~第九章~
「はぁ~。生き返るのだわぁ」
少し熱めの湯に身体を遊ばせながら、真紅は手拭いで、額の汗を拭いた。
打ち身に効くとは聞いていたが、なるほど……癒される。
身体中に滞っていた疲労が、解きほぐされていくのが分かった。
独りだけ――
貸し切りの温泉。真紅は大胆にも、両腕を背後の岩に乗せてくつろいだ。
思わず、独り言が口を衝いて出る。
「極楽、極楽♪」
「なぁに? 年寄りくさいわねぇ」
「はっ!」
やおら話しかけられて、真紅は小さな悲鳴を上げ、両腕で胸を覆い隠した。
まさか、誰かに聞かれていたとは、思っていなかったのだ。
見れば、惜しげもなく肌を晒した水銀燈が、戸板を開けて入ってきたところだった。
「慌てて隠さなくてもいいじゃなぁい。小さいのは、分かってるんだからぁ」
「余計なお世話なのだわ! 貴女こそ、手拭いで前ぐらい隠しなさい」
「いいじゃないのよぉ。どうせ、女同士なんだしぃ」
それは、確かにそうだ。恥ずかしがる必要は全くない。
けれど胸の小ささを気にしている真紅にとっては、見せ付けられてるみたいで面白くなかった。
おのずと、口調も厳しくなる。
「礼儀の問題よ。貴女はもう少し、女性としての慎みを学ぶべきね」
「ごめぇん。私って育ちが良くないからぁ、そんな事は知らなぁい」
正に、暖簾に腕押し。或いは、柳に風……と言うべきか。
真紅が放った辛辣な意見を、水銀燈はのらりくらりと受け流してしまう。
まあ、そんな奔放さが、水銀燈の長所でもあるのだが……。
水銀燈は湯船の縁に屈むと、指先で湯加減を確かめ、徐に入湯した。
はふう……と、吐息して、ゆっくりと頚を回した。
ぱきぽきと、関節の鳴る音が聞こえた。
「真紅ぅ。手拭い、貸してぇ」
「……呆れた。そんな物も持たずに、お風呂に来たの?」
大仰に肩を竦めつつも、手拭いを差し出す真紅。
水銀燈は「ありがとぉ」と微笑して受け取ると、鉱泉に浸し、首筋を拭った。
朱に染まり始めた彼女の肌が、やけに艶めかしく見えて、真紅は思わず赤面した。
「? なぁによぉ、変な顔してぇ」
「別に……なんでもないのだわ」
「ふぅん? へんなのぉ」
素っ気なく呟いて、水銀燈は再び、首筋から肩、腕と拭い始めた。
しかし、視線は、ひた、と真紅に向けられている。
彼女の瞳には、貴女の考えなどお見通し……と言わんばかりの光が宿っていた。
バツの悪さに真紅が眼を逸らした途端、水銀燈の声が、投げかけられた。
「ところでさぁ、真紅ぅ」
「な、なんなの?」
「貴女……私のことを大好き――って、言ってくれたわよねぇ?」
まさか、いきなりド真ん中で揺さぶりを掛けてくるとは予想していなかった。
真紅は緊張に身を強張らせながらも、努めて平静を装って、言葉を返した。
「尊敬に足る人物……という意味で、言ったつもりよ」
「勿論、解ってるわよぉ」
水銀燈はクスクスと含み笑い、眼を細めた。
真紅をからかうのが愉しくて仕方ない。仕種の中に、そんな意地の悪さが垣間見られた。
だが、一転して柔和な眼差しを向けて、そっと囁く。
「ただ、はっきり伝えてなかったなぁ……と、思ってねぇ」
「……なにを?」
「私もぉ、真紅が大好きってコトよ」
「なっ!」
ぼっ! と、真紅は瞬間的に耳まで真っ赤に染めた。
その顔に、水銀燈が投げ付けた手拭いがベチッ! と命中する。
