金縛りのせいで、瞼が開かなかった。見えないことで、恐怖がいや増す。
ぐい……と、足を引っ張られる感覚。
何者かが私の足に掴まって、ぶら下がっている。
程なく、私の両脚は、闖入者の両腕に掴まれてしまった。
しかも、フリークライミングでも楽しむかの様に、登ってくるではないか。
右手、左手、右手、左手……交互に繰り返しながら。

素足の爪先を、さらりと撫でていく謎の物体。
感触からして、髪の毛だと見当が付いた。
足首から脹ら脛、次は、膝、太股……と、冷たい手が掴みかかってくる。

ああ……来る。
どんどん、どんどん…………登ってくる。
ぞくぞくと背中を震わせる快感が、甘美な死を携えて、私の頭に駆け上がってくる。

闖入者の腕に力が込められる度に、引きずり下ろされそうな感覚。
実際、私の身体は少しずつズレていって、今や、頭が枕から落っこちていた。
でもね、そのままズレて、ベッドからずり落ちたりはしないって確信があったわ。

だって――私の両脚に、ずしりと重たい物が、のし掛かってきたんだもの。

見るまでもなく、それが人間の上半身だってコトは察しが付いた。
足に感じる重量が、ゆっくりと迫り上がってきて、私の恐怖心を煽る。

(イヤッ……来ないでっ! 私に近付かないでっ!)

このまま胸元まで辿り着かれたら殺される。直感的に、そう思った。
出会いとサヨナラは突然に訪れるものだけれど、こんな形で、この世と――
薔薇水晶とお別れしなきゃならないなんて、絶対に厭だった。
身体さえ……この身体さえ動いてくれたら、思いっ切り払い除けてやるのにっ!


私の拒絶などお構いなしに、闖入者は尚も、私の身体を這い上がってくる。
目を瞑ったままなのに、薄手のカーテンを透して室内を照らす朧気なる月明かりを受けた細く青白い腕が、
ぬう……っと伸びてくる光景が見えていた。
長い爪は、十指とも手入れが行き届いている。まず間違いなく、女性の手だ。

女性……というキーワードから、私は即座に、あの女の生首を思い浮かべた。
そして、直ぐに矛盾点を見付けて戸惑った。

(頭だけなんだから、腕なんて無いわよ。じゃあ、これって新手の幽霊っ?!)

病院という場所柄、その可能性は大いにある。
成仏できない亡者どもが、仲間を求めて彷徨い歩き、新たな犠牲者を生み出していく。
正に、不幸の連鎖ね。元凶を絶たなければ、いつまでも悲劇は繰り返される。

でも、元凶なんて知ったこっちゃない。
大元を絶つ方法だって解らないし、知ってても、絶つ気なんてない。
そもそも、なんで私ばっかり、こんな理不尽な目に遭わなきゃならないのよ。
一方的に、死の連鎖なんかに組み込まれるなんて、真っ平ゴメンだわ。

けれども、感情を高ぶらせたところで、金縛りは解けっこない。
女の手に肩を掴まれ、その冷たさに口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いた拍子に、
私の双眸は、カッと見開かれた。でも、動かせるのは瞼と眼球だけ。
太股の上にあった重みが、パジャマの裾を捲りながら、ぐぐぐっ……と、鳩尾の辺りまで移動してきた。
ひょいと、私の顔を覗き込むように突き出される、銀髪の女の顔。
その表情を一見するなり、私は呆気にとられて、息を呑んだわ。

何故って?
女の面差しには昨夜の凄惨さが微塵も無く、絶世と賛美してなお語り尽くせない美貌が宿っていたからよ。
死んだ魚みたいに白濁していた瞳は、今やルビーみたいに紅く澄んで、妖艶な輝きを放っている。
その瞳に見詰められると、女の私ですら、一時、心を奪われた。

だけど、美しいのは顔立ちだけ。この女には、下半身が無かった。
女性の証明である豊かな胸の下……丁度、肋骨の辺りから、霞んで消えている。
血や内臓が出てない分、気色悪さは感じなかったけれど、やはり化け物なのだと再認識。
頭だけの時とは異なり、上半身を得たから飛べなくなって、這って現れたワケね。

「……うふふふふふ……」

銀髪の女は目を細め、口の端を、くいっと吊り上げて含み笑う。
まるで、指先ひとつ満足に動かせない私を、嘲っているみたい。
みたい……じゃなくて、実際、小馬鹿にしてるんでしょうね。
私の中の恐怖心が、憤りに押し退けられるまでに、大して時間は要さなかった。
敵愾心に満ちた視線を突き返すと、女は冷笑を崩すことなく、少し意外そうに眉を上げた。
恐怖に頬を引き攣らせるだけだとでも思ってたの? 舐めるんじゃないわよ!

