「――相席、宜しいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「有難うです」
《とある電車での出来事》
ガタン、ゴトン。
「――随分、荷物少ないですね」
「あ、ああ…まあ。準備していなかったものでね」
「どうしてですか?このご時世、荷物も無しに電車なんて珍しいですよ」
「確かにそうかもしれませんね。…散歩中に聞こえた汽笛に誘われてね。気が付いたら此の席にいた、という次第ですよ」
「……これまた随分と酔狂な奴ですねぇ…とんだ浮浪者です」
「………」
「…はっ!ご、御免なさいですぅ!い、いつもの癖でつい…」
「ははは…や、構わないですよ。そっちの方が気兼ねしなくて済む、って話さ。気にしなくて結構です」
「で、でも…」
「浮浪者に気兼ねは不要、ってね。…少々気障な言い回しだったかな?」
「…し、しゃーないですね。じゃ、これからは気兼ね無く喋らせて貰うですよ。どうやら歳も近い様ですし」
「その様ですね。では、此方もしゃーないので気兼ね無く喋らせて貰うといこうか」
「ま、真似すんなですぅ…――」
ガタン、ゴトン。
「――ところで、君はどちらへ?」
「…実は、私も行き先は決めとらんのです」
「それでは、君も僕と同じく浮浪者ではないか」
「な…おめぇと一緒にするなです!これでも、旅に出ようという立派な動機があってですねぇ…」
「ははは。そうか、それは済まなかった。はは」
「わ、笑うなですぅ…」
「はは。…だが、浮浪者、と言うのも悪くは無いと思うが?気の赴く侭に、風に身を委ねて、生きる。なかなか羨ましい事ではないか」
「馬鹿言うんじゃないですよ。男は働いて家族にうまい飯を食わせてやるのがこの世の道理ですよ。浮浪者なんて、勿体無いです」
「それを言われると返す言葉が見つからないな。耳が痛い限りだよ」
「おめぇ、そんな年してまだ定職に就いてないんですか!?」
「いや、職は在る。長男なものだから、家業を継いでいる。小さな呉服屋だ。まあ、今日は僕の気紛れで休みになってしまったのだが」
「へぇ、その貧しそうな袴姿からは想像もつかないですね」
「ははは。これは嘗て曾々祖父のものだった袴だよ。代々、元服になると譲り受ける仕来りらしい」
「ここ、これってそんなに凄い物なんですか!?へえ…」
「別に大したものじゃあ無いさ。値打ち物ではあるまい。まあ、だが妙な愛着があるのは事実だ」
「値打ちもんじゃなくとも、良いものは良いものなんだと思うですよ。私には、それが判らなかった様ですが」
「だが今、僕の話を聞いたら、何となくそういう気がしてきただろう?――恐ろしいよ。言葉、というものは。ものの見方を様々に捩じ曲げてしまう。時には、人のたましいをも、捩じ曲げる事さえ。…それは、恐ろしい事だと思う」
「…………なにおじじ臭ぇ事抜かしてるですか」
「はは、悪い悪い。ついいつもの癖でな。…何だか暗くなってしまったな。話題を変えようか――」
ガタン、ゴトン。
「――ところでおめぇ、テレビ、って知ってるですか?」
「ああ、知っている。向かいの家に来た模様でね。何やら人が大勢集まってきていたな。きっと、皆観に行っていたのだろう」
「おめぇは、行かなかったのですか?」
「ああ。どうもああいう人の大勢集まるところは苦手でね。息苦しく感じるんだよ。それに、あんなにぞろぞろと殺到する所に混じるのも、何だか馬鹿らしくてね」
「…私も、人の集まるところは何だか怖いです」
「…怖い?」
「…誰かの言葉なんですが、本当の孤独は人混みの間にある、って。知らない人の中に紛れると、自分の存在も紛れて見失ってしまう。だから、私は怖いです。それに」
「――ゲーテか?それにしてはやや違うな。まあ、いいか。…それに?」
「それに、知らない人と話すのは苦手です。話し掛けられるとどうしたらいいか分からなくなるのです」
「…おや、これは面白いことを言うものだ。先に話し掛けてきたのは君だったじゃないか」
「そ、それは…おめぇが余りにも見すぼらしい格好に加えて、手ぶらで汽車に乗ってるもんですから、てっきり無賃乗車の悪党かと思って、車掌さんに突き出そうとしただけですよ!」
「な…そ、そうか…そういう風に見られていたとは…そうなると、この格好でふらふらと出歩くのも考え物だな。気は進まんが、洋服でも着てみるとするか」
「あ、いや…じ、冗談ですよ。冗談を真に受けるなんて、どれだけ馬鹿正直なんですか、おめぇは」
「む…そうか」
「そうですよ。全く…ここまで頭の堅い奴とは思わなかったですよ」
