※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

シロイユキ・第1話

「それは白い雪の花のように」(小雪視点・前半)


1.1200年前・・・


 「はぁっ・・・はぁっ・・・はぁっ・・・!!」

 まるで花のように美しい、可憐な白い雪が優しく降り注ぐ冬空の下で、美しく神々しい輝きを放つ《剣》を杖代わりにしながら、天照はとても苦しそうに息を切らしていた。
 全身傷だらけなのだが特に凍傷が一番酷く、服のあちこちが凍結してしまっていた。

 彼女の目の前で封じの結晶の中に閉じ込められているのは、この日本を我が物にしようと企んでいた氷の女神・セラ。
 彼女の野望をいち早く察知した天照は、人間たちをセラの魔の手から守る為に、《剣》を手にセラを相手に戦いを挑み、壮絶な死闘の果てにどうにかセラを打ち倒す事に成功した。
 だが天照と《剣》の力を持ってしてもセラに完全に止めを刺す事が出来ず、こうして封印するだけで精一杯だったのだ。

 「残念だったな・・・セラ・・・私は太陽を司る女神だぞ・・・いくら甕星(主)に匹敵する力を持つ君でも・・・燃え盛る太陽を凍らせる事など・・・出来るはずが・・・無いだろう・・・」
 「天照様!!ご無事で!!」

 そんな天照の下に豊受が部下たちを引き連れ、とても心配そうな表情で駆けつけてきた。
 先程までセラが召喚した無数の魔物たちを相手に、天照の指示で人間たちを守る為に、部下を率いて戦っていたのだ。
 全身傷だらけの天照に、豊受は慌てて治癒術を施す。
 彼女が生み出した金色の光が天照の中に溶けていき、傷や凍傷を瞬く間に治していく。 
 だが壮絶な戦いによる疲労までは癒す事は出来ず、天照はとても疲れ切った表情で豊受の豊満な胸に顔をうずめ、彼女の身体に身を任せた。
 そんな天照の顔を、豊受はぎゅっと抱き締めている。

 「トヨ・・・村の皆は無事かい?」
 「はい、セラが生み出した魔物なら私たちで全滅させました。負傷者は32名出ましたが、天照様の適切な作戦のお陰で死者は誰も出ていません。私たちの完全勝利です。」
 「そうか・・・皆が無事でよかった・・・」
 「それよりも天照様!!皆の心配よりも、まずはご自分の身の心配をなさって下さい!!」

 先程まで自分の身体が全身傷だらけになっていたというのに、そんな状況下においても天照は自分の事よりも先に、村人の身の安全を案じていたのだ。
 そんな天照の優しさに、豊受は思わず切なくなってしまう。
 彼女はこれからも人間たちを守る為に、身を削ってでも戦い続けるのだろう。 
 だが、それによって天照が命を落とす事になってしまったら・・・それが豊受には怖いのだ。

 「・・・大丈夫だよ、トヨ。私は君の前から決していなくなったりしないさ。」
 「天照様・・・!!」

 そんな豊受の心情を察したのか、天照は豊受の身体をぎゅっと抱き締めた。
 大切な人の温もりと優しさが、天照の心を安心させる。
 互いの存在を確かめ合うように抱き合う2人を、部下たちが神妙な表情で見つめていた。

 『ゆ・・・許さんぞ天照・・・よくもわらわをこのような目に遭わせてくれたな・・・!!』

 その時、封じの結晶の中から禍々しく響いたのは、セラの天照への強い怒りと憎しみ。
 天照はよろめきながらも立ち上がり、部下たちを下がらせて《剣》を構える。
 だが天照にはもう戦うだけの力は残されておらず、《剣》の力で結晶を維持するだけで精一杯のようだった。

 『そなたさえいなければ・・・わらわは今頃はこの国を我が物にしていたというのに・・・そなたさえいなければ・・・!!』
 「全く、本当にしつこい奴だな君は・・・その執念だけはマジで敬意に値するよ。」
 『この程度の結界など、わらわの力ですぐに破ってくれようぞ・・・!!』

