だからこそ、一時的にご神木の中に戻った時、主が目の前にいるというのに大声で号泣し、その時に主に思い切り見下された挙句、

 『まさか貴様がこれ程脆弱な女だったとはな。羽藤桂を守る為に全てを捨てたのでは無かったのか。私を侮辱するのも大概にしろ。』
 『ううう・・・ううああああああ!!』
 『今の貴様にハシラの継ぎ手として、私の後妻として、私の封じを担う資格は無い。はっきり言って目障りだ。早々に私の前から消え失せろ。』
 『うあああああああああああああああああああああ!!』
 『所詮はこの程度・・・興が削げた。貴様など潰す価値も無いわ。このゴミクズが。』

 などというやり取りもあったのだ。
 それ故に柚明は、綾代が自分に梢子を任せられないと主張するのも理解出来た。
 綾代とて、梢子をかつての桂と同じ目に遭わせられたら、たまった物ではないだろう。

 だが今の柚明はオハシラサマではない。そしてもう二度とオハシラサマにはならない。ずっと桂のそばにいると、桂と契りを交わしたのだ。
 そして現代の医学では梢子を治せない以上、自分の『力』なら梢子を治せる以上、柚明もこのまま引き下がるわけにはいかなかった。
 綾代の主張を理解しながらも、それでも柚明は綾代と梢子の為に心を鬼にして、語気を強めて厳しい態度で綾代に当たった。 

 「確かに綾代ちゃんの言う事も分かるけどね、でも私なら梢子ちゃんを治せると言っているのよ!?それにお医者さんは治療法が分からないと言っていたんでしょう!?」
 「それでも柚明さんなんかには、到底任せられませんわ。」
 「綾代ちゃん、もっと現実を見なさい!!」
 「現実を見ろですって?まさか桂さんを10年間も苦しめた柚明さんに、そんな大それた事を言われるとは思いませんでしたわ。」
 「今はその話は関係無いでしょう!?私は梢子ちゃんを助ける為に何が最善かを話しているのよ!?」
 「そんなに桂さんの事を大切に想っていらっしゃるのなら、どうして11年前に桂さんも一緒にオハシラサマにしなかったのですか?桂さんにも資格は充分にあったのでしょう?桂さんは柚明さんの事を慕っていたのでしょう?」
 「・・・そ、それは・・・でもそれは桂ちゃんを大切に想うからこそ・・・!!」

 桂さんを大切に想うからこそ・・・ですって?
 何も分かっていない。思い上がりもいい所だ。
 自分のせいで桂さんが10年間も苦しんだという事を、この人は何も分かっていない。
 こんな身勝手な人に、やっぱり梢子さんは任せてはいられない。

 柚明のこの言葉で、綾代の頭の中で『何か』がプツリと切れた。
 言葉では平静を装いながらも、綾代は自分の想いのたけを柚明にぶつけた。

 「まさか柚明さんがそれ程脆弱な方だとは思っていませんでしたわ。私を侮辱するのも大概にして頂きたいのですが。」
 「あ・・・綾代ちゃん・・・!?」
 「今の柚明さんに梢子さんを任せてはいられません。はっきり言って目障りです。早々に私の前から消え失せて下さい。」

 ニュアンスは違うが、主と全く同じ言葉。柚明は動揺を隠せなかった。
 普段は見せないとても厳しい目付きで、綾代は柚明を睨む。
 そんな綾代の態度に、今度は桂がキレた。

 綾代ちゃんは、何も分かっていない。
 こんな身勝手な人に、梢子ちゃんは任せてはいられない。

 「綾代ちゃん、本当に梢子ちゃんの事を大切に想っているの!?柚明お姉ちゃんは梢子ちゃんを治せるって言ってるんだよ!?」
 「ですから、このような身勝手で思い上がりも甚(はなは)だしい方に、梢子さんを任せてはおけないと言っているんですよ。」
 「身勝手で思い上がりなのは綾代ちゃんの方だよ!!ふざけないで!!」
 「それに私、桂さんの事が嫌いですから。」
 「え・・・!?」
 「だって、桂さんは私から梢子さんを奪おうとするんですもの。」