「きゃはははっ。真紅って、ホントに虐めがいがあって可愛いわぁ」
「くっ! この間の意趣返しってワケ?」
そぉ言うコト、と応じる水銀燈。しかし、その表情は慈愛に満ちていた。
風呂を上がると、湯当たり気味だった真紅は、即座に庵の一室で眠りに就いた。
薔薇水晶と水銀燈が、真紅の枕元で護衛に付いている。
浴場で真紅と仲良くしていたのが気に入らないのか、水銀燈を見る薔薇水晶の視線は険しい。
どういう訳か、水銀燈は薔薇水晶に懐かれていた。
ひょっとしたら、彼女は水銀燈に、行方不明の姉の姿を重ねているのかも知れない。
「なんて顔をしてるのよぉ、貴女は」
「別に、なんでも……ないよ」
「ウソツキ。さっきっから、私と真紅を、交互に盗み見てるじゃなぁい」
「……気のせいだよ、きっと――」
水銀燈は思わず漏れた溜息を、微笑で誤魔化した。
嘘の下手な娘だ。これも、嘘偽りない真心を示す【忠】の御魂ゆえか。
それなら、自分が懐かれるのは、慈しみの心【仁】の御魂を持っているから?
考えてみると、各々の運命は、御魂と奇妙に絡まっていた。
信義に厚い【信】の御魂を持つ蒼星石は、やはりジュンを信じていたのだろう。
それまでの空白を埋めようとするかの様に、片時も彼と離れる事がない。
今も、縁側で仲良く寄り添い、いろいろな話をしては笑い合っているところだ。
けれども、それは表面だけのこと――
鋭敏な水銀燈は、彼等の間に、ぎこちない空気を感じ取っていた。
――まるで、お互いの傷を舐め合うような、寂しさを紛らすだけの空気。
仕方ないのかも知れない。
何故ならば、蒼星石は姉を、ジュンは巴を、それぞれ失ったのだから。
他者の犠牲の上に、自分達の幸せを築く事には、抵抗があるのだろう。
だけど……と、水銀燈は思う。
禍福は糾える縄の如しと諺にもあるように、不幸の次には、幸せが来るものだ。
二人の関係も、時間が経てば、きっと――
水銀燈は、真紅を起こさないように配慮しながら、静かに立ち上がった。
そして、ジュンと蒼星石の肩を優しく叩き、囁く。
「少し、その辺を散歩してきたらぁ? 真紅の護衛なら、私と薔薇しぃで充分よ」
「え……でも」
「いいからいいからぁ。ここじゃあ、落ち着いて睦み事も出来ないでしょぉ?」
「ちょっ……昼間っから、何を言い出すんだよっ」
忽ち、顔を赤らめる二人。本当に、分かり易い人たちだ。
そんな彼等に向けられた水銀燈の微笑みは、しかし、長く続かなかった。
――空に、怪しげな暗雲が広がり出して、生臭い風が漂い始めた。
「あーらら、残念ねぇ。無粋なお客さんが来たみたいよ」
「……ジュン。キミは、真紅の側に付いていて」
「ああ、解った。気を付けるんだぞ、蒼星石」
「ふふっ……ありがとう、ジュン」
水銀燈は部屋に戻ると、得物を引っ掴んだ。彼女の太刀は、屋内で扱うには長すぎた。
効果範囲の広い『冥鳴』も、迂闊には使えなくなってしまう。
蒼星石と水銀燈が外で迎撃し、討ち漏らした敵を、薔薇水晶が殲滅するのが最善策だ。
「薔薇しぃ! 真紅とジュンを、お願いね!」
「任せて…………きっと護る」
水銀燈と蒼星石は、庭に出て、思わず息を呑んだ。
あまりにも数が多い。小さな庵が、すっかり包囲されていた。
彼女達の前では、弓足軽の部隊が、既に矢を番えている。
「これは……最初っから、全力でいかないとダメみたいねぇ」