 結晶の中に閉じ込められても尚、禍々しい力を情け容赦なく天照たちにぶつけてくるセラ。
 今は《剣》の力でセラを抑えてはいるものの、天照の力では所詮は一時しのぎでしかない。このままではセラを封じている結晶は、いずれ粉々になってしまうだろう。
 そうなる前に、より強力な封じの秘術によって、セラを完全に封印しなければならない。
 そう・・・天照が施している付け焼き刃の封印とは違う・・・触媒として生贄が必要な程の、永続的な効力を発揮する強力な封じの秘術によって。 

 「このままでは結界が破られる・・・一体どうすれば・・・!!」
 「ならば私がオハシラサマとなって、槐の封印術によってお母様を封じましょう。」
 「な・・・雪花!?」

 そこへ天照の下に現れたのは、セラの一人娘である白野雪花(しらの・せつか)。
 とても穏やかな、覚悟を決めた表情で、雪花はセラが封じられている結晶の前に歩み寄る。
 その雪花の言葉を聞いた天照が、よろめきながらも慌てて雪花の前に立ちはだかった。
 天照は100年前に、同じ光景をその目で目撃しているのだ。
 あんな悲しい思いは、もう二度と繰り返したくなかったというのに。 

 「雪花!!馬鹿な真似はやめろ!!ハシラになるというのがどういう事か、君は本当に分かっているのか!?」
 「分かっています。肉体を捨てて魂だけの存在となり、槐の木と同化してお母様を封じる要として、永劫の時を生きる事になるのでしょう?」
 「君がそんな重荷を背負う必要は無いだろう!?君には何の罪も無いし、何よりもセラは君を捨てた最低な母親じゃないか!!それを・・・!!」
 「それに天照様・・・他に方法がありますか?」
 「・・・っ!?」

 雪花の言葉を聞いて、天照は言葉を失ってしまった。
 天照はセラとの戦いで受けたダメージが完全に癒えておらず、かと言って豊受の戦闘能力はセラの足元にも及ばない。それに天照の力ではこれ以上セラを抑えておく事は出来ないのだ。
 セラの魔の手から人々を確実に守る為には、もう雪花がオハシラサマになってセラを封じ、その力を少しずつ削って安らかな死を与える事しか方法が無いのだ。
 誰かを犠牲にしての勝利など・・・そんな物は天照には耐えられないというのに。

 「それにこの人は、たった1人の私の母親なんです。どんなに最低な人でも、私を産んで下さった私の母親なんです。」
 「雪花・・・しかし・・・!!」
 「だから天照様にお母様を殺される位なら、せめて私がこの手でお母様に引導を渡します。どれだけ悠久の時を掛けてでも、私は必ずお母様に安らかな死を与えます。」

 雪花がとても愛しそうに結晶を抱きかかえた途端、彼女の足元で魔方陣が展開され、巨大な槐の木が2人の目の前に現れた。
 そしてセラを封じていた結晶が雪花の秘術によって破壊され、セラを抱き締めた雪花は槐の木の中に飲み込まれていく。

 「ぬぐああああああ!!おのれ雪花ぁ!!わらわを主と同じ目に遭わすと申すかぁっ!?ふざけるなぁっ!!」
 「天照様、豊受様・・・どうか私の娘を・・・氷麗(つらら)の事をよろしくお願いします。産まれたばかりのあの子の事は、私の唯一の心残りですが・・・それでも先の無い私の為に、あの子の未来を潰してしまうわけにはいきませんから。」

 全てを悟り切ったような雪花の悲しい笑顔を見て、天照は悲しみの表情を雪花に見せた。
 100年前のあの時と・・・主が小角に敗北し、カグヤによって封じられたあの時と同じ光景が、今もまた繰り広げられようとしているのだ。

 「だったら雪花!!私とトヨがハシラに・・・!!」
 「いいえ、それは駄目です。天照様は豊受様と共にこれからも人々を導き、守っていかなければならないでしょう?」
 「だからと言って、何で君が犠牲になる必要があるんだぁっ!?」
 「これは犠牲ではありません。私自身が望んで私自身の意思で決めた事ですし、それに私は消えてしまうわけじゃない・・・単に在り方が変わるだけであって、そしてこれからもお母様と共に在り続けるだけの事ですから。」
 「雪花ぁっ!!」
 「私はずっと、皆さんの事を見守っていますから・・・だから天照様、そんなに悲しそうな顔をしないで下さい・・・貴方は天から人々を照らす、誇り高き太陽ではないですか・・・。」 