 柚明を強引に振りほどき、綾代は梢子を連れてその場を去っていく。

 「そういう訳ですので、失礼させて頂きます。さようなら。」

 桂も柚明も綾代の言葉に動揺して、後を追いかける事が出来なかった。
 呆然と立ち尽くす桂と柚明。

 「何で・・・私の事が嫌いって・・・綾代ちゃん・・・何で・・・」
 「桂ちゃん・・・」
 「私はただ、梢子ちゃんに元気になってほしいだけなのに・・・梢子ちゃんを奪うなんて、そんな・・・」

 どんどん遠くなっていく綾代に向かって、桂は声を精一杯張り上げて思い切り吠えた。

 「だから身勝手で思い上がりだって言ってるのよ!!綾代ちゃんの馬鹿ーーーーーーーーーーーーーーー!!」

3.大切な人


 「梢子さん、昼食の用意が出来ましたよ。」

 翌日の日曜日、またいつものように梢子の世話をする綾代。
 相変わらず梢子は憔悴し切った表情で、綾代の呼びかけに応じようとしない。
 クリームシチューが入った容器を差し出す綾代。
 それに反応しない梢子。
 それを見て、またいつものように口移しで食べさせる綾代。

 一体こんな事を、あとどれ位続ければいいのか。
 相変わらず梢子の容体は改善の兆しを見せない。
 今思えば、本当は柚明に梢子を引き取ってもらった方がよかったのかもしれない。
 柚明は「時間はかかるけど、必ず梢子ちゃんを治せる」と公言していたのだから。
 いや、弱音を吐いてなどいられない。柚明にあんな事を言ってしまった以上、もう綾代に逃げ道は無いのだ。
 必ず治してみせる。例え何十年かかろうとも・・・。

 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 今は両親が留守なので、自分が出るしか無かった。
 溜め息をついて、綾代はクリームシチューが入った容器を近くのテーブルに置いて、席を立つ。

 「梢子さん、申し訳ありませんが、少し席を外させて頂きますね。」

 慌てて玄関に向かう綾代。

 「は~い、どちら様ですか?」
 「姫先輩、私です。百子です。」
 「まあ、百子ちゃん、久しぶ・・・」

 玄関を開けると、そこには桂と柚明も一緒にいた。
 2人の姿を見て、何とも言えない表情になる綾代。

 「・・・どうしてこの2人が一緒にいるんですか?百子ちゃん。」
 「はと先輩に昨日、電話でオサ先輩の事を相談されたので、私が無理矢理ここに連れてきました。文句ありますか?」

 柚明の力なら梢子を治せるという事、それを綾代は拒否したという事、綾代が桂を嫌いだと言った事・・・百子は桂から事情を全て聞かされていた。
 そして、そんな綾代の態度に百子は我慢が出来なくなり、桂と柚明を連れてきたのだ。
 梢子を助けてもらう為に。梢子に元気になってもらう為に。 

 「・・・嫌です。渡したくありません。梢子さんの面倒は私が・・・」
 「姫先輩!!自惚れるのも大概にしたらどうなんですか!?」

 百子が物凄い形相で綾代を怒鳴り散らした。
 普段は見せないその凄まじい気迫に、綾代は驚きを隠せない。
 百子も決して譲らない。決して引こうとしない。梢子を治して貰う為に、桂と柚明に無理を言ってここまで来てもらったのだ。今更引けるはずが無かった。

 「柚明さんはオサ先輩を治せるって言ってくれたんですよね!?オサ先輩の面倒を見るって言ってくれたんですよね!?だったらその好意に甘えて、柚明さんに引き取って貰えばいいじゃないですか!!」
 「だって、私は梢子さんを・・・」
 「じゃあ逆に聞きますけど、姫先輩にオサ先輩を治せるんですか!?治る見込みはあるんですか!?」
 「そ・・・それは・・・」