「はは、それは済まない。仕事柄、堅気の方とばかり話をしていたものだから、そういうのには慣れていなくてね」
「ふぅん…その形からは、そんなこと想像も付かんのですがね」
「――浮浪者に見られる程、だからな」
「…言えてるじゃねぇですか」
「おや?自分で狙って言ったつもりは無かったのだが。こんな塩梅で良いのか…――」
ガタン、ゴトン。
「――此の辺りも、どんどん土地開発が進んでるですね」
「そうだな。仕様がないのかもしれないが、やはり見ていていい気はしないな」
「必要ないですよ、こんなもの。自然を壊してまで住みたくは無いのです。緑が失われていくのは、見たくないです」
「……そうだな。君の言う通りだよ。君は、やはり緑が好きなのかい?」
「ええ、緑は大好きですよ。でも、何が『やはり』なんですか?」
「何となく、な。まあ、強いて言うなら、君の着ている、その…何と言ったかね…」
「ワンピース、ですか?」
「そうだったかね。まあ、その色が緑色だったものでね。きっと、お気に入りなんだろうと思ってな」
「えっ…そうですか…――ふーん…」
「どうかしたか?」
「…別にぃ、何でもねぇですよ」
「そうか……――」
ガタン、ゴトン。
「――何、さっきからジロジロ見てやがるですか、気持ち悪いです」
「…君の、その瞳。珍しい色をしているのだな。」
「ああ、これですか。ま、確かに珍しいと言われれば珍しいかもですね」
「ああ、初めて見るよ、その様な、ほんのり緑がかった瞳の色は。綺麗だ」
「なっ…なに恥ずかしいこと言ってやがるですか!馬鹿も休み休み言えですぅ!」
「いやいや、これは申し訳無い。こんな事が己の口から発せられるなんて、自分でも驚いている次第だ」
「全く…調子狂うですよ。でも、子供の頃は目に苔が生えてる、なんてからかわれていたものですよ。私はそんなのお構い無しの平気の平左だったのですが、…よく妹が泣かされていたもので、それは流石に辛かったです」
「まあな。子供と言うのはそういうものさ。―ところで、妹、と言ったな。話から類推したところ、妹さんも君と同じ瞳をしているようだが?」
「…双子の妹です。私と、左右逆の瞳の色をしてるですよ。髪は、私程長くは無いですが」
「ほう。それで、その妹さんは今、どうされているのかな?」
「それは……」
「――あ…いや、済まなかった。余計な詮索だったな」
「いやいや、全然構わねぇですよ。――寧ろ、話しておきたい位ですよ」
「そんな、強引に訊き出すほど僕も野暮ではない。無理に話す必要はない」
「無理なんてしてねぇですよ。――ずっと頭の中の箪笥に仕舞いっ放しだと、埃を被ってしまって、終いには、引き出しが壊れて開かなくなってしまうです。そうなると、二度とその想い出に触れることも叶わなくなってしまう―そんな気がするです。
たまには、出して掃除してやらないといけないですよ。丁度良い機会だし、ちょっと怖いけど、話してみようと思うです」
「そうか、分かった――」
ガタン、ゴトン。
「――私は、その日、親戚の家に行っていたです。妹は風邪を拗らせていた様で、その日は母と留守番をしていたです。
帰ってきてみたら、家が、無かったです。周りの家も全部、焼夷弾で焼き尽くされて、灰しか残っていなかったです。
私と父は、二人を探したです。近所に住んでいた方が、其処から少し離れた場所にある広場にいた、という話を聞いたので向かったのです。その広場には沢山のひとが、いたです。二人は、広場の端の方の樫の木の下にいたです。
二人は、瀕死の状態で、火傷が酷く、一刻も早い処置が必要な状態だったです。でも、近くの診療所も飽和状態で、受け入れる余裕も全く無し。仕方なく戻ってみたら、二人の姿が消えていたです。――きっと、二人は゛間違え゛られて……うっ…ううっ……」
「…そうか。…ええと、何と言ったら良いのだろうか。――こういう時に限って、言葉が見つからないなんてな」
「……良いですよ、気を遣ってくれなくても。…私が勝手に話を始めた訳ですから」
「そうは言っても、やはり泣いている女性を前にして何もしないというのは、心が痛む。――そうだ、これを使うと良い」
「うっ…ありがとです。
――ハンカチーフ、ですか。意外なもん持ってるですね」
「こいつは何かと便利だ。手拭いと違って嵩張らないしな。……もう大丈夫か?」
「ええ…もう大丈夫です。本当に済まんです、変なことに付き合ってくれて」
「や、構わないよ。…君も、大変に辛い思いをしてきたのだな」
