ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a)

1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。
1588年、メアリ・ヘンと結婚。
1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。
1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。
1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿)

慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。
(外交志稿では、1600/04/12、「チャリチー」号の1隻、豊後の海岸に漂着せり。乗り組みのうち、強健なる者5人に過ぎず。豊後矦の優待を受け安堵の思をなせり)

慶長5年3月29日(1600/05/12)、アダムズ、大坂城で家康に謁する。
(外交志稿では、慶長5(1600)年春、「オランダ、カピタン、ヤンヨウス一船に駕し、和泉堺浦に至る。徳川家康令して、江戸に来らしむ。遠江洋にて逆風に逢い破船す。辛苦し浦賀に至り、江戸に入る。家康之に邸宅を賜うて、府下に住せしむ。」)

慶長10年(1605年)、家康に帰国の許可を願い出るが許されずイギリス本国にあてた手紙をオランダ人に託すことのみが許された。このとき、同時にオランダとの交易を望む家康のオランダの政治家宛ての書簡も託された。
慶長13年(1608年)、家康の使節としてフィリピンに派遣され、スペインのドン・ロドリゴ提督(H1609a)と会見した。
1609年(慶長14年)9月28日、ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、暴風雨によって上総岩和田(九十九里浜御宿の近く)に漂着し,救出された(H1609a)が、同年、家康は、ロドリゴにウィリアム・アダムズが作った船を贈る。
1613年、東インド会社のグローブ号が平戸に到着。アダムズは、グローブ号到着1ヵ月半後に船長セーリスと対面。
1619年、ベトナム南部コーチシナから戻った直後から体調をくずす。
元和6年(1620年)5月、 アダムズ死去。

2009年12月~2010年1月に市村正親、オーウェン・ティール、藤原竜也ほか出演で「ANJIN~イングリッシュサムライ」が演じられる。

参考文献

最終更新:2009年08月19日 04:23