~第二十一章~
――水銀燈が、私を庇った。
城に帰着しても、めぐの頭は、さっきの事で占められていた。
(貴女は、私を見捨てたんじゃなかったの?)
彼女が村を出て、姿を見せなくなったのは、看病に疲れたからだと思っていた。
いつまでも治る見込みのない娘の面倒なんか、見たくなくなったからだ、と。
それなのに、何故、水銀燈は私を助けたのだろう?
私たちは、敵同士になったんじゃなかったの?
全ては自分の誤解なのだろうか。彼女は、私を助ける為に村を出たとでも?
廊下を歩きながら思い悩む彼女を、女性の声が呼び止めた。
声の質から、すぐに見当が付いた。雪華綺晶だ。
「貴女は、無事に帰って来られたのですね……めぐ」
「……すみません。のりさんを、援護し切れなかった」
「あら? 別に、責めている訳ではありませんわ。
寧ろ、よく戻ってくれたと、喜んでいるくらいですよ」
「でも、私は――」
のりを負傷させ、妖刀『國久』を失い、ひとりの犬士も斃せなかった。
本来なら、御前様に顔向け出来ないところだ。
あのまま蒼星石に斬られていた方が良かった、とさえ思っていた。
「あまり、思い詰めない事ですわね」
余程、切羽詰まった顔をしていたのだろう。
めぐは雪華綺晶に、ポン! と頭を叩かれた。
生きていればこそ、雪辱はそそげる。そう諭して、雪華綺晶は快活に笑った。
「大ムカデの蠱毒を真紅に植え付けた事を、もっと誇りとしなさいな。
真紅が亡き者となれば、めぐは最大にして最高の功績者ですわ」
「そうなれば良いけど……真紅は房姫の生まれ変わりと聞いてるし、
一筋縄でいくかどうか」
「生まれ変わりと言っても、その能力は著しく減退していますわ。
現に、雑兵どもにすら、幾度となく討たれかけてますもの」
真紅だけを見れば、その通りだ。今の彼女に、前世ほどの力はない。
巧くすれば、本当に大ムカデの蠱毒で、命を落としてくれるかも知れなかった。
「まあ、とにかく先に、御前様のご尊顔を拝していらっしゃいな」
「そうします。雪華さんは、これから出撃?」
「ええ。ちょっと、目障りな娘が居ましてね。これから始末してきますわ」
「まさか……八犬士の、ひとり?」
「多分ね。奴等がひとつに纏まる前に、各個撃破しておかないと」
「……ご武運を、お祈りしてます」
雪華綺晶は「ありがとう」と手を振って、厩舎の方へ向かった。
つくづく、頼りがいのある人だ。めぐは日頃から、心強く思っていた。
のりに次ぐ古参の強者で、かつての鈴鹿御前を知る、数少ない存在である。
自分や、笹塚といった新参者と比べれば、貫禄が違うのは至極当然のことだった。
「さて……御前様に、ご報告しなければね」
蒼星石が入手した新しい剣について、どう説明すべきだろうか。
雪華綺晶と話して、少し気が紛れたものの、めぐの足取りは重いままだった。
謁見の間に踏み込んだめぐを、のりの微笑と、笹塚の冷笑が迎える。
めぐは二人に向けて軽く会釈すると、御簾の前まで歩み寄って、跪いた。
「御前様。ただいま戻りました」
「大義であったな。概略は、のりから聞いている」
「はい……力が及ばず、奴等を斃す事が出来ませんでした」
めぐは手にしていた妖刀『國久』を鞘から引き抜いて、床に置いた。
見事なまでに両断された刀は、既に妖気を放っていない。死に絶えていた。
四天王に着任する際、御前より拝領した刀を失ったとあれば、
肩書きに見合う資質を疑問視されても仕方がない。
降格だろうが、厳罰だろうと、如何なる処分も甘んじて受ける覚悟だった。
鈴鹿御前は「ふむ」と相槌を打つと、少しの間、黙り込んでしまった。
