そこには、ノートがありました。
大事なことを、書き残すための、ノートです。
大事なこと。
それは様々な、思い出。
ですが、そのノートには、何も残りません。
いつまでも、いつまでも。
書いた端から、消えていきます。
魔法のかかったノートは。
ずっと真っ白な、ままでした。
【真っ白なノート】
――――
不思議な森の外に、女の子が住んでいました。
不思議な森が、何故不思議であるかを、その女の子は知りませんでした。
知らなければ、そんな不思議も『無い』ことになります。
だから女の子は、ある日足を踏み入れてしまったのです。
絶対に入ってはいけないといわれていた森の中へ。
女の子はそして、迷ってしまい――
女の子は、森に呑まれてしまったのです。
それは。森にとって、大切なものが壊れてしまう、少し前の、お話。
―――
森には、魔法使いが、住んでいました。
森の奥深くで、ひっそりと。
森は優しく、その均衡を崩さないものでした。
確かに、不思議はあったけれど。
その時は、まだ。それは不思議の森ではなく、やさしい恵みの森だったのでした。
ただ、ひとびとには、森に対する畏れがありました。
だから、ひとびとは森を崇め、其処へみだりに入り込むことなどしませんでした。
しかし、とある旅人が。
ある日、森に対する畏れをしらない旅人が、森へ入り込んでしまいます。
何もしらない旅人にとって、その森に対する畏れなど、はじめからありません。
しらない。
しらない、ことが、罪、と言ったのは、誰でしょう?
旅人は彷徨います。
珍しい木の実が成っていて、それを採り、書き残しました。
大事なことを、書き残しておくための、ノートです。
旅人は、人形師を志していました。
その人形を作るための、最後の材料。
それを探しに、森へ入ったのでした。
黒いトランクを持って。
トランクの中には、ノートが。
うつくしい、究極の少女を作り出すためのメモが記されている、大事なノートが、ありました。
そして旅人は、誰にも逢うことなく。
とある場所に、たどり着きます。
まるで、その場所に呼ばれているように。
それは、海でした。
森の中に、海が?
そんなにも広くはないのに、どうして、海、と思ってしまったのか。
おかしいと旅人は感じたけれど、その水を掬ってなめてみると、確かにしおからい味がしたのです。
旅人はその海へ――それほど深くはない、其処に――足を踏み入れてしまいました。
何故?
その真ん中には。海を不思議に照らす、輝く石のようなものが、浮かんでいたからです。
なんて、あたたかい。
それは例えるなら――いのち。
いのち、が、其処には浮かんでいたのでした。
旅人は、気付きません。
今まさに、眼の前にあり。
触れようとしている、それが。
森、のいのちを、司るものだとは。
そっ、と手を触れて。
やはりその輝きの石は、
こなごなに。くだけちって、しまったのでした。
―――
森、が泣いている。
その異変にまず気付いたのは、海、を納めていた白の魔法使いと。
そのすぐ下の妹にあたる、紫の魔法使いでした。
ああ、くだけたわ。くだけちゃった。
どうしましょう。どうしよう。
まずは、うみへ、むかいましょう。そうだね、おねえちゃん。
二人の魔法使いが、森の奥深くにある海へ辿り着いたとき。岸辺に、ひとりの男が倒れていました。
海の真ん中に浮かんでいるはずの輝きの石は、やはり、もうありませんでした。
男が。旅人が、目覚めます。
――君たちは、だれだい? ここは、どこだろう?
どうして僕は、こんなところに……
旅人はもう、奪われていました。
輝きの石が、森に与え続けていたもの。
魔法使いたちが、無意識の海、と呼んでいた場所に浮かんでいた石は、森の記憶、そのものでした。
無意識の海は、その記憶を受け止める器。
そこに足を踏み入れ、石を壊してしまった旅人は、もはや自分が誰であるのかも、覚えていませんでした。
魔法使いたちはそれを察して、とてもかなしくなりました。
ああ、今彼にとって。今まで築きあげてきた思い出、そんなものたちは、はじめから無かったことになってしまった――
身体の方は、なんともないかしら。痛いところ、ない?
ちゃんと見えていますか? その眼は、ひかりをうつしてる?
