「脳」(2006/03/01 (水) 08:28:59) の最新版変更点
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<p><font face="Comic Sans MS" size=
"5">脊椎動物の神経系において神経作用の支配的な<br>
中心をなしている部位をいい,無脊椎動物では頭<br>
部背側にある食道上神経節を脳または頭神経節<br>
という。脊椎動物では,脳(頭蓋腔のなかにある)<br>
は脊髄(脊柱管のなかにある)とともに中枢神経系<br>
を形造っているので,脳は中枢神経系の部分であ<br>
るわけであるが,〈脳〉という言葉は,中枢神経系<br>
を代表するものとして〈中枢神経系〉の意味で用い<br>
られることもある。<br>
脊椎動物の中枢神経系(脳と脊髄)には,末梢神<br>
経系(脳神経と脊髄神経)を通じて外界や自分自<br>
身の体に関する情報が送り込まれる。中枢神経<br>
系はこれらの情報を処理し,一定の指令を末梢神<br>
経系を通じて効果器(筋肉や腺)に送り出して,外<br>
部環境に合目的的に適応するとともに,内部環境<br>
を恒常的に維持する機構に参加している。このよ<br>
うに,中枢神経系は情報を送り込んでくる入力ニ<br>
ューロン(感覚神経節のニューロン)と,指令を直<br>
接末梢に送り出す出力ニューロン(運動ニューロ<br>
ンや自律神経の起始ニューロン)との間に介在す<br>
るニューロンの集合とみることができる。入力ニ<br>
ューロンが出力ニューロンに直接連絡している場<br>
合は,反応の速度の点では有利であるが,情報<br>
に応じて反応を細かく調節することはできない。入<br>
力ニューロンと出力ニューロンの間に介在するニ<br>
ューロンの数が増すほど,入力ニューロンからの<br>
情報に対する出力ニューロンの応答をいっそう精<br>
妙に調節できるはずである。すなわち,中枢神経<br>
系が発達するほど,一定の入力情報に対する生<br>
体の反応に選択性が増す。神経系を〈不確定性<br>
の貯蔵所〉とみる H. ベルグソンの考え方(《創造<br>
的進化》)はこの意味で正しいといえるであろう。<br>
【ヒトの脳】<br>
[脳の発生と区分] 中枢神経系(脳と脊髄)を構<br>
成する細胞はニューロンとグリア(神経膠(しんけい<br>
こう))である。このうち,中枢神経系のニューロン<br>
は,上記のように,末梢神経系の入力ニューロン<br>
と出力ニューロンの間に介在するニューロンであ<br>
り,グリアはこれらのニューロンを一定の形にまと<br>
めあげてそれらの生活環境を形成している。無脊<br>
椎動物の中枢神経系ないし脳がニューロンとグリ<br>
アの塊(塊状脳 solid brain)であるのに対して,ヒト<br>
を含めた脊椎動物の脳は管状脳 tubular brain で<br>
ある。管状脳は系統発生的には原索動物の幼生<br>
において初めて出現するといわれる。個体発生に<br>
おいては中枢神経系は神経管 neural tube に始<br>
まる。ヒトで神経管が完成するのは胎生4週の終<br>
りである。以後,中枢神経系の発育は神経管の壁<br>
の肥厚,変形という形をとるが,その間を通じて中<br>
枢神経系の管状構造は終始保たれる。<br>
神経管には,その形成の始まりの時期から頭方<br>
の脳管と尾方の脊髄管とが区別できる。脊髄管が<br>
その後も原形を比較的よく保ちながら脊髄に分<br>
化,発育するのに対して,脳管は胎児の成長につ<br>
れて複雑に変形する。まず脳管は前脳胞,中脳<br>
胞,菱脳(りようのう)胞の三つの膨らみ(脳胞 brain<br>
vesicle)に区分されるが,さらに前脳胞は終脳胞と<br>
間脳胞に,菱脳胞は後脳胞と髄脳胞に区分され<br>
る。このように脳管が五つの脳胞から成立する時<br>
期は,ヒトでは胎生5週である。脳胞は間脳胞より<br>
尾方では不対であるが,終脳胞だけは左右1対の<br>
半球胞から成る。これは前脳胞の外側壁がその<br>
前背側部において左右に膨出することによって生<br>
じる。以上の脳胞はいずれも神経管の部分として<br>
分化してくる構造であるから,それぞれの内部に<br>