めぐは頭を垂れたまま、裁きが下されるのを、ただただ待ち続ける。
もしかしたら、5分にも満たない束の間だったかも知れない。
だが、めぐには――些か陳腐な表現ではあるが――悠久の時間に感じられた。
「……めぐ」
「は、はいっ!」
徐に名前を呼ばれて、めぐはビクッ! と肩を震わせた。
遂に、処分が下される。
覚悟を決めていた筈が、いざとなると、怖ろしさに震えが止まらなくなった。
けれど、投げ掛けられたのは――
「お前の忠節、わたしは常日頃より感謝しているのだよ」
余りにも想定外の台詞に、めぐは面食らって、目眩すら覚えた。
御前様に感謝されているなんて、身に余る光栄だ。
恐怖による悪寒は、いつしか歓喜の武者震いに変わっていた。
「ありがとうございます。御前様に、そんなお言葉を頂けるなんて……」
「これからも、わたしの為に働いてくれるな?」
「はい! 私の身が滅ぶその時まで、御前様の御為に尽くします」
「うむ。今は休み、次の機会に備えよ。新たな得物は、用意しておこう」
めぐは深々と一礼して、その場を後にした。
後ろを、のりが小走りに近付いてきた。彼女の右腕は、肘から先が失われたままだ。
廊下を並んで歩きながら、のりは、めぐの顔を覗き込み、口を開いた。
「めぐには、大きな借りが出来たわねぇ。本当に、ありがとう」
「お礼を言われる筋合いは無いです。のりさんの右腕は、もう――」
「うん。神剣で斬られたから、もう元には戻らないわねえ。
だけど、お姉ちゃんが今こうして喋っていられるのは、めぐのお陰よぅ。
めぐが来てくれたから、腕一本だけで済んだの。だから、お礼を言うわ」
「……どうして、そんなに優しいの? 御前様も、のりさんも」
めぐは自分の過去を振り返った。本当は思い出したくもない、厭な過去を。
病床に伏せたままの私に、周囲の人間は、上辺だけの親切しかくれなかった。
同情なんか……押し付けがましい慈善なんて、されたところで嬉しくないのに。
誰も彼も『気の毒にね』『可哀相にね』と言う目でしか、私を見てくれない。
それが鬱陶しくて堪らなくなり、私は全ての物事に反撥した。
――けれど、ただ一人……水銀燈は違った。
彼女が向けた眼差しは、同情よりも、更に深い感情――
「めぐっ!」
突然、耳元で叫ばれて、めぐは現実に引き戻された。
驚いて、声のした方を見ると、のりが悪戯っぽい笑みを浮かべている。
普段は大人びているのに、のりは極たまに、こうして幼い一面を見せてくれた。
「どうしたのよぅ、ぼぅ……っとしちゃってえ」
「ちょっと、昔のことを……ね。それで、なんの話だった?」
「なぜ、御前様がめぐに優しいのかって話よぅ」
ああ、そうそう。そんな事を話していたんだっけ。
めぐは「ごめんなさい」と、頭を下げた。のりも「まあ良いわ」と応じる。
「御前様が、めぐ……それに、いま身体を譲渡している巴に優しいのには、
ちゃんと理由が有るのよ」
「どんな理由? 私や巴が、御前様の親戚筋だとか?」
「半分だけ、正解ね。めぐと巴は、御前様にとても近い存在なのよぅ」
と言われても釈然としない。のりや雪華綺晶の方が、身近な存在ではないのか?
鈴鹿御前だって、二人には全幅の信頼を寄せている。
どうやら、のりの言う『身近』は、主従関係と別の事らしい。
「ひょっとして、体質が似ている……とか?」
「? どうして、体質が出てくるのよぅ」
「もしかしたら私も、御前様の依代として存在しているのかなぁ……って」
そう答えると、のりは暫し鳩が豆鉄砲を食らった様な面持ちになり、次いで、
爆笑した。どうやら違ったらしい。では、どう言う意味なのか?