二人から問いかけられて、男はなんとか頷きます。
良かった、と。そこでとりあえず、二人の魔法使いは少しだけ安心して言いました。
ちょっと、前。
やはりこの海へ辿りついてしまった、女の子が居ました。
女の子は、眩しく輝く石のひかり、に当てられて。
自分のひかり、を失ってしまったのでした。
だから、私たちの眼のひかりを、片方ずつあげたのです。
だけどその子は、かたちはわかっても、色はわからないようになってしまったの。
右眼と、左眼。それぞれに手を添えながら、ふたりは話します。
もうそんなことが起きないように。
その場所は、誰にも見えないようにしていた筈でした。
けれどやっぱり、辿りついてしまったのは――
あなたには。強い想いが、あったのかもしれないですね。
森が、そう、願ったのかもしれないね。
旅人は、何を言われているのかよくわかりません。
新しい住人が、きっと欲しかったんですね。
この間の女の子は、私たちが森の外に帰してしまったけれど。
あなたは、この森の住人に、なってもらう。
かつて森に呑まれた私たちと、同じ様に。
森、の管理を。お姉さまたちにお願いしましょう。
森、の地図を描かなければ。
もう、森は、記憶を留めてはいない。
もう、放っておいたら、どんな風に変わってしまうか、わからない。
表情を変えていく、いのちを失った森へ、その記録を与えなければ。
その記録はまさに、『その通り』になる。
標を、森、に与えてくれる。
全ての時間を、ひとりで納めきるのは、きっと無理。
だから、手分けをしなきゃ。
清々しい朝へ。
お日さまの高い、午後へ。
少しものがなしい、夕暮れへ。
すべてが眠る、夜へ。
それが過ぎて。まさに、新しい夜明け、不思議な色の明け空は、繰り返される。
嬉しいときには、あたたかいひかりを。
哀しいときには、つめたい雨を。
それを、書き残さなければ。
管理している間に、わたしたちも、『うばわれる』かもしれない。
今まで過ごしてきた、その思い出を。
時には、ひどい怪我を負うこともあるかもしれない。
管理している領域を、はみだしてしまえば。
森、の奥にある、海、に近付いてしまえば。
それは、仕方のないこと。
けれど、森は?
森は、森の記憶を求めて、ずっと飲み込み続ける。
――それを、あなたが、与えるの。
さあ、そのトランクを開けて。その中には、ノートが入っているのでしょう?
魔法使いたちが言っていることをよく理解できないままに、旅人はトランクを開けます。
黒い表面に、薔薇の紋様があしらわれた、トランク。
それを見て、もう魔法使いたちは、石が壊れてしまったことにも、いよいよ頷かなければなりませんでした。
そこには、色とりどりのノートが、数冊はいっています。
その中の、一冊。紫色の、ノート。
そこには、物語が記されていますね。
これはあなたの残したものではない。
だから、消されずに、ここにある。
それは、当然のこと。
究極の少女を、――作り上げるための、物語。
あなたではなく。あなたの、血筋の残した――
これは、妹に持たせます。
そして。この、あなたの、大事なことを書き残していたノート。
今はもう――真っ白な、ノート。
そう言って、白の魔法使いは、ノートを手にとりました。
もう、このノートは真っ白になっています。
もう、奪われてしまったんだね。
これを、これからも。
森に、ささげ続けてもらわなきゃ。
白の魔法使いは。真っ白なノートに、魔法をかけました。
あなたの思い出。
あなたの、記憶。
それは、描かれた端から、森へと与えられ続けます。
あなたは、何も覚えていないんだよね。
ただ、あなたが描いた物語は。
ここで輝いていた石を、再び作り上げていくでしょう。
少しずつ、少しずつ。
あなたは、森を歩きなさい。
そして、あなたはお姉さまたちに、出会い。
あなたのノートを、手渡しなさい。
お姉さまたちは、あなたのノートを使い、森の地図、を描くでしょう。
それを、森に与えるために。
それが、あなたの助けになるように。
森を出るな、というわけではないの。
けれど一度出ても、あなたは森を、離れることなど出来はしない。
たとえ、何も覚えていなくても。
あなたが、私たちの名前を問うのならば。
私たちは、その度に答えましょう。
繰り返し、繰り返し。
だって世界は、『そのように』出来上がるのだから。
ねえ、ジュン。
ようこそ、ジュン。
森は。
私たちは。
あなたを、歓迎するわ。
―――
そうして、男の旅は、始まりました。
森に、思い出を与え続け。
その結晶を作り上げるための、旅が。
―――
森は、静か。
木々の揺れる音を聴いて、それだけで心地よい。
水の、音。
それは、森の中にある、小さな海が波立つ音。
ひとが、来る。
ああ、彼がやってくるのね。
彼がやってくるということは。
彼の持つべき『物語』が、元通り。
そのトランクの中へ、収まったということ。
あれから、どれくらいの時が経っただろうか。
彼は、あれから。
繰り返し、繰り返し。
この森の毎日が繰り返されるのと同じ様に、彷徨い続けてきた。
けれど。
決してここへ辿りつくことは、無かったの。
お姉さまたちは、彼を助けてくれたのね。
そして、妹は。
熟した機を察して、彼にノートを、預けたに違いない。
海の真ん中を、見る。
そこには、輝きの石が、浮かんでいる。
彼の思い出を。
私たちが、私たち魔法使いが、少しずつ紡ぎあげた、結晶。
ああ、白い。
記憶は、普通なら彩りを持つもの。
けれど今私が見ている石は。
なんて、なんて、白いのだろう。
この石が、白いのならば。
森もまさに、『そのような色になっている』。
今、森は。
純白に、包まれているのかしら?