は管腔があり,それらの管腔は互いに連絡してい<br>
る(すなわち,神経管の内部にある中心管にあた<br>
る)。左右1対の半球胞の内腔は側脳室,間脳の<br>
内腔は第三脳室,菱脳の内腔は第四脳室と呼ば<br>
れる。中脳の内腔と脊髄の内腔は神経管の内<br>
腔,すなわち中心管としての形態をとどめていて<br>
狭い。第三脳室と第四脳室を結ぶ中脳の内腔は<br>
中脳水道と呼ばれる。第三脳室は1対の室間孔に<br>
よって左右の側脳室と連続している。これらの管<br>
腔は完成した脳では髄液(脳脊髄液)で満たされ,<br>
全体として脳室系を形成する。脳室系は第四脳室<br>
において,その後端の正中部にある孔(第四脳室<br>
正中孔)と,外側壁の後部にある左右1対の孔(第<br>
四脳室外側孔)によって,中枢神経系の外側を包<br>
むくも膜下腔に連続する。脳は,このようにして,<br>
内側の脳室系と外側のくも膜下腔を満たす髄液に<br>
よって内外から包まれ,さらにその外側を硬膜と<br>
頭蓋骨で保護されている。<br>
脳の区分は脳室系を基にして行われる。側脳室<br>
を囲む部分を終脳(正確には,左右の大脳半球と<br>
終脳の不対部),第三脳室を囲む部分を間脳,中<br>
脳水道を囲む部分を中脳,第四脳室を囲む部分<br>
を菱脳とする。さらに菱脳の前半部(後脳)からは<br>
小脳と橋(きよう)が分化し,菱脳の後半部は延髄<br>
(髄脳)として脊髄に連続する。<br>
成人の脊髄は身長の28~29%の長さがあるが<br>
(日本人では40~47cm),脳と脊髄の重量比は約<br>
55対1であり,中枢神経系において脳の占める割<br>
合がいかに大きいかがわかる。また,脳のなかで<br>
も大脳半球(大脳外套と大脳核)が全脳重の80%<br>
を占め,小脳は約11%,その他,間脳,中脳,橋,<br>
延髄は合わせて7~8%にすぎない。図1にヒトの<br>
脳の形態を,図2に頭蓋骨中の脳および髄膜,<br>
図3に脳・脊髄の解剖学的区分,図4に中心管と脳<br>
室の区分を示す。<br>
[ニューロンのネットワークの形成] 脊椎動<br>
物の中枢神経系は,前記のように,神経管から発<br>
生してくるのであるが,その際,中枢神経系を形<br>
成するニューロンとグリアは,神経管の最内層に<br>
ある未分化な細胞(マトリックス細胞 matrix cell)<br>
の細胞分裂によってつくられる。マトリックス細胞<br>
の細胞分裂によって増数した細胞は,中心管から<br>
放射状に外方に向かって移動しつつ分化,成熟<br>
する。一般的にみて,ニューロンのほうがグリアよ<br>
りも早期につくられ,ニューロンでも大型のものの<br>
ほうが小型のものよりも早期に出現するといわれ<br>
る。ニューロンになるべき細胞(神経芽細胞<br>
neuroblast)は,目的地に向かって移動しながら成<br>
熟する(軸索や樹状突起の伸長と分枝)。神経芽細<br>
胞はニューロンに分化すると細胞分裂の能力を失<br>
う。ニューロンの間にはシナプスが形成されるが,<br>
ある特定のニューロンがいかにして一定のニュー<br>
ロンを見いだしてそれとの連絡(シナプス)を達成<br>
するのか,その機序についてはまだよくわかって<br>
いない。ニューロンのなかには胎生期や生後まも<br>
ない時期に消失していくものがあるが,それらは<br>
おそらく適当な相手のニューロンを見いだしてそ<br>
れらとのシナプス連絡を形成できなかったニュー<br>
ロンであろうと考えられている。また,成熟したニ<br>
ューロンには細胞分裂の能力がないのであるか<br>
ら,これらが何かの原因で失われた場合,そのニ<br>
ューロンの減数が他のニューロンの細胞分裂によ<br>
って補われることはない。しかし,あるニューロン<br>
が消失したことによって生じるそのニューロンの<br>
軸索終末の〈空き家〉は,付近にある他のニュー<br>
ロンの軸索終末からの新たな分枝によって占めら<br>
れることが多い。このような現象(出芽 sprouting)<br>
は成熟した脳でも観察されている。<br>
[神経核――中枢神経系におけるニューロン<br>
の集合] 中枢神経系の情報処理機能は,シナ<br>