 それだけ言い残し、雪花の声とセラの絶叫は聞こえなくなってしまった。
 雪花とセラが、完全に槐の木の中に飲み込まれてしまったのだ。 

 (氷麗・・・さようなら・・・)
 「くそぉっ!!」 

 その一部始終を目撃した天照は、とても悔しそうに地面に右拳を叩き付けた。
 慌てて豊受が、そんな天照を戒めるようにぎゅっと抱き締める。

 「何て事だ・・・!!これでは甕星やカグヤの時と同じじゃないか!!くそおっ!!」
 「天照様・・・!!」
 「カグヤ・・・朱雀・・・そして雪花・・・私はまた、大切な人を守る事が出来なかったのか・・・!!」

 涙を流しながら、天照は豊受の身体をぎゅっと抱き締めた。
 また同じ事を繰り返してしまった。またしても止める事が出来なかった。
 自分の力が足りなかったばかりに、また大切な人を守る事が出来なかった・・・それが天照には何よりも悔しいのだ。

 「何が誇り高き太陽だ!?何が真の《剣》の正当継承者だ!?私はこんなにも無力で脆弱な存在でしかないというのにぃっ!!」

 先程までの激しい戦いがまるで嘘だったかのように、白い花のような可憐な雪が、天照を慰めるかのように静かに降り注いでいる。
 そんな天照の下にセラの魔の手から救われた村人たちが駆けつけ、盛大に天照に感謝と賞賛の声を浴びせた。

 天照様がセラ様を倒して下さった。
 天照様のお陰で俺たちは救われた。
 天照様はわしらの英雄じゃ。
 ありがとうございます。天照様。
 今夜は宴だ。酒と馳走を用意しろ。

 村人たちの嘘偽りの無い、心からの天照への感謝の声・・・だが天照はそれらの言葉を聞く度に、胸が締め付けられるような気持ちで一杯になってしまっていた。
 私はそんなに大層な存在じゃないんだと。たった1人の少女さえも守る事が出来なかった、最低な女神なのだと。
 その自責の念が、情け容赦なく天照の心を痛めつける。
 涙を流しながら豊受の身体にしがみつく天照を、槐の木が優しく包み込むように見守っていたのだった・・・。

2.そして、現代


 「・・・と、言うわけで、天照大神(あまてらす・おおみかみ)様は豊受姫(とようけびめ)様と共に、霊剣《天叢雲剣》(あまのむらくも)の力によって、この日本を支配しようとしていた邪神セラを見事にぶち殺したのでした。めでたしめでたし。」

 とても清々しい4月の青空の下、青城女学院の1年C組の教室内・・・このクラスの担任でもある桂がチョークと参考書を手に、とても穏やかな笑顔で古典の授業を行っていた。
 青城女子大学で無事に教育職員の資格を取り、卒業してからの研修期間を含めて2年目となる桂の教師生活・・・まだまだ新米教師としてのキャリアしか無いのだが、それでも一生懸命ひたむきに頑張っている桂は、毎日がとても充実していた。

 本来なら今年は、当初はこのクラスの副担任を務める予定だったのだが、担任を務める予定だった葵先生が結婚して一時産休する事になったので、急遽桂が担任を務める事になったのだ。
 とても優しくて穏やかな性格をしていて、しかも剣道部の顧問で相当な剣道の実力者でもある桂は、生徒たちから心から慕われている。
 キーンコーンカーンコーン。
 そうこうしているうちに、あっという間に授業時間が過ぎてしまったようだ。
 生徒たちはう~んと背伸びをして、とてもリラックスした表情で雑談を始める。

 「は~い、それじゃあこのまま掃除をして、それからHRに入るよ~。」
 「う~ん、やっと退屈な授業が終わったわ~。」
 「こ~ら、白野さ~ん?目の前でそんな事を堂々と言われたら、先生はちょ~っと傷ついちゃうんだけどな~?」