 言葉に詰まる綾代。
 綾代は普通の人間だ。柚明と違って「必ず治せる」と断言は出来なかったし、正直言って治る見込みも全く無かった。
 事実、あれから一ヶ月が経過した今も、未だに梢子の容体は改善の兆しを見せていないのだ。
 だから、さっさと柚明に梢子を引き渡してしまえ・・・百子は綾代にそう告げているのだ。
 そして、煮え切らない態度の綾代に業を煮やした百子は、意を決して無理矢理綾代の家に上がりこんだ。

 「姫先輩、失礼ですけど上がらせて貰いますから!!」 
 「ちょ、百子ちゃん!?」
 「オサ先輩はどこにいるんですか!?・・・この匂いは!!」

 百子の鼻に届く、クリームシチューの匂い。
 きっと梢子に昼食を食べさせていたのだろう。そう判断した百子は匂いを辿り、遂に梢子の部屋に辿り着いた。
 百子の目に映ったのは、テーブルの上に置かれた食べかけのクリームシチューと、虚ろな表情でベッドに座っている梢子。

 「はと先輩!!柚明さん!!こっちです!!」

 百子の突拍子な行動に呆気にとられ、呆然と立ち尽くしていた桂と柚明だったが、百子の声で我に返り、お互いに目を合わせて頷き合い、綾代に頭を下げて家に上がりこんだ。
 そして2人の目に映った、無残な梢子の姿。
 あの合宿が終わってから全く変わっていない、生気が失せた梢子の姿。
 あの気高くて優しくて、部員のみんなから慕われていた梢子の面影がかけらも感じられない、今の目の前の「抜け殻」の姿に、百子は耐えられなかった。  

 「姫先輩!!柚明さんに診て貰いましょうよ!!柚明さんにオサ先輩を引き取って貰いましょうよ!!」
 「だけど・・・私は・・・」
 「こんなの、オサ先輩じゃないですよ!!こんなの・・・オサ先輩じゃ・・・!!」
 「嫌・・・嫌・・・」

 私から梢子さんを奪わないで下さい!!
 この言葉が綾代の喉元から出かかったのだが、口にする事が出来なかった。
 綾代も頭の中で分かってはいるのだ。このまま自分の家に置いておくよりも、柚明に引き取ってもらった方が状況は好転するという事を。
 だがそれは、自分の目の前から大好きな梢子がいなくなる事を意味する。
 それで、桂に梢子を奪われるような事になれば・・・それが綾代には怖いのだ。

 だが、綾代とて百子と同じ気持ちだ。今の梢子の姿にはとても耐える事が出来ない。
 だから、柚明が治せると公言しているのだから、本心では柚明に梢子を預けたかった。
 だが、それでも・・・桂への嫉妬が綾代の決断の邪魔をする。

 そんな綾代の後押しをしたのは、百子のこの言葉だった。

 「そんなにオサ先輩の事が好きなら、はと先輩にオサ先輩を取られるのが嫌なら、柚明さんがオサ先輩を治してから、正々堂々と告白すればいいじゃないですか!!」
 「も・・・百子ちゃん・・・」
 「姫先輩はいいですよ・・・大切な人がまだ生きてるんですから・・・!!私なんて・・・私なんて・・・ざわっちが死んじゃって・・・私が大好きだったざわっちが・・・!!」

 いつの間にか百子の目には、大粒の涙が。
 大好きだった保美が死んだ。大切な人がいなくなってしまった。
 綾代と違って、想いを寄せる人はもう、この世にはいないのだ。
 だがそれでも、いや、だからこそ、せめて生き残った梢子には元気になってほしい。あの気高くて優しい姿を自分の前に見せて欲しい。

 剣道部はもう潰れてしまったけれど、それでも青城女学院の先輩として、自分たちを導いて欲しい。
 梢子には、死んでしまった保美の分まで、大切な人がいなくなってしまった自分の分まで、幸せになってほしい・・・百子はそう願っているのだ。