「どうして、こんなところに」
――海、が。
ああ。
あなたは此処が、海、であると感じている。
そう、此処は海なの。
森、の記憶を、受け止める、器。
無意識に受け止める、器。
「ああ、此処は……」
此処は。
言って、あなたは、頭を抑えだす。
「ここは、海。そして、君は」
君は。
雪華綺晶――白の、魔法使い。
「お久しぶりですね、ジュン」
声を出す。
あなたは、私の名前を問わずとも、私の名前を知っていた。
それを、思い出したのね。
私は、ずっと此処へ留まり続けていた。
ただひとり、森、を管理するための領域を持たず。
森、から守られている、家を持たず。
この海の傍に、いた。
この場所は、時が止まっているから。
私が時を、止めているから。
ずっと、待っていたの。
あなたが再び、此処へやってくるのを。
―――
「僕はどのくらい、歩いていたんだろうな」
後ろ頭を掻きながら、あなたは言う。
「それはわかりません。けれど、それ相応の長さだったとは思いますよ」
「そうか……石はもう、出来上がっているんだろうか?」
海の真ん中。
輝きの石は、白いひかりを放ちながら、其処にある。
あなたは、私の名前を覚えていても。
どうして、この石を作り上げているための旅を続けていたかを、覚えてはいないのだろうか。
はじめは、一つの罰に似ていた。
畏れ多くもあなたは、究極の少女を。
木偶から、ひと、を。
いのち、を与えるための旅を、続けていた。
それはもう、神の業。
この世界に居る者達が、至ってはいけない領域。
その残骸が、私たちであることを。
この森に呑まれた、私たちであることを、あなたは知らないでしょう。
元々は、あなたの血筋が。
あなたの祖先が、神の業に至ろうとした残骸が、私たち――そして、この森、であるということを。
だから、私たちは。森、を出ることを許されない。
この森、の近くにある限り、生き続けることが出来るのだから。
あなたは一度、この石を壊してしまった。
けれど不思議なことに、私たちのいのちは、奪われなかった。
どうしてだろう。
それはとても、不思議だった。
多分私たちは、森、の一部に、既になっていたのだろうと思う。
もうとっくの昔に、森に呑まれていたのかしら。
だから、かたちを留めていられた。少なくとも、お姉さまたちにとってのからだ、その器のかたちを。
私と妹は、お姉さまたちとは少し違う。
紫の魔法使いは、同じ様なかたちをしているけれど、そのいのちの起源が少し異なる。
同じように森に呑まれているけれど、多分あの娘が、森、からもっとも遠い存在。
それでも、大事な大事な妹であることに違いはないわけだけれど。
そして、私は。姉妹の中で、もっとも「森に近い」。
それは、私に与えられた色が、白、であったから。
何色に染められてしまうかわからない、色だったから。
私だけが、本当は、石の力を必要としなかった。
私はもともと、しっかりとしたからだの器を、与えられなかった。
「ジュン、あなたは、これからどうするの?」
問いかけてみる。彼も今、それを考えているような風だった。
「どうしようかな。時間はある……ああ。ここは、時間の流れが曖昧なんだっけ」
「ふふ、そうですね。この場所は、森の中でも切り離されていますから」
お姉さまたちもきっと、容易に近付くことができない。
「何もすることが浮かばなくても。今居る場所がうつくしい、それだけで良いとは思いませんか?」
ただ、白い。ちょっと見れば、それは何もない光景だった。
けれど、何もないことこそが、きっと一番うつくしい、あり方。
「……そういう考え方も、あるか。うん、それもいい。だけど」
本当は。僕のしたいことは、もう決まっているんだ――
そんなことを。あなたは、私の眼を見ながら、言う。
――――
私は、からだ、という器を持たない。
ただ、意味、だけを持っている。
眼で見て。
言葉を話し、耳を傾ける。
ときにお腹も空いて、森の恵みに口をつける。
手で触れて、そのあたたかさやつめたさを知る。
ただ、私に触れることが出来るものは、限られていた。
お姉さまたちは、「私」という存在を、しらない。
この森の管理をお願いするとき、それは妹に――紫の魔法使いに、頼んでもらうようにした。
いのちの起源が異なる妹と、元々、森にいきるものだけが、私に触れられる。
かたちある、お姉さまたちへ。お姉さまたちも、森の住人だというのに、どうして触れられないの――?