腹を抱えて笑い続けるのりを横目に、めぐは腕を組み、首を捻った。
「これは、十八年前の事なんだけど」
そう前置いて、のりは徐に、鈴鹿御前と房姫の戦いについて語り始めた。
長引く戦乱によって荒廃した大地が、数多の血と怨念を吸い続けていた頃の話だ。
当時、鈴鹿御前を旗頭とする穢れの軍勢は、戦で疲弊した狼漸藩を破竹の勢いで併呑し、
次なる標的である桜田藩へと電撃的に侵攻していた。
だが、そこで穢れの軍団は、思いがけない強敵に遭遇する。
桜田藩に身を寄せていた、狗神と人間の間に生まれた娘――房姫である。
房姫の強大な退魔の能力に、多くの将兵が塵と消え、四天王すら斃される始末。
無敵と思われた軍団が瓦解するにつけ、鈴鹿御前は房姫との一騎打ちに臨んだ。
「結果、御前様は封印され、重傷を負っていた房姫は術に耐えきれず――」
「死んじゃったってわけ。
そのせいで術は不完全となり、房姫の御魂は八つに分かたれ、飛び散ってしまったのよ。
でもね――」
「? そこで勿体ぶらずに、早く話して欲しいんだけど」
「せっかちねえ。ま、良いけど……」
のりは肩を竦めて、苦笑った。
「御魂が分裂してしまったのは、房姫だけに留まらなかったのよぅ。
御前様の御魂もまた、余波を受けて、三つに分かれてしまったわ」
「三つ……って、ちょっと待って!? それって、まさか――」
「その、まさか……よ。三つとは、御前様と巴、めぐの三人のことだから」
あまりの衝撃的事実に、めぐは絶句した。
自分が鈴鹿御前の御魂を宿す存在だったなんて、夢にも思っていなかったのだ。
そよ風が吹く河原の草むらに寝転がり、水銀燈は呆然と流れ行く雲を眺めていた。
さわさわと風に揺れる雑草が、頬をくすぐる。
久しぶりに満喫する、穏やかな雰囲気。
しかし、水銀燈の心は、頭上に広がる青空のようには晴れていなかった。
「裏切り者……かぁ。そんなつもりは、更々なかったんだけどねぇ」
感情的に飛び出して、此処まで来てしまったが……どうしよう、これから。
水銀燈は胸の中で、自問自答を繰り返す。
――めぐに会うため、狼漸藩に行く?
そんな事をしたら、本当に裏切り者になってしまうわよ。
――それじゃあ、みんなの所に戻る?
今更、どの面さげて戻れるって言うの。ただの恥さらしじゃない。
――だったら、いっそ何もかも投げ捨てて、普通の生活に戻る?
それが出来るなら、最初っから苦労しないわぁ。
右肩は脱臼したまま。日銭を稼ごうにも、これでは満足に働く事すら出来ない。
まあ、春をひさぐので有れば、話は別だけれど……。
あれこれと考えて、結局、水銀燈は溜息を吐いて頭を振った。
何処で生活してたって、いずれ穢れの者が押し寄せてくる。
その時に、戦う術を持たなかったら、守りたい者すら護れない。
めぐを守りきれなかった、あの時のように――
とりあえず、どこかで脱臼した肩を元に戻すのが先だ。
それから、恥を忍んで、太刀を取りに戻ろう。
発つ鳥跡を濁さずとも言うし、別れるにしても、きちんと挨拶はした方が良い。
水銀燈は瞼を閉じて、彼女たちに会ったときに言う台詞を考え始めた。
だが、いざとなると巧い文句が思い浮かんでこない。
悶々と思い悩んでいた、そんな時……不意に、声を掛けられた。
「隣、座っても良い?」
「はぁ? 座るところなんて、どこにでも有るでしょぉ?」
水銀燈は目を閉じたまま、すげなく応じた。
その辺の村娘だろうか。妙に馴れ馴れしい。
そんな水銀燈の態度に、相手は鈴の音の様に澄んだ声で笑った。
どこかで聞いた憶えのある、鈴の音のような、綺麗な声。
「つれないこと言わないでよ、水銀燈」
水銀燈は、思わず「えっ?!」と、驚きの声を上げていた。
目を見開くと、そこには意外な人物……緋色の甲冑を纏う、黒髪の娘が立っていた。
「ウソぉ……。ホントに……めぐ?」