 「だから姫先輩はオサ先輩が治ってから、はと先輩と正々堂々と勝負すればいいじゃないですか!!私なんかもう、そんなチャンスすら無いんですよ!!私なんかに比べたら、姫先輩は遥かに恵まれてますよ!!」
 「百子ちゃん・・・」
 「だから・・・私は馬鹿ですから、上手く言えないんですけど・・・だから、お願いですから、柚明さんにオサ先輩を治してもらって下さいよ!!お願いですから!!」
 「百子ちゃん・・・!!」
 「こんなオサ先輩嫌ですよ!!こんなのオサ先輩じゃないですよ!!うああああああああああああああああああ!!」

 百子は綾代にしがみついて号泣した。
 綾代もまた、百子の身体を抱き寄せて涙を流す。
 そんな2人を尻目に、いつの間にか柚明が梢子と意識をシンクロさせていた。
 その様子を心配そうに見守る桂。

 『梢子先輩には・・・鳴海・・・立派な・・・日本一の・・・』
 『保美を・・・このまま・・・じゃない・・・』
 『だから・・・先輩の記憶を・・・』
 『保美・・・忘れ・・・なんて・・・』

 断片的に柚明の頭の中に流れる映像。
 やがて意識を切り離した柚明は、神妙な表情で断言した。

 「今の段階では確証は持てないけれど・・・梢子ちゃんをこんな風にしたのは、多分保美ちゃんだわ。」

 予想外の柚明の言葉に唖然とする3人。

 「そんな、柚明お姉ちゃん、どういう事なの!?」
 「分からない・・・だけど梢子ちゃんがこんな風になってしまった事に、間違いなく保美ちゃんが絡んでいるのは確かよ。」
 「そんな・・・どうして保美ちゃんが・・・!?」
 「とにかく家に帰ってから、じっくりと調べてみる必要があるわね。・・・綾代ちゃん、そういう事だから、綾代ちゃんさえ良ければ・・・」

 言われるまでも無く、綾代は柚明に頭を下げていた。
 もう何が何だか分からなかった。とにかく何でもいいから梢子を治して欲しかった。

 オサ先輩が治ってから正々堂々と、はと先輩と勝負すればいい。
 私なんか、もうそのチャンスすら無い。それに比べたら姫先輩は恵まれている。
 こんなのオサ先輩じゃない。こんなオサ先輩は嫌だ。

 百子の言葉が後押しとなっていた。

 「柚明さん・・・梢子さんを・・・梢子さんを助けて下さい・・・お願いですから・・・!!」
 「・・・ええ、任されたわ。」
 「柚明さん・・・桂さん・・・昨日はごめんなさい・・・あんな酷い事を言って・・・本当にごめんなさい・・・!!」

 涙を流しながら、昨日の公園での出来事を謝罪する綾代。
 そんな綾代の涙を、桂は優しくハンカチでふき取ってあげた。

 「綾代ちゃん、もういいよ。私は気にして無いから。」
 「桂さん・・・本当に・・・本当にごめんなさい・・・!!」
 「うん、許してあげるから。だから泣かないで。」
 「柚明さん・・・梢子さんを・・・梢子さんを頼みます・・・!!」

 梢子をお姫様抱っこして、柚明は力強く綾代に告げた。

 「ええ、約束するわ。時間はかかるけど、必ず梢子ちゃんを元に戻してみせるから。」
 「はい・・・はい・・・お願いします・・・!!」
 「桂ちゃん、早速家に帰って梢子ちゃんを治療しましょう。」

 綾代ちゃんと百子ちゃんの想いに誓って、必ず梢子ちゃんを治してみせる。
 柚明は強い決意を胸に秘め、桂と共に綾代の家を後にする。
 そして去り際に、桂は力強く綾代に宣言した。

 「綾代ちゃん。梢子ちゃんが治ったら、その時は正々堂々と勝負だよ!!」