「…辛いのは、皆一緒です。私より辛い思いをした人だって、沢山いるですよ。だから、あの日からは涙は零すまいと思っていたのですが、やっぱり、言葉に出すと思いだしちまう――いや、思い出すことが出来るですよ。
話して、良かったです。こうやって、たまには掃除してやらないといけねぇですね。
――言葉って、凄いですね。こんな風に、私の思い出を甦らせてくれるですよ。私のたましいを、甦らせてくれるです」
「ふむ…
――よく、言葉にはたましいが宿る、と云うな。言霊といったか。其の話、本当かも知れんな。たましい、か。不思議なものだ」
「……写真、有るです。見てみるですか?」
「…良いのか?」
「構わないですよ。――はい、この右端の――私の横にいるのが妹です」
「この娘か――中々、聡明な娘と伺える」
「ええ。才色兼備、という言葉が最も似合う娘です。――自慢の、妹ですよ」
「そうか。其処まで君に想われているなんて、幸せな妹さんだな。きっと、笑っているよ」
「そう、ですかね……そうだと良いのですが」
「ああ、きっとそうだ」
「――そうですね。きっと、笑ってるです。――ありがとう――」
ガタン、ゴトン。
「――何ですか、そんなにうちの妹が気に入ったんですか?」
「…あ、いや、そう言う訳では無いのだか。――や、勿論可愛らしい方だよ。でも、そうでは無くてな。
似ているのだ。僕の知っている人に」
「へえ、似ているんですか。…どんな人――いや、良いです、やっぱり」
「ふふ、そう言われてもな。君は話したのに、僕は話さないというのは、何とも虫が良すぎるじゃあないか。
――それに、僕もたまには『掃除』しようかと思ってな。君の様に、僕にだって一応『箪笥』に仕舞ってある想い出はあるのだ。…構わないか?」
「…し、しゃーねぇですね。確かに私ばかり話しておめぇが話さんというのも、割に合わんです。だから、特別に聞いてやらんことも無いですよ」
「はは、そうか。…
――幼馴染みの女性でな。小さい頃は身体が弱く、よく苛められていた僕をよく助けてくれたものだった。芯の通った、強い女性だった。
何時からか、恋仲になった。お互いに恥じらいつつの交際だったのだが、しあわせだったよ。丁度その頃だったか、当時の僕等学生を戦場に出陣させるようになったのは。例外無く、僕の下にも通達が来た。
家族は猛反対だった。元々戦争嫌いな性質で、戦時中は仕方無く『善き国民』になっていたのだが、流石に其の時ばかりは反対していたよ。
勿論、彼女も反対だった。泣いて僕を引き留めようとした。しかし、そうしたところで何かが変わるわけでもなく、出発の日はやって来た」
「…………」
「僕は彼女に、心配するな、必ず戻ってくる、と言った。そして、帰った暁には、籍を入れよう、と約束した。…彼女は、ほんの微かに首を縦に動かしただけだった。
――僕は必死だった。死なないように、彼女にまた逢うために。そして漸く、帰還の招集がかかった。
――彼女は、疎開していた。僕は知り合いの下を訪ね歩き、彼女の行方を追った。そうして、必死に彼女を捜した僕の下に届いたのは――彼女の死亡通知書だった。
不思議と、泣かなかった。――泣くことが出来なかった。涙が枯れていたのかは解らない。戦場の瘴気にやられたのかもしれない。だが、…………泣けなかった………泣く事すらしてやれないのかと、愚かな自分を怨んだ。
……どうしてあの時、泣いている彼女を見棄ててしまったのか!あの時――僕は、逃げていた。泣いている彼女から、逃げていたのだ…
帰って来られれば良い。また、逢えるのだから。――そんなもの、泡沫の夢に過ぎなかった。だが、僕は其の夢に甘んじてしまった……結果がこのざまだ」
「…………」
「……思えば、あの時に彼女は既に、気付いていたのかも知れないな…
――なのに、僕は、僕は!在りもしない泡沫の夢に縋り付いて、在りもしない泡沫の夢を見続け、夢から醒めたら……現のものを亡くしていた。
…全く、僕はとんでもない阿呆だ」
「……………
――あ、あの、大丈夫ですか?泣いているですよ?――えっと、これ、使うです」
「これは…君も、持っていたのか」
「さっきはおめぇが先に渡してきたですから…」
「そうか、有難う…――それにしても、今頃になって涙を零して仕舞うとはな。しかも女性の前で。…何とも情けない話だ」
「そんな事、ねぇですよ……
別に、泣くことは悪いことじゃないです。泣いて、泣いて、その胸の痛みを感じる。とても大切な事ですよ」
「ああ、そうかもな…
――済まなかった。しがない男の、しがない話なんか聞いてくれて」