プスによって機能的に連絡するニューロンのネッ<br>
トワークによって営まれる。これらのニューロンは<br>
一様に分布しているのではなく,その集合状態に<br>
は粗密があり,配列の様式も多様である。ニュー<br>
ロンの細胞体の集合が,その集合密度,位置関<br>
係,形態的特徴などによって周囲の構造から区別<br>
できる場合,それらを核 nucleus または神経核と<br>
いう。〈核 nucleus〉という語は,日本語,英語とも<br>
に細胞の場合の核と同じであるが,その内容,意<br>
味はまったく異なる点には注意を要する。また,<br>
末梢神経系においてはニューロンの細胞体の集<br>
合を神経節 ganglion と呼び,これには感覚神経<br>
節と自律神経節がある。<br>
神経核のなかでも,運動核(運動ニューロンの細<br>
胞体の集合),自律神経起始核(自律神経起始ニ<br>
ューロンの細胞体の集合),感覚核(感覚神経節ニ<br>
ューロンがシナプス連絡する中枢神経系ニューロ<br>
ンの細胞体の集合)などは,その性質が比較的単<br>
純である。しかし,これらの神経核をも含めて,一<br>
般に神経核を構成するニューロンは形態的にも機<br>
能的にも均一ではなく,それぞれの神経核にはさ<br>
らに内部構造がある。すなわち,いっそう詳細に<br>
みた場合には,一つの神経核をさらにいくつかの<br>
亜核に細分できる場合も多い。また,形態上は一<br>
つの神経核として認識できる場合でも,その機能<br>
がよくわからないものや,いくつかの機能に関与<br>
する神経核もある。<br>
[神経路または伝導路] ある神経核を構成す<br>
るニューロンの軸索が集合して走行し,これらが<br>
神経繊維群としてのまとまりの傾向を強く示し,周<br>
囲の構造から区別される場合,それらを神経路<br>
tract(神経伝導路または伝導路)と呼ぶことがあ<br>
る。〈神経路〉の概念の根底には,〈同じ連絡関係<br>
をもつニューロン群,したがって同じ機能的意味<br>
をもつニューロン群は集合する〉という考えがあ<br>
る。つまり,〈神経路〉の概念は,それぞれの神経<br>
路に一定の機能的意味を見いだしていこうとする<br>
志向に裏づけられて生まれたといえよう。しかし,<br>
形態の上では神経路にみえても,その機能的意<br>
味がまだ十分わからないものが多数ある。また,<br>
これまでは一定の機能をもつ神経路として取り扱<br>
われてきた神経繊維束であっても,研究が進むに<br>
つれて,実はいくつかの機能群に区分されること<br>
がわかってきた例も多い。したがって〈神経路〉<br>
は,多くの場合,ニューロン・ネットワークのなか<br>
から抽出され仮定されたニューロンの機能的連絡<br>
系の概念として理解するべきものである。<br>
ある機能系を形成する左右1対の神経路の神経<br>
繊維はしばしば脳の正中部で〈交叉(こうさ)〉してい<br>
る。たとえば,大脳皮質から起こり直接に脊髄ま<br>
で達する錐体路の繊維や,末梢からの感覚入力<br>
を受けてこれを間脳の背側視床にまで伝達する<br>
ニューロンの軸索は,それらの大部分が交叉して<br>
いる。脳出血は,多くの場合,これらの繊維群が<br>
交叉するレベルよりも上方で起こって,これらの繊<br>
維群を損傷する。それゆえ,脳出血の際にしばし<br>
ばみられる半身の運動麻痺(片麻痺)や感覚脱失<br>
は,脳出血の起こった側とは反対の体側に出現す<br>
ることが多い。神経繊維の交叉の原因や意味に<br>
ついてはよくわかっていない。<br>
[脳の重さ(脳重)について] 新生児の脳重は<br>
体重の約10%,370~400gであり,男女差はほと<br>
んどない。成人の脳重は体重の約2.5%であり,<br>
日本人では男性1350~1400g,女性1200~1250g<br>
である。ヒトよりも大きい脳をもつ動物もある。たと<br>
えば,ゾウの脳重は4000~5000g,クジラの大き<br>
い種類では1万gに達する脳をもつものもある。し<br>
かし,これらの動物の体は巨大であるから,体重<br>
に対する脳重の割合をみると,ヒトのそれよりはる<br>
かに小さい。一方,体の小さいラットやスズメなど<br>