 苦笑いをする桂が穏やかな瞳で見つめているのは、青城女学院が誇る剣道部に所属する少女・白野小雪(しらの・こゆき)。
 全国レベルの剣道の強豪である青城女学院において、1年生でありながら次期部長候補とまで呼ばれている程の実力の持ち主だ。

 「あはは、ごめんね~羽藤先生~。」
 「もうすぐ部活の時間だからってはしゃぐ気持ちになるのは分かるけど、テストで赤点を取ったら補習を受けないといけなくなるから、部活や大会どころじゃなくなるんだからね?」

 この学校の剣道部のOBで、現在はこの学校の警備員を務めている百子が、学生時代に実際にそれを体験しているのだ。
 だからこそ小雪の為にも、その点はちゃんと釘を刺しておかなければいけない。

 「はぁ・・・そうですよね~。あの伝説のOBと呼ばれている小山内梢子さんのような、強くてかっこよくて可憐な女剣士になるのを目指しているというのに・・・大会に出れなくなっちゃったんじゃ本末転倒ですもんね~。せめて赤点取らない程度には頑張らないと・・・」
 「うふふ、白野さんは梢子ちゃんを目標にする前に、まずは私に勝てるようにならないとね。」
 「ううう・・・でも私は諦めませんよ!!絶対に羽藤先生に勝ってやるんだからあ!!」

 小雪は中学時代から剣道界では名の知れた存在で、去年の中学生最後の全国大会では、見事に準優勝を果たしている。
 そんな小雪でさえも、これまで顧問を務める桂を相手に部活で何度も試合をしているものの、今までに一度も勝てた事が無いのだ。
 その桂でさえも、小雪が憧れる梢子には全く歯が立たないというのだから、世の中本当に上には上がいるんだと痛感させられてしまう。
 だがそれでも小雪は全くめげる事無く、それどころか『高い壁があるからこそ燃える』などと主張し、今も当面の目標として『打倒・羽藤先生』を目指して頑張っているのだ。

 人間は二種類だ。
 今までに一度も味わった事の無い絶望的な壁にぶち当たった時に、それをバネにして強くなれる者と、絶望を乗り越えられずに終わってしまう者。
 小雪はその中において、間違いなく前者に分類される人物だ。
 剣道部で桂という高い壁にぶち当たり、さらにその桂でさえも梢子の足元にも及ばないと聞かされた時も、小雪の瞳は今も全く闘志を失っていないのだ。

 「ユキ~。悪いんだけど、ちょっとこっちを手伝ってくれる~?」

 そして小雪が前者なら、彼女は間違いなく後者に分類される人物だろう。
 小雪の幼馴染で、彼女の隣の家に住んでいる河原広子(かわはら・ひろこ)。
 彼女も中学時代に剣道をやっていたのだが、小雪と違って実力的には平凡レベルでしかなく、中学とは比較にならない程の青城女学院の剣道部のレベルの高さ、そして小雪が桂に完膚なまでに叩きのめされた事で挫折し、体験入部の時点で辞めてしまったのだ。
 と言ってもこの学校の剣道部において、広子と同じように体験入部の時点で辞めてしまう者が出るは毎年の事だと、先日葵先生が桂に語っていたのだが。

 「あ、うん。今から行くよ。それじゃあ羽藤先生、また後でね。」

 笑顔で桂に手を振り、小雪は広子の下に駆け寄っていく。
 剣道部を辞めてからも、広子と桂はこれまでと変わる事無く互いに親しく接しているのだが、それでも広子が辞めてしまったのは本当に残念だと桂は思う。
 確かに実力は平凡クラスだが、それでも彼女の太刀筋には確かに光る物があり、桂はその将来性を高く評価していたのだ。

 体験入部の時点で辞めてしまう者が出てしまうのは、最早この学校の剣道部の毎年の恒例行事と化しており、広子と同じように体験入部の時点で辞めてしまった生徒は他に何人かいるのだが、せめて自分が顧問を務めている間は、退部者を1人も出したくはなかったのいうのに。
 とは言えこの学校の部活動は基本的に自由参加が原則だ。それに退部したのは生徒たち自身の意思による物であり、こればかりは教師として広子たちに、部活に来る事を強制出来る立場に無いのだが。