「らしいね。まずは、目の前の弓足軽を叩かないと」
「おちおち戦ってらんないわぁ」
水銀燈が、得物を構えた。刀身に、ジリジリッ……と、黒い稲妻が走る。
だが、今まさに冥鳴が放たれようとした瞬間、
水銀燈の太刀は何者かによって弾き飛ばされていた。
「痛ったぁ~! なんなのっ?」
「ど、どうしたのさ、水銀燈?!」
「私にも、解らないわよ!」
狼狽する二人の目の前に、紅い旋風が吹き、緋色の甲冑を纏った武将が現れた。
禍々しい妖気を放つ刀を手にしていたのは、うら若い女性。
その女を見るや、水銀燈と蒼星石の双眸に驚愕と、憎悪の感情が宿った。
「そんな……まさか……うそぉ!?」
「お前は、あの時のっ!」
「うふふふ……久しぶりね、水銀燈。また会えて、嬉しいわ」
「めぐ……どうしてぇ?」
驚愕のあまり、巧く言葉を継げない水銀燈を押し退け、蒼星石は猛然と斬りかかった。
「お前が、姉さんをっ!」
がきぃん! 両者の刃が噛み合い、ぎりぎりと軋んだ。
めぐは、蒼星石の怒りを呷るように、嘲笑した。
「ふん。あの時は、命拾いしたわね。纏めて始末するつもりだったのに」
「え? なぁに? なんなのぉ? どういうことよぉ?」
「こいつが、姉さんを殺したんだっ!」
蒼星石の言葉は、事態が飲み込めていない水銀燈に、更なる混乱を与えた。
あまりの事に、弾き飛ばされた得物を拾うことすら忘れていた。
「そんな…………めぐ……嘘、よね?」
「嘘じゃないわよ、水銀燈。あの忍びの娘は、私が始末したわ」
「やめてっ! 嘘だと言ってよ、めぐ!」
「信じたくなければ、勝手にしなさいな。貴女も、すぐに殺してあげるわ」
「そんなこと、ボクがさせないっ!」
「はん! 口ばかりは達者ね」
鍔迫り合いを続けながら、蒼星石は精霊を起動した。
蒼星石の刀が、煉獄の炎を纏う。
このまま刀を砕き、めぐの身体を両断する……筈だった。
しかし、実際に目の前で繰り広げられたのは、もっと呆気ない光景だった。
蒼星石の刀が纏った炎は、めぐの刀に吸収され、消えてしまったのだ。
そんな事は今まで一度たりとてなかっただけに、蒼星石の眼が、驚愕で見開かれた。
「そんなっ……バカなっ!」
「あはははははははっ!」
めぐの哄笑が、暗雲たちこめる庭に轟き渡った。
「貰っちゃった貰っちゃったぁ。貴女の精霊、貰っちゃったぁ♪」
「なっ!」
「なんですってぇ?!」
めぐが刀を振り抜くと、蒼星石の刀が砕け、彼女は弾き飛ばされてしまった。
庵の壁に激突して、微かに呻く蒼星石の元に、ジュンが駆け寄る。
そんなジュンの迂闊な行動に、めぐは蔑みの視線を向けた。
「見せ付けるわねぇ。そんなに馴れ合うのが好きなら、纏めて殺してあげるわ」
言うが早いか、めぐが猛然と突進する。ジュンが、蒼星石を庇って立ち塞がる。
だが、刀がジュンの身体に届く寸前、めぐは水銀燈の体当たりを食らって地面に倒れた。
「めぐ! もうやめてぇっ!」
「水銀燈ぉ~」
憎々しげに呟き、顔を上げる、めぐ。
水銀燈に向けられた瞳には、憤怒の炎が燃え盛っていた。
いつの間に拾っていたのか、水銀燈は太刀を構えて、めぐの前に立ちはだかった。
普段の彼女と違い、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