では,体重に対する脳重の割合はそれぞれ<br>
3.6%,2.9%とヒト並み,ないしそれ以上の値を示<br>
す。また,ヒトの脳重は体重よりもむしろ身長との<br>
相関が高いことが知られており,身長1cmに対す<br>
る脳重は約8.5~9gである。いずれにしても,単純<br>
に脳重だけから脳の機能の優劣を論じることがで<br>
きないのは明らかである。<br>
ヒトで脳重が最高値を示すのは20~40歳であ<br>
り,50~60歳からは老人性の減少が始まるといわ<br>
れる。ある種の病気の際には脳重が著しく変化す<br>
ることが知られている。しかし,栄養不足だけでは<br>
成人の脳の脳重はなかなか減らない。体重が半<br>
減するような状態になっても脳重はよく保たれると<br>
いう。体の他の部分を犠牲にしてでも脳を維持し<br>
ようとする機序が働いているのであろう。一方,発<br>
育期の脳は栄養不足のほか,代謝異常,ホルモ<br>
ン環境などの影響を受けやすい。出生後1年のあ<br>
いだに栄養失調状態におかれた小児の知的能力<br>
が著しく侵されていたことが心理学的研究によっ<br>
て明らかにされている。また,実験動物を出生直<br>
後から低タンパク飼料で飼育すると,体重が著しく<br>
減少するとともに,脳重も10%ほど少なくなること<br>
が知られている。<br>
[脳の血液循環] 脳は他の臓器に比べて非常<br>
に多くのエネルギーを必要とする。これに必要な<br>
酸素やグルコースは血行によって供給され,脳は<br>
1日に120~130gのグルコースと約120l の酸素を<br>
消費する。ヒトの脳を栄養する動脈には二つの系<br>
統がある。一つは内頸動脈であり,他の一つは椎<br>
骨動脈である。これら二つの系統の動脈は,頭蓋<br>
腔に入ると脳底で互いに連絡吻合(ふんごう)して<br>
動脈輪(ウィリス動脈輪 circle of Willis)を形成す<br>
る。脳を栄養する動脈はすべてこの共通の動脈<br>
輪から起こる。脳を循環する血液の量は,心臓か<br>
ら拍出される血液の15%にあたるといわれる。脳<br>
重が体重の約2.5%であることを考えると,脳を循<br>
環する血液の量がいかに多量であるかがわか<br>
る。 水野昇<br>
[脳の物質構成とエネルギー代謝] 脳の固形<br>
成分の半分以上(51~54%)は脂質である。残りの<br>
大部分(38~40%)はタンパク質で,このほか少量<br>
の遊離アミノ酸などの有機物質と無機塩が含まれ<br>
ている。脳内の遊離アミノ酸のなかではグルタミン<br>
酸が最も高濃度で,全遊離アミノ酸の30%を占<br>
め,N‐アセチルアスパラギン酸,グルタミン,タウ<br>
リン,?‐アミノ酪酸,アスパラギン酸などがこれに<br>
続いている。N‐アセチルアスパラギン酸は脊椎動<br>
物の脳でとくに濃度が高く,シスタチオンはヒトと<br>
サルの脳で高濃度に存在する。<br>
脳の機能を支えるエネルギー代謝には,酸素と<br>
グルコースの供給が不可欠である。肺から摂取さ<br>
れる酸素の約20%が脳で消費されており,低酸素<br>
の条件下では脳の機能がまっ先に障害される。ヒ<br>
トの脳は1日当り120~130gのグルコースを消費<br>
するが,脳内のグルコースやグリコーゲンの貯蔵<br>
は非常に少なく,血液により時々刻々補給されな<br>
ければならない。低血糖に際しては昏睡が起こる<br>
し,脳の血流が止まると,貯蔵グルコース,グリ<br>
コーゲンは数分以内に使い果たされ,脳に回復不<br>
能な障害を起こす。<br>
[脳の活性物質] 脳には微量であるがその機<br>
能を支えるうえで重要な役割を演じる種々の活性<br>
物質が含まれている。活性物質には,シナプス伝<br>
達を仲介する神経伝達物質,シナプス伝達を修<br>
飾するモジュレーター物質,ホルモンなどのほ<br>
か,睡眠や本能行動の神経過程において特異的<br>
な役割を果たすと考えられるものがある(睡眠物<br>
質,食欲物質など)。また脳組織の発生,発達,維<br>
持に重要な役割を果たす神経成長因子などもあ<br>
る。これら活性物質にはアミン,アミノ酸,ペプチ<br>
ド,あるいはタンパク質から成るものが多いが,脂<br>