「…………ねえぇ」

女は甘えた猫撫で声で囁きながら、両腕を、私の喉元に伸ばしてくる。
冷たく、しなやかな指が、私の頚に絡み付いた。じわり……と、力が込められていく。

「心臓ちょうだぁい……」

冗談じゃない。そう言われて、はい、なんて答えるワケがないでしょ。
女の妄言に苛立ちを募らせた私は、我知らず、叫んでいた。

「うるさい! 出てって!」

私の剣幕に気圧されたのか、女はビクッと、腕を引っ込めた。
それが合図だったかの様に、私を抑え付けていた金縛りが解けた。
私は咄嗟に、側にあった花瓶を引っ掴んで、女の頭めがけて花瓶を投げ付けた。

「出てけ!! さっさと消えろ!!」

狙い違わず、女の額を直撃する花瓶。
真夜中の静寂も手伝ってか、ガッ! という激突音は意外なほど大きく聞こえた。
そもそも、幽霊なんだから擦り抜けちゃうかと思っていたのに……。

(ああ、でも考えてみれば当然よね。だって、私の足とか掴めたんだもの)

物が擦り抜けてしまうなら、私の身体にも触れない道理よ。
じゃあ…………こいつって、実は大したことないんじゃない?
女が大きく仰け反って、私の足の上に倒れる様子を眺めながら、私は失笑を禁じ得なかった。
何の対抗手段もないなら恐れもするけれど、今の状態では、怖がる要因が無い。
容貌の美しさも手伝って、亡霊というより寧ろ、作りかけの人形みたいに思えたわ。

女は仰向けに倒れたまま、ピクリとも動かない。

「……あれ? まさか、死んじゃったの?」

有り得ないとは思いながらも、そぉ……っと顔を近付けてみる。
ホラー映画なんかだと、跳ね起きて飛びかかってくる場面だけど……。

案に反して、彼女は両腕を広げて気絶していた。
閉ざされた瞼の先で、銀色の長い睫毛が月光に煌めいている。

(穏やかな寝顔ね。まるで、ゼンマイの切れた人形だわ)

彼女の顔を眺めていた私は、不思議なことに、懐かしさを覚えていた。
遠い昔にも、こうして月明かりの元で、彼女の寝顔を見つめていた気がする。


それは、いつの事? 小さな子供の頃だったっけ?
ううん……違う。私は、ここまで精巧な人形を持ってはいなかった。
身近な人物の誰か? でも、この女の面差しは、ママの寝顔とも異なっている。
どうあれ、隣り合って眠るほど親密な関係の人で、こんな美人が居たら忘れる訳がないわ。


 『身分違いの愛とは、重き罪……』
 『それでも、私は――君のことを』
 『……たとえ、禁じられた遊びでも?』
 『届かぬが故に、せめて近くにありたいと願うのは、我が侭でしょうか?』


不意に、いつか聞いた誰かの会話が、記憶の引き出しから呼び覚まされた。
声だけしか聞こえなかったけれど、一方は、私に間違いない。
それじゃあ、もう一人の方は…………誰? 

目を覚ます気配のない彼女を、じっと見つめていると、頭の中で、
チカチカと光が瞬き始めた。まるで、壊れたテレビがフラッシュする様に。
一瞬で通り過ぎていく光の中には、様々な光景が浮かび上がっている。

(これは、私の記憶? でも……見覚えのない景色もあるわ)

目の前の彼女から流れ込んでくる情報? まさか、そんなこと――

その状態が暫く続いて、やおら、宮殿みたいな景色で止まった。
目の前に佇んでいるのは、平安貴族を思わせる、正装した銀髪の男性。
宮中の娘たちを惹き付けて止まない眉目秀麗な殿方にして、鬼の血を引く稀代の陰陽師。
でも、私は知っていた。この人は、男装の麗人なのだ……と。


「水銀の……君」

知らず、私の口を衝いて出る、あの人の名。
それに反応するように、ぱかっ! と目を覚ます、銀髪の彼女。

「いったぁ~い……いきなり、なんて事すんのよぉ」

額に掌を当てながら、怒りに満ちた眼差しで睨み付けてくる。
でも、仰向けに寝転がったままだったから、ちっとも迫力が無かった。
脅かされた事への苛立ちもあり、私は彼女の鼻先に、びしっ! と指を突きだした。