「な…何言ってるですか!自分の大切な人なんじゃ無いんですか!?そんな言い方するなですぅ!その人が…っく…余りにも可哀想ですよぉ…」
「あ、いや、その……済まん!まさか君を泣かせてしまうとは…」
「…私の事は良いのです。彼女に、謝るです」
「しかし…どうやって」
「んもう、それ位手前で考えやがれです!彼女に届くように、しっかりと謝れば良いのです」
「そうか。…では……――」
ガタン、ゴトン。
「――………」
「…しっかり、謝ったですか?」
「ああ。――だが、赦して貰えるだろうか?」
「さあ、どうですかねぇ?自分の事を嫌な風に言われて、怒らない女の子はいないですからねぇ…イーッヒッヒッヒッ……」
「う…それは参ったなあ」
「ふふ。冗談ですよ。まぁた、引っ掛かったですね」
「くっ…抜かった…相も変わらず、学習しないな、僕は」
「ふふ、全く以て進歩が無い奴ですぅ。
――でも、きっと、赦してくれるですよ。ぜったい」
「そうか…――有難うな」
「そ、そんな…お、おめぇにお礼を言われる程、私は落ちぶれてなどおらんのですぅ!自惚れるなです!」
「今のはどうやら、冗談のようだな。
今、僕は君の冗談を看破する方法を見つけ出したよ。君は冗談を言うときに、顔を赤くする。だからとても判りやすい」
「なななな……う、五月蝿い五月蝿いですぅ!!この馬鹿!チビ!ううぅ……」
「また冗談か?もう騙されないぞ?」
「本気で怒ってるです!!」
「え…そ、そうなのか!?わ、悪かった。この通りだ」
「ぜえーったい、許してやらんです!」
「そ、そんな…――」
ガタン、ゴトン。
「――…なあ、まだ怒っているのか?」
「…………」
「…………」
「…………もう、良いです。その代わり」
「その代わり?」
「な、何か食べさせろですぅ…」
「…………え?」
「…………」
「……くっ、くくっ、あははは!」
「も、もう…笑うなですよ…」
「ははは…そうかそうか、確かに丁度お昼時の様だ。分かった。これ、僕の姉が作ってくれた弁当なんだが、見ての通り、大き過ぎるのだ。
もっと大きくなって欲しいと云う願いからなのだろうが、もういい年だ、身体が伸びる訳も無いだろうに。―勿論、そういう僕を気遣ってくれる気持ちは、嬉しい限りなのだが―まあ、そういった訳だから、一緒に食べよう」
「えっと…しゃーないですね。折角作ってくれた弁当が残されるのも勿体無いですし、私も食べてやるです」
「はは、そうか。――どれどれ、中々旨そうではないか。では、頂きます」
「頂きますですぅ」
「…………」
「…………」
「……これは……」
「えっと…」
「…率直に意見を述べて良いぞ。構わない」
「不味いですぅ……私の方が百倍旨く作れるですよ…」
「ああ…これは酷いな…だが、残すのも勿体無い。頑張って全部平らげよう。手伝ってくれ」
「ええ!?私も手伝うんですかぁ!?」
「頼む!君しか頼りはいないんだ」
「そんな……ううぅ……――」
ガタン、ゴトン。
「――何とか、平らげたな。御馳走様」
「はあ……食べ疲れるなんて初めてですよ。御馳走様です」
「はあ……何だか、口の中が落ち着かんなあ」
「――そうだ、私、実はお菓子を作ってきたですよ」
「本当か!?」
「はいですぅ。――これ、スコーン、って言うです。西洋菓子なんですが、これがまたお手軽に作れるんですよ」
「――へぇ、スコーンか…何だか堅いな」
「外側はちと固いですが、中は柔らかいです。外はサクサク、中はふんわり、ですぅ」
「ははは。それは良い謳い文句だ。――食べてみて、良いだろうか」
「ま、腹は一杯にして貰ったですからね。特別に許可するですよ。たーんと召し上がれです」
「――ん、これは旨い。確かに外はサクサク、中はふんわりだな。…美味しいよ」
「あ、そ、そうですか?まあ、私が作ったのですから、旨くて当然なのです。…あの、本当に美味しかったですか?」
「ああ、美味しかったよ。こんなに美味しい菓子は初めて食べた。――あの、もう一つ、宜しいだろうか?」
「ええ、良いですよ。特例中の特例で、もう一つ食べていいです」
「そうか、ありがとな。――何だか、嬉しそうだが?」
「そりゃあ、自分の作ったものを褒められて、嬉しくならん奴は居ないですからね」
「はは、確かにな。――機嫌、直った様だな。良かった」
「別に、始めから怒ってなど無かったですよ」
「…そうなのか?」
「そうなのですよ――」
ガタン、ゴトン。
「――うん、とても美味しかった。有難う」
「どういたしましてです」
「――さて、と。そう言えば、先程、行く宛ても無くこの電車にふらりと乗った、と僕は言っただろう?