肪酸系のものもある。<br>
脳の働きは,電気的なインパルス信号による情<br>
報処理過程がその重要な部分を占めるが,これを<br>
多彩な化学過程が支え,さらに化学的な信号によ<br>
る情報処理過程も加わって,脳全体が膨大な化<br>
学工場の観を呈する。麻酔剤や睡眠剤,トランキ<br>
ライザーなどの薬剤が脳に作用するのは,脳組織<br>
の働きがそもそも多彩な化学的過程に支えられて<br>
いるためである。<br>
[血液脳関門] 脳組織と血管の間には物質の<br>
移動を妨げる一種の関門がある。グルコースや酸<br>
素は脳内に自由に移行するが,一般に高分子の<br>
タンパク質や脂質,アミノ酸,リン酸,ナトリウムイ<br>
オン Na+などは脳内に入りにくい。血液脳関門<br>
は,脳を化学的な外乱から保護し,脳の恒常性と<br>
栄養を保つために,重要な防護装置として働いて<br>
いる。<br>
[脳の可塑性] 脳組織には,その環境条件に応<br>
じて,ある限度以内で構造を部分的に変化させそ<br>
の働きを修飾する柔軟性が備わっている。一時的<br>
に加えられた原因により持続的な変化を起こす性<br>
質を一般に可塑性と呼ぶ。ただし脳の可塑性に<br>
は,切断された神経が再生したり,脳の一部が損<br>
傷されたときに残存部の神経細胞の突起から新し<br>
い枝が出て(出芽)障害された機能を代償するよう<br>
な場合から,正常な脳組織が発達する過程にお<br>
いて環境との相互作用によってその後の性質が<br>
変わったり,あるいはまた正常な成熟脳のなかで<br>
常時起こっているある種の変化まで,幅広い内容<br>
が含まれている。<br>
たとえば,子ネコを生後2~5週間の限られた期<br>
間,縦じまだけを見させておくと,大脳皮質視覚野<br>
の神経細胞には縦じまを見たとき反応するものが<br>
異常に増加し,横じまに反応するものが減少す<br>
る。横じまを見させて育てると逆のことが起こる。<br>
しま模様を見させる代りに片目を閉じておくと,閉<br>
じた目からの刺激に対する大脳視覚野の神経細<br>
胞の反応性は著しく低下し,あとで目を開いてや<br>
っても元に戻らない。このように大脳視覚野の神<br>
経細胞の視覚刺激に対する反応性は,生後のあ<br>
る限られた臨界期間にだけ可塑性を示し,その期<br>
間に受けた視環境の影響によりその後の働き方<br>
が決まってしまう。<br>
シナプスに一過性に与えられた条件により,そ<br>
のシナプスの伝達特性が長時間にわたって変化<br>
する性質はシナプス可塑性と呼ばれている。この<br>
シナプス可塑性は〈記憶〉の基礎過程と考えられ,<br>
同じシナプスに続けて信号が来ると,その後その<br>
シナプスを信号が通りやすくなったり,あるいは二<br>
つのシナプスにほぼ同時に信号が来ると,一方の<br>
シナプスの信号の通り方が抑えられるといった具<br>
体例が見いだされている。<br>
[脳の階層構造] 脳の働きは,脊髄から大脳皮<br>
質に向かって階層的に積み上げられている。脊髄<br>
には四肢の運動,内臓の活動に関する種々の反<br>
射機能が備わっている。延髄には呼吸,血液循環<br>
に関する反射中枢や前庭迷路反射の中枢があ<br>
る。また,中脳には眼球の運動や瞳孔の大きさ,<br>
眼の焦点調節に関する反射中枢がある。中脳に<br>
はさらに歩行や姿勢の保持の中枢がある。脊髄,<br>
脳幹にわたって備わっているこれら多数の反射機<br>
能を土台として,その上に脳の高次機能が営まれ<br>
ている。脳幹と脊髄が無傷であれば,それより上<br>
位の中枢が障害されても,いわゆる植物人間の<br>
状態で生命を維持することができる。脳死は脳幹<br>
も障害された状態で,人工的な呼吸の介助なしに<br>
は生命を維持することはできない。<br>
高次の運動機能は小脳,大脳基底核,大脳皮<br>
質の運動野,運動前野,補足運動野により営まれ<br>
ている。感覚信号はその多くが視床を介して大脳<br>
皮質の1次感覚野に送られ,ここで特徴抽出と呼<br>
ばれる情報処理が行われる。抽出された特徴の<br>
情報は,次に連合野で総合されて外界の事物に<br>