「えへっ。ちょっと、水銀燈と話したくなってね……来ちゃった」
「…………」
「? なぁに、ポ~ッとしちゃって。そんなに驚いた?」
「……め、めぐぅっ!」
水銀燈は飛び起きて、隣に腰を下ろしためぐに抱き付き、ぽろぽろと涙を流した。
右肩に激痛が走ったが、構わなかった。
めぐを抱擁して砕けるのならば、それでもいい。
「ごめん……なさい。めぐ……を独りに……して」
「いいのよ。私の為を思って、してくれたんでしょ?」
泣きじゃくる水銀燈の銀髪を、めぐは愛おしそうに撫でていた。
懐かしい感触。仲良く暮らしていた頃の記憶が、まざまざと思い出された。
それから、めぐは水銀燈の右肩関節を戻し、持っていた草色の布で固定した。
このまま暫く安静にしていれば、直ぐに治る。
「はい、終わり。無理に動かしたらダメだからね」
「ありがとぉ……めぐ」
「どういたしまして。ふふっ……なんだか昔に戻ったみたいね」
「……そうね。あの頃は、私がめぐを看護してたけど」
あの頃に戻れたら――
ずっと、そう思い続けてきた。それは、今、目の前に在る。
ちょっと腕を伸ばせば、指が触れる距離に彼女は座っている。
以前と変わらない微笑みを浮かべる彼女に、穢れの者の臭いは全く無かった。
けれど、これは幻想。強すぎる願望が見せた、甘い夢。
めぐと自分は今、敵同士なのだ。本来なら、こんな馴れ合いなど有り得ない。
「話って、なんなの? 私と話したくて来たんでしょう?」
「……実は、水銀燈を誘いに来たの。私と一緒に、御前様の所へ行こう?」
大体の予想は付いていた。この娘は……めぐならば、そう言うだろう、と。
けれど、そんな事できる筈がない。
めぐと一緒に行けば、次は真紅たちと戦わなければならなくなる。
静かに頸を左右に振った水銀燈を、めぐは熱心に説得し続けた。
「貴女も御前様に会えば、絶対に気が変わるわ。とても魅力溢れる御方よ。
私、御前様の元で働ける事を、誇りに思ってる。
損得なしに尽くす事が、凄く嬉しいの。
御前様の為ならば、命を失っても構わないくらいよ」
「だから、私にも鈴鹿御前の信者になれ……と?」
水銀燈は、悲しみのあまり、胸が張り裂けそうになった。
めぐは鈴鹿御前に心酔し、盲信している。熱病に浮かされた様に、従っている。
鈴鹿御前に、どんな甘い言葉で囁かれたか知らないが、上辺の優しさに絆され、
本質的な怖ろしさが見えていないのは確かだ。
彼女の心はもう、呼び戻せないのだろうか。
「ねえ、めぐ。貴女こそ、私と一緒に来てくれない? お願いだから」
ダメで元々と訊いた水銀燈に、めぐは逡巡せず返答した。
「出来ないわ……そんな事は」
「どうしてっ?!」
「それは――」
「なんなの? ハッキリ答えてよ、めぐっ!」
「……私もまた、水銀燈と同様に、御魂を宿した存在だからよ。
私は、十八年前に御前様から分離した御魂を、持って産まれたの」
水銀燈は耳を疑った。こんな酷い話があるだろうか。
あんなに一緒だったのに、それぞれが、相対する御魂を宿していたなんて。
産まれたときから、敵対することが決められていたなんて。
なのに、どうして……私たちは出会ってしまったの?
めぐは立ち上がると、言葉を失って座り込んだままの水銀燈に背を向けた。
「残念だけど、もう一緒には居られないのね。次に会う時は、敵同士よ」
「そんな……そんなの、嫌よ! ねえ、めぐ。考え直してよぉ!」
「戦いたくなければ、それでも良い。でも、私は躊躇わずに貴女を殺すわ」
「待ってぇ! 行かないで、めぐぅっ!」
「さよなら、水銀燈。久しぶりに話が出来て、とっても嬉しかったわ」
涙ながらに訴える水銀燈の叫びに振り返りもせず、めぐは赤い旋風の中に消えてしまった。
後はただ、元通りのそよ風が、さらさらと草を揺らすだけ。
水銀燈は、右肩に巻かれた草色の布を握り締めながら、声を殺して泣き続けた。
=第二十二章につづく=