子供がイヤイヤをするように、唇を戦慄かせながら、頚を横に振り続けている。
「お願い……もう、やめてよぉ……」
「それは、できないわね」
取り付く島もなく、めぐは水銀燈の言葉を遮り、刀を構えた。
口元には、狂気を含んだ冷笑。
「戦うのが厭なら、おとなしく斬られなさいな」
「……めぐぅ」
「この妖刀『國久(くにひさ)』の力、見せてあげるわ……煉飛火」
めぐは、異様なほど穏やかな口調で、精霊を起動した。
彼女の握る妖刀が、忽ちの内に炎を纏う。
「すごいわ……最高の気分よ……力が……溢れて来ちゃう」
「め……ぐ」
「ねぇ、水銀燈。貴女の精霊も、私にちょうだい」
「っ! めぐぅっ!」
めぐの刀と、水銀燈の太刀が、激しくぶつかり合う。
しかし、どれだけ鍔迫り合いを繰り返そうと、冥鳴が奪われる事はなかった。
どうやら、起動した瞬間でなければ、妖刀に吸収されはしないらしい。
「あはははっ! どうしたの、水銀燈。本気にならないと、死んじゃうよ?」
「くぅっ!」
――速い。これが、あの病身だった彼女なの?
嬉々として妖刀を振るうめぐに、水銀燈はすっかり圧されていた。
めぐは嘲ったけれど、今だって充分、本気を出している。
にも拘わらず、煉飛火を繰るめぐの斬撃を食い止めるので、精一杯だった。
正直、拙い。
雑兵どもが手出しをしてこないから、まだ戦いに専念できるが、
敵の気紛れが、いつ覆るとも解らなかった。
じりじりと、後退を余儀なくされる。
水銀燈は、背後のジュンと蒼星石までの距離を気にした。
これ以上は退けない。さがれば、自分の斬撃に、彼等を巻き込んでしまう。
「蒼星石を、庵の中へ連れて行きなさい! 早くっ!」
叫んだ一瞬、隙が生じた。
その好機を見逃してくれる筈もなく、水銀燈の太刀は、めぐの一撃で弾き飛ばされていた。
くるくると宙を舞った太刀は、森の中に飛んで行き、偶々そこにいた穢れの者を刺し貫いた。
「はい、おしまい」
めぐは、燃え盛る刀の切っ先を、水銀燈の喉元に突き付けた。
ちろちろと伸びる炎の舌は、今にも水銀燈の肌を舐めようとしている。
「愉しかったわよ、水銀燈。それじゃあね」
目の前で繰り広げられる激戦を、ジュンは固唾を呑んで見守っていた。
どうやら、あの二人も只ならぬ因縁で結ばれているらしい。
まるで、巴と蒼星石の決闘が、再現された思いだった。
一瞬、薄暗い森の中で、何かが蠢いた。
そいつは炭火のような物で、なにかに火を着けていた。
「なんだ? 今のは」
指でメガネをかけ直して、凝視する。すると、木陰に法師姿の男を見付けた。
男は、嫌らしい笑みを浮かべながら、鉄砲を構えている。
その銃口が向いているのは――
「僕……なのか?」
一発の銃声が轟き、木々の枝から、驚いた鳥たちが一斉に舞い上がった。
ジュンは、胸に灼け付くような激痛を覚えた。
だが、それも一瞬。ジュンの意識は、急速に遠退いていった。
「笹塚か……無粋な真似を。あ~ぁ、興醒めだわ。睡鳥夢!」
めぐが、別の精霊を起動した。
急激に繁茂した植物に捕らわれた犬士たちを尻目に、めぐは、ジュンの亡骸を、軽々と肩に担いだ。
「じゃあね、水銀燈。精霊の代わりに、この男を貰っていくわ」
「ま、待ちなさいっ! 待って! めぐっ!」
だが、水銀燈の懇願を無視して、めぐはジュンと共に、紅い旋風の中に消えた。
=第十章につづく=