 キーンコーンカーンコーン。
 そうこうしている内に、あっという間に掃除の時間が終わったようだ。
 生徒たちが担当場所から戻ってきて、続々と自分の席についていく。

 「は~い、それじゃあHRを始めるよ~。まずは明日の連絡事項なんだけど・・・」

 このHRが終わったら職員室でのミーティングの後、剣道部の顧問としての部員たちへの指導が待っている。
 正直言ってかなり忙しいが、それでも桂はやりがいを感じていた。
 生徒たちと向かい合う桂の表情は、とても穏やかな優しさに満ち溢れていたのだった。

3.穏やかな父子家庭


 「ただいま~。」
 「おう、よく戻ったな。我が娘よ。」

 その日の夜7時、部活動を終えてクタクタに疲れ切って家に戻って来た小雪を、彼女の父親である白野玲紀(しらの・れいき)が物凄い笑顔で出迎えた。

 「ご飯にする?お風呂にする?それとも、わ・た・し?」
 「お風呂。」
 「んだよ小雪ぃ、お前本当に洒落の通じねぇ奴だなぁ。」

 とても残念そうな表情で、玲紀は小雪から鞄と竹刀を受け取った。
 台所からとてもいい匂いが漂ってくる。今日も玲紀が夕食を作ってくれているのだ。

 「もうすぐ晩飯が出来るから、風呂に入るならさっさと済ませてこいよ。」
 「うん。今日のご飯は何?」
 「今日の晩飯は納豆餃子と五目チャーハンだ。」
 「へぇ、餃子に納豆?珍しい組み合わせだね。」

 確かに見た事の無い代物だが、まぁ玲紀が作るのだからきっと美味しいのだろう。
 想像しただけで、小雪は何だかおなかが空いてきた。

 「おうよ。あの渚ちゃんが開設したレシピサイトを参考にして作ったんだぜ?」
 「ふ~ん。」
 「ぬちゃぬちゃしてて渾身の出来栄えだからな。楽しみに待ってろよ?いひひひひ。」

 何だか不気味な笑い声を残しながら、玲紀は小雪の荷物を彼女の部屋まで運んでいった。
 それを見届けた小雪が、とても幸せそうな笑顔で浴室へと向かっていく。

 小雪は幼少時に母親を病気で亡くし、それ以来玲紀が男手1つで小雪を育て上げてきたのだ。
 小雪の為に今まで全くやった事が無かった料理を一生懸命勉強し、小雪との時間を少しでも多く作る為に、仕事も極力定時で帰るようにしている。
 小雪の母が死んだのは、まだ小雪の物心が付くか付かないかの頃だったので、小雪は母親の顔をよく覚えていない。
 それでも玲紀からの愛情を存分に受けて育った小雪は、母親がいない事を寂しいと思った事は一度も無かった。

 小学校から中学校にかけて、母親がいない事を理由にクラスメイトにいじめられた事もあったが、全て玲紀が鬼のような形相でいじめっ子たちに詰め寄り、全員土下座させて小雪に謝らせている。
 小雪にとって玲紀は、まさに誰にでも誇れる理想の父親なのだ。

 「そうそう小雪。さっきテレビのテロップで速報が流れたんだけどよ。フェンシングの世界選手権大会で、遥ちゃんが決勝戦で負けて銀メダルだってよ。」
 「そうなんだ。これで確か4大会連続銀メダルだっけ?遥さんを負かした対戦相手は誰なの?」
 「確か・・・エミリエル・ストダートだとか言う名前だったかな。フランス人の警察官だってよ。」
 「ふ~ん。」
 「全く、エミリエルだかエイリアンだか何だか知らねえが、ちょっと遥ちゃんより世界ランクが上だからって調子こいてんじゃねえってんだよな。」

 ちょっと性格がアレなのは、娘としてちょっとだけ恥ずかしいとは思うのだが・・・
 脱衣所の扉ごしに玲紀と会話をして、小雪は思わず苦笑いしてしまう。
 だが小雪がブラジャーを外して上半身裸になった、その時だ。