気付いていた。
私は、森に近いのではなく――
ひょっとして、森、そのものになったのではないか、ということに。
「ノート、を読んだよ」
あなたはそう言いながら、トランクから紫色の表紙のノートを、取り出した。
「きっとこの場所だから、思い出せる。アストラル――究極の少女は、きっと体という器を持っていないのではないか、だなんて。僕の祖先が思ったんだな」
器などなくても。それがなければ、もっとも「うつくしいかたち」。
「私は、私ですから。私はただ、此処に居ればいい。それだけです」
海の真ん中を見やる。白の石は、その輝きを放ち続けている。
「きっと雪華綺晶なら、そう言うかもしれないと思ってた。ただ、僕が今したいことは」
言いながら、あなたは。無意識の海へ、足を踏み入れる。
「いけません! せっかく作り上げた石が、壊れてしまいます!」
私の制止する言葉も聞かず、あなたは浅瀬の海を進んで、石に近付いていく。
あなたはまた、途方もない旅に、出ようというの。
あなたのからだに、私は触れることが出来ない。
その手を掴んで、引き戻すことが出来ない!
「大丈夫。心配しないで」
――ああ、その微笑み。あなたは本当に、お父様に、似ている。
「作り上げるのは、手伝ってもらったけど。この『いのちの起源』は、僕のもの。だから――」
――触れて砕けることなど、ありはしない。
あなたは石を掴み。それを一かけら、手に収めた。
「ひとつの究極は、なくたっていいんだ。ひとつひとつが不完全でも、それを繋ぎ合せて生きればいい」
それが、ひと、なのだから。
―――
あたたかい。
この場所は、なにもないはず。
このあたたかさは、一体。
「眼が、覚めたか?」
あなたの、声。
あなたの手は、私の手を、握っている。
「気分はどうだろう、白の魔法使い」
あなたは相変わらず、微笑んだままで。
私も何だか、笑みが零れてしまう。
「さあ……わかりませんわ。全くあなたは、私が望んでるかどうかも聞かず、随分勝手なことですね」
ちょっと意地悪く返してみる。石を砕いてしまうかもしれない、と私に心配させた、仕返しのつもりだった。そうするとあなたはやっぱり、うろたえるのだった。
後ろ頭を掻きながら、言う。
「僕もなんだかんだ言って、諦め切れなかったということかな」
「あきらめきれない?」
尋ねると、あなたはふっと笑った。
「究極の、少女」
それを求めて生み出された、森の魔法使いたち。
森を治め、不思議の中をいきる者たち。
「その中で、ただひとり、君だけが欠けていた」
さあ、いこうか。
……何処へ?
まずは雪華綺晶の、大事な妹のところへ。
……そして?
僕はこの旅で、何度も約束を残していたんだ。
ほら、このノートに――
『いつかまた、自分のもとをたずねて欲しい』
もう真っ白ではないノートには、彼の思い出が記されている。
それを果たしにいかなければ。一緒に来てくれるかい?
そしてみんな集まって、美味しい紅茶を飲もう。
森の外からも、お客様を呼べばいい。
ずっとさくらの絵を描き続けている、女の子が居るんだ――
ああ、あの少女のことだ。
森へ入り、ひかりを失った少女。
私と妹が、ひかりの意味、を分け与えてあげた娘。
そうやって。それが究極かどうかわからないけれど。かけらは、ひとつになる。
手を取り合って、立ち上がる。
私はこの場所を離れても、良いのかしら。
お姉さまたちに会っても、良いのかしら――
涙が出る。私の、残された左眼から。
「ここは不思議な森であっても。君にいのちと、そのかたちがあることは覆せない。だから、いいんだよ」
行こう。
促されて、私たちは歩き始める。
森、を出ることは、きっとかなわずとも。
今度は、私が。私自身が、ノートに書き残していこう。
自分の大切なことを。
「……」
「え?」
「いえ、何でもありません」
手を握る力を、ちょっとだけ強めた。
あなたはそれに、応えてくれる。
『うつくしい、思い出』。
何もなければ、忘れることも出来はしない。
奪われることがあるかもしれなくても。
私はそれを、大切に残しておこう。
海、を離れる。
こんなにも、うつくしい緑。
青々とした空に、高いお日さまが昇っている。
その照らしがいずれ紅く染まり。
全てを飲み込む夜があって、静けさをもたらす。
そして新しい明け空は、またやってくるのだ。
その一歩を私は、まず踏み出そう。
これが私の、あたらしい、はじまりなのだから――
――――
そこには、ノートがありました。
大事なことを、書き残すための、ノートです。
大事なこと。
それは様々な、思い出。
そのノートはもう、真っ白なままではありません。
魔法のかかったノートに、残ったことが。
また新たなかけらを、作り上げていくことでしょう。
それは。
そのノートを描いたものだけが知っている。
思い出という名前の、物語。
ひとつのおわりのあとにやってきた。
あたらしいはじまりの、物語でした。
最終更新:2008年01月09日 00:39