「それは、私の台詞よ。いきなり、心臓ちょうだいなんて言って、
 頸を絞めてきたクセに! ふざけんじゃないわよっ!」
「ふざけてないわよぅ。私が身体を取り戻すために、貴女の心臓が必要なワケよ。
 だからぁ……ケチケチせずに、ちょうだぁい?」
「嫌よ。大体、私の心臓を手に入れなくたって、身体は復活してるじゃないの」
「貴女の精気を吸い上げて、回復してるのよぅ。ちょっとずつ、ね」
「私の……精気を?」

どうやって、と質問しかけて、思い出した。左手の薬指に癒着している、薔薇の指輪。
縁に鋭い棘まで再現されている、あの指輪よ。なるほど、薔薇の棘には御用心ってコトね。
私は左手を彼女の前に翳して、問い質した。

「これ、貴女の仕業ね。この指輪を介して、私の精気を吸い出しているんでしょ?」
「ふぅん? おばかさんにしては察しがいいわねぇ」

彼女は両腕を駆使して器用に起きあがると、私を見据えて、にやっと笑った。

「私は特別すごいのよ。他人の精気を際限なく吸い上げることが出来るんだからぁ。
 その指輪は、一度に得られる量を調節するための物。水道の栓みたいなものねぇ」
「精気を吸い上げるって……じゃあ、この病院の怪しい噂は、貴女の仕業だったのね!」

幽霊を見た者は、枯れ枝のように窶れて死んでいくって事は、
取りも直さず、この女に精気を吸い尽くされた事なんじゃないの?
女に詰め寄りながら、私はずっと以前に見た『スペースバンパイア』という映画を思い出していた。
ああ……このままだと、私は精気を吸い尽くされて、ミイラみたいに乾涸らびて死んじゃうんだわ。

しかし、彼女は「はぁ?」と眉間に皺を寄せて、頸を傾げた。

「それ、何の話ぃ? 濡れ衣っぽいわぁ」
「嘘つきっ! 入院中の患者の命を吸い取って、殺したクセにっ!」
「あのねぇ。精気と命は別物だってば。精気とは、生きたいっていう意志。
 吸い取ったところで、死にはしないわ。まあ、精気の乏しい連中は、生きてたって屍と変わりないけどぉ。
 例えば、ここの入院患者たちみたいにねぇ」
「……ホントに、貴女の仕業じゃないって言うの?」
「仮に、私の所行だったなら、私はとっくに全身を取り戻してるんじゃなぁい?
 大体ねぇ、ちょっと精気を吸ったぐらいでイッちゃいそうな老人なんか、相手にするだけ疲れるわよぅ。
 無駄な努力をするなんて、つまんないカンジぃ」
「なるほど…………言われてみれば、理に叶ってるわね」
「でしょぉ? どうせなら、皺だらけの婆ちゃんより、健康でピチピチの若い娘を選ぶわよねぇ。
 と言うワケだからぁ…………心臓ちょうだぁい♪」
「イ! ヤ! 第一、貴女は精気さえ得られれば再生できるんでしょ? どうして、心臓が必要なのよ」

私が訊くと、彼女は陽炎のように揺れてバランスをとりながら両手を伸ばし、私の左手を包み込んだ。
氷のように冷たい手。二秒と経たずに痛みを感じ、五秒の後には感覚が麻痺していた。

「ふふふ……冷たいでしょぉ? 血が通っていないからよ」
「血が……通ってない?」
「ええ。ほぉら――」

言って、彼女は露わになっている自らの左胸に、私の左手を押し当てた。
柔らかく、ふくよかな乳房の触感は、生身の人間そのもの。
けれど、彼女の言葉どおり、生者の温もりや、心臓の鼓動が感じられなかった。

「これじゃあ、死んでるのと変わらないでしょぉ?」
「だから……生きている証が欲しくて、貴女は心臓を手に入れたがってるのね」
「やっと理解してくれたみたね。おばかさんを相手にすると、説明だけで疲れるわぁ」
「うるさいわね。それに、バカはお互い様じゃないの?」
「どぉしてぇ?」
「心臓だったら、霊安室に行って失敬してくれば良いじゃないの」

些か罰当たりな発想では有るけれど、亡くなったら火葬されるだけ。
ドナー登録でもしてない限り、臓器なんて省みられたりしない。無駄に失われていくだけだもの。
だったら、貰っても構わないでしょ。表現が悪いけど、要は地球に優しいリサイクルよ。
でも、彼女は私の提案を聞くなり、露骨に嫌悪の色を表した。