関する知覚の表象を生ずる。快・不快の情動は視<br>
床下部において発現する。摂食,飲水,性行動な<br>
ど個体や種の維持に必要な本能行動を起こす中<br>
枢も視床下部にある。視床下部は大脳辺縁系と<br>
密接に関連し合って働いている。睡眠・覚醒の中<br>
枢は延髄,中脳から視床下部にわたって存在す<br>
ると考えられる。<br>
[大脳の機能局在] 18世紀から19世紀にかけ<br>
て脳の肉眼的な構造が詳しく調べられ,脳のなか<br>
に働きの上での分業があるのではないかとの考<br>
えが生まれた。ガル F. Gall は,大脳のなかに理<br>
性,情意,本能,気質などの中枢があり,その各<br>
部の発達の強弱に従って頭蓋骨に高まりやくぼみ<br>
ができるので,頭の形から人の性質,素質を知る<br>
ことができると唱えた。しかし,1830年ころフルー<br>
ラン M. J. P. Flourens は,大脳表面のどこかが<br>
部分的にこわされてもいつも同じような病状が起<br>
こってくることを根拠に,大脳には種々の中枢など<br>
はなく,どこでも同一の価値をもつと考えた。この<br>
大脳皮質同価値説に押されて,ガルの骨相学は<br>
勢いを失ったが,やがて61年の P. ブローカの失<br>
語症の研究や,63年の J. H. ジャクソンによる癲<br>
癇(てんかん)の研究により,大脳皮質に機能の局<br>
在があるとの考えが復活してくる。70年フリッチ<br>
G. Fritsch とヒツィヒ E. Hitzig が,大脳皮質の一<br>
定部位を電気刺激すると,身体の一定部位の筋<br>
肉に収縮が起こることを見いだし,大脳皮質運動<br>
野の存在を明らかにするに及んで,局在論は決<br>
定的なものとなった。<br>
またブロードマン K. Brodmann は,顕微鏡で調<br>
べた組織構造の違いに基づいて大脳の皮質を52<br>
の領域に分け,各領域に一連番号をつけた<br>
(1909)。現在,この脳地図は大脳の研究に広く用<br>
いられており,その各領域の分担する機能の解明<br>
が進められている。たとえば,運動野は4野に,視<br>
覚野は17,18,19野に,聴覚野は41,42野に,皮<br>
膚の触覚や圧覚などの体性感覚野は1,2,3野に<br>
ある。ҥ??脳皮質<br>
[大脳の連合野機能] 運動野,感覚野に挟ま<br>
れる大脳皮質の領域を連合野と呼ぶ。ラットなど<br>
の比較的下等な哺乳類では連合野はごく狭い<br>
が,動物が高等になるにつれて連合野は広がり,<br>
ヒトの大脳では高度に発達して広い面積を占めて<br>
いる。大まかに前頭連合野,側頭連合野,頭頂連<br>
合野の3部分に分けられる。ヒトの前頭連合野は<br>
とくによく発達して,大脳皮質面積の1/4を占め<br>
る。頭頂連合野には各感覚野からの情報が流れ<br>
込み,外界についての知覚の表象を生ずる。とく<br>
に空間的な位置,距離などの知覚に関与する。頭<br>
頂連合野から側頭連合野にかけて聴覚野をとり<br>
囲んで言語野がある。側頭連合野は眼で見たも<br>
のの形状を知覚するなど,外界の事物の表象を<br>
生ずる働きがある。その一部には顔の形に特異<br>
的に反応する神経細胞のあることが知られてい<br>
る。これらと違って前頭連合野は,複雑な行動の<br>
時間的・空間的手順をプログラムする場で,周囲<br>
状況への適応性,深みのある思考力などを生み<br>
出す働きがある。一時,精神病の治療法として行<br>
われた前頭葉切断手術では,人格が平板,移り<br>
気,衝動的になり,先見性がなく行動の持続性を<br>
失い,野心もなく責任感もなくなるなどの障害が現<br>
れた。ただし,通常の知能テストではあまり差が<br>
出てこない。<br>
[左右脳の機能差] 言語野は多くの場合,左の<br>
大脳半球にある。また運動機能には右利き・左利<br>
きという左右の非対称性があるが,多くの人では<br>
左の大脳半球の支配する右手が利き手になって<br>
いる。言語機能と利き手の中枢の左右の所在は<br>
必ずしも一致せず,人によっては反対になること<br>
もある。しかし多くの人(92%)でこれが一致するこ<br>
とについて,特別な必然性は考えられないのであ<br>