――どうやら、行く宛てが見つかったようだ」
「そうですか。それは良かったですね」
「そこで、だ。僕はもう次の駅で降りようと思う。そして、其の駅は、直ぐ近い。そろそろお別れだ」
「…そうですね」
「思えば、数奇な巡り合わせだな。こんな辺鄙な町の、ちいさな列車の、端の方の此の席にこうして向かい合って座る。数学には詳しくは無いのだが、確率にしたら途方も無い程低い確率なのだろうな。
それでも、僕等は、出逢った」
「そうですね…――でも、私はやっぱりこうして出逢うのは、決まっていたのだと思うですよ。――だって、私達はお互い、似た者同士ですから」
「似た者同士、か。――確かに、そうかも知れんな。はは」
「――あ、そうだ。今更になるのですが、おめぇの名前、訊いていなかったです」
「ん?そう言えばそうだな。――だが、やはり、良いんじゃないか?名前など、その人をあらわす上では些細な物でしかない。だから、こうやって互いの名前を知らなくとも、楽しく話が出来る。今更、訊くのも野暮ってものだ。な?」
「――そうですね。そしたらば、私の名前を教える必要も無いですね」
「そうだな。――さて、そろそろ行くとするか」
「あ、待ってです…未だ、駅にも着いてないじゃないですか。
――それに、ハンカチーフ、返してないですよ」
「ああ、それか。返さなくて構わないよ」
「――私のは…返して欲しいです…」
「あ、そうだったか?いやはや、済まない。では、返すよ」
「あ、いや…やっぱり、持っとけですぅ…」
「ん?そうか?おかしな奴だな」
「…………」
「――どうした?ハンカチーフばかりじっと見て」
「や、何でも――ん?
――あの、おめぇは、確か呉服屋を営んでるって、言ったですよね?」
「ああ。確かにそう言ったが。どうかしたか?」
「別にぃ、何でも無いですよ。――そうですか。
そう言えば、私もさっき、行く宛てが無いって、言ったですよね?
――私も、見つけたです、行き先」
「そうか。――それで、何処で降りるんだ?」
「…もう少し、先で降りなきゃいけないみたいです」
「そうか。さて、駅が近づいてきた様だ。今度こそ、お別れだ」
「あの――」
「――何だ?」
「――貴方に逢えて、良かったです」
「そうか。僕もだ」
「あの――」
「――何だ?」
「…また、逢えるですよね?」
「――さあな、僕には分からぬ。まあ、もう逢うことは無いのかも知れない。僕等の出会いは、其の程度の運命であったのかも知れない。
だが、二度と逢えない、という保証もないのも、否定できない事実だ。
――そうだな。このハンカチーフに、懸けてみようではないか。此のハンカチーフには、僕等のたましいが、込められている。僕等は別れてもまだ、このハンカチーフという繋がりが――たましいの繋がりが――ある。この繋がりがある限り、望みは絶えない。
だから、もし逢うことがあって、君に返して貰うよう言われた時の為に、このハンカチーフは、洗って持っていよう。約束だ」
「――分かったです。綺麗に洗って、大切に仕舞っておくです、『箪笥』の中に。だから、おめぇも忘れるんじゃねぇですよ?」
「ああ。忘れないとも。絶対に、だ。――君に、幸あれ」
「――最後まで、とことん気障な野郎だったですね。
――じゃあ、さようならです、浮浪者さん」
「さようなら、浮浪者の御嬢さん――」
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ガタン、ゴトン。
《とある電車での出来事》
おしまい。