「嫌ぁよ。何十年も使い古された老人の心臓なんて、欲しくないんってばぁ。
 そもそも、動いてない心臓なんてダメぇ。元気良く脈打ってなきゃあ価値ないわぁ」

意外に、彼女はデリケートw。彼女なりの『こだわり』を持ってるみたいね。
だからって、同情するつもりなんて毛頭ないけど。
そもそも、若くて健康な娘なら、ここの看護婦さんの方が打って付けでしょうに。
なんで、病人の私を選んだのかなぁ……う~ん。理解に苦しむわ。

「とにかく、私の心臓はあげないからね」
「今は、まだ要らないわよぅ。私の全身が完成するまで、精気を貰わなきゃいけないんだものぉ」

それまでは、活かしといてあげるって意味? なんだか、家畜にされてる気分だわ。
今の心境を呟くと、彼女は「巧い表現するのねぇ」と、愉快そうに笑った。

「貴女はねぇ、私の糧になるの。私に精気を捧げ、最後には心臓を差し出すのよ。
 逃げたってダメぇ。その指輪を填めている限り、何処に居たって探し出せるわ。
 だぁれも私から逃げられないの」

私は溜息を吐いて、ベッドに横たわった。なんだか、心身共にドッと疲れちゃった。
こうしている間もずっと、私の精気は、彼女の身体に流れ込んでいるのよね。
当面は心臓を奪われなくて済むみたいだけど、それも、いつまでのコトかしら。
再び、胸元に這い上がってきた彼女を見上げながら、私は、さっき見た記憶の断片に想いを馳せた。

(水銀の君……か。あれって、やっぱり私の前世なのかなぁ)

だとすると、前世の私は多分、水銀の君が好きだったのだと思う。
身分の違いを越え、重き罪を背負ってでも、一緒に居たいと望んで止まないほどに。
水銀の君と生き写しの彼女に、じっと見下ろされていると、私の胸が、はしたなく騒いだ。
心臓がドキドキして、ちょっとだけ、顔が熱い。

「ね、ねえ。貴女の名前……聞いても良い?」

照れ隠しに話題を振ると、彼女は紅い瞳で私を射竦めながら、ぽそりと呟いた。

「私は……そうね、水銀燈って呼んで。貴女は?」
「柿崎めぐ……よ」

水銀燈の名前を聞いた瞬間、私は雷に撃たれたかの様な衝撃を覚えていた。
偶然の悪戯なのか。それとも、必然の巡り会い? 考えたところで、答えなんて出せない。
身体の怠さに、それ以上の思索を妨げられて……私は意識を放棄して、瞼を閉じた。




誰かに、揺り起こされる感覚。
だぁれ? 看護婦さん? それとも……水銀燈が悪戯してるのかしら。
開いた瞼に、眩い陽光が飛び込んできた。もう、朝だった。

「あはっ。やっと起きてくれたね」

声のした方へ頚を巡らすと、薔薇水晶がニコニコと微笑みながら、ベッドの脇に立っていた。
今日も平日なのに、こんな朝っぱらから、なんで薔薇水晶が病室に?
水銀燈の姿を見られたら拙いわ。彼女には隠れて貰わなきゃ……って、もう居なくなってる。
流石に、心得たものね。
私は欠伸と共に安堵の息を吐き出して、重い瞼を擦った。

「おはよぉ、めぐちゃん♪」
「んん……おはよ。貴女、今日も学校をサボったのね」
「July comes again♪ 夏は大胆になれる季節だよん」
「それにしても、大胆すぎじゃない? 進級できなくても、私のせいじゃないからね?」
「めぐちゃんと同じ学年になれるんなら、落第なんて気にしないもん」

そう……出席日数の関係で、私は進級できない。
選択肢は二つ。ひとつ年下の生徒たちと、もう一年やり直すか、
高校中退で働きながら勉強して、大検合格を目指すか。
まあ、その選択肢に辿り着けるまで、生きていられたらの話だけれど。


「見て見て、めぐちゃん。今日のお土産は、ジャンボ焼売だよ~」

陽気にはしゃぐ薔薇水晶を眺めていると、頬が緩み、笑みが浮かんでくる。
だけど、私の心は、どんよりと曇っていた。
私の存在が、薔薇水晶の人生を狂わせているのかも知れない……
そんな罪悪感に苛まれて。
 
 

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最終更新:2006年08月22日 00:26