るが,進化に際して同じころに手の微細な運動と<br>
言語の両機能が脳に備わるようになり,両者の機<br>
構がいっしょに伴って発達するなんらかの理由が<br>
あったのかもしれない。<br>
脳出血などにより言語野のある半球が障害され<br>
ると失語症になり,日常生活に多大の支障をきた<br>
すが,反対側の半球が障害されても大きな支障は<br>
起こらない。このため言語野のある側を優位半<br>
球,その反対側を劣位半球と呼びならわしてき<br>
た。しかし劣位半球には優位半球とは違う独特の<br>
非言語機能が備わっていることが近年判明した。<br>
すなわち劣位半球には言語野に対応して音楽を<br>
聴くときに働く領域があり,また身体と周囲空間の<br>
相対関係を認識する領域もある。抽象的な図形を<br>
用いて学習や記憶をテストすると,劣位半球の障<br>
害によってこれらが侵されることがわかる。<br>
左右の大脳半球をつなぐ脳梁を重症の癲癇の<br>
治療や松果体腫瘍の切除のために外科手術によ<br>
って切断された患者では,左右の大脳半球の働き<br>
を別々に調べることができる。スペリー R. W.<br>
Sperry やガッザニガ M. S. Gazzaniga のこうした<br>
研究(1970)によって,優位脳が言語による分析的<br>
な思考法に従って事を運ぶのに対して,劣位脳は<br>
直接知覚的な総合的な過程に訴えて迅速に事を<br>
処する能力があることがわかってきた。優位半球<br>
が解析的であるのに対して劣位半球は大局的で<br>
あり,優位半球が技術的であるのに対して劣位半<br>
球は芸術的ともいえるような,互いに異なり,互い<br>
に補い合う働きをもつものと思われる。ҥ??右優<br>
位∥左利き<br>
[脳と心の問題] 脳がわれわれの心の働きを<br>
担っていることには疑う余地はないが,心の働き<br>
をすべて脳の働きに帰することができるかどうか<br>
については議論の分かれるところである。R. デカ<br>
ルトは脳と心は別であるとの二元論をとり,心が<br>
松果体を介して脳に働きかけるとした。この考え<br>
を修正して,脳と心が相互に作用し合うとしたり,<br>
脳と心のなかで対応する過程が並行して起こると<br>
する二元論的な説も唱えられている。これに対<br>
し,心は脳の働きにほかならないとする一元論に<br>
も,心が脳という複雑な物理化学系の示す性質で<br>
あるとする還元論的唯物論と,脳の進化の過程で<br>
突如出現した特殊な生物学的な働きであるとする<br>
創発主義的唯物論の二つの違った考え方があ<br>
る。<br>
現在,脳の研究は自然科学のあらゆる技術を総<br>
動員して進められており,脳の関係する精神病,<br>
神経病など多くの病気の予防,治療の開発に大き<br>
な期待が抱かれ,また人工知能,人工頭脳の研<br>
究の発展に寄与することも期待されているが,<br>
〈脳と心の問題〉を解決して人間の全き理解に到<br>
達するためには今後まだ多くの研究の積重ねが<br>
必要である。 伊藤正男<br>
【動物の脳】<br>
無脊椎動物の〈脳〉は,すでに述べたように,体の<br>
前方に位置する高次の大きな神経節(頭神経節)<br>
にすぎない。脊椎動物では,ヒト以外の動物の脳<br>
もまたすべて三つの脳胞から形成され,原則的な<br>
設計はヒトの場合と同じである。系統上互いに接<br>
近した間柄の動物でも生活様式が違うと,脳の形<br>
態も異なる。対照的に系統上は遠い関係にある<br>
種類でも,生態が同じであると似た脳の形態をと<br>
る。脳の表面をおおう髄膜は魚類では1枚の薄い<br>
膜だけであるが,両生類からはその上に頭蓋骨<br>
に密着した硬膜ができ,カエルでは硬膜下に内耳<br>
のリンパ臥が広がる。<br>
脊椎動物の脳全体を系統発生の面から眺める<br>
と,終脳の変化が最も著しい。ことに終脳の背側<br>
外套(壁)dorsal pallium から発達する新皮質は,<br>
学習のような高次の神経活動に関係が深い。鳥<br>
類の線条体 striatum の背側部は,哺乳類の新皮<br>
質のように光や音による情報が間脳を経て投射さ<br>
れる。その部位はコハク酸脱水素酵素の反応が<br>