 「・・・あああああああああああああああああああああ!!」
 「何だどうした小雪どあああああああああああああ!?」
 「嫌ああああああああああああああああああああ!!」
 「ぶぼべらぁっ!!」

 いきなり浴室の扉を開けた玲紀の顔面に、小雪が投げたバスタオルが情け容赦なく玲紀の顔面にクリーンヒットした。
 慌てて小雪は両手で胸を隠し、とても恥ずかしそうな表情になる。

 「お、お前、いきなり何す・・・」
 「それはこっちのセリフよ!!何でいきなり浴室の扉を開けるのよ!?信じられない!!」
 「お前がいきなり変な叫び声を上げるからだろうが!?」 
 「だったらせめて入っていいか確認位してよぉっ!!よくも私の裸を見てくれたわね!!」
 「アホか!?今更お前の貧乳なんか見たって欲情なんかするわけ痛い痛い痛い!!」

 今度は情け容赦なく浴室から蹴り出された玲紀であった。
 ガラガラと、物凄い勢いで浴室の扉が閉じられる。

 「・・・で、いきなり変な叫び声を上げた理由はなんだよ?」
 「学校に忘れ物をしたを思い出したのよ!!羽藤先生から出された古典の宿題のプリント!!」
 「んだよ、そんな下らねぇ事でいちいち馬鹿騒ぎするなってんだよ。」
 「そ、そんな事言われたって・・・」
 「・・・お前の身に何かあったのかと心配しちまったじゃねえか。このボケナス。」
 「・・・・・。」

 玲紀の父親としての言葉を聞いて、小雪は何も言えずに黙り込んでしまった。
 溜め息をついて、玲紀は扉ごしに愛娘に話しかける。 

 「明日の朝に学校でちゃっちゃとやるわけにはいかねえのか?」
 「む、無理だよ!!朝のHRの時に提出する事になってるんだから!!」
 「しょうがねえなぁ。だったらさっさと制服を着やがれ。俺が車で学校まで送ってやるから。」
 「・・・うん。ごめんね。お父さん。」
 「ったく・・・先に車の中で待ってるからな。早くしろよ。」

 それだけ言い残し、玲紀は車の鍵を取りに自分の部屋へと向かっていった。
 小雪に対して悪態を取りながらも、それでも玲紀の言葉の一つ一つには小雪への愛情が込められている。
 それを敏感に感じ取り、小雪は何だか温かい気持ちにさせられたのだった。

 桂は普段はとても穏やかで優しい先生なのだが、それでも生徒たちに対してやるべき事はきっちりとやるように要求するなど、見た目に反して意外に厳しい一面もあったりする。
 例えば小雪のクラスにおいて、クラス委員の仕事を面倒だからと他の生徒に押し付けようとしたクラスメイトがいたのだが、桂は押し付けられた生徒を親身になって庇い、自分の仕事を押し付けようとした生徒を厳しく叱責したのだ。

 桂曰く『どんなに小さな仕事だろうと、与えられた仕事に対して真剣に向き合わないような人は、社会に出たら通用しない』らしい。

 桂は他の先生と違って無闇に怒鳴り散らしたりはしないものの、それでも言葉の1つ1つに重みや説得力があって、下手に怒鳴られるより余程心に堪えたりする。
 だからこそ小雪は桂に出された宿題をすっぽかして、桂に叱られたくはないのだ。
 宿題を学校に忘れてしまったと主張しても、忘れる人が悪いと言われるのがオチだろう。
 もう夜7時で閉門時間は過ぎているが、警備員に事情を話せば入れて貰えるはずだ。
 閉門時間以降の学校への出入りには、ちょっとした手続きが必要なので面倒なのだが。 

 「お父さん、お待たせ~。」
 「おう、早かったな。それじゃあさっさと取りに行って、さっさと晩飯にするぞ。」
 「うん。私もおなか空いた~。」
 「じゃあ、行くぜ!!」

 制服に着替えた小雪が慌てて車の助手席に乗り込み、玲紀は小雪がシートベルトをしたのを確認してから、車を穏やかに走らせる。
 車の運転にはその人の性格が表れると言われているが、玲紀の運転はその荒っぽい言葉遣いからは想像出来ない程、とても静かで穏やかな物だった。