強い。硬骨魚類の終脳背側壁は薄い膜である<br>
が,最近,繊維連絡の実験から,膜に向かい合<br>
う,脳室に面した部分は新皮質に相当する部分と<br>
考えられるようになった。哺乳類の新皮質は著しく<br>
発達し,種によっては限られた容積の頭蓋腔に納<br>
められるため,しわが生ずる。クジラのような水生<br>
哺乳類にしわが多いのは,水の抵抗を少なくする<br>
ため頭蓋が小さくなり,小さい器に広がった皮質<br>
を入れるようになった結果である。トガリネズミの<br>
ような原始的な哺乳類では,新皮質にしわがな<br>
く,光,音,圧などの各感覚領域が互いに接近し,<br>
連合野はほとんど発達していない。<br>
動物が高度に家畜化された場合,たとえばペッ<br>
トとして野生のフナから作出されたキンギョは,フ<br>
ナに比べて人になれやすく,動作も緩慢である。<br>
キンギョでは脳の体重に対する相対的な重さ,つ<br>
まり相対成長はフナより少なく,脳のなかでも味覚<br>
の情報を初めに受けとる部分,つまり迷走葉<br>
vagal lobe が萎縮する。このように人為選択で作<br>
出された動物では,脳の重さが相対的に減少し,<br>
また動物の生存に重要な役割を果たしている知<br>
覚域が縮小する。この事実はブタやイヌがそれぞ<br>
れ家畜化された場合にも認められる。なお育種の<br>
方法として交雑を行った場合,雑種の脳の様相は<br>
両親の中間型である。<br>
一般に〈生きている化石(遺存種)〉といわれる種<br>
の脳は,新しい地質時代に現れた仲間の脳と比<br>
べると,相対的に発達は悪い。たとえば,サメのな<br>
かで古代的なラブカの終脳と小脳は,現代の攻撃<br>
的なサメなどのものより扁平で萎縮し,小脳には<br>
しわがみられない。ҧ??経系 正井 秀夫</font></p>
<p><font face="Comic Sans MS" size="5">(c) 1998HitachiDigitalHeibonsha,
Allrights reserved.<br></font></p>
脊椎動物の神経系において神経作用の支配的な中心をなしている部位をいい,無脊椎動物では頭部背側にある食道上神経節を脳または頭神経節という。脊椎動物では,脳(頭蓋腔のなかにある)は脊髄(脊柱管のなかにある)とともに中枢神経系を形造っているので,脳は中枢神経系の部分であるわけであるが,〈脳〉という言葉は,中枢神経系を代表するものとして〈中枢神経系〉の意味で用いられることもある。
脊椎動物の中枢神経系(脳と脊髄)には,末梢神経系(脳神経と脊髄神経)を通じて外界や自分自身の体に関する情報が送り込まれる。中枢神経系はこれらの情報を処理し,一定の指令を末梢神経系を通じて効果器(筋肉や腺)に送り出して,外部環境に合目的的に適応するとともに,内部環境を恒常的に維持する機構に参加している。このように,中枢神経系は情報を送り込んでくる入力ニューロン(感覚神経節のニューロン)と,指令を直接末梢に送り出す出力ニューロン(運動ニューロンや自律神経の起始ニューロン)との間に介在するニューロンの集合とみることができる。入力ニューロンが出力ニューロンに直接連絡している場合は,反応の速度の点では有利であるが,情報に応じて反応を細かく調節することはできない。入力ニューロンと出力ニューロンの間に介在するニューロンの数が増すほど,入力ニューロンからの情報に対する出力ニューロンの応答をいっそう精妙に調節できるはずである。すなわち,中枢神経系が発達するほど,一定の入力情報に対する生体の反応に選択性が増す。神経系を〈不確定性の貯蔵所〉とみる H. ベルグソンの考え方(《創造的進化》)はこの意味で正しいといえるであろう。
【ヒトの脳】
[脳の発生と区分]
[ニューロンのネットワークの形成]
[神経核――中枢神経系におけるニューロンの集合]
[神経路または伝導路]
[脳の重さ(脳重)について]
[脳の血液循環]
[脳の物質構成とエネルギー代謝]
[脳の活性物質]
[血液脳関門]
[脳の可塑性
[脳の階層構造]
[大脳の機能局在]
[大脳の連合野機能]
[左右脳の機能差]
[脳と心の問題]
【動